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戊辰戦争。紀州徳川家が官軍側になったのは。

紀州徳川家は、いつ頃、どんないきさつがあって官軍側になったのですか。 そのとき藩論が二分したのでしょうか。 佐幕派はどんな処分を受けたのですか。 尾張徳川家の場合は、「青松葉事件」がありましたが、紀州徳川家の場合はどうだったのか、疑問に思いました。 よろしくお願いします。

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  • jkpawapuro
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回答No.2

私も詳しいいきさつは知らないのですが、当時の紀州のキーパーソンは藩主茂承、執政津田出、そして紀州出身の志士の陸奥宗光です。 鳥羽伏見で幕府が負け敗残兵が紀州に落ちのび紀州が佐幕とみなされると藩主茂承は速やかに京に出頭し恭順を示し、陸奥宗光と会談しています。 淀藩も似たような状況に陥りましたが、京で官軍が勝利、慶喜逃亡、尾張は反幕、佐幕派もいたでしょうがこの状況で藩主抜きで紀州の孤立地帯では戦いにならないでしょう。声を上げることもできなかったのではないでしょうか? あと佐幕派も議論してる暇あったら敗残の幕兵を江戸に帰すことに追われてるでしょうし。 紀州の場合そうせい侯とは違い藩主が果断に動いてますので、藩主が藩論を主導したなり反対派を封じたように思えます。 紀州藩はその後津田出を登用して矢継ぎ早に藩政改革を行っています。この過程で武士のほとんどの権限が失われてますので、反対派も職を追われるか権限を奪われてるでしょう。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 キーパーソンを手掛かりに調べました。 やはりドラマがありました。 陸奥宗光が紀州藩の出とはまったく知りませんでした。 そして、まさか、竜馬が出てくるとは思いもよりませんでした。 質問前にちょっと茂承を調べようとしましたが、茂承は、西条藩の江戸上屋敷で生まれ育ち、幕命で送り込まれた藩主と分かった時点で、どうせ坊ちゃん大名だろう、家老にいいように扱われたのだろうと思って調べずじまいでした。 ところがどっこい、そうでなかったのですね。驚きです。 ネットで調べたところでは、戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いでは、藩論は新政府への恭順論で統一され紀州藩は出兵しなかったそうです。 質問した甲斐がありました。 疑問は解消、すっきりしました。

その他の回答 (1)

  • oska2
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回答No.1

>紀州徳川家は、いつ頃、どんないきさつがあって官軍側になったのですか。 事実として記録に残っている事は・・・。 1.最後の藩主が、伏見宮邦家親王の娘・則子女王と結婚している。 1.第一次長州征討軍の総督となったが、2日後に 尾張藩主・徳川慶勝と交替させられた。 1.総督解任後、先鋒を務めてたい!と申し出たが幕府は認めなかった。 1.紀州藩内は、幕府に対して不信感を持つ。 1.第二次長州征伐軍の総督に任命される。 1.家老・安藤直裕を先鋒総督の名代として、第一次長州征伐に派遣。 1.軍費10万両を命じられたが、紀州藩には総督としての何ら権限も無かった。 1.紀州藩内は、幕府に対して不信感を持つ。Part2. 1.徳川茂承は、総督職の辞表を提出し、紀州藩兵は広島に一時撤退。 1.戊辰戦争の際には鳥羽・伏見の戦いでは、藩論は新政府への恭順論で統一。 となっています。 まぁ、幕府から都合よく利用された事が分かったのでしようね。 ただ、幕府は信用できないと憎んでいても「幕府側敗走兵」は藩内に受け入れています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 いろんな思惑(反幕感情)がいっぱいあって、“総合的に判断して”ということになりますね。 8代将軍吉宗以降14代家茂まですべて吉宗の血(紀州の血)を引いていますから、討幕を決断するには何か強烈な力が働いたのでは、と思っていました。

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