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江戸府内の時の鐘の謎とは?
- 江戸市中に設置された「時の鐘」についての謎を解明します。幕府が関与していたのか、鐘楼内に日時計があったのかについても考察します。
- 「時の鐘」が石町から上野や浅草へと広がった理由や、お寺の鐘ではなく専用の鐘楼を建設したのかについても注目します。
- 武士階級が鐘の鳴る回数ではなく「干支」で時刻を表したのはなぜなのか、幕府の記録や武家の日記から探ります。
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No.1です。 わざわざお礼を記入頂きありがとうございます お礼にいろいろ文献を挙げられおられますが、いずれも日記や留書(メモ)かと思います。盛岡藩のものも武家どうしの連絡書の類です。 しかも時刻が記載されているのは、ご指摘の文章の一行みです。 回答は習慣としての話をしています。 この身分ならこの用語を使わなければならなかったなどとは申し上げていませんのでご注意願います。 ご指摘の国立歴史民俗博物館研究報告 第 183 集 2014 年 3 月「江戸城門番役の機能と情報管理」に 門番役の引き継ぎの際に利用された「申送」・「申合」、基本台帳としての置帳が、担当藩によって作成され、幕府は関与しなかった点である。門番役について幕府は基本法を作成したうえで、その都度指示を与えたが、その運用や先例の蓄積は各藩に依存していた。 と記載されていますが、この文中の幕府の基本法について下記のURLがあります。 境界としての江戸城大手三門 - 東京大学史料編纂所 www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/22/kiyo0022-18.pdf 抜粋 享 保 六( 一 七 二 一 ) 年 に定 め ら れ た 武 器 ・ 人 数 と 職 務(「 御 定 書 」) が 幕 末 ま で 基 本 法 と し て 機 能し た 。 そ の 基 本 法 で は 、 門 の 重 要 度 か ら 、 A 大 手三 門(大 手 門 ・ 内桜 田 門 ・ 西 丸 大 手 門 ) と B 内 曲 輪 一 五 門 C 外 曲 輪一 一 門三 つ に 分 け て 規 定 を 設 け て い る 。 基 本 的 な職 務 は 、 門 の 開 閉 と 通 過 者 の 確 認 、 さ ら に 門 内 外 の 掃 除 や 空 間 の 管 理 、そ し て 将 軍 や 外 交 使 節 が 出 入 り す る 儀 礼 の 場 の 維 持 、 火 災 発 生 時 の 防 火で あ っ た 。 た だ し 、 そ れ ぞ れ の 門 で は 、 詰 め る 人 数 や 武 器 、 開門 時 間 や 職 務 内 容 の 詳 細 が 異 な っ て い た 。 B 内 曲 輪 門 で は 、 幕 閣 の 屋 敷 の あ る 西 丸下 ほ か 北 の 丸 の 出 入 り に か かわ る 門( 外 桜 田 門 ・ 馬 場 先 門 ・ 和 田倉 門 ・ 竹 橋 門 ) に 譜 代 大名が 、 大名 小 路 や 大 手 前 よ り 外 側 の 門 に 外 様 大名 が 配 置 さ れ た 。 ま た C 外曲 輪 門 は 、 幸 橋 門 以 外 は 旗 本 の 寄 合 が 任 じ ら れ た 。 開 門 時 間 は 、 B は外 門 は 一 日 中 、 内 門 が 卯 刻 よ り 酉 刻( 六 時 ~ 一 八 時 ) で く く り 戸 が 子 刻( 〇 時 ) ま で 、 C は 外 門 ・ 内 門 と も 一 日 中 で あ っ た 。 ま た 、 酉 刻 よ り 卯刻( 一 八 時 ~ 六 時 ) ま で 女 性 の 通 過 者 の 手 形 改 を 行 っ た 。 この論文によれば基本法では干支が使われています。 下記のURLでも干支が使われています。 古文書で見る「弘前城あれこれ」 - 弘前市 www.city.hirosaki.aomori.jp/tosho/old/hirosakijo-arekore-4-2... 抜粋 若殿様辰の刻御登城。この節御玄関下場畳左右へ御家老罷り出で、御用人東の方栗石へ罷り出で、その下へ大目付罷り出で候。 江戸城内での登城の合図には太鼓が打ち鳴らされ、登城する大名や旗本が出揃ったと思われるまで打ち続けられていました。 通称四つの太鼓などと説明されていますが、市中の時の鐘のようにこの時間だから幾つという考え方はしていませんでした。 尚このURLをお読みいただければ分かりますが、実際に立ち働いてたのは中間、足軽と称される人達です。 上記論文に 「儀 礼 の な い 平 日 の 当 番 勤 務 で は 、 桑名 藩 士 四 四 人 に対 し て 、 抱下 座 見 一 二 人 ・ 雇 足 軽 六 四 人 ・ 雇 中 間 六 六 人 の 計 一 四 二 人 が人 宿 か ら 雇 用 さ れ て い る。」 とありますように、この人達は身分としては町人です。 日常的に時刻を干支ではなく六ツだの四ツだのと使っていても不思議はありません。 (明治時代に戸籍に登録する際にこの人達も士族に登録されたことから非常に分かり難くなっています。) このような人達を対象とした藩の規則ですから刻限も干支ではなく六ツだのなんだのが使われていても不思議はありません。 わずかな文例をもって歴史上の習慣的な物事をあれは違うのどうのと断定されるのは如何なものでしょうか 当サイトは議論の場ではありませんのでご注意願います。
