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奥州藤原氏について
奥州藤原氏が ①平家側につく まだ平家の勢力が強力だった時期に平家側について北方から関東を牽制する、場合によっては平家や朝廷の命に従って関東へ出兵する ② 鎌倉側につく 頼朝の挙兵にすぐさま応じ(義経個人が参陣するに留まらず、奥州軍数万騎を頼朝の下に平家打倒の主戦力の一つとして出兵させる)、鎌倉幕府の有力御家人たちのように旗揚げ以来の頼朝の協力者となる この①か②の選択を取った場合、 その後も平泉政権は存続したと思いますか?
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- jkpawapuro
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2の場合、もはや藤原政権じゃないって指摘が的を射てますが、それだけではなく徹底的に所領を削られて御家人の中でも足利等よりだいぶ低いところまで落ちないと生き残れないですよ。 北條は徹底的にライバルとなりえるところを潰しますので。 1可能性はあったと思います。 ただこれが非常に難しいのは、現代ならともかく平安時代だと中央の情報がつかめない、どちらが優勢でどちらにどう加勢すれば中央が争っていて東北地方への侵攻する余裕を失わせることができるかわからないんですよね。 現代人が考えること、当時だって名君と呼ばれる人なら考えるはずです。 ただ情報が無い、来てもタイムラグがあって一か月遅れてるとかだと、藤原氏にとってどちらにどの程度加勢すれば均衡が保てるかわからない。それで様子を見てるうちに気が付いたら平家が倒れ手遅れになっているわけです。藤原秀衡だって展開によって源氏につくことも平家につくことも両パターンあったはずです。 似たような話で上杉景勝が挙兵して家康が会津に向かい、石田三成(というか3奉行と大谷)の挙兵で家康は西に転じる、この時上杉景勝は北上して最上と戦います。 上杉みたいなメインプレイヤーは全体を勝利に導くべく関東に圧力をかけて家康を征西させない、西に出陣したなら関東に打って出て荒らしまくるくらいしないといけないのに何をしょうもないことをと見えるんですが、こういうのも全体の情報が見えない・手に入らない・入っても遅い当時の時代背景が起こしちゃうんですよね。
- fujic-1990
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可能性はいろいろあるでしょうが、ご提示の2つなら、私は①のほうが奥州藤原氏が生き残った可能性は高いと思います。 なぜなら、鎌倉幕府の実権を握った北条氏は、実権を握る過程で「比企氏」を滅ぼしているからです。恨みを残す謀殺です。 比企氏は藤原秀郷の子孫で、頼朝側近、頼家の外戚でした。 奥州藤原氏も(昔はアイヌの血を引いていたと言われていましたが最近は)藤原秀郷系藤原氏の血流だということになっています。 つまり、奥州藤原氏は比企氏と高祖を同じくする同族なわけです。 奥州藤原氏がいったんは鎌倉幕府に組み込まれても、北条氏としては比企氏との関係で、きっと奥州藤原氏にも疑いの目を向けただろうと思うからです。 カレススキでも恐ろしいと思って見れば幽霊に見えるんです。嫌えば嫌われるの道理。嫌われているという前提で疑えば、なんでもそれなりに筋が通ってしまうのが人の世なのです。 そういうわけで、北条氏と奥州藤原氏はきっと激突しただろう、と思うのです。 その時どちらが勝つかは、時の運。 わかりませんが、1地方勢力の奥州藤原氏よりは、御家人が全国に散らばって「いざ鎌倉!」とばかりに全国から押し寄せることが可能になってしまった鎌倉幕府のほうが強いのではないか、と思うのです。 一時は負けても、幕府としては西へ行って捲土重来を図ることができますから、やがては奥州藤原氏は負けになるだろうと。 そうならないためには、早々に頼朝・北条連合軍を攻撃・撃滅するにするに如かず、です。
- eroero4649
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2番を選んだ場合は、藤原氏が源氏政権の家臣団に組み入れられるということを意味しますから、「藤原政権」は続かないですね。 後世の伊達政宗や島津家みたいなものですね。最初は秀吉にちょっと逆らったりするけど臣従して、最終的には「地方の外様大名」という形で落ち着きます。 鎌倉幕府がそのような大規模で外様の大名を認めたかどうかは、私も鎌倉時代はそれほど詳しくないので分かりません。