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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文: キリスト教はうんちを口に入れてもだじょうぶになるのを自分で訓練する宗)

キリスト教についての質問-キリスト教はうんちを口に入れても大丈夫なのか?

このQ&Aのポイント
  • キリスト教はうんちを口に入れても大丈夫なのか?自分で訓練する宗教なのか、それともローマ法王が達人なのか教えてください。
  • ニーチェのキリスト教についての非難について疑問があります。聖書の教訓はうんちまみれになっても許しを与えることなのでしょうか?
  • 真剣な質問です。キリスト教についての理解とニーチェの非難について教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

 あくまで個人的な解釈ですが、質問者がひじょうに正確に表現されているように、「自分を鍛える」ことを大変きびしく信者に強いている宗教の様な気がします。キリスト者の言葉にある「神は我々に、苦難をお与えくださった。」という言い方を聞く度にそう思います。  特にキリスト教の原典ともいうべき新約と旧約の「聖書」は、知られているように神と人間(信者)との間での契約の書です。では契約によって双方が何を交換しているかと言えば、神は人間からの信仰。で人間は、安らぎのような、心の支えや安心感を受け取るという事だろうと思います。  ただ、その他の宗教では、神なり天なり、仏(ホトケ)などが、人間=信者に何かを強いるという事はあまり無いように思えます。例えば「念仏さえ唱えたらいい」といった風に、いってみれば本人次第ということが、キリスト教ではなぜか、本人が努力して外部に見せることが、信仰の証のような意味づけがされているように見えます。  このことが、外部とキリスト者とを区別する意識、あたかも自然から完全に切り離された、隔離されたキリスト教社会を想定したがために、外との間に非常に大きな壁を作り、異教徒を神の名の下に虐殺する形へとつながっていった様な気がします。  つまり、神の光が及ぶ「聖なる空間」に土足で足を踏み入れる異教徒、災害、さまざまなトラブルはいわば、目に見えないが危険な病原菌のようなイメージでとらえられていたのではないかと思います。そのような汚れた世界は神の光を当てる事で浄化され、神とともにある聖なる世界を創り上げられるという考えに到ったのだろうと考えます。  ニーチェについては読んでいませんが、歴史好きとしてはキリスト教文明が世界へ拡大していった課程を無視する事はできません。質問者の的を得た質問に感謝します。

Bollywood_Star
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。しかしながら無学な自分にはよく分からない内容です。ですから率直に言わせて頂きますが、ニーチェが言う通り、キリスト教の信者の人はずるいと思いました。なぜなら彼らは目の前の現実から目をそらして、十字架という権威の後ろで「自殺」をして逃げて満足しているからです。ニーチェがあんなにまでキリスト教を批判しているのはそんな「デカダンス(退廃)」が西洋思想の中心位置を占めているからなのだと思います。「私はダイナマイトである」とはそういう意味なのだと思いました。  しかし一方でニーチェはキリスト教の謙虚さを評価してもいます(批判だけでは無いのです)。つまり変なことは起こらないという事です。この事についてはコリント1、15:33~15:34、コリント2、6:14~7:1に書かれてある通りです。つまりうんちを食べても平気になれるのが神聖というのが、彼らの教えではないという事です(質問は全くの誤解である事が分かります)。  実にくだらない会話になってしまいましたが、つまりキリスト教の本質はデカダンス(そしてそれによる満足)なのだろうと思います。仏教も同じです。実に腐っていると思いました。実にずるい、実に卑怯だと思います。自分はこの2つの宗教には気を付けるつもりです。2つとも退廃だからです。人を殺してしまう麻酔薬だと思いました。ニーチェは実に頭がいいと思いました。彼はただの秀才では無いと思います。

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