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- ichikawa2017
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No.1~4です いろいろお考えのようですが、その際のご参考までに書かせて頂きます。 >標準となる“時報”がないので、時計の示す時刻が正しいとは限らないからです 江戸時代の不定時法は払暁と夕暮れつまり明六ツ暮れ六ツが基準でした。。 どの時点をもって明六ツ暮れ六ツとするかは、暦を司る天文方で寛政9年(1797年)に暦を改正する際に太陽の仰角を基にして定められていました。 参考 夜明と日暮 - 国立天文台 天文情報センター 暦計算室 eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C7F6CCC02FCCEBCCC0A4C8C6FCCAEB... >当時の時計の精度がどの程度のものか、また高精度のものが芝にあったかどうか不明です 寛永寺で使っていたとされる尺時計のように分銅を重力で動かす構造のものは比較的精度が高い装置です。 一度セットして小まめに調整していれば、当時としては充分信頼が置けるものでした。 現在のように一分一秒の精度など必要がありませんでした。 >高価な時計を設置できなかったのでしょう。 天保年間に18両であったという記録が残っています。 機械式の時計は比較的早い時期から普及していますので精々10両~20両程度のものであったと考えられます。 千石以上の旗本や大名が手が出ないようなものではなかったということです。 むしろメンテナンスや管理に携わる人達の人件費の方が負担が大きかったでしょう。 >幕府が費用を負担して設置したものですから 鐘のある場所によって負担者が誰であったかについても書き残されています。 参考 時の鐘に時計はあった。 : 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 wheatbaku.exblog.jp/23360962 抜粋 時の鐘の維持についても書かれている、それによると、本石町・本所・上野・芝の四ヶ所は請負人を定め、周辺の町から鐘撞き料を徴収して維持費に充当した。 その他の六ヶ所は、浅草寺が境内地貸し付け料からの助成、 目白・四谷が托鉢(たくはつ)、赤坂が成満寺の檀家からの寄付、 市ヶ谷では付近の住民の寄付、下大崎村については不明となっている。 逆に石町を特別扱いしたという記事が見受けられません。 >御城から東・南方面にある大名屋敷や高級旗本の屋敷 東や南の低地は基本的には町人地です。 武家屋敷が無い訳ではありませんがこの町人地よりも東或いは南側です 江戸幕府というのは基本的に軍事政権です。 旗本は守備兵として江戸城に近い番町から駿河台にかけて屋敷が与えられていました。 甲州街道は万一の際の脱出路でした。 老中以下日常的に登城する必要のある譜代大名は登城に便利なように江戸城の近くに居住させていました。 忠臣蔵で有名な吉良上野介も高家として現在の丸の内に屋敷がありましたが、事件後以降登城に及ばずということで本所に屋敷替えされていました 外様大名は幕府の役職に就任させませんでした。 日常的に登城する必用がない大名は江戸城から離れた場所に居住させていました。 但し、毛利、島津、上杉については常時監視できる日比谷堀に面した場所に居住させていました。 ご丁寧に毛利家の土地の一画に、お庭番が詰めていたとされる御用屋敷を設けていました。 江戸城から遠い愛宕下大名小路にある大名家に外様大名が多いのはこのためです。 >御城から離れた所に屋敷をもつ大名や高級旗本とを差別しないために、カネを徴収しないと決めたのでしょう。 上記のように根本的に区別していましたから、鐘撞費用の負担など余り関係がないかと思います。 参考 江戸時代の地図と図式【江戸切絵図】其五 - 国土地図株式会社 www.kokudochizu.co.jp/index.php/columnandother/yomoyama-menu... 江戸時代の早い時期から全国の城下町に時の鐘が設置されていました。 農村部では寺院が習慣的に朝昼晩に鐘を撞いていました。 つまりどこの大名も領国の治政に欠かせない時間管理を行っていたと考えられます。 基準となる時計は所持していたでしょう。 一年おきに殿様が政務を行っていた江戸屋敷に時計が無かったとは思えません。 大名領、旗本領、天領が錯綜していた関八州の時間管理はどうしていたのですかね? 川越など大名領には時の鐘がありましたが、その他はどうしていたんですかね~ 近隣のお寺どうしが山勘で適当にやっていたんですかね~。
