• ベストアンサー

ジャックデリダと文化相対主義

デリダの「差異」という考え方は、 優劣を付けずに、評価する。という様な事だと思うのですが、 この考え方は、文化相対主義とか、最近よく聞く「多様性」等々の言葉が流行っている事に繋がっているのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.1

哲学の歴史で「同一性」に代えて、「差異性」と言った初めての哲学者はベルグソンの「差異の哲学」からです。 ドゥルーズの「ベルグソンにおける差異の概念」と「ベルグソンの哲学」で、それを知りました。 古代ギリシャ以来、哲学は「同一性」を中心に展開してきました。 プラトンの「イデア」も多様性である実存を否定して、同一性としての「イデア」があると言っていました。 このことは中世キリスト教も同じで、地上の自然や人間には「多様性」があるのに、それを否定して、唯一なる神が存在し、その神が「多様性」である、自然や人間を創造したと言ってきました。 そして言語学で、「差異性」を強調したのが、ソシュールでした。 彼に言わせれば、言語は「ネガティヴの差異の体系」です。 そして彼は語には「ネガティヴな差異しかない」と言っています。 差異がネガティヴということは、差異は無意識だということです。 私たちには、その差異を知りえない。 それを後に、「構造」と言いました。 そしてデリダは、脱構築・ディ・コンストラクションを唱えた哲学者です。 脱構築はハイデガーの存在論の「解体・構築」の哲学に由来します。 「差異」については、すでに申し上げたように、ベルグソンも、ソシュールもすでに「差異」を論じていました。 ただ、脱構築を論じるのに、その「差異」の概念を武器に使ったことは確かです。 ドゥルーズは「差異性について」と言う論文で、差異には「程度の差異」と「本姓の差異」があると言っていて、人はたいてい「本姓の差異」のあるところに「程度の差異」しか見ていない、と言って批判しました。 たとえば、私たちは物と別の物には「差異」があることはすぐ分かりますが、物それ自体に「差異」があることは分かりません。 また、空間的な「差異」は分かりますが、時間的な「差異」は分かりません。 私たちはその時間を空間として理解している、というのはベルグソンの言うところです。 あなたは「差異とは優劣を付けずに評価する」と言っていますが、あるものと別のものの関係ならば、優劣を付けずに評価したり、逆に評価するということがあるでしょうが、それは「程度の差異」であって、「本性の差異」ではありません。 「本性の差異」はそのもの自体にあります。 そして「程度の差異」だったら、二つのものがあって、それを評価するのですから、評価の基準は人それぞれですから、相対主義、と言えますが、「本性の差異」でしたら、一つのものにあるのですから、それを相対主義とは言えません。

go_in_me
質問者

お礼

ありがとうございます。

関連するQ&A