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西洋哲学と聖書の関係
- 聖書の深さと西洋哲学の関連性
- ニーチェの超人思想と聖書の断片的な解釈
- 聖書解釈の新視点と聖書の深い理解
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質問者が選んだベストアンサー
「西洋哲学の多くが聖書の部分解釈の結果である」と仰せですが、確かにそういう面はあると思います。ただし、「多く」というよりは「一部」と言ったほうがより適切ではないかと思います。多くても「半々」というところではないでしょうか。 というのも、古来ヨーロッパでは、「ヘレニズム対ヘブライズム」、「ロゴス対パトス」、「ギリシャの自然哲学対キリスト教神学」が事あるごとに対立しつつ、互に影響しあいながら「弁証法的論争」を通じて西洋文化を育んできた、と言えるからです。「普遍論争」、「宗教改革」、「ルネサンス」、「人間精神の自立」(デカルト『方法序説』他)…などは、ヘレニズム対ヘブライズの「正反合」・「対立と止揚」の過程を経て展開してきた、と言っても過言ではありません。そして、中世・近世まではヘブライズ優位に時期であり、近代・現代に入るとヘレニズム優位の時期となった、と言われています(オルテガ『世界史の一解釈』)。 「ニーチェの超人思想と聖書の関係」について述べておられますが、彼が超人としているのはツァラトゥストラ(ゾロアスター教の祖)であり、ギリシャに親近感を抱き(ニーチェ『悲劇の誕生』)、キリスト教については、「生に対して敵意を蔵する」・「死の宗教」としてかなり悪しざまに排撃しています(同『アンチクリスト』)。 ということで、ニーチェの哲学にあっては、「ヘレニズムの圧倒的重視」と形容できるような特徴がある、と言い得るでしょう。その意味では、ニーチェの超人思想と聖書はまったく関係ない、ということです。もし何らかのつながりを考えるなら、「ニーチェはキリスト教や聖書を反面教師とした」と言わなければなりません。 *蛇足ですが、私個人としては、ニーチェも聖書も、学ぶこと、得ることがたくさんあると思います。聖書は3種類(日本語版・英語版・スペイン語版)持っていて、時々読み比べたり、意味を考えたりしています。 以上、ご回答まで。
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- hiyakuhiyaku
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ニ-チェ結構おる
お礼
ご回答ありがとうございます。 申し訳ありませんが、仰っている言葉の意味が理解できず回答しないままになってしましたした。 今度は返事を書きたいので、どうぞよろしくお願いいたします。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.6です。コメントをありがとうございます。 〇 《信じる》と《考える》 ☆ つまり 聖書の(つまり イエス・キリストが)指し示した神の信仰と そして一般に哲学とについてですが 両者は 両立すると思います。 たとえば図式的にこう捉えます。: 〇 《信じる》は 《非思考の庭 なる動態》である。 ~~~~~~~~~~ 【霊我・神の宮】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心::梵我一如 ---------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 信仰は《思考を超えている》ということは 思考(および感覚)の起こる経験世界を超えており しかも同時にその経験世界をそれ自体のうちにふくむ。ということだと考えます。 ヒラメキをあたえ 良心のはたらきを たとえば胸の動悸を高鳴らせ舌をしどろもどろにさせるようなかたちで およぼします。 ▲ (ハバクク書 2:4 ) ~~~~~~~ 見よ、高慢な者を。 彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。 ▲ (ローマ書 3:22-24 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 22: それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、 すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 23: すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 24:: 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《あたい無しに》と言います。《思考や認識そしてその努力》というあたいは 要らない。 むろん 信仰は 思考等の努力を排除するものではありません。 けれども 思考や認識が信仰を凌駕するということはないわけです。 ひとこと。老婆心ながら。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お返事が遅れてしまい申し訳ありません。 今回は図式が使われており分かりやすかったです。 >〇 《信じる》と《考える》 ・・・神の信仰と(そして一般に)哲学とについて 両者は 両立すると思います。 