お礼
度々のご回答ありがとうございます。 ブログを基にしてあれこれ言っても始まりませんが…。 質問:当時の時計の精度がどの程度のものか、また高精度のものが芝にあったかどうか不明です。 ご回答:寛永寺で使っていたとされる尺時計のように分銅を重力で動かす構造のものは比較的精度が高い装置です。 一度セットして小まめに調整していれば、当時としては充分信頼が置けるものでした。 現在のように一分一秒の精度など必要がありませんでした。 ご提示の「時の鐘に時計はあった。 : 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録」から 以下引用: まず、本石町ですが、鐘撞役の辻源七の書留(享保年間)に 「時の勤方之儀は常香盤ならびに時斗貮組を以て相勤申候」 と書かれています。 さらに、元文元年の鐘撞銭の徴収状況と使途について書いた記録が残されています。 この中に、時計磨料 金弐分 、常香 金弐分 と書かれています。 時計磨料というのは、時計の管理費用でしょう。また、常香というのは、「香盤時計」のことです。時計と同様に時刻を確認するため所有していたものと思われます。 これらから、本石町の時の鐘は、時計と香盤時計で時刻を計っていたことがわかります。 引用終わり。 なぜか、「香盤時計」を併用しています。 享保年間でも時計の精度はこの程度であったとも言えます。 図書館で調べてみます。 この質問は、#1、#2のご回答でほぼ解決していますので、締め切りたいと思います。
- ichikawa2017
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No.1.2.3です それにしても、本石町の鐘が気になります。 とのことですので追加で説明させて下さい 通常時の鐘と呼ばれるものは歴史的には「城の鐘」・「寺の鐘」・「町の鐘」とがありました。 これは平たく言えば、鐘撞の維持費用を誰が負担するかの違いとお考え下さい。 つまり寛永寺に置かれた時の鐘は「寺の鐘」で本石町の鐘は「町の鐘」ということになります。 本石町の鐘は武家屋敷が対象外でした。 解説書などでは一般に、(1)本石町(2)上野寛永寺(3)市ヶ谷八幡(4)赤坂田町成瀬寺(5)芝増上寺(6)目白不動尊(7)浅草寺(8)本所横堀(9)四谷天龍寺の順番で前の鐘の音を聞いて順序よく鳴らしていたとされますが、現在正確に順番が分かっているのは寺の鐘である上野寛永寺 東円寺(市ヶ谷八幡)赤坂成満寺 芝切り通しの四ヶ所のみです。 石町の鐘は伝馬町の牢屋敷が近かったこともあり、処刑がある日は時刻を遅らせて撞いていました。 時の鐘は幕府によってやかましく管理されていたとされていますが、案外例外が認められていたようです。 法治よりも人治が優先されていた時代ではのことでしょう 参考 石町時の鐘 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/石町時の鐘 このことを勘案しますと寛永寺を起点とする寺の鐘と石町を起点とする町の鐘との間では順番が違ってくることもあり得たということです。 時の鐘に種類があったことに関しては下記のURLをご覧ください 江戸時代の暮らしと時間 | 時計と社会のかかわり | THE SEIKO ... museum.seiko.co.jp/knowledge/relation/relation_07/index.html 順番があるということは前の鐘を聞いてから次の鐘を撞いたことになりますが、単純にこれをやりますと場所によっては相当遅い場所が出てきてしまいます。 これを解消していたのが捨て鐘と呼ばれる予告の鐘です。 更に鐘を撞く間隔を調整することで遅延を解消していたと考えられます。 詳しくは下記のURLをご覧下さい 時の鐘」の同期手法の科学と謎 - hirax.net::index www.hirax.net/diaryweb/2017/06/04.html >つまらぬ推測ですが、暴風雨時には鐘の音が聞こえにくいときもあって、「本石町」「上野寛永寺」「芝切通し」「四谷天龍寺」「本所横川町」には時計を設置し、暴風雨時や最初に鐘を撞く寛永寺の時計が故障した場合の備えだったのでしょう。 このような理由で時計などを所有していたのではないでしょう。 鐘の音がかき消されるような暴風雨はめったにないでしょう。 頻繁にあるようでは江戸で最も恐れられていた火事を知らせる半鐘が使い物にならなくなります。 遅滞なく鐘を撞くには前の鐘が聞えてから撞き始めていたのでは遅れます。 事前にそろそろだとスタンバイしていたであろうと考えられます。 これには独自に時を知る必要があります。 当時は不定時法で、払暁と日没が基準でした。 これも掌の皺が見えるとか見えないとか極めて感覚的なものでした。 天候によっても左右されます。 これを極力正確にしようとすれば時計などの助けが必要になります。 