- ベストアンサー
ゲツセマネとは
何なのでしょう? ▲ (マルコ福音14:32-42) ~~~~~~~~~~~ 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。 ――わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。 ――アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしか ら取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適 うことが行われますように。 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。 ――シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかっ たのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えて も肉体は弱い。 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 イエスは三度目に戻って来て言われた。 ――あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が 来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その後の十字架の死および復活は 推移としてそのかたちに関しては 割り合い 分かりやすいと思われます。その前に起こったこのゲツセマネの祈りにかんして ご教授をお願いします。 ひとつには 何ごともなく 逮捕と裁判そしてはりつけへとつながって行くという見方があるのではないでしょうか。 いまひとつには このゲツセマネにおいて その後の経過は すべて決まったとも考えられます。何故なら イエスは 自分勝手に 磔の刑に――正当に抵抗しつつですが――就くために すべての心と体と人格とを決めたということではないか。 ▲ この杯を去らせてください。 ☆ についても おしえてください。 * 以前には 要するに イエスも 泣いたというように理解していました。再考・再々考したいと思います。
- みんなの回答 (11)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
追伸:知り得た事に感想を交えて。 ○ 「十字架に上るのは 無償の愛であるゆえ」 ● 十字架に上ったのは1000年も前からの予言を成就するためであったと思います。それが救世主であることの証明とお考えになったのだと思います。【イエス様ご自身がもっと救世主光臨のことをしっかり弟子の予言者(エレミヤなど)にさせておくべきだった。】とおしゃられておりますから、その点が弱かった故にインパクトある方法を取らざる得なかったのかなと思っています。 ☆ 「《自分勝手に》と形容しました。すなわち 《人びとの罪を贖うために 生け贄として死に就く。あとでは そのわが愛に 人びとよ 応えたまえ》というようなことは 言っていないし 思っていないという意味でしたが いかがでしょう。」 ★ これはその通りだと思います。イエス様、ご自身が【人びとの罪を贖うために 生け贄として死んだのではない。】【個人の罪は個人の懺悔(反省)でなくすもの。】とはっきりおっしゃってますので。また●にあるように予言成就のためと思います。以前にも回答しましたが予言成就の力とそれを阻止しようとする力があったことは事実です。イエス様ご自身の判断が予言成就であったというように捉えています。 ○ 「イエスは 勝手に死んだ。 ☆ というのも 持論でしたが 物議をかもし出しそうですか。」 【人びとの罪を贖うために 生け贄として死んだのではない。】というのは事実ですから、予言者の準備や霊界の動きは普通には知りようが無いので「勝手に死んだ。」と取られても仕方が無い点はあります。でも霊界では「大いなる悲しみでその事実を受け入れた。」ことも事実です。後世の音楽「レクイエム:モーツアルト作」はその時できたと聞いております。(brageloneさんには裏(霊界)の事情もご理解いただけるはずと霊界の皆、信じてますよ。) 追加すれば、イエス様というお方はどうも悲劇の主人公になることがお好きなようでイエス以前の遠い昔にも同じような役を何度かやられているのですね。そのような役柄で人を救いたいというお気持ちの強いお方なのです。ただし、未来では違った役を演じられるかも知れませんのであくまで過去はそうだったという意味程度です。
その他の回答 (10)
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
