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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゲツセマネとは)

ゲツセマネとは何なのでしょう?

このQ&Aのポイント
  • ゲツセマネとは、イエスが祈りに集まった場所であり、彼が苦しみの中で神に願いをささげた場所です。
  • ゲツセマネの祈りは、イエスが死に直面する悲しみと苦しみを抱えながらも、神の御心が成されるようにと祈る姿を示しています。
  • イエスのゲツセマネの祈りは、彼が十字架での死に向かう覚悟を固めるための重要な出来事であり、彼の信仰と従順さを示すものです。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

こんばんは。 ~~~~~  1 ひとつには 何ごともなく 逮捕と裁判そしてはりつけへとつながって行くという見方があるようには思います。問題はないというひとつの見方です。  2 いまひとつには このゲツセマネにおいてむしろ その後の経過はすべて 決まったと考える場合があるのではないか? ~~~~~ 聖書を一貫したもの(予言とその成就)と考えれば、1でなければいけないのでしょう。 しかし、これでは運命論や決定論になってしまい、人には自由意志はない、となるのでしょう。すべては、神によって最初から決定されており、人はチェスや将棋の駒のように動いただけ。 自由意志を持っているように見えるけれど、それは錯覚や思い違いであり、我々の知性などが不完全で、神の計画を知りえないから、自由意志を持っているように見えるだけだ。 人間の機械論ですね。 対して、アダムとイブが神に背いたように、我々には神に背く自由すら与えられるのだ、と考えれば、 2でなければならない。 このことは、ヨハネ黙示録との関わりについてもよく言われますよね。 「我々は、黙示録に記されているような悲劇的な結末を向かえないようにすることも可能なのだ」 といったことを、キリスト教の宗教関係者は口にしたりしますし…。 わたしはクリスチャンでないのでよく知りませんが、キリスト教の中でも、予言についての考え方に相違があるのでしょう。 予言の決定論と非決定論ですね。 ただ、わたしは理系人なので、これについて少し違った考え方をすることができ、その根拠は統計力学とかになります。 たとえば、 粒子一つ一つはランダムな運動をしていても、大きな集団で考えると、その大きな集団はある種の規則的な振る舞いをすることがある。 温度の高い方から低い方へと、熱が流れるようにです。 これと同じように、自由意志と決定論は、かならずしも互いに矛盾するようなものではない、とか……。  ランダム運動をする粒子 → 自由意志を持つ人間  大きな集団 → 社会や集団 というアナロジー的な考え方をするのならば…。 そして、相互間に働く引力のようなものがあれば、この規則性のようなものは、さらにハッキリした形として現われるのであろう…。 あくまで知的お遊戯ですよ。 わたしが真剣にこのようなことを考えていると思わないでくださいよ。 ちなみに、わたしは2の立場をとります。 ですから、 ~~~~~~~ いまひとつには このゲツセマネにおいてむしろ その後の経過はすべて 決まったと考える場合があるのではないか?   何故なら イエスは 自分勝手に(《自分から死ぬのだ》*) 磔の刑に――正当に抵抗しつつですが――就くために すべての心と体と人格とを決めたということが考えられるので。 ~~~~~~~ については、イエスの遺志であった。 ☆☆ についても おしえてください。むろんこれは イエスが人間であるということを表わすと見た上でです。要するに イエスも 泣いたということ。ほかに意味が 考えられますか? ◇だと思いますよ。 この部分に該当するルカの記す、イエスの様子はすごいものがありますね。 身悶えしている、地をのたうち回っている観があります。 そして、 天使(聖霊?)に励まされなければ、正常な状態を保てなかったかのように記されている。 また、 このような葛藤がなければ、イエスは我々とは無縁な存在となってしまうのでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 ぜんぶ飲み込みました。と思って書こうとしたとき――おっと まづは ご回答をありがとうございます。こんばんはです―― 別の考えがさえぎりました。  別のと言っても くつがえすものではないのですが けっきょくねこさんが《知的お遊戯》としてだそうですけれど  ◇ これ(* 統計力学? 熱力学? の成果)と同じように、自由意志と決定論は、かならずしも互いに矛盾するようなものではない、とか……。  ☆ を言っているからには このことをふと思い浮かべました。  すなわち  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~  1 ひとつには 何ごともなく 逮捕と裁判そしてはりつけへとつながって行くという見方があるようには思います。問題はないというひとつの見方です。  2 いまひとつには このゲツセマネにおいてむしろ その後の経過はすべて 決まったと考える場合があるのではないか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これら二つの見方も 互いに必ずしも矛盾するものではないのではないかと。  そう見るなら:  (1)は 神の子・キリスト(なる神)の立ち場であり  (2)は 人間イエスの立ち場であると。  こう言ってしまったあとでは なあんだと思いますが ここまでたどり着くのは なかなかの回り道をして来たかとも思うのです。  ヒラメキは たぶん人間どうしのカカハリのその過程から生まれるのかも知れません。  どうなんですかねぇ。ナゾがあったほうが おもしろい。ですね。

bragelonne
質問者

補足

 No.1におけるやり取りを経て ここでのひとつの結論に到ることが出来た模様です。

その他の回答 (1)