お寺であれば香盤時計と呼ばれるお香が燃えた長さで時間の経過を測る道具が使われていました。 石町など町の鐘の場合はおそらく和時計でしょう。 香盤時計については下記のURLをご覧ください 昔は香りで時間を計ったって本当?常香盤を探してみよう! - いわの美術 ... iwano.biz/column/kotto/kotto_method/0331-kohdokei-new.html 和時計は城中や武家屋敷でも使われていました。 和時計は別称大名時計などとも呼ばれます。 裕福な大店でも所有していました。 つまり機械式の時計というのは当時は左程珍しい物ではなかったということです。 詳しくは下記のURLをご覧ください。 和時計の世界 | 時と時計のエトセトラ | 日本時計協会 (JCWA) www.jcwa.or.jp/etc/wadokei.html
お礼
追加のご回答ありがとうございます。 情報が多すぎて纏めきれません。 浦井 祥子著『江戸の時刻と時の鐘』が信頼できますが、地元の図書館にはありませんでした。 そこで、この書籍を紹介しているサイトを主に参考にしました。 http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho223.htm 本石町の「時の鐘」の鳴る順番について。 >現在正確に順番が分かっているのは寺の鐘である上野寛永寺 東円寺(市ヶ谷八幡)赤坂成満寺 芝切り通しの四ヶ所のみです。 分かりました。これを正解として考えます。 このことは、『享保撰要類集』(享保1 (1716) 年から宝暦3 (53) 年までの法令の集大成)。 に記述されていますね。 つまり、享保から宝暦にかけての頃、(あるいは、も少し幅広い期間)この順番だったのでしょう。 きびしく順番を決めていたということは、第一番目の上野寛永寺には、精度の高い時計と正確な時刻を観察する経験に基づく技術があったと推定できます。 標準となる“時報”がないので、時計の示す時刻が正しいとは限らないからです。 残る三ケ所については、享保・宝暦期に時計が設置されていたのか、不明です。 「芝切通し」にはあったようですが、当時の時計の精度がどの程度のものか、また高精度のものが芝にあったかどうか不明です。 時の鐘の維持管理費にはかなりの費用がかかったようで、高価な時計を設置できなかったのでしょう。 備考:いつ頃のことか不明ですが、時計があったと思われるのが、「時の鐘に時計はあった。気ままに江戸 散歩・味・読書の記録」では、「本石町」「上野寛永寺」「芝切通し」「四谷天龍寺」「本所横川町」です。 また、「時の鐘の同期手法の科学と謎」では、本石町、上野寛永寺、浅草寺、芝切通しの四ケ所です。 備考:第二節「時の鐘の管理と運営」は、個々の時の鐘について鐘撞銭の徴収状況などの運営費の捻出方法について言及されている。運営費の徴収対象(武家方のみ、武家方・町方・寺社方それぞれから、寺社方のみなど)・徴収額など一様ではなく、個々の時の鐘によって異なる方法が採られていたこと、それぞれに運営費の調達に苦慮していた様子などが描かれる。 順番は分かりましたが、本石町の鐘がなぜか抜けています。 理由は分かりませんが、想像するのが楽しみです。 この鐘は、幕府が費用を負担して設置したものですから、言わば幕府直轄の鐘で、他の鐘とは別格で、順番に入らないのではないかと思います。 本石町といえば、常盤橋御門に近い一等地です。 御曲輪内の大名小路や西の丸下の大名小路では、城内の“時の太鼓”が聞こえるのかも知れません。 しかし、御城から東・南方面にある大名屋敷や高級旗本の屋敷までは聞こえないので、本石町の時の鐘を頼りにしたのかも知れません。 これらの武家屋敷全てに時計があったとは限らないでしょう。 また、武家屋敷からカネを徴収していません。 幕府としては、大名小路に屋敷を構えた大名家と、御城から離れた所に屋敷をもつ大名や高級旗本とを差別しないために、カネを徴収しないと決めたのでしょう。(想像たくましい)
- ichikawa2017
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No.1.2です わざわざお礼を記入頂き有難うございます 下記のようなURLが目に留まりました。 一部抜粋してありますが詳しくは各URLを検索されてご覧ください。 ご判断になられる際の参考になれば幸いです。 登場人物と庶民の暮らし:時刻とお金の数え方|大衆芸能編・寄席|文化 ... www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/geino/rakugo/k... 抜粋 武士は時刻の表し方に辰刻法(しんこくほう)を使いました。1日の始まりである現在の午前0時の前後2時間を「子(ね)の刻」、次の2時間を「丑(うし)の刻」というように十二支で表したものです。今でも昼の12時を正午といいますが、これは「午(うま)の刻」に当たるからです。午前、午後という表現も辰刻法からきています。 