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江戸時代の時間の数え方

江戸時代は時刻を干支で現し 丑三つ時は牛+虎で鬼を現すなど聞いたことがありますが、 「1時間寝てしまった」 「待ち合わせは2時間後ね」 などのように時間はどう数えていた(現していた)のでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • fumkum
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回答No.5

江戸時代には、定時法と不定時法が並立していた時代ですが、定時法は天文方等で使われていただけで、一般には不定時法による時刻が用いられています。不定時法では、一刻の長さが季節により変化しますので、現代の時間に直すとき、「おおよそ」と頭につけるのが当然ですが、煩雑になりますので以下の文では省略します。 ところで、江戸時代の時間を現代の時間に置き換えるのに、2つの説明(説)が存在します。具体的な例を上げると、「子(ね)」の辰刻(とき)の時間ですが、一般的な説明では子の辰刻(とき)は、午後11時~午前1時ですが、子の辰刻(とき)を、午前0時~午前2時とする説明もあります。後者は、明治5年(1872)の太政官の改暦の布告に、太陰太陽暦から太陽暦に変更することに伴って、時刻も呼称も変更するとし、その時刻表の中に、「零時即午後十二字(時) 子刻  一字 子半刻  二字 丑刻‐以下略‐」が代表で、明治期に書かれたものに見られます。また、孫引きですが、三田村鳶魚の記述にも同じような記述をしています。この1時間の違いは両方とも正しいと言えます。江戸時代の初期から、時刻を知らせる鐘・太鼓は辰刻(とき)の始まり(初刻)ではなく、真ん中(正刻)に打たれており、貞享歴の改正時より、初刻と正刻の区分を記載しなくなり、鐘・太鼓の打つ時間が、辰刻(とき)の始まりと徐々に認識されるようになり、辰刻(とき)の始まりが従来より半刻(1時間)遅くなり、定着したものだということです。 今一つ、不定時法において、昼と夜の分ける基準ですが、一般には日の出、日没が基準だとされますが、正確には昼の始まりは、夜明け=薄明=かはたれどきで、手のひらの三本の線が見え始めたころ、夜の始まりは、日暮れ=薄暮=たそがれどきで、手のひらの三本の線が見えなくなるころとされます。暦法上は、日の出前2,5刻、日没後2,刻、寛政暦からは、太陽が地平線下7度21分40秒に達した時とされました。 庶民の時間間隔ですが、各辰刻(とき)は時の鐘や太鼓でわかるわけですが、*時計を所持しているわけではないので、おおよそ一辰刻(2時間)、半辰刻(1時間)、小半辰刻(四半辰刻とも、30分)ほどの大まかな時間で示すことが多かったようです。ですから、「1時間寝てしまった」は、「半辰刻寝てしまった」であり、「待ち合わせは2時間後ね」は、「待ち合わせは一辰刻後ね」ぐらいの言い方です。 不定時法では、夜明けから日暮れまでを昼として六等分し、日暮れから夜明けまでを夜として六等分します。この内夜の真ん中を十二支の始めである「子の正刻」にあてます。子から1辰刻(2時間)ごとに十二支を順次配置します。これが十二支による辰刻の数え方になります。これに対して、鐘太鼓を打ち鳴らす数により時を数える方法もありました。これは、夜(昼)の極まりである子(午)の辰刻に、数の極まりである「九つ」打ち、1辰刻ごとに、丑(未)が「八つ」、寅(申)が「七つ」、卯(酉)が「六つ」、辰(戌)が「五つ」、巳(亥)が「四つ」と打つことから、「九つ」~「四つ」が辰刻をあらわすようになります。ただ、9から4と数が減じたように見えますが、実はこの数字は、9×nの二桁目を取った数です。つまり、七つは、9×3=27の二桁目の「2」を取り、「7」になったものです。 さて、各辰刻は2時間なので、区分としては長かったようで、辰刻をいくつかに区分する呼び方がありました。8分割、4分割、3分割、2分割などでしたが、8分割は一般的でないようです。 3分割は、上刻(初刻)・正刻(中刻)・下刻に各々40分ずつ3分割とされますが、実際上は、正刻(中刻)は真ん中の時間だけで、前半を上刻、後半を下刻に分けるのが一般的でした。辰の下刻のように。 これと同じように実質2分割する方法が、「~半」と「~下がり」によるものです。辰刻の真ん中を「九つ半」のように「~半」とし、それ以降を{九つ下り}のように、「~さがり」と称する方法です。 4分割は、最初から30分ごとに、一点(一刻・一つ)、二点(二刻・二つ)、三点(三刻・三つ)、四点(四刻・四つ)とする方法です。「丑三つ時」は、丑の三点のことです。(丑満つ時の表記は間違い) ところで、十二支は、時刻にも使われますが、方角表記にも用いられます。子の正刻(真ん中)を北として、30度ごとに十二支を並べます。この内丑寅の間が、「うしとら」=「艮」で、北東の方角を表します。古来、北東には鬼が出入りする鬼門があるとされます。そのため鬼は、牛の角をはやし、虎皮のパンツをはいて描かれることになります。「丑寅=牛虎」ですから。「丑三つ時」はちょうどこれに重なると考えられ(特に江戸後期の1時間遅れ)たのです。 *時計=西洋89式の機械時計は、戦国時代に輸入され、日本式の和時計も、江戸時代初期には製作されたとされます。また、線香時計、香時計なども江戸時代には利用されたと言われますが、遊郭などで主に理由され、一般的ではありませんでした。なお、トケイの表記は日本では最初「土圭」でした。 実は、辰刻の始まりの1時間の違いの理由がわからかったのですが、今回、調べてみて、やっと理解ができました。この質問に感謝いたします。

