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奥州合戦。
源頼朝との戦に負けた藤原泰衡は蝦夷地に落ち延びて、その後はどうするつもりだったのでしょうか? 蝦夷地に住むアイヌ民族と力を合わせ再起つもりだったのでしょうか?それは可能でしょうか? 仮に蝦夷地に逃げても頼朝軍は追撃して来ますか? 色々と質問を書きこんでごめんなさい。 回答、お願いします。
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泰衡に殺されたはずの忠衡が北海道(蝦夷地)に渡ったという伝説があります。 その伝説を信じるならば忠衡と合流するためだと思いますが、あくまでも伝説であり、ただ自決しても遺体を辱められないようにするためかと。 下手な所で死んだら埋葬場所を暴かれて、首を取られ晒し首にされてしまいますから。 施政者が晒し首にされてはあってはならない事ですし、先祖に申し訳無いと考えていたのだと思います。 実際は河田次郎に裏切られ討たれて首級を取られ、眉間に釘を打ちつけられ柱に懸けられましたが。。。 蝦夷地に逃げ切ってアイヌと手を結んだとしても頼朝が追撃してくるかどうかは態度次第かと。 武力で持って蝦夷地を平定し、鎌倉に対抗するのならば頼朝軍はやって来るでしょう。 ですが、泰衡はもちろんアイヌも(忠衡も)そんな武力はありません。 抵抗しないのであれば無視でしょう。 頼朝は義経が生存していようが死んでいようが関係無く、奥州が恭順さえすれば良かったのです。
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- あずき なな(@azuki-7)
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義経が討ち取られていた状況では 仮に藤原泰衡が北方に逃げ延びても 再起は不可能だったと思いますよ? 義経が生きていれば 一緒に蝦夷地で再起して もうひと合戦 て事も有り得たかもしれませんが
お礼
回答ありがとうございます。 義経が殺されずに、泰衡や国衡、忠衡や他の兄弟と共闘すればと考えてしまいます。 でも、それでも鎌倉方28万と号する大軍には勝てませんよね。 平泉方17万騎と号する兵力では、数に差があり過ぎるし、新兵なので結果は史実と変わらないですよね。多分。 回答ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 歴史に『もしも』はキリがないですが、蝦夷での再起があればとついつい考えてしまいます。 回答ありがとうございました。