一方、庶民は時刻を数で表しました。午前0時が九つで、約2時間ごとに八つ(やつ)、七つと数が減り、四つ(よつ)まで行くと、再び九つになります。9は1桁の中で一番大きい数字なので縁起がよいという考えがあったため、九つから始まっています。本来、次はその2倍の18、その次は3倍の27なのですが、数字が大きくなって数えるのが大変なので10の位を取り除いて八つ、七つと表しているのです。「おやつ[お八つ]」という言葉はこの時刻の数え方からきています。また庶民は日の出が1日の始まりだと考えていました。 【江戸時代を学ぶ】 時間の概念と時刻の呼び方 〈25JKI00〉 | Kijidasu! kijidasu.com/?p=23651 抜粋 但し一部の文献には、主に武家社会では十二時辰/辰刻法、庶民の間では時鐘/数読み法が用いられたとある。 暦のはなし~時の鐘と不定時法 - 永寿院 www.eijuin.jp/News/view/10/409 抜粋 江戸時代の一般庶民が使っていたのは時の鐘による不定時法で、その読み方は十二辰刻とは違う独特なものです 江戸の時間は - クリナップ cleanup.jp/life/edo/14.shtml 抜粋 時間の表現には、二種類あった。子、丑、寅、卯…の十二支をあてた「子の刻(ねのこく)」「丑の刻(うしのこく)」…というタイプと、「九つ(ここのつ)」「八つ(やっつ)」と呼ぶタイプだ。前者は主に武士が、後者は庶民が使ったようだが、はっきりした区別はなかった 江戸散策 第33回 クリナップ cleanup.jp/life/edo/33.shtml 抜粋 元旦登城の時間は卯半刻(午前7時頃)となっていて、一斉に集合したことになる 武士と手代 - 独立行政法人 労働政策研究・研修機構 www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2006/07/pdf/060-066... 抜粋 明治新政府の法規類を編纂した 『法規分類大全』 の最初のあたりをみていると, 新政府による最初 の就業規定といえる通達が目に留まる。 旧暦の慶 応 3 年 12 月 15 日 (新暦の 1868 年 1 月 9 日) には 「総裁以下巳刻参集午刻評議之事」 とある通達で ある。 退出時間が記されていないが, それゆえで あろうか, 27 日後には 一 連日巳刻参集申刻ヲ限リ退出之事 と明文化された。 巳刻は午前 10 時前後, 申刻は 午後 4 時前後にあたる。 昼食時間を入れても 6 時 間の勤務時間であった。 明治新政府の法規類を編纂した 『法規分類大全』 の最初のあたりをみていると, 新政府による最初 の就業規定といえる通達が目に留まる。 旧暦の慶 応 3 年 12 月 15 日 (新暦の 1868 年 1 月 9 日) には 「総裁以下巳刻参集午刻評議之事」 とある通達で ある。 退出時間が記されていないが, それゆえで あろうか, 27 日後には 一 連日巳刻参集申刻ヲ限リ退出之事 と明文化された。 巳刻は午前 10 時前後, 申刻は 午後 4 時前後にあたる。 昼食時間を入れても 6 時 間の勤務時間であった。 [講演要旨]元禄地震(1703)における江戸での震災対応 - sakuya.ed ... sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_22/P216.pdf 抜粋 元禄地震(元禄南関東地震)は,元禄十六年十一 月二十三日(グレゴリオ暦:1703年12月31日)の丑 刻(午前1~3時頃)に発生して,南関東一円に多大 な被害を与えた海溝型の巨大地震である 江戸の時刻制度“不定時法”:お江戸の科学 - 学研 www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/03/kaisetsu1.html 抜粋 数か所の時の鐘は、上野寛永寺が初めに撞き、その音を聞いて、市谷、赤坂、芝の寺々が鳴らしていったといわれている。 中略 上野の時の鐘は、寛文6年(1666年)に鋳造され、徳川将軍家の菩提寺の寛永寺に置かれた。(取材協力=寛永寺) 時の鐘 (台東区上野公園) - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/時の鐘_(台東区上野公園) 抜粋 享保撰要類集には時の鐘が鳴る順番として上野、市ヶ谷、赤坂田町円通寺、芝切り通しとの順番で鐘が鳴ったという 浦井 祥子著 『江戸の時刻と時の鐘 - 岩田書院 www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho184.htm 抜粋 寛永寺(江戸城から見て東北東)、市ヶ谷八幡(北西)、赤坂成満寺(南西)、芝切通し(南南西)の順に、前の捨て鐘の音を聞いて、遅速なく撞き始めるよう申し渡されていた。四方の主要な鐘を鳴らすことで、ほかの時の鐘にも大きな遅れが出ないようにしたのだろう。 中略 時の鐘の運営も幕府の意向が強く働き、かなり制度化されていた。寛永寺に残る史料などから、鐘撞人の職が世襲である一方で鍾撞人の権利を有する株も存在していたことが分かった。 寛永寺の時の鐘の株については、株主だった家の古文書からも株の記述が見つかっている。当初、鐘撞人と株主は同じだったが、借金の形で株を手放したようだ。ただ、世襲制という形式を守るため、株主の縁者が鐘撞人の養子となり、鐘撞人を継いでいる 地域から鐘撞料とる 鐘撞人は、地域住民らから鐘撞料を徴収する権利が幕府から認められており、かなり実入りの良い職業だった。その配当を受け取る権利を株にしていたようだ。
