状況にもよりますが、義経を将として擁する奥州の藤原氏。
戦史を振り返ればわかるとおり、小数が大兵力を破る事は決して珍しい事ではありません。兵力で劣っても、経済力で劣っても、敵に対し有効な作戦を立案し、実行し、成功させる事ができれば勝利できます。つまり将の器量が重要な要素となります。
そういう事から当時、最も将才のあった義経と、「北方の王者」と呼ばれ政治力にも優れた藤原秀衡の治める奥州藤原氏を押します。
金と馬の産出地であり、中国とも独自に貿易して富を成し、(公称)奥州十七万騎と呼ばれる武力を保持していた奥州藤原氏に義経の軍略が加われば、天下統一の可能性は決して無ではありません。ただし、それは藤原秀衡が生きている間に義経が奥州軍を指揮するか、もしくは秀衡が亡くなる前に確固たる軍権を義経に渡して戦った場合です。
奥州藤原氏が源頼朝にああもた易く滅ぼされたのは、藤原泰衡が父の遺言を守らず、義経を殺害したばかりか、それに反対した弟の忠衡までも殺害した為、奥州の人々の人心を失い見離されたからです。
藤原秀衡が亡くならず長生きするか、もっと早い状況において義経が奥州に行き、秀衡の構想どおりに義経を将として、奥州軍を任せ鎌倉に対抗していたら事態は変わっていたでしょう。
なお、戦の大義名分は幾らでもつけられます。そもそも源頼朝は平氏追討の令旨を受けていたし、平氏は頼朝追討の宣旨を受けていました。木曽義仲も、義経も頼朝追討の宣旨を受けています。朝廷はその時の状況に応じて、どの勢力にも大義名分を渡しているのです。大義名分は建前にしか過ぎません。
各地の武将にしても己の利益や都合、野望によって動くものです。源氏の流れを汲みながら、平氏についた佐竹隆義、秀義親子。己が野望の為に頼朝に戦いを挑んだ源義広。平氏の流れを汲みながら源頼朝に味方した北条氏・・・みな己の利益で動きました。
そして勝ち馬に乗ろうとする武将も多いのです。義経が奥州軍を率いて勝ち進めば、当然、味方する武将は増えたでしょう。