kanirobo
質問者

お礼

ありがとうございます。皆さんお詳しい。 博物館や大学の参考書に貼ってあっても遜色ない内容で何度も読ませて頂きましたが難しいですね。江戸時代は最近なのに2つの説が存在するのは驚きです。時計を「土圭」と書いたという豆知識は回りに自慢できそうです。

その他の回答 (4)

回答No.4

一日をほぼ十二等分して時刻を表していました。 身分によって時刻の言い方は違っていました。 干支を日常的に使うのは武家階級の人達です。 庶民は四ツ五ツ六ツなどを使っていました。 この数は時の鐘と呼ばれる鐘を打ち鳴らす回数の事です 九の倍数の一桁の部分の回数です。 現在の12時に相当する九ツが基準になっていました。 八ツ=9×2=18の一桁の八 七ツ=9×3=27の一桁の七 六ツ=9×4=36の一桁の六 五ツ=9×5=45の一桁の五 朝、昼、夜などを付けて昼の○ツ夜の○ツと言っていました。 時刻に対する感覚も現在のジャストその時間ではなく巾で受け取っていました。 この巾は現在の2時間程度に相当しますが、実際には季節によって長くなったり短くなったりしていました。 夏の昼間は長く夜は短く、冬の昼間は短く夜は長くなっていました。 朝が基準でした。夜が明けて手のひらの手相がおぼろげに見えるころが明け六ツでした。 巾で時刻を考えていましたから晴れの日や曇りの日では違うではないかなどという細かいことは気にしませんでした。 時の鐘はこの巾のほぼ中央と思われる頃を見計らって打っていました。 江戸、大坂などの大都市や城下町では基準になる鐘が決められていました。 それ以外の場所ではお寺が打っていました。 童謡のゆうやけこやけに「山のお寺の鐘がなる~」という歌詞が残っているのはこの名残です。 中央値であることを言う場合は正を付けて表していました。 現在も正午という言葉で残っています。 正うま(午)の刻という意味です。 前半部分を言う場合は上刻後半部分をいう場合は下刻と言っていました。 更に細かく言う必要がある場合は巾を四等分して一つ二つ三つと四つと干支の後に付けて呼んでいました。 丑三つどきというのがこの表現の仕方の一つです。 これ以上時間を細かく決めることはありませんでした。 生活がのんびりしていましたので必要がなかったということです。 >「1時間寝てしまった」=半とき寝てしまった。 >「待ち合わせは2時間後ね」=待ち合わせ(一刻)いっとき後ね 現在もチョット待ってというときに「いっとき待って」ということがあります。 蛇足 江戸では上野寛永寺の鐘が基準で、これに従って江戸市中に設置されていた時の鐘を打っていました。 この他に主なお寺でも打っていました。 このお寺の鐘撞き坊主が寝坊をしたために日本橋で明け六ツを聞いたのに芝で又聞いたなどということが起きていました。 江戸城内では別途太鼓を打っていました。 江戸城内で働く人達はこの太鼓に従って登城したり下城したりしていました。 大名領でも同じです。 現在のように何時何分などと厳密に言うようになったのは明治時代以降のことです。 明治時代の初期に外国からきた軍事顧問が何時に集合と言った際に当時の日本人は巾で考えていましたので遅刻続出でした。 現在日本人は時間に正確な国民として知られていますが、明治時代初期までは時間にルーズな国民とされていました。 これを現在のように正確な国民にしたのは軍隊特に海軍でした。 外国と接触の多かった海軍が徹底的に鍛えました。 「五分前精神」などというのは海軍発の習慣です。