お礼
しつこい質問者に根気良く丁寧に回答して下さって真にありがとうございます。 よく分かりました。 参考URLは、「武士と手代」「講演要旨 元禄地震」を除いては、既読でした。 1.主に武家社会では十二時辰/辰刻法、庶民の間では時鐘/数読み法が用いられた、と される根拠が分かりました。 2.享保撰要類集には時の鐘が鳴る順番として上野、市ヶ谷、赤坂田町円通寺、芝切り通しとの順番で鐘が鳴った(といわれている)ということ。 これには疑問もありますが、些細なことなので無視してください。 石町の時の鐘はどうなったのでしょう。 石町の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永3年(1626年)だそうです。 上野の時の鐘は、寛文6年(1666年)の鋳造です。 また、「時の鐘に時計はあった。気ままに江戸 散歩・味・読書の記録」では、 「時計があったと思われるのが、「本石町」「上野寛永寺」「芝切通し」「四谷天龍寺」「本所横川町」です。」 とあります。 また、「浦井 祥子著 『江戸の時刻と時の鐘』では、 「寛永寺(江戸城から見て東北東)、市ヶ谷八幡(北西)、赤坂成満寺(南西)、芝切通し(南南西)の順に、前の捨て鐘の音を聞いて、遅速なく撞き始めるよう申し渡されていた。四方の主要な鐘を鳴らすことで、ほかの時の鐘にも大きな遅れが出ないようにしたのだろう。」 とあります。 つまらぬ推測ですが、暴風雨時には鐘の音が聞こえにくいときもあって、「本石町」「上野寛永寺」「芝切通し」「四谷天龍寺」「本所横川町」には時計を設置し、暴風雨時や最初に鐘を撞く寛永寺の時計が故障した場合の備えだったのでしょう。 それにしても、本石町の鐘が気になります。 3.「武士と手代 - 独立行政法人 労働政策研究・研修機構」は大変参考になりました。 政府が通達した就業規定では、辰刻法であったということですね。
- ichikawa2017
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1.下記サイト参照 時の鐘に時計はあった。 : 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 wheatbaku.exblog.jp/23360962/ 抜粋 時の鐘があったとされる場所は次の9ヵ所です。本石町、浅草寺、上野寛永寺、本所横川町、目白不動、市谷八幡、赤坂田町、四谷天竜寺、芝切通し この中で、時計があったと思われるのが、「本石町」「上野寛永寺」「芝切通し」「四谷天龍寺」「本所横川町」です。 まず、本石町ですが、鐘撞役の辻源七の書留(享保年間)に 「時の勤方之儀は常香盤ならびに時斗(とけい)貮組(にくみ)を以て相勤申候」 と書かれています。 時の鐘 1 -石町の鐘- : 断想 ksei.exblog.jp/17534180/ 抜粋 江戸で最初の 「時の鐘」 は、家康の入府に遡る。 老中たちに登城時間など公の時刻を知らせるため、江戸城の西の丸(現在、天皇の御在所)の鐘楼で朝夕2回、鐘を撞いたのが始まりだ。 二代将軍、秀忠の時代になると、一日を12等分して、昼夜2時間ごとに鳴らすようにしたが、御座所に近い鐘楼からの鐘の音が政務の妨げになるとして、鐘の代わりに櫓太鼓を定時に叩くことにし、時計奉行が3基の時計を見ながら時報を知らせた。 中略 江戸城の 「時の鐘」 が太鼓に代った後、鐘撞役を代々勤めてきた辻源七は、寛永三年(1626)、本石町(現在の日本橋本町4丁目、室町4丁目の一部)に200坪の土地を拝領し、新たに鋳造した鐘を鐘楼に懸け、ここに江戸最初の 「時の鐘」 が誕生した。 第73回 江戸の時計と季節 | web日本語 www.web-nihongo.com/edo/ed_p073/ 抜粋 時計の普及は実は意外に早く、江戸時代半ばの18世紀になると急速に広がっている。江戸城では、寛永20年(1643)には表と中奧のあいだに土圭(時計)之間があって、奧坊主などが将軍の大奥へ入る時刻の管理をしていた。また、大名や格式の高い旗本(はたもと)の屋敷には時計は必需品で、登城に遅刻しないように、10分、20分刻みで生活していたようだ。 文政7年(1824)に刊行された江戸全域の諸商売の案内記である『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には、徳川御三家紀州と尾州(尾張)の御用時計師の名前が載っている。