※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:義経の子(経若))
義経の子(経若)についての疑問
このQ&Aのポイント
義経の子である経若の存在について疑問が生じました。
遍照寺の古寺誌によると、経若は常陸入道念西に託されたとの記録が残っています。
他の文献にも経若に関する記述が存在するのか気になります。
坊さんの名前のことを考えていて、かすかな記憶の中で、確か「日立坊」という坊さんがいたように思うが、「何だったかなぁ」と気になったので、ネットで調べると、「中国料理 福楽 餃子坊 - 日立市」というような訳の分からないものばかり、……(*^_^*)(*^_^*)
記憶違いかとクグッテいるとでてきました。「常陸坊海尊」でした。「ひたち」違いでした。源義経の家来だったのですね。昔の大河ドラマのかすかな記憶だったのだと思います。
前置きが長くなりましたが、読んでいて、びっくりしました。「栃木県真岡市にある遍照寺 (真岡市)の古寺誌によると、常陸坊海尊は藤原秀衡の命を受け源義経の子経若を常陸入道念西(伊達朝宗)に託したとの記録が残っている。」とあるではないですか。
私の記憶では、義経の子供としては、確か「静御前が男児を産んだが、頼朝に殺された、そして衣川で、義経自ら4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。」と理解していました。
質問なのですが、
(1) この「経若」という子供は実在したのでしょうか?それのも、数ある不確かな義経伝説の一つに過ぎないのでしょうか?
(2) 「経若」について、遍照寺 (真岡市)の古寺誌以外に、文献として残っているものがありますか?
(3) 仮に実在するとお考えであれば、この「経若」は、「伊達政宗」の先祖になるのでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございました。 「あくまで一般論」ということですが、「出家した人物に預けられた子は僧として育てられます」なのですか? 「入道ですから出家していた」というのは理解できますが、例えば、武田信玄も、出家して、「武田晴信入道信玄」になり、死ぬまで戦っていたわけでしょ。仮に武田信玄に預けられた子が僧として育てられるというふうには思えません。 時代こそ違うとはいいながら、常陸入道念西(伊達朝宗)も武田晴信入道信玄と同様、一族郎党を率いる「長」だったのではないですか?仮に経若が念西に預けられたこと、このことが事実だとした場合、経若が本当に僧として育てられたと思いますか?どうでも良いことですが、私には思えません。 また、仮に、経若が僧として育てられたとして、なぜ、「遍照寺の僧」ということになるのでしょうか……???遍照寺の古寺誌に義経の子経若についての記述が残っているというだけのことではないですか??? 伊達家の祖についてもいろいろ諸説あるようですから、この質問は、これで締め切ります。