kanirobo
質問者

お礼

詳しくありがとうございます 考えて見れば「一刻を争う」など名残がありますよね 時計の無かった時代にお寺やお城の近くに住んでいる人は便利そうですね 学生時代バイトで「五分前精神」と5分前から仕事をさせられ その間は時給が発生せず酷かった物です 神社やお寺巡りが好きなので 夏の間にも「上野寛永寺」に行って来たいと思います

  • r3350
  • ベストアンサー率50% (531/1061)
回答No.3

このようにしていたようです。 http://www.viva-edo.com/toki.html 落語で「神田ですか。半刻(はんとき)もあれば行けまさー」というような言い廻しがありました。

kanirobo
質問者

お礼

ありがとうございます 一刻≒2時間 半刻(はんとき) ≒1時間 四半刻(小半刻)≒30分 なんですね。勉強になりました 当時の人は体内時計だけでよく分かりましたね 逆に現代社会のようにストレスを感じず健康的だったのかも知れませんね

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11082/34532)
回答No.2

http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/03/kaisetsu1.html このページが分かりやすく描かれていると思います。 現代では「一刻が約2時間」とされているのですが、当時は時計がない時代。時間の基準は「夜明けと日の入り」でした。 だから上記のページでもあるように、夜が明ければそこが「明け六つ」になるので朝の基準です。今の季節なら午前4時過ぎが明け六つですし、冬至に近い季節だと午前6時半くらいが明け六つです。そして日が暮れればそこが暮れ六つになるのです。 つまり、夏はやたらと一刻が長くて、冬はやたらと一刻が短いのです。それでもまあ、みんな困らずに生活していたのです。 戦後すぐに大ブームを起こした「君の名は」というドラマがありましてね。いえ、アニメのアレじゃないです。ラジオドラマから映画になってどちらも大ヒットしたのですが、主人公とヒロインは「半年後にこの橋(数寄屋橋)で会おう」と約束するわけですが、時間を決めてないんですよ。「半年後の午後2時くらいにここで会おうか」ではないのです。 どっちだってさー、暇じゃないんだからせめて午前か午後かぐらい決めておかないと会えるものだって会えないに決まってるじゃないですか。でも、1950年代の日本人はそれを不自然だとは思わなかったのです。自分が行って相手がいなければ、待ち続けるだけのことだったのです。 昭和の頃だってデートで相手が来なけりゃ30分でも1時間でも待ったものでしたからね。わざと遅刻してじらせて相手がどの程度自分に対して本気かと試す駆け引きもよく聞く話でしたからね。うーん、私が若い頃は30分待っても来なくて帰っちゃうのはちょっとあり得ないって感じでしたね。1時間は待つのが基本だろみたいな。昭和の男は「ごめんね、遅れちゃって」「ううん、今来たばっかり」っていわなきゃいけなかったのさ。

kanirobo
質問者

お礼

ありがとうございます 一刻≒2時間 半刻(はんとき) ≒1時間 四半刻(小半刻)≒30分 なんですね。勉強になりました 当時の人は体内時計だけでよく分かりましたね 逆に現代社会のようにストレスを感じず健康的だったのかも知れませんね

kanirobo
質問者

補足

私も昭和生まれで携帯の無い時代でしたので 待ち合わせは大宮駅の「まめの木」に何時集合とかやってましたよ あのドキドキ感良いですよね

  • maiko0333
  • ベストアンサー率19% (839/4401)
回答No.1

一日を24時間に分けているのではなくて、 日の出から日の入りまでを12分割して昼の時間を、 日の入りから日の出までを12分割して夜の時間を決めていました。 なので季節によって時間がコロコロ変わる。 まぁ今のように1分1秒焦ることなく暮らしていたのでしょうね。

kanirobo
質問者

お礼

ありがとうございます 一刻≒2時間 半刻(はんとき) ≒1時間 四半刻(小半刻)≒30分 なんですね。勉強になりました 当時の人は体内時計だけでよく分かりましたね 逆に現代社会のようにストレスを感じず健康的だったのかも知れませんね

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