  • veradico
  • ベストアンサー率44% (11/25)
回答No.1

>このゲツセマネの祈りにかんしてご教示を ということですので, 一つは,ご指摘の通り,イエスは,自発的な意思で命をなげうつと,はっきり言っている点がありますよね。また,バプテスマのヨハネが「ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29 )と言っており,イエスが,神の備えた犠牲であるという観点を述べていますね。この点は,イエスが命を捨てる目的と密接な関係があります。それで,イエスは,神の重要な目的を十分理解しており,そのために,まったく自発的に命を捨てる決意をしていることは明らかです。 では,「どうか、この杯をわたしから取りのけてください」と願うのはなぜでしょう? 一つは,自発的に命を捨てる決意をしている証拠は明らかなので「この杯」は,死ぬことそのものを意味してはいないと考えるのは道理ではないでしょうか。「この杯」は比喩表現なので,何かを表わしています。それは,イエスが「取りのけるに値する」と判断しているものです。それは何でしょう。その一つのヒントは,「アバ,父よ」と呼びかけている点にあります。「アバ」というのは,父親に対する愛情のこもった表現です。そうすると,イエスは,このまま,自分が殺された場合,「父」に何らかの望ましくない影響が及ぶことを考えて「この杯をわたしから取りのけてください」と願っている,と考えるのは妥当ではないでしょうか。ただし,イエスは,自分の価値判断が最重要ではなく,どうするかは父が決めることだと認めています。 もう一つは,聖書の言葉にある神の預言の成就に対する責任という点も関係しているのではないでしょうか。例えば,マタイ26:53 「…それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」と書かれているので,イエスは,聖書の言葉の成就に対する重大な責任を持っていることを自覚していましたから,それを確実に,しかも,神の是認される仕方で果たすために,ゲッセマネにおける祈りを捧げて,神に助けと導きを求めたと考えられるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  では,「どうか、この杯をわたしから取りのけてください」と願うのはなぜでしょう?  一つは,自発的に命を捨てる決意をしている証拠は明らかなので「この杯」は,死ぬことそのものを意味してはいないと考えるのは道理ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしにはあたらしい見解かも分かりません。  ゑらでぃこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ イエスは,このまま,自分が殺された場合,「父」に何らかの望ましくない影響が及ぶことを考えて「この杯をわたしから取りのけてください」と願っている,と考えるのは妥当ではないでしょうか。  ☆ ですか。ここは ちょっとまだ飲み込めていません。  ★ 自分が殺された場合  ☆ と言いますが まさしく《ころされる――〈木に懸けられる〉――》場合という方法を いまこのゲッセマネで選んだのだし その覚悟を決めたのだとは 思っていたのですが?    そして物語としては 死者の中から 父なる神によって復活させられる。ということまでも すでに織り込まれた。のではなかったのでしょうか?  でも  ★「父」に何らかの望ましくない影響が及ぶこと  ☆ もあり得るのでしょうか?  ★ ただし,イエスは,自分の価値判断が最重要ではなく,どうするかは父が決めることだと認めています。  ☆ ということですね。そのように読めると思います。    ★ もう一つは,聖書の言葉にある神の預言の成就に対する責任という点も関係しているのではないでしょうか。  ☆ これは むつかしいですね。  ★ イエスは,聖書の言葉の成就に対する重大な責任を持っていることを自覚していましたから,それを確実に,しかも,神の是認される仕方で果たすために,ゲッセマネにおける祈りを捧げて,神に助けと導きを求めたと考えられるのではないでしょうか。  ☆ 通俗的に言えば 念には念を入れて用意をし確認を怠らない。でしょうか?  これの裏付けとしては 《見よ、わたしを裏切る者が来た。》(マタイ福音26:46)とイエスが言ったあとのくだりからですね。  すでにイエスを捕らえようとしてやって来た大祭司の手下らに イエスと一緒にいた者が剣をもって打ちかかったので これに対してイエスが言ったことば:  ▼ (マタイ26:53-54) ~~~~~~~~~~   「…それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。すでにイエスは 心が決まっていますね。  ★ 確実に,しかも,神の是認される仕方で果たすため  ☆ の行動について決まったかたちになっていた。これが ゲッセマネですか。これは すんなりと腑に落ちるように思います。  ふうーう。こんな感じでしょうか。

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