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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:余りにも見事な、男の散り際)
余りにも見事な、男の散り際
このQ&Aのポイント
- 巷間余りにも有名ながら、関ヶ原に於ける大谷刑部少輔吉継その人、幼名を紀之介又は平馬。
- 彼の怜悧な頭脳は、明確に東軍の勝利を予想しておりました、加えて家康との関係も決して悪くなく、天下は器量人の持ち回りに帰すべし、つまり徳川の天下を許容する程度の順応性も持ち合わせていたようです。
- 最終的にはその全てを捨て、石田三成との友情に殉じた訳で、当然そこには西軍が勝利すればという打算は微塵も感じられず、恐らく友情という概念が希薄なこの時代に於いて、誠に稀有な例であったのでしょう。
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お礼
回答ありがとうございます。 >伊達家臣の鬼庭左月斎。 私は伊達政宗のファンですので、人取橋の戦いに就いてはよく存じております。 苦難続きであった政宗の前半生に於いてすら、佐竹勢に攻め込まれ一時は政宗の首さえ危うかったこの戦いこそ、最大のピンチであったと申し上げても恐らく過言ではないでしょう。 何しろ伊達4代に仕え、しかも主君を逃す為に齢73にして壮絶な討死、まさに家臣の鑑の ような御仁、その最期も天晴れでありました。 >次点としては大村益次郎 あの時代自称軍事専門家はそれこそ星の数ほどおりますが、この方は恐らく幕末唯一と言っていい、軍事のスペシャリストでありその筋のテクノクラー。 彼に関しては、医師(まあ元々彼自身が医師ですが)が断じるように、粛々と戦争をこなしたとの印象が強いが、反面無能な人間の感情を一切顧慮せず、その事が後の厄災へと繋がります。 ただ少なくともあの時代に一人の益次郎が現れなければ、或いは戊辰戦争そのものが画竜点睛を欠く結果になった可能性も否定出来ず、明治政府はその成立すら危うかったでしょう。 加えて戦争に対し、何よりも物理的指標に重きを置いた彼の姿勢が受け継がれてさえおれば、或いはその後の帝国陸軍が、妙な精神論へと走る事は無かったかも知れない、誠に残念です。