江戸市中にも百人前後の時計師が時計の製作・修理に追われていたろう。 時の鐘で生活するのは時計を持たない下層町人だけで、奉公人のいる商家では置時計や柱時計があった。黄表紙(きびょうし)などには、時計が家具としてよく描かれている。時がくると時計の頭に備え付けの鐘を金属棒が叩くようになっていて、ギィーガチャンと鳴る仕掛けだ。 2、専用の鐘が設けられていました。 参考 花の雲 鐘は上野か 浅草か www.inter-link.jp/back_no/tokushu/tokushu18_7.html 現存していて写真があります 3、幕府の記録や武家の日記には、時刻を「数」で表したものも多々ありますが…。 寡聞にして知りません。 身分に従って使う呼称を変えろなどという規則などどこにもありません。 江戸時代にこんな細々した事柄を一々具体的に決めた法令は寡聞にして知りません。 あくまでも習慣上の事柄です。 武家が干支を使ったのは城内で使われていたためです。 武家の日記や公文書でも市中の庶民が使っていた呼称を使うこともあるでしょう。 庶民でも時と場合によっては干支を使っていました。 習慣上の事柄に例外があるのはいつの時代どこの国でもあることです。 たまたま目にされた史料を基にそれが全てだと普遍化されるのは如何なものでしょうか 上記しましたように「時の鐘」に関しましてはネット上に幾らでも記事がありますので一度目を通してください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問(1)、(2)に対するご回答について。 よく分かりました。 江戸時代は270年間も続いたのですから初期、中期、後期では異なった部分もあったでしょう。 「江戸では上野寛永寺の鐘が基準で、これに従って江戸市中に設置されていた時の鐘を打っていました。」に疑問を持ち質問しましたが、 「江戸城の時計係が西洋時計の時刻を基に太鼓を打って知らせ、それを聞いた「時の鐘」のある寺などが撞く。場所によっては鐘の音を聞きそれを合図に「時の鐘」を撞く所もあり場所によって多少時差があったという。」 ということですね。 質問(3)に対するご回答について。 「身分によって時刻の言い方は違っていました。干支を日常的に使うのは武家階級の人達です。庶民は四ツ五ツ六ツなどを使っていました。」に疑問を持ち質問しましたが、 いい加減な根拠で質問しておりません。 「明六ツ」をキーワードにして、あと適当な言葉を加えて入力すれば、いくらでもヒットします。 大岡忠相が寺社奉行であった頃の日記には、時を「干支」より「数」で書いている方が圧倒的に多いです。ネットで読むことができます。 奈良奉行・戸田能登守が京都所司代脇坂淡路守に嘉永甲寅年の地震を報告した書状の「写し」 http://www.pref.nara.jp/secure/118509/naranosaigaisi2%E3%80%801-1.pdf#search=%27%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C+%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2%27 大坂町奉行・久須美祐明『浪華日記』、 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004688396.pdf?id=ART0007423890 紀州藩家老三浦家文書 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006998376.pdf?id=ART0008909906 安政二年十月二日江戸大地震 3 盛岡藩の対幕府応接 『御在府留』抄 http://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/index.cgi?cat=komonjo&mode=details&code_no=2588&start 一、昨二日夜四時頃地震ニ付、御上屋鋪御殿不残潰れ、御長屋通も相潰、所々より出火有之、御屋鋪内よりも出火に付、御上屋鋪不残御焼失に相成候、太守様無御障、以下略 姫路藩主・酒井家文書 (江戸留守居)日記、 同 奥用人日記 他 嘉永二年 https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/48/saiho_48_047.html 「…神田上水神田橋御門内外樋筋御普請ニ付明十一日明け六時ゟ暮六時迄一日限り水留いたし、尤御成雨天は日送り之積此段組合中江不洩様通達可有之候、以上」 他、ほとんど「数」により時間を表示。 江戸城内でも門番役のマニュアルや引継ぎ書。 「江戸城 御門番 明6ツ」でヒットします。 国立歴史民俗博物館研究報告 第 183 集 2014 年 3 月「江戸城門番役の機能と情報管理」 www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/.../183009.pdf 上記は八戸藩の例ですが、庄内藩の例もあります。 「日常の職務の第一は、門の開閉である。門の開門の準備は、早朝毎晩七半時より始まる。まず、内腰掛の足軽番人より大番所幕下の足軽小頭に時刻の触れが伝えられ、準備にかかる。江戸城の明六時の太鼓が鳴ると、大番所の物頭らに連絡し、夜間に出していた挑灯台・箱行灯・箱番所を撤収する」