☆ 全部ではないですが 《 eli 》は 詩編に 出る例は 多いようです。 mmkyです。そうですか。私はキングジェームス版しか見てませんので、「eli] については、brageloneさんのご指摘が正しいのでしょう。私の論は意味を成さなかったですね。 「詩編の一編を引き合いに出すのは もとより ひとつの解釈例ですがそれほど都合のわるいことがありますか?」 人間イエスとしては不都合はないのですが、神イエスは死ぬときは「救世主」としての威厳を失っていなかった。ことを信じたいということですね。ご本人もそうおっしゃってますので、その場にいなかった弟子の記述を疑うこともありかなと。マクダリアのマリアはその場にいましたので別の見解があるかもしれませんね。 本題からずれましたかね。 ごめなさい。
お礼
mmkyさん ご回答をありがとうございます。 そうですか。残念ですね。 たしかに 威厳を保つことも つまづきを増やさないためなどに 必要かも知れません。まぁ それをも超えていると見てしまえば いいのかも知れないですが。 ★ マリアの福音書 ☆ もあるそうですね。ナグ・ハマディ文書についても ユダやトマスのほかは あいまいなままにして来ました。つけが回って来ています。一歩一歩 まいります。 さらに何かありましたら よろしくお願いします。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
「▲ エリ、エリ、レマ サバクタニー ☆ これは ほとんどそのまま 《詩編》に表わされていることが 指摘されています。その一編では その後 神をほめたたえるというふうに 語りが 転調していくというものです」 brageloneさん、mmkyです。私のコメントは以下のように「Eli」を神(God)と訳するには無理があるということです。従って詩篇22.1を使うことに無理がある。むしろ恣意的なかぶせではないかと考えています。「イエス様が違うといってますので、どう論理だって説明できるのかなということですが。」 “Eli, Eli, lemah sabaktani; の訳に詩篇22.1:“My God, my God, why have you forsaken me?”を誰かが当てはめただけですね。それまで神は「God」,「Almighty」,[エホバ」が代表的な表現であり旧約聖書では神を「Eli」と表現はしていないはずですね。イエスはどこかで自身を「エリア」の再来などとおしゃられていたはずです(これは明らかな方便でしょうが)。旧約聖書で「Eli=エリー」という音に近い神と称される者(預言者)はカルメル山でバール信仰をたたき壊した「エリア」だけだと思います。要確認ですが。
お礼
mmkyさん ご回答をありがとうございます。 なかなか むつかしいですね。 ★ イエスは 「エリア」の再来 ☆ については なんとも お応えできない状態です。そこまでは 考えたことがありませんし 調べたこともないのです。 旧約聖書で 《わたしの神》という語句が出る箇所について その原語をしらべてみました。 ○ 《わたしの神》のヘブライ語 ~~~~~~~~~~~~~ 出エジプト記 15:2 eli 民数記 22:18 jahweh elohai 申命記 4:5 jahweh elohai ヨシュア記 14:8 jahweh elohai 士師記 16:28 adonai jahweh ルツ記 1:16 elohai 2サムエル記 22:3 elohai 1列王記 5:4 (5:18) jahweh elohai 1歴代誌 17:25 elohai ネヘミヤ記 13:14 elohai 詩篇 3:7 (8) elohai イザヤ書 7:13 elohai エレミヤ書 31:18 jahweh elohai ゼカリヤ書 13:9 jahweh elohai 詩篇 18:2 (3) eli 詩篇 22:1 (2) eli eli 詩篇 22:2 (3) elohai 詩篇 22:10 (11) eli ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 全部ではないですが 《 eli 》は 詩編に 出る例は 多いようです。 どうでしょう。《 El-i =わが神》の例はあるとは考えられますね。 あるいは ▲ (マタイ27:46) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(エリ エリ ランマー アズブタニー)」という意味である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と書いてあります。《マルコ15:34》についても 同じです。 つまり 《ランマー アズブタニー》は 詩編22:1と同じ表現です。 どうでしょう。これ以上は いま わたしには 分かりませんと言わざるを得ないようです。要確認でしょうが。 詩編の一編を引き合いに出すのは もとより ひとつの解釈例ですが それほど 都合のわるいことがありますか?
