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ポストモダン(次世代)の哲学は存在するのか?
私の好きな哲学者はキルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェ、サルトルです。 彼らにはある繋がりがあり、キルケゴール→ショーペンハウアー→ニーチェ→サルトルという流れがあります。 ・キルケゴール 厳格なキリスト教徒の家庭に生まれますが、自分の出自に酷い衝撃を受け(両親の火遊びにより生まれる)、更には恋人との間での宗教上の問題に苦しみ酷く絶望します。 皆さん御存知、聖書より見出される「死に至る病(絶望)」に対するキルケゴールの見解は非常に有名かと思います。 これに対するキルケゴールの解決方法は信仰でした(その為、最後まで信仰を貫き、未婚のまま終わる)。 ・ショーペンハウアー やがてショーペンハウアーの時代になると、学問が発達し対して代わりにキリスト教の権威が没落します。 この結果、現実に目を向けるようになり、ショーペンハウアーはここで人間の「意志」に着目します。 この意思こそが全ての原因であり、ショーペンハウアーはこの意思をコントロールすることを説きます。 彼は原始仏教(東洋)に影響を強く受けてましたから、修行による禁欲を薦めます。 ・ニーチェ キルケゴール同様、厳格なキリスト教徒の元に生まれたニーチェでしたが、既にキリスト教の権威は地に落ち、学問により科学が台頭を始めます。 産業革命が起こり、資本主義が生まれ、まさに人類の夜明けの始まりです。 ここでショーペンハウアーの書物に出会い、ニーチェは衝撃を受けます。 彼もショーペンハウアー同様、インド仏教に強い影響を受け、さらに人間の「意志」を推し進めます。 やがて「ツゥラトゥストラは語りて」にあるように、神は死にニヒリズム(虚無思想)の台頭を予見します。 これに対するニーチェの回答は超人になることで、運命を受け入れることでした(しかし、これは非常に狂気的でニーチェ自身は発狂) ・サルトル 元作家であり、科学・文学と様々な見識を持ち、多趣味であったサルトルは哲学を様々な分野と結びつけ、やがて人間そのものに目を向けます。 実存主義が生まれ、「自由の刑」にあるように、人間とはそもそも「何でもない存在」であり、自分の定義によって決まる自由な存在である(ニーチェ同様、「ものごとに対する解釈」と言えなくもないが、「運命」によって決まるとしたニーチェに対して、サルトルは「より人間は自由である」とした)。 さて、ここまで追ってきて(文字数制限がある為、かなり省きました)、ある意味サルトルで哲学は死(または最高)を迎えたと言えなくもありません(というより、「哲学」という定義そのものが瓦解し自由な存在となった)。 一時期はポストモダンを求めて色々議論が交わされましたが、結局サルトルで止まってます(正確には再考なので、ちょっと違うかもしれません)。 フーコやヴィトゲンシュタインなど、哲学というより言語や、あるいはマルクスなど経済や社会といった、わき道というか「道具」としての側面が強くなってる気がします。 そもそも、もう哲学というより心理学や科学(工学?…遺伝子工学、金融工学、宇宙工学など…etc)の時代なのかなと…。 でも相変わらず現実は悲惨極まりないし、自殺者だって止まりません(むしろ年々増えてる)。 次の哲学(ポストモダン)ってあるんですかね? そもそも、今の時代って「哲学」って存在するのかと…。
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質問者が選んだベストアンサー
サルトル以後の世界がどうなったのか。結局のところ哲学の無い 社会は存在しえず人間は新たな拠り所を求めることになりました。 宗教観念や社会的常識・あるいは無意識が科学技術に説明・否定 することが可能となると人々は「科学」を信奉するようになります。 結果的に新たな「哲学」が生まれたのです。 まず、サルトルと同時期に移民を積極的に受け入れ文化的な蓄積の 少ない国家・アメリカにおいて、その潮流は明確な形を示すことになります。 つまり『実用主義』(プラグマティズム)の誕生です。これは 「人間の経験を最も重視すべきで、科学的思考は実践的結果(実験) によって証明されなければならない」とする考え方です。 そして、実用主義の誕生により我々人類は、真の意味で宗教・社会を分析する ことが可能となりました。まず人間の無意識について初めて科学的アプローチ が行われます。結果生まれたのがフロイトの「精神分析学」です。 そのほかにも集団となった人類が取りうる行動の分析から「大衆社会論」などが 誕生しています。 これらの分析は1960~1970年代に「構造主義」という冷静で、かつ苛烈な哲学を 生み出すことになります。つまり「人間主体は世界の中心でも能動的な形成者でも 無い。構造が生み出す結節点に過ぎず、構造の一要素に過ぎない」という理論です。 質問者さんはこういった考え方を哲学では無いと認識されておられる ようですが、これは人類が発明したあらゆる学問の集大成とも言える 「哲学」なのです。それどころか、質問者さんが毛嫌いされる「哲学」 の政治利用、つまり政治学や社会学すら明確な「哲学」であると言えます。 近代哲学は内省的・宗教的であった社会や自己認識の否定から スタートしましたが多くの人間に伝わる過程で結果的に近代哲学そのものが 宗教化してしまったという側面は否定できません。ですが現代哲学は 別種の学問からの還流を受けたことで、近代哲学の盲を開くことに成功したのです。 たとえば、先のプラグマティズムは質問者さんの言うところの 哲学を道具として使った政治学(イギリス経験主義)から還流された 思想でもあります。つまり、実在面から思想というものは影響されうるのです。 こうした実在・実存を重視した思考・分析こそが、現代の世界を明確に象徴している と言うことができます。 「神殺し」を行うまでに成長した哲学にとって、神性は必要が無いのです。 神性を介在させることで、高尚であるとか難解であるとか錯覚するのは哲学者の 自己満足に過ぎないのです。結果として多くの人に哲学が受け入れられないことが あるとすれば、それは人類全体にとって、最も不幸なことであると言えます。 哲学者が行うべきは冷静な思考、つまり原因の究明と結果の分析。 ただこれだけでは無いでしょうか。
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- magga
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私の見解ですが… 2500年前にゴータマさんが説いたとされるパーリ語の仏典に記されている論理的道徳的理性的実証的超分析的な哲学面から言ってもこれを崩せるような論理も哲学も未だに無いように思います。 なので2500年前から「次の哲学」は生まれていないのでは? と言う見解を持ってます。 生命の定義すらほとんど聞いたことがありませんし、これまで詳細に心の分析しているものも知りません。道徳も穴が無いものはこの論意外、私には発見できません。 科学物理学をもっても崩すような証拠は出てきませんね。 逆に徐々に解明している様にも感じます。 ここまで生命の悩み苦しみに対して具体的で実践しやすくすぐに効果を実感できるような実践心理学的な視点をもったものを他に知りません。 サンガ出版の「仏法」や「ブッダの実践心理学シリーズ」やスマナサーラ長老の本もオススメです。 興味があればぜひ。
お礼
元々ショーペンハウアーやニーチェは東洋の原始仏教に強い影響を受けてますから、誤解のないようにいえばその通りだと思います(かなり極端な言い方ですが)。 最近ではクリシュナムルティがそれです(私は難解すぎてギブアップですが…;) 原始仏教は元々心理学や現代の精神医学に近い存在だったので、ある意味現在また再考され始めてるといえます(本家インドでは支配能力・統治能力がなかったので廃れましたが)。 本の御紹介ありがとう御座います。 ちょっと読んでみます。
- reki4649
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正直 知識ではあなたの足元にも及ばないでしょう。 でもあなたは何かを見誤っているような気がしてなりません。 「今の時代」とは何でしょうか? 人の心のありようがそんなに変わるとは私には思われません。 二千年以上前のソクラテスやプラトン、キリストやブッタ その他 偉人達の言葉に心うたれるのがその証拠です。
お礼
お気持ちはよく分かるのですが、まず >人の心のありようがそんなに変わるとは私には思われません 人間というのは時代によって大きく違います。 例えば、近い存在でいえば戦前の日本人と戦後の日本人では別の人種といっても過言ではないぐらい大きな違いがあります。 大昔の人間は今の我々の想像とは遥かに違う存在であるともいえます。 現代の問題は現代哲学が新たな構築ではなく、昔の偉人からの発掘であったり、道具としての科学的側面を帯びてきた所です。
お礼
>人間は新たな拠り所を求めることになりました 仰るとおりです。 典型的な例では、現在問題となっているカルトや連続殺人など様々な社会問題は恐らく自由の刑に処せられた人間の一種の弊害なのでしょう(別な言い方をすれば、自由になった為に拠り所を失ったともいえる)。 >結果的に新たな「哲学」が生まれたのです 現代では「科学」が「哲学」というか、哲学が科学というか両者の隔たりがなくなってきているような気がします。 >『実用主義』(プラグマティズム)の誕生 >これらの分析は1960~1970年代に「構造主義」という冷静で、かつ苛烈な哲学を生み出すことになります。 デリタやアルセチュールなんかもこの流れでしょうね。 ただ最近、「脱構造主義」が叫ばれたり、再びサルトルが再考されるなど、どうなんでしょうまだ熟考の段階なのか、それともこれはポストモダンに対するただの悪足掻きなのか…。 ただ、突き詰めていくと最終的にニヒリズムに陥るというニーチェの罠が未だに健在だったりと、現代でもルサンチマンが世にはばかっているのを見ると複雑な気分です…(むろん、心理学や現代科学の発達でかなり分析はされましたが…結果は) >結果として多くの人に哲学が受け入れられないことがあるとすれば、それは人類全体にとって、最も不幸なことであると言えます >哲学者が行うべきは冷静な思考、つまり原因の究明と結果の分析。 ただこれだけでは無いでしょうか。 仰るとおりです。 私もそう思います。 ただ、先にも挙げたようにこれの行き着く先が、「神の死」であり「人間の否定(人間というこれまでの固定観念の否定)」となると、たいていの人はその広大な海の中で自己を見失います。 その中で台頭してきたのが、ファシズムや共産主義といった全体主義であり、個人主義の限界(崩壊)。資本主義の限界(崩壊)。 人間は自由に成ればなるほど自己を見失いやすいというサルトルの罠があります。 かえって制約の中でこそ自己の自由を見つけるというのは、現代ならではの不幸な皮肉といえましょう…。
補足
すみません…何だかお礼が分かりづらくなってしまいました(汗) 何といいますか、私は構造主義や実用主義を否定しているわけではなく(むしろ非常に重要だと思います)、しかしかといって近代哲学における次世代と呼んでいいのかを図りかねているんです。 むしろ、ポストモダンというよりポストが空白に近い状態が現代なのではないかと…。 この空白(またはカオス)こそが哲学なのだともいえなくもないですが、やはり違うでしょう…。 う~ん…。