私も両立すると思います。私の解釈です。 《信じる》とは、 「そうあって欲しいという願いと信念をもって、物事を受け入れること。」」 《考える》とは、 「物事について、あれこれと考える」 やっぱり、違うものだと思います。 > 【霊我・神の宮】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心::梵我一如 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス 興味深い対応表です。 >霊我 真我(アートマン)のことでしょうか? 真我は、カースト制の元凶ともなった概念です。単純に、人の心臓に存在する神の御霊みたいなものだと思います。真我は神の分霊だと私は思っています。ですから、所謂自我とは異なり、純粋で清いものです。輪廻転生や解脱の本体ですが、仏教では真我の存在を否定も肯定もせずに無視します。代わりに仏教では、無我が説かれます。 >思考や認識が信仰を凌駕するということはないわけです。 そうですね。思考や認識では、信仰で得られる結果(罪の赦し、救い、神の働きなど)はもたらせませないようです。 ありがとうございました。 また、じっくりお話しできれば幸いです。
- stmim
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あなたがイメージしている超人とニーチェの言う超人は違います。ニーチェ言う超人とは自らの意思で主体的に生きる人のことです。何か超越した能力を持つ人を指している訳ではありません(周囲に流されず、自らの意思で生きること自体が超越してるとは言えますが)。ですからどんなに能力があっても宗教の考えに従って生きる人はニーチェの言う超人ではありません。
補足
ご回答ありがとうございます。 >・・・ニーチェ言う超人とは自らの意思で主体的に生きる人のことです・・・ 確かにそうですね。私が申しあげたいのは、「自らの意思で主体的に生きる」のは、ユダヤ教では当然で、それを引き継ぐキリスト教でも本来そうだった、ということです。ニーチェの時代のプロテスタントは、多分にカルトがかっていて、自我を捨てて黙って神に従え、と強調しました。それは残念ながら今もあまり変わりありません。聖書の箇所を見ましょう。 以下は、veradico様から教えていただいた聖書の箇所です。 (1)マタイ7:20 「それゆえ、あなたたちは、彼らの〔さまざまな〕実から彼らを見分けるであろう。」(岩波版聖書1995) (2)マタイ13:15 「…彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」(新改訳1970) (3)ルカ12:57 「あなたたちはなぜ、正しいことを自分自身で判断しないのか。」(岩波版聖書1995) (4)フィリピ1:9 …知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10 本当に重要なことを見分けられるように。(新共同訳1987)(追加)申命記6:4 「聞け、イスラエル。我らの神である主は唯一の主である。汝、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして汝の神である主を愛せよ。」 (ここで、精神を尽くすとは、一生懸命に考えて、という意味です)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★ 西洋哲学と聖書の関係 ☆ についてですよね。 アウグスティヌスの場合に例を採りますが キケロの哲学とプラトンの形而上学から多大な影響を受けたと言います。 経験科学と言うべき〔部分での〕哲学の思考によって われがわれであるとし 脱線したときにはわれがわれに還るという過程を生きることが出来る。 イデアを捉えることによって そのいま触れた経験思想としての――言わば人間どうしのヨコの関係を考えたところの――世界観を超えるというかたちが捉えられた。 いささか(あるいは かなり)乱暴なまとめですが ただし これら経験思想なる哲学と超経験の形而上学と同じ次元には(つまり 人間のヨコの関係の世界においては) 聖書を捉えることは出来ないと考えます。 けっきょく神にかんする理論をめざすイデア論にしても そのイデアは 言わば人間の世界とずぶずぶに通じているように捉えられているようです。 言いかえると――経験世界におけるヨコの関係だけではなく 人間にとって超経験とのあいだのタテの関係を捉えたのではあったのですが―― この神とわれとのタテの関係を いま生きている世界におけるヨコの関係にあって・たとえば思い出すことができるといったふうに 全体の視野を据えていると思われます。 つまり 聖書は 信仰の問題です。思考を超えているという意味です。 神を指し示していますが それは 経験思考や感覚を まづは大前提として超えている(そこに絶対のへだたりがある)ことを言っています。 聖書そのものは 聖書記者とよばれる人間が書いたのですが アブラハムにおとづれた信仰における神や イエスが指し示した普遍神を 人間のことばという指で表現した。 つまり 信仰の問題だというのは 思考においてこの指し示そうとする指を見るのではなく 指先を思って心に受け容れる(それが 信じることだと思います)ということではないでしょうか。 