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徳川御三家について。
徳川御三家は将軍家、紀州、尾張で御三家なのは知っているのですが、 いつから将軍家の代わりに水戸を入れて御三家になったのでしょうか? また、紀州や尾張から将軍が出た場合その子供が将軍家をついで行くのでしょうか?もし、そうならば、将軍を出すのは紀州と尾張だけなのに後々まで贔屓が出てしまうのではないでしょうか? もうひとつ疑問なのが、先日大河ドラマの八代将軍吉宗を見ていたところ甲州の綱豊という人物が出てきました、調べてわかったのですがこの人は六代将軍になったらしいのですが、どういった筋の人なのでしょうか? 回答お待ちしています。 回答お願いします。
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質問者が選んだベストアンサー
徳川家康には合わせて11人の男の子がいました。 その中で徳川家光時代まで生き残ったのが、九男義直、十男義宣、十一男頼房の三人でした。彼らの子孫が後年御三家といわれるようになったのです。 それまでには質問者さんがおっしゃるような「将軍家、尾張家、紀州家」「尾張家、紀州家、駿河家」などを御三家といったりもしました。ただし、御三家は幕府の正式な呼び名ではありませんので、時代とともに代わっていったものと考えてください。偶然に今言われる御三家で固まっただけです。 これらは、この三人が家康の最後の頃の子供であったこと、長生きしたこと、四代将軍家綱ころまで家が続いたこと、その後将軍家に新たな分家がなかなか生まれなかったことなどの諸条件が重なって、地位が固まったのでしょう。 なお、御三家に将軍家や駿河家を入れる場合、水戸家は紀州家の分家扱いとなります。水戸家は極官が中納言、領地も30万石と他の2家より格下であります。駿河家は秀忠の弟忠長で大納言、領地も他の2家とほぼ同じとなっておりますので駿河家が残れば、水戸家は格下と見られたでしょう。 では、家康の他の子供はどうだったかといいますと、信康は幕府開設前に切腹、忠吉と信吉は子孫が無く廃絶、忠輝は政策で取り潰されます。御三家の他で残ったのは秀康の子孫ですが、秀康は家康よりも早く亡くなっており、その子孫も越前騒動、越後騒動の2回のお家騒動で家格維持できる情況でなかったです。 家光の兄弟は忠長と保科正之がいますが、忠長は取り潰されてしまいますし、保科正之は秀忠に認知さえされていません。保科家に養子に行ってから家光に弟と認められ、会津に封じられただけです。その会津でさえ、水戸家に遠慮して江戸時代通じて水戸家より石高が少なくなるように蔵入地を使って、調整をしていました。
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- hena-hena
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徳川御三家が尾張、紀伊、水戸の三家で成立したのは徳川忠長の死後、正確には寛永13(1636)年の7月です。 何故ならこの年まで水戸頼房は「松平姓」であり、水戸松平家は紀伊徳川家の連枝(分家)扱いでしかなかったからです。 水戸家の家格・石高で他のニ家と差があるのは、このような事情によるものです。 秀忠時代、まだ徳川御三家はありませんでしたが、当時は尾張家・紀伊家・駿河家(忠長)・水戸家で「四卿」と呼ばれていたようです。 徳川御三家が成立するのは駿河忠長が自害し水戸家に徳川姓が与えられたからであり、結果的に残った徳川姓の三家が御三家と呼ばれただけです。なので将軍家・尾張家・紀伊家と言う事ではありません。 なお、幕府の記録で初めて「御三家」と記述が見られるのは5代将軍綱吉の頃です。それ以前は御三家の名称は公式のものではありませんでした。 徳川綱豊は4代将軍・家綱の弟・甲府綱重の子です。綱重の弟・館林綱吉のと併せ、このニ家は「御両典」と呼ばれていました。 贔屓の件ですが、将軍継嗣の条件は主に「血統」と「家格」です。 前将軍との血縁関係が濃いほど将軍になる確率が高くなります。 なので吉宗以降は御三家より、吉宗の血統の御三卿に将軍継嗣を求めていく事になります。 吉宗の治世は家康の時代から100年近く経ち、御三家と将軍家は血が遠くなっていました。これは仕方の無い事です。
お礼
回答ありがとうございました。 大納言が死んでから御三家が成立したんですね、 家康の子供なのに紀州の分家扱いだという水戸家のことも少し気になりますがよく理解できました、ありがとうございます。 >>将軍継嗣の条件は主に「血統」と「家格」です。 なるほど、納得できました。
補足
hena-henaさんの回答はとても分かりやすく20ポイント差し上げたいのですが2つの質問に答えてくださったno1さんに差し上げたいと思います、回答ありがとうございました。
- hazu01_01
