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三成が家康の接近に気づかなかったのは何故?
関ヶ原の前 美濃付近をウロウロしてた西軍(三成方)ですが 開戦前日に美濃赤坂村岡山に家康の旗が立って 家康が美濃まで引き返してきた事に 三成たちは気づくわけですが 家康が会津から引き返してきて居る事に何故直前まで気づかなかったのですか? 尾張付近まで西軍は押さえてたし 偵察部隊とか出して無かったのでしょうか? 頭の良い三成にしては軽率だった気もするのですが
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その記述が嘘であるという可能性を考えてはどうでしょうか。
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- oska2
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>三成が家康の接近に気づかなかったのは何故? 関ヶ原の記述に関わらず、本能寺の変・大坂の陣などの記録は「勝者の記録」です。 実際の事は、分かりません。 推測ですが、三成としては東軍の行動を把握していたと思いますね。 ただ、古文書からの記録では「三成は、裏工作を好まない人物」と評する著者が多いです。 東軍が来ても、「味方の裏切りは無い」と純粋に考えていた可能性があります。 明治時代に来日したフランス陸軍・イギリス陸軍関係者が「関ヶ原の両軍配置」から、「西軍が勝利」と述べていますからね。 似た史実では、保元の乱があります。 上皇軍と天皇軍の両軍配置では、上皇軍勝利でした。 が、上皇の「夜討ちは好まない」との一声で逆に夜襲を受けた上皇軍は敗退。 ※夜襲は、当時の常識では「卑怯な戦術」でした。 まぁ、どちらも「正直者が敗者」という事です。 >頭の良い三成にしては軽率だった気もするのですが この点は、別の意味で同意ですね。 秀吉に忠誠を誓った武将は多いですが、秀頼に忠誠を誓った武将は少ない。 秀吉の親族・ネネの親族は、秀頼に対して忠誠心はありません。 ネネが大坂城を淀君派に明け渡した時点で、既に大坂方の大勢は決まりました。 家康が支配者になった時、秀吉の墓所は自然崩壊しましたよね。 が、秀吉の菩提を弔う高台寺は幕府からも莫大な援助を受けています。 三成は、あまりにも黒白をはっきりする官僚主義だったので人情・人身を把握が出来なかったのでしよう。
お礼
ありがとうございました
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