つまり キケロが神々(つまり 普遍神の分身)を語っても プラトンがイデアなる神を解き明かしても それらは 人間の自己表現としての《ゆび》であり たいていは(基本の視野として) この指〔なるオシヘ〕を思考や感覚をとおして経験的に認識するという構図になっていると見られます。 指の先を見るか 或いは指そのものを見るか。この違いが 基本的に 聖書と哲学とのあいだにはあるように考えられます。 二―チェは たしかに神は死んだ――あるいは 自分たちが神を刺し殺した――というとき 人間のヨコの関係における経験思考としての(倫理的なオシヘとしての)観念の神が 神ではないと言って これが死んだと捉えたのでしょう。 けれども 経験的な思考や想像の産物としての観念の神は タテの関係における神ではなく 人間の言葉たる指そのものでしかありません。もともと 神としては 死んでいます。阿呆かっと言わねばなりません。 超人というのは――大地であり自然であり大河だとも言っていますが 人間にとっては 猿にとっての人間に当たるまさに超人だということのようであり―― 要は もう一度 指そのものとしての観念の神をこしらえた。・・・ということのようです。もう一度 阿呆かっと言ってやっても それが鎮魂のうたに成りこそすれ バチが当たることはないでしょう。 こんな感じです。
補足
ご回答ありがとうございます。 >聖書は 信仰の問題です。思考を超えているという意味です。 確かに聖書は、信仰することにより体感的に分かる部分が多数あります。その意味で、信仰の書ですが、人の思考を排除するものではない、と思います。人間は自分で一生懸命に聖書を読み考えて、そして正しさを確信して信仰するべきものだと思います。全力を尽くして神を愛するとは、思考の限りを尽くして神を愛する、ことを含んでいると思います。 >指の先を見るか 或いは指そのものを見るか。この違いが 基本的に 聖書と哲学とのあいだにはあるように考えられます。 指は哲学、指先は神ですね。聖書も指でしょうね。その指し示すところに神がおられる。 ただ、私が思うに、指としては「祈り」とか「愛」もあるのではないでしょうか。祈りに応えられることで神を認識する、神を愛することで心に熱い思いが生じ満足を得る・・・などです。
- hekiyu2
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聖書は神の著作物であるとされます ↑ 布教の為に弟子が書いただけです。 聖書が正しいのであれば、どうして2千年なの でしょう。 それ以前は人類は存在しなかったのですか。 内容が深いようにみえるのは、記述が抽象的なので 深読みが出来るカラに過ぎません。 私は、西洋哲学・神秘学の多くが聖書の部分解釈の結果であるように感じています。 ↑ これはその通りです。 ギリシア哲学が、キリスト教と融合して西洋哲学に なったのです。 ニーチェは、神の意志通りに生きるのはオカシイ、 もっと主体的に生きろ、と言っているだけです。
補足
ご回答ありがとうございます。 >(聖書は)布教の為に弟子が書いただけです。 そういう側面もあるでしょう。ただ、それだけではないと思います。 >聖書が正しいのであれば、どうして2千年なのでしょう。 それ以前は人類は存在しなかったのですか。 その答えは聖書に書いてあるようです。 >内容が深いようにみえるのは、記述が抽象的なので深読みが出来るカラに過ぎません。 それは全く違います。聖書の思想が西洋の文化を支えています。 いい加減な書物ではそうは行きませんよ。 >これはその通りです。 意見が一致しましたね。 >ギリシア哲学が、キリスト教と融合して西洋哲学になったのです。 確かに、ギリシャ哲学とキリスト教が西洋哲学の基礎になっています。 >ニーチェは、神の意志通りに生きるのはオカシイ、もっと主体的に生きろ、と言っているだけです。 それは「神は死んだ」の説明ですね。彼の超人思想はもっと別の説明でお願いします。
- maiko0333
- ベストアンサー率19% (839/4401)
ヒトが生まれた年代から1000年前まで狩猟採集生活してて 1000年でここまで発達するかが怪しいところ。 あと、オーパーツというものもあります。
補足
ご回答ありがとうございます。 >ヒトが生まれた年代から1000年前まで狩猟採集生活してて1000年でここまで発達するかが怪しいところ。 ダーウィンの進化論で説明できないのが、人類の突然の知的発達と文明化だそうです。 世界四大文明で最も古いメソポタミア文明の最初は、シュメール人が作っていますが、彼らの残した大量の粘土板には、我々は宇宙からやってきたと書いてあるそうです。また、彼らは惑星をすべて(天王星、海王星、冥王星まで)知っていたそうです。 >オーパーツ 教科書の歴史とは、完全に矛盾する遺跡や発掘物ですね。 オーパーツは、特に日本に多く、特に縄文人に絡んだオーパーツが多くあるようです。オーパーツは真実を表すが、説明がつけきれないもののようです。
- maiko0333
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人類に関しては火星からやってきたという研究もあります。 人間の体内時計は25時間であることがわかってきました。 なぜに24時間の地球にいて25時間なのか? 違う研究で火星の一日が25時間であるとわかったのです。 妙に符合しませんか? 火星をテラフォーミングして火星に移住だなんてことをいいますが、 実は火星の環境を破壊して地球にやってきたのは他ならぬ人間だったという あくまで仮説ですが。 別の研究では核戦争の爪痕が6回ほどあるらしいのです。 何回も滅んでは火星から来ていたんかもしれません。