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 もちろん議論などするつもりはありません。 ご回答のなかに疑問があるので、お聞きしているだけです。 整理します。 質問は、 「武士階級は、時刻を「六ッ時」のように鐘の鳴る回数で呼ぶのではなく、 「干支」で表した時刻を多用したのですか。 幕府の記録や武家の日記には、時刻を「数」で表したものも多々ありますが…。」 “多用”したのですか、と聞きました。 「多用していた」のであれば、その根拠を教えてください、ただそれだけのことです。 それが習慣だと言われても、江戸時代の武士の習慣を知らない私には、雲を掴むような話です。 実際のところ、調べようがないでしょうから、回答者様の主観で「そう思っている」「そのはずだ」でも結構です。 その程度の根拠か、で納得できます。 ご回答の中に、 「幕府の記録や武家の日記には、時刻を「数」で表したものを寡聞にして知りません。」ということでしたので、質問者として最低限の礼儀を尽くすべきと思い、ネットで簡単に見つけることができる記録や日記の事例を列挙しました。 これに対して「いずれも日記や留書(メモ)かと思います。盛岡藩のものも武家どうしの連絡書の類です。」と切り捨てられましたが、これは、寺社奉行・大岡忠相や姫路藩主・酒井候の日記などは、武士が時を「数」で表記した事例とはならないのですね。 また、奈良奉行・戸田能登守が京都所司代脇坂淡路守に嘉永甲寅年の地震を報告した書状の「写し」も、武家どうしの連絡書にすぎないので、事例にはならないのですね。 全て、例外にすぎない、ということですね。 ご回答の続きです。 「あくまでも習慣上の事柄です。 武家が干支を使ったのは城内で使われていたためです。 武家の日記や公文書でも市中の庶民が使っていた呼称を使うこともあるでしょう。 庶民でも時と場合によっては干支を使っていました。 習慣上の事柄に例外があるのはいつの時代どこの国でもあることです。」 そのとおりだと思います。 「身分によって時刻の言い方は違っていました。干支を日常的に使うのは武家階級の人達です。庶民は四ツ五ツ六ツなどを使っていました。」に比べると、かなり納得できます。 ご提示の「境界としての江戸城大手三門 - 東京大学史料編纂所」は、前もって読んでいましたから、#1のお礼に、庄内藩も門番は、時を「数」で表記していたと書いています。 ご回答に「この論文によれば基本法では干支が使われています。」とありますが、もちろん知っています。 「干支」が使われていて当然です。 しかし、「数」も同様に使われていたのでは、という疑問です。 ご回答に「実際に立ち働いてたのは中間、足軽と称される人達です。…中略…この人達は身分としては町人です。日常的に時刻を干支ではなく六ツだの四ツだのと使っていても不思議はありません。」とあります。 つまり、身分によって時刻の言い方が違っていたという主張の補強ですね。 この人たちの報告を頭役の藩士が、日々あるいは定期的に報告書にまとめて、幕府役人に提出したと思うのですが、この報告書では、「数」の時を「干支」に変換したのでしょう。 江戸城内では、基本法は「干支」であっても、実務では「干支」よりむしろ「数」の方が多いような気がします。 「江戸幕府行事儀礼図譜」を見ますと、 例えば「御本丸明細図(大番頭勤方絵図)」には、誰がどの位置に立つとか事細かに指図してありますが、時についても、「御能之日六半時分泰着(舞台?)」「朝五ツ時御成之節」 「与力番所暮五時迄ハ」など、見落としもあるかもしれませんが「数」表示です。 「両番頭年中勤方絵図」(書院番頭、小姓組番頭)も同様に事細かく「御供揃五半時」「○○六半時」「麻上下着用明七ツ時」など。 下っ端の小役人は、さらに下の者に分かるように、いつもの習慣で時を「数」で指示したのでしょう。 「幕府書物方日記」には、めったに「時」を記録していませんが、記録している箇所は、圧倒的に「数」で書いています。 例えば、「享保20年乙卯10月21日 九ツ前地震少」とあります。 多分、この日記を書く当番者は、日頃から「数」を使っていた習慣で、この場合も「数」で記録したのでしょう。 これも「日記」にすぎないですが…。 「徳川礼典録」では、時を「干支」で書いていますが、その「付録」には、時を「数」で書いた箇所も多数記載されています。 例えば、 左之通御目付より諸向ヘ達之 若君様御七夜御祝儀ニ付 御本丸西丸え諸大名より献上物多く有之に付…中略…朝六時より段々ニ献上物繰込申候、尤五時迄之内…以下略…。 以上、私は、基本法の類は原則、時を「干支」で表記し、実務面では、時を「数」で書き表していた方が多いのかな、と思っています。