これは旧幕府軍が指揮系統が無茶苦茶の即席軍だったからです
どうしてそうなったかと言うと慶喜は元々は鳥羽伏見の戦いを起こすつもりはなかったのです
ところが江戸薩摩藩邸の焼討事件が発生して庄内藩の手柄をうらやんだ会津藩強行派が慶喜を半ば脅して無理やり大軍勢で御所を攻めました
慶喜は暴走する会津強硬派に身の危険を感じてやむなく強硬派の訴えに従います
これが幕府軍の鳥羽伏見の戦いの敗戦の原因なのです
兵器の差も戦術の差も当然あります
武器弾薬の違いもあり作戦指揮系統が確立していた薩長は下士官が死亡しても新しい下士官が指揮を取ります
ところが旧幕府軍は下士官が死ぬと連携が取れずにすぐに暴徒の衆と化します
そして慶喜の誇るフランス式幕府歩兵隊の前を会津藩士や新撰組が前をうろちょろして邪魔で全く銃が撃てません
そして薩長軍にいいように攻撃されて惨敗を繰り返します
諸藩の人々は元々この戦争に乗る気ではなかったので、なるべく本隊から離れて傍観していました
そこで錦の御旗が上がり、薩長がその傍観していた諸藩の指揮官に朝廷軍に入るように勧めます
諸藩の指揮官は大勢の幕府軍が無残にも敗北するのを見ていますから、続々と官軍側に回りはじめて、会桑軍はいっきに大阪城まで敗走します
そこで諸藩は我先に勝ち組へと殺到し、官軍側に回ります
薩長の官軍も諸藩の官軍への投降を拒絶する事もなくそのまま認めて友軍にしていました
それであっという間に朝廷軍は膨れ上がったのです
慶喜も会桑にそそのかされていただけでしたので、大きな処分は受けずにその後も人生を楽しんだのです