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(分割しました。) 次に家光の子供たちですが、将軍家を継いだ家綱の他に綱重(甲府)、綱吉(館林)がいました。家綱は弟2人を分家させたわけです。この2家が残れば、甲府家2代の綱豊(綱重の長子)の官歴を見ると、2家とも極官大納言くらいになり、尾張家、紀州家なみになったでしょう。 家綱が亡くなった時に子供がいなく、次の将軍家を誰にするか検討したときに綱吉、綱豊が候補になるなどこのときには前将軍との血縁の近さが問題になっております。ただ、保科正之や(越智)松平清武(綱重の次男)のように養子になっているときには候補からはずされるようです。ま、家継が亡くなったときの清武の場合、養子問題の他に年齢、子孫などの問題もあり将軍家の候補として適任とはいえなかったでしょうけど・・・。 どちらにしても、館林家、甲府家ともにすぐに将軍家の継承により廃絶され続きませんでした。 御三家後、将軍家に分家が生じるのは8代将軍として紀州家から吉宗が入ってからです。吉宗の次男宗武(田安家)、四男宗尹(一橋家)が分家しました。家重から分家した重好(清水家)とあわせて御三卿といいます。 こちらは最初から将軍家に継承者がいなくなったときを考えて創設されました。そのため、この三家は当主が不在のときもありました。適当な血筋のものが無ければ当主をおく必要がなかったわけです。
お礼
詳しくありがとうございました、また回答が送れて申し訳ありません。 徳川家は家康に習って多く家を残す傾向があるようですね、他の大名家でもそうなのかもしれませんが、特に徳川は有名ですね~。 養子になっているときは候補からはずされるという話は初耳でとても興味深かったです、他にも御三家というのは後から出てきた呼び名だということや綱豊の人物像など理解することができました。 分家とはいえ大きい家なのに当主を置かないというのも面白い話ですね。 それではまた機会がありましたらご教授ください。
- rinzoo
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歴史専門家ではないので、詳しい説明はできませんが。 (歴史は好きです) 徳川御三家ですが、私の記憶では、 徳川家康が、徳川宗家の継嗣存続のために設けた家で、 家康の第9男義直(尾張始祖)、10男頼宣(紀州始祖)、11男頼房(水戸始祖)からの筋です。実際の相続は尾張か紀州かだったようなので、水戸の位置づけは若干下かもしれませんが。 そもそも、徳川宗家の存続を目的としていますので、徳川家康からの血を受け継いでいることが重要なので、尾張、紀州のどちらでも相続の可能性はあったわけでしょうが、江戸時代のこと、生まれた子供が健康に成長する確率は現代よりも低く、結果として、相続できる男子の数も一族を見渡してもそれほど多くなかったようで、尾張と紀州の張り合いは度々あったと思いますが、宗家と、御三家の存続が最優先事項にされていったのは間違いないでしょう。また、秀忠以降の直系血筋(の男子)にしても、7代目が最後になってしまい、8代目は紀州から迎えていますので、やはり、秀忠以降ではなく、家康からの血筋を引く者を徳川宗家の総領とすることが最重要点だった、と思います。(年月が経てば、最初の遺志さえ政争の道具に使われるのでしょうが) で、甲州の綱豊ですが、3代将軍家光の孫にあたります。 家光の子が綱重で、その子どもが綱豊-後の6代将軍家宣になります。 3代家光-4代家綱(家光長男)は親子。 5代綱吉は、家綱の弟(家光4男)です。 家光の3男綱重は甲府藩主だったのですが、4代家綱存命中に死亡。血筋で家康に近い、綱吉が、5代将軍に就任したわけです。5代綱吉には夭折した長男はいましたが他は皆女子で、娘婿だった紀州綱教を後継に推す動きもあったようですが、綱教は若くして亡くなり、結局、綱重の長男であった綱豊を5代綱吉の養子として宗家に迎え、6代将軍家宣が誕生した・・・といういきさつだったはずです。 なお、将軍候補にも挙がった紀州綱教の弟が、8代将軍吉宗です。 ・・・こんな感じでいかがでしょう?
お礼
とても分かりやすくまとめていただきありがとうございました、 >>秀忠以降の直系血筋(の男子)にしても、7代目が最後になってしまい、8代目は紀州から迎えています この話も人に言いたくなる話ですね(笑 ただ興味を示してくれるかはわかりませんが・・。 >>江戸時代のこと、生まれた子供が健康に成長する確率は現代よりも低く、結果として、相続できる男子の数も一族を見渡してもそれほど多くなかったようで、尾張と紀州の張り合いは度々あったと思いますが、宗家と、御三家の存続が最優先事項にされていったのは間違いないでしょう。 そういうことだったんですね。 遅くなり申し訳ありませんでした、回答ありがとうございます。
お礼
>>その会津でさえ、水戸家に遠慮して江戸時代通じて水戸家より石高が少なくなるように蔵入地を使って、調整をしていました。 ここの件はとても江戸らしい考えですね。