補足
ご回答ありがとうございます。 >・・・火星・・・ そういえば、火星移住計画なるものが、まことしやかに囁かれていますね。宇宙飛行だけでもまだ大変なこの時代に本当に火星に移住はできるのでしょうか? >人間の体内時計は25時間である 火星の一日が25時間であることと関係あるんでしょうかねぇ。 不思議な感じです。 6千年前に突然世界初の文明が起こり、その文明(メソポタミア文明)を作った民族が宇宙からやってきたという話がありますが、驚きです。
- maiko0333
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聖書は神が作ったのではなく、神やイエスの教えを弟子が書き記したものと 私は理解しています。「~の手紙」「~福音書」というところが たくさんあるのはそのためであると。 旧約聖書はイエスが生まれる前、新約聖書はイエスが生まれたあとです。 旧約聖書によるとこの世界は神が全て作ったことになっています。 動物も進化などはなく、すべて。なので宇宙全体を作ったことになりますが まぁ、人間ではないので超人的という言葉も当てはまりませんが 少々無理っぽいかと思いますね。
お礼
補足は間違いでした。勘違いしていました。本当にごめんなさい。訂正ができないので、改めてここにお返事を書かせていただきます。 ――――――――――――――― 早速のご回答ありがとうございます。 >聖書は神が作ったのではなく、神やイエスの教えを弟子が書き記したものと私は理解しています。 その通りだと思います。伝統的には、弟子たちが聖書を書き記したときに神の霊感が働いたとされています。(間違いがないのです) >旧約聖書はイエスが生まれる前、新約聖書はイエスが生まれたあとです。 そうです。新約聖書は、イエスの十字架・復活・昇天・聖霊降臨などの後に出来上がっているようです。(原稿・資料は早くから作られていると思います) >・・・動物も進化などはなく、すべて・・・ 世間では進化論が当たり前のように扱われています。でも、人類の進化は、進化論に当てはまらないと言われます。というのも、今から6千年ほど前に、突然メソポタミアに高度な文明が発生したからです。これは学問的に全くの謎だそうです。 聖書には、真実は語られていますが、事実かどうかは分かりません。えっ、真実と事実は違うの?と仰るかも知れませんが違います。例えば「地は平らである」は、考え方によっては正しいし、また正しくないのです。人間が一人で大地に立つとき、地は平らに見えます。だから地は平らと言っていいのです。(これを数学的に微分の世界が平らだからと説明されます)一方、地球は丸いですよね。つまり、見方によって、地は平らだし丸くもあるのです。何か禅問答のようになってしまいました。
補足
早速のご回答ありがとうございます。 >聖書は神が作ったのではなく、神やイエスの教えを弟子が書き記したものと私は理解しています。 (キリスト教徒でない)普通の方でしたら、仰ることは当然です。抑々「聖書は信仰書ですから、信仰のない方にはあまり意味を持たない書物」なのかも知れません。でも、信仰のある人にとっては、とてつもなく深い書物なのです。私は、ここでは信仰心を持って書いています。信仰するかどうかは人の自由ですし、そういうスタンスが私は大好きです。
補足
ご回答ありがとうございます。 >「西洋哲学の多くが聖書の部分解釈の結果である」と仰せですが、確かにそういう面はあると思います。ただし、「多く」というよりは「一部」と言ったほうがより適切ではないかと思います。多くても「半々」というところではないでしょうか。 聖書の部分解釈は、言い方を変えると聖書の欠損解釈でもあるわけで、危険を孕みます。解釈というものは人間の業なので間違えることは当然あるものです。しかし、聖書の間違った解釈は残念な状況を招くのもまた事実でもあります。 確かに、「多く」といえば曖昧すぎて誤解を生みますね。気を付けます。 >ニーチェ キリスト教は、本来「自分で一生懸命に考えること、何事も自分の責任で行動すること」・・・(※) の上に成り立っています。そして、新生した人は、超人のようになり神の栄光を現します。こういった事実が、ニーチェの時代のプロテスタントには見えていなかった。聖書の部分解釈が原因です。彼らは、カトリックにいなくても天国に行けることを切に願わんばかりに、信仰義認を強調し、イエスを信じる者は誰でも天国に行ける、と主張しました。これは聖書の内容で正しいのですが、その主張の陰で、(※)が見落とされました。(※)を自我と誤って捉え、自我(※)を捨てよ、ただ神に服従せよと主張したのです。この段階で、プロテスタントは聖書を正しく読めていません。私は、自分で考えることを捨てた宗教こそ「カルト宗教」だと思っています。プロテスタントの多くが当時カルト宗教に陥っていたと私は思っています。そういった歪んだキリスト教に触れ、嫌悪したニーチェはキリスト教と決別しようとしたのではないでしょうか?天国という幸せの切り札を持つキリスト教に反逆することは、ニーチェにとってとても勇気がいることだったと思います。彼は、自分の主張の正当性を他宗教に求めました。(長くなるので以下省略します。すみません) また、別の機会にでもお話しできたらいいですね。