補足
ヱブ上の検索結果をつづけます。 ◆(F) 「オリーブ山の祈り」 :「mariのページ」~~~~~~ http://www.asahi-net.or.jp/~RV3M-STU/pic611.htm アンドレア・マンテーニャ画(1455年):「オリーブ山の祈り」 ○ 人間的な弱みを示した。 ◆(G) オリーブ山のキリスト:Salvastyle.com~~~~~~~~~ http://www.salvastyle.com/menu_mannierism/vasari_cristo.html ジョルジョ・ワ゛ザーリ画:(Cristo nell'orto) (1545/1570) ○ 父なる神へ自らに降りかからんとする苦難を退けるよう祈りを捧げる場面 ◆(H) 「ゲッセマネの祈り」:柿生キリスト教会~~~~~~ http://home.raidway.ne.jp/~kakioch/mes/old/19980215.html ○ 人間の弱さを示すものだが それは 人びとに代わって その罪の罰を受けるときの受難としてである。 ▽ (コリント後書5:21)《神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです》。 ▽ (ヘブル書5:7-10)《 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。// キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです》。 ◆(I) 『ゲッセマネの祈り』:田中 寛也牧師~~~~~~~~ http://ww5.et.tiki.ne.jp/~oomisawa/sermonf/020407.html ○ 《主イエスの弱さをさらけ出す祈りと勝利》が 主題だ。 《試練》の要素を見る。罪の贖いとは 特定せず。しないが 《最大の犠牲》と言い 《神と人に捧げられた従順》が 先の主題の内容だとする。 ▽ (ピリピ書2:8-9)《死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました》。 ◆(J) 説教『ゲッセマネの祈り』:茅ケ崎市香川教会 ~~~~~ http://homepage3.nifty.com/chigasakikagawa-ch/2005sermonmar.html ○ (あ) 「アバ 父よ、この杯を私から取り除けてください。 (い) しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」。 (あ)は 死と命 (い)も 命と死とが からんでいる。それぞれの《命》が 人間イエスの願いである。ところが (あ)の《死》は (い)の《死》になると 端的に言って 《復活》につながる。われわれにとっては 《聖霊がやってくる》事態である。 だから 罪の贖い・そのための犠牲というかたちを採っていたとしても 主眼は 別のところにある。《去っていけば――無根拠として 人びとに知られるなら―― 聖霊が生きる。人びとは その息吹きを受ける。聖霊(無根拠)が住まうなら その人は 永遠の生命を得る》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 死後に焦点があり この経験世界を超えたところを 指し示している。これが 最終的なかたちである。 と いづれの解釈を採るにしても 帰着するようには思うのですが いかがでしょう。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
mmkyです。 arayata333さんの回答のなかのイエスの最後の言葉、 「エリ、エリ・レマ・サバクターニ」を(神よ、なぜ、私を見捨てたのか)と解釈すれば、予測的に「お前は生贄として死ぬのだ」のように取れますね。そうするとbrageloneさんコメント中の◆(C) に近くなってしまいますね。私もbrageloneさんと同じく◆(B) に近いという理由の一つは、イエス様が(神よ、なぜ、私を見捨てたのか)など言った覚えはないとおしゃられているからですね。つまり通説と信じられていることは論理的には◆(C)に導くための恣意的解釈と思うからですね。 イエス様ご本人は「エリア(エリ)、エリア(エリ)、ラファエロ(レマ)、迎えにきなさい。」といったとおっしゃってますね。これ以上はやめときますが、ゲツセマネはゴルゴダの丘まで続いていますので「最後のお言葉」はゲツセマネを考えるうえで大切なことですね。この「最後のお言葉」の意味も恣意的解釈や妄信ではなく妥当な解釈が必要かなと思います。私がbrageloneさんを立派だと思う理由は、arayata333のように感覚も大事だが感覚だけでは多くの知的に理解する人を納得させられないからなのですね。哲学者「カント」は「信仰には白紙で信仰する道と知的に信仰する道がある。」ということをおっしゃっています。どの道の人が多いかは国の民度にもよるのでしょうね。 蛇足まで
補足
mmkyさん 再再度のご回答をありがとうございます。 なんだか謎解きのようになってまいりました。しかも ひとは そのキリスト・イエス観を総動員して 解かなければいけない。全体像をまで明らかにして 説明する必要が出て来たようにさえ 思われます。 交通整理しつつ 歩んでまいります。 ▲ エリ、エリ、レマ サバクタニー ☆ これは ほとんどそのまま 《詩編》に表わされていることが 指摘されています。その一編では その後 神をほめたたえるというふうに 語りが 転調していくというものです。 ▲ (詩篇22:1-31)~~~~~~~~~~~~~~ 22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか(エリー エリー ラマー アズブタニ―)。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。 ・・・ 22:19 しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。 ・・・ 22:22 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。 22:23 主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これを イエスは 唱えたのだという一つの解釈です。 感性を推し出した議論については わたしは 通り過ごそうという弱き魂胆になるのですが mmkyさんが このように正面から取り上げられたので わたしも何か言わなければならない気分になってきました。 ★ (ANo.7 arayata333さん) キリストが 神とはということを説明するのには、なんと、これを黙って実行しました。 ☆ でも そのことