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老子とニーチェ
大道廃れて仁義あり と 神の死と奴隷道徳 ニーチェと老子 なんだかにていませんか?
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文化、伝統は、異国のものを取り入れながら、脈々と受け継がれていくのではないでしょうか。これについても調べていけば、奥の深いものに違いないと思います。 釈迦は、自然の中に、その融合と進化を含めて自然体として捉えていたかも知れません。このように考えるならば、伝統とは、決して固定された観念では量れないものになりますね。 老子はむしろ、伝統は固定されるのが自然だと考えていたのではないでしょうか。 ニーチェは、どうなんでしょう。 私からの質問になりますが、resistance400様は、釈迦と老子とニーチェ、いずれの考え方が自分に合っていると思われますか?
哲学者の始まりはいつも、”他にする事がない”から始まります。質問をして、回答された内容を調べて思考する。これもまた仕事ではありませんか。お金を稼ぐばかりが仕事ではありませんよ。 ところで、hanniyagi様の回答であげられた「老子」の「名は名にして常の名にあらず」 質問者様は理解されていますでしょうか? おそらく、両者の違いを挙げるときに決定的な事となるものでしょう。それから、>道教の日本語の解説書がフランス語の翻訳だったりするのはなぜなんでしょうね。私も、とても興味があります。
お礼
名の名は意味がわかりません。それに老子を読んでいたのはだいぶ前なので覚えていません。 フランスの極東学院とかいうところが中国の研究していたみたいですね。 結局、戦前に日本が欧米からが学問を取り入れたからで、全然伝統ではありませんね。外国の換骨奪胎で良く平気で伝統とかいえるもんだと思います。仏教とか。
環境は人に、判断材料を提供すると思います。そのうえで人は自らを作ると思っています。老子を”静”とすると、ニーチェは”動”でしょうか。 老子は、村単位での、こじんまりとした行政を目指していたことが、うかがい知れます。一方、ニーチェは、いろんな所に行って体当たりでぶつかってみよう。そこから何かを導き出そうとする姿勢が見えます。 静・・・やらなくても答えは見えている。 動・・・やってみなければ分からない。この二つが同じ結論を得たのなら、環境に対する何か共通の、人間らしさが介在しているのではないかと考えます。 西へ向かって歩く人と、東へ向かって歩く人が同じ所で出会う。これにも似ていますね。地球が丸いからでしょうね。 質問者様は、これまで、たくさんの命題を掲げて、体当たりで質問を続けてこられたのも、こちらの老子とニーチェの質問につなげる為の、環境に対する、動的な行為だったのですね?
お礼
ほかにすることがないからという 働いてお金かせぎたいです
- hanniyagi
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以前に、老子と孔子について、話ましたよね。 大道廃れて仁義あり、とは 道家、道教側からの、儒教批判、皮肉、の言葉で。 大いなる、老子の、知恵=哲学、が廃れて、愛だの正義だのという、、 思い方、かくあるべしの形而上学「儒教」が普及し広まっている。 というような意味でしょう。 ニーチェの、神は死んだ、人間は人間に対して責任を持たされる。(自分で 考えなければならなくなる、その知恵がなければ、ニヒリズムに陥る) とは。意味が逆、ではないでしょうか。 老子的には、逆=同じ、ではありますが。 大道廃れて仁義あり。思想、宗教、は知恵に働きかけるより、心に働きかける。 (知恵のない)方が、大衆に受け入れられ広まる。というのは、中国に限らず。 インドの仏教(釈迦の哲学)も、理法廃れて、大乗仏教、ヒンズー教、あり。 となり。 西洋でも、ギリシャ哲学廃れて、形而上学、ユダヤ思想の復活あり。 となっているようです。 ニーチェですが。 ギリシャ哲学の復活の意味がある。 カントの形而上学批判、見直し、から。ヘーゲル、マルクスの弁証法(東洋に2500年 遅れて、諸行無常、に気づいた?)そして、ヒットラー、スターリン、反ユダヤ思想、 神の否定、の実行。という近代ドイツ哲学の流れのなかで。 ニーチェの思想は、出所不明、であり。 心を捨てよ。「我は心を無味する者ッアラトゥストラである。」は西洋思想では論外であり 。西洋思想の風土で育った者には無理な思想、と言えます。 ニーチェ自身、発狂している、脳梅のせいばかりとも言えない。 晩年に一週間で書き上げたとされる。「この人を見よ」では、愛は憎悪である、を繰り返し。 自己主張、が目立つ。心=我への執着、を滅せ、ではなくなっている。 発狂が始まっているのです。 私は、30代の半ば頃。ホテルに置いてあった。仏教教典を読み明かした時。 釈迦という男は私と同じ、根元認識、考え方、をしている事を知ったと共に。 なんだ、ニーチェは、釈迦の猿、だったのか。と思いが起こりました。 ニーチェには、東洋思想の書庫のような所に勤務した経歴があるようで。 ニーチェの思想、ペルシャのゾロアスター教の教祖の名、ッアウトウストラ、を隠れ蓑にした。 東洋思想、とりわけ釈迦の思想の猿まね、なのです。 老子とニーチェが似ているか。 箴言的、言っている事、は核心的であるが。考え方がない。ニチェを読みながら。 中学時代に愛読?した。論語に似ている。思いました。 愛とはその手段において闘いであり根底において、男女両性の不倶戴天の憎悪である」 何故、愛=憎悪 なのか。その考え方、在り方、を説いているのは。「老子」の 「名は名にして常の名にあらず」 人々は善は善であると考え、善が悪であることを知らない。美は美であると考え 美が醜であることを知らない。 これらは、互いに反発しあい、規制しあいながら、一つの統一体をなしているものである。 へーゲルの弁証法、でもありますが。 愛=愛 である。しかしそれでは、意味が起きない。愛-愛=0 にのです。 愛が意味を持つ、名、ととなるためには。常でないもう一つの名、が一体でなければならない。 愛×(1/愛)=1(いっ、一つの統一体)として、意味、をもつ名となる。 (1/愛)という、常でない名は、憎悪、と名付けられる。 愛×憎悪=愛憎、という。一つの名、思惑、であり。 一つの名表裏である。つまり 愛=憎悪 なのです。 愛がなければ憎悪はない。 人を愛する心が人を憎む心であり。 人を愛さない者が人を憎む事はない。 最も心のない。釈迦や老子が、 もつとも他者に、安心、を感じさせる。人格となるのです。 なのです。
お礼
道教の日本語の解説書がフランス語の翻訳だったりするのはなぜでしょうか
私が、両者の言葉が似ていると感じましたのは、次に掲げる二つの言葉が、まったく異なる言葉であるにも関わらず、意味が似ていると思ったからです。 ”ある巨匠の作品を演奏するピアニストが、その巨匠を忘れさせて、まるで自分の生涯の物語を語っているとか、まさになにか体験しているふうに見えたとき、最もうまく弾いたことになろう”(人間的な余りに人間的な、より)ニーチェ ”無為自然”・・・老子 ニーチェの言葉について、巨匠の作品とは、政府を意味するするのであって、たとえ政府の管理下にあって制約を受けようとも、自分として自分らしく生きられたなら良く生きたのだとする考えではないかと思います。 老子について、老子のイデオロギーがどこにあったのかは知りませんが、「ただあるがままに生きる」この言葉には、おそらく春秋時代の乱世を避け隠遁生活をしていたであろう、にもかかわらず、やはり民を案じる気持ちには変わりなかった。だから民に言葉を残した。あるがままといえども、無条件の自由など有る筈がない。それぞれの制約の中にあっても、質素であるならば自由に生きられるに違いない、いや、そうであってほしいと願っていた。 こんな風に解釈しましたので、似ていると思いました。 「購読」は、IT用語でメール配信サービスなどの利用の意味で、無料であっても購読というそうですよ。
お礼
あなたは環境が人をつくった つまり二人の社会状況が似ていたと考えるわけですか
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 神の死 ☆ は ニーチェの場合には 観念の神が――もともと生きていないのですが――死んだと確認したに過ぎないものです。 観念の神とは 要するにイデアの神であり 精神主義のそれです。 ニーチェは ごていねいにも《大地》だとか《自然》あるいは《超人》などのやはり精神主義の神を 代わりに用意しました。ゴミ哲学です。 ★ 奴隷道徳 ☆ 社会力学の上で 生活するのがむつかしいとき 奴隷の思想を着るのは ひとつの行き方です。面従腹背でもあります。泣く子と地頭には勝てないとも言ったりします。ただそれだけのことです。 奴隷の思想を着た姿が 民主主義の世の中になっても つづいているのを見るのは どうなんでしょう? ★ 大道廃れて仁義あり ☆ 《大道》が 社会として成り立っていたという時代はあっただろうか? という疑いがかけられるでしょうね。仁義だ礼だと言わなかった時代の社会が 秩序正しくいとなまれていたか? 論理の遊びとしてはおもしろいでしょうね。 ただ どうでしょう。まさか エデンの園を思い描いたり理論立てたりしたわけではないでしょうから 老子もただ儒者にあてこすりを言ったまでではないのですか? いま目の前に《奴隷道徳》がはびこっている。けしからん。その昔に帰れ。おまえらよ 無為であれ。と言うことが 哲学であるかどうか? あちらでは 自然に帰れと言ったとか言わないとか。言ったというので 社会の制度をぜんぶこわそうとしたわけでしょう? 老子の場合には そうはならないのでしょうが それにしても 優雅な思想であるようですね。
お礼
思ったより似てますね
似ていますね、よく読まれていらっしゃるようですね。質問者様は、その道の研究をなさっている方とお見受けします。 この比較につきましては、研究者の中には、また違った解釈で読まれている方々もいらっしゃるのではないかとも思いますし、私も、この質問には興味がありますので、しばらく購読させて頂きたいと思います。
お礼
購読?
お礼
どうなんでしょうね。