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奴隷道徳なのか・・・
●哲学者のニーチェは『キリスト教の教えは奴隷道徳だ』と批判しましたが、だからと言って、聖書の教えは奴隷を必ず生み出す事はない気がしますが、実際はどうなんでしょうか?(信仰する事は悪いことではないと思います・・・)
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ニーチェは、乗り越えていき道を開くという考え方を推し進めた人です。 その究極にあるのが「超人」なんです。 ヘーゲルのように、ある思想があったら必ずそれと反対の思想をたてて対立させ、それらに一種の妥協を促して次のステップに行くというのは役人的小市民で嫌だったんでしょう。 おれはおれだ、おれゆえにおれがある、と考える方向に書いたのです。 その考え方でいうと、ありがたい教えにぶら下がって無思考の人間は奴隷に見えて当然です。何しろ考えないで行こうとしていますから。 聖書がいいわるいじゃなくて、何かにつけて何書の何章によればこうだから、というように六法全書的にいわれたんではたまらない、と考えたのです。 その意味で、聖書の考え方を否定したわけでも何でもなく、信者を馬鹿にしただけです。
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- Mokuzo100nenn
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信仰するの勝手です。 布教するのは人迷惑です。
お礼
布教はしないようにします、ご回答ありがとうございます。
- hekiyu2
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政治的に見れば、宗教というのは社会の秩序を 作るためのツールです。 社会の秩序を作るためには、上下関係を構築 する必要があるわけで、そうすれば、奴隷のような 存在も出現する場合があります。 そう言う意味で、宗教はキリスト教に限らず 奴隷道徳という面を持ちます。
お礼
とても役に立ちました、ご回答ありがとうございます。
- koosaka
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初期のキリスト教徒は、ローマ帝国から徹底的に弾圧され、パウロのようにローマのコロッセオで、多数の信徒と共に十字架刑で処刑されたりし、そのためにキリスト教徒は地下のカタコンベに潜伏し、そこで暮らさねばなりませんでした。 「ル・サンチマン・怨恨・憎悪」に満ち満ちて。 そしていつかは、地上の支配者をブッ倒して、自分たちが陽の目を見る日を待ち焦がれました。 そうした中で作られたのが、キリスト教道徳です。 天国と地獄の観念と、弱いものこそ幸いなれ!とか、貧しい者こそが天国に迎えられる、とか、人はパンのみにて生きるに非ず、とか、そして「原罪の観念」、イエスは全人類の罪を背負って死し、罪をあがなったとか、人には「良心」があり、そして生まれもっての「罪」がある、とか、敵を愛せよ!とか、人に右ほほを殴られたら、左ほほを差し出せ!とか・・・・・・その種の道徳律をキリスト教は作り上げました。 それをニーチェは弱者による強者を打倒しようとする奴隷道徳と言いました。 ニーチェによれば、「罪」とは外に対する攻撃衝動が、内に向かったもの、と言っています。 キリスト教は盛んに人間には「原罪」があるとか、「罪」があると言っていますが、それは初期のキリスト教徒が、ローマ帝国に弾圧されて、ローマ帝国に対する攻撃衝動が「内向」して自分に向けられたもの、それが「原罪」であり「罪の観念」の起源だとニーチェは「道徳の系譜学」で言っています。 それをキリスト教徒は、「原罪」「罪の観念」は人間ならば、誰にも先天的に有する、普遍的に存在するものだと言いました。 とんでもないことです! そして天国と地獄の観念はキリスト教徒が、地下に帝国をきずいて、その地下を天国といい、地上のローマ帝国を地獄と言ったもので、私たちの考える天とか地とは、まるで反対! そしてプラトンのように、天国こそがホントウの世界で、地上の地獄はニセモノの世界と言いました。 そしてキリスト教徒は地上のローマ人が、贅沢をしてコロッセオでスポーツを観戦し、「パンとサーカス」と言われるように食糧を無償で配布され、豊かに暮らしていたのを「嫉妬」して、自分たち貧しい者こそ天国に迎えられると「やせ我慢」みたいなことを言いました。 ニーチェは「アンチ・クリスト」という本で、そのようなキリスト教道徳と、それによって作られた「原罪」「罪の観念」、そして人間には「良心」がある、というドグマを徹底的にこき下ろし、その価値観を転換しなければならないと言いました。 弱者による強者に対する「ル・サンチマン・怨恨・憎悪」による道徳、奴隷道徳を排し、強者による強者のための道徳、貴族の道徳を! 高貴な貴族の道徳を!
お礼
長文ありがとうございます、とても役に立ちました。
補足
ご回答ありがとうございます。
お礼
聖書も批判しながら読んだ方が良いのですね、ご回答ありがとうございます。