#4です。
当時の人々のことは資料がほとんど無いが為と後世に強烈な創作物(平家物語 義経記)が出たために人物像がかなり歪められていますよね。
吾妻鏡でさえ後世に編纂されたもので、間違いもあれば、創作もあります。
腰越状なども創作説がありますね。
もちろん事実もありますが。
日記を付ける事が当時の貴族の習慣だったそうですが、泰衡や義経のはもちろん、基成や義経の元にいた異父弟の一条能成などの日記が現存していれば・・・タイムマシンがあれば・・・と思います。
前回の回答は自分でもまとめられなかった感があります。
お礼コメントにあった疑問に回答失礼します(後ろの疑問から失礼します)。
>頼朝が、義経殺害に真剣になるゆとりがあったのか???
もちろん頼朝は義経殺害については全く本気では無かったと思います。
目的は奥州藤原氏の滅亡ですから。
義経はただの難癖の材料です。
万が一義経が泰衡と結託したとしても頼朝は本当の義経の実力を知っているから(本当の義経の目的を知っているから)、脅迫できたのです。
私自身一押しの説が義経奥州不在説なので、頼朝は居ないと分かっていながら居るのだろうと圧力をかけ、故秀衡派と泰衡派の関係を悪くし、瓦解させようとしたのでしょう。
義経が平泉に何となくいるとした秀衡は病か何かでもうろくしていたかも知れません。
(もしかしたら誰かを義経だと思い込んでいたとか。事実かどうか不明ですが、義経の異父弟一条能成が当時平泉にいたという話があります。)
そして泰衡らはその策に反対するも強く出ることが出来なかったのではないかと。
そして秀衡死去後も当初は義経が何となく居るふりを続けてしまったかと。
後に改めて「所在が判明したら、急ぎ召し勧める」と書状を出すも頼朝には無視されてしまいます。
義経が平泉にいたとしても泰衡自身はやはり迷惑だと感じられたでしょう。
平泉側から見れば義経は負け犬でしたから。
泰衡が愚かと言うよりも基成の傀儡だったと思われます。
そのために鎌倉に対抗する強い意思も平泉を鎌倉に引き渡す意思も見えなくなっております。
ですが、嫡子返上せずに秀衡の跡を継いだこと、奥州合戦の際は泰衡は総指揮の位置にいたということは、泰衡も鎌倉に降伏せず平泉を鎌倉に売らない意志の表れだと思います。
かと言って強くは対抗する意思も無いという矛盾が生じる訳でして・・・多分状況変化によって考え方も変わったのでしょう。
独立国として細々とやっていきたかったのでしょうね。
泰衡が貧乏籤を引いたと言えばその通りでしょう。
・・・今回もまとまりのない回答ですみませんでした。
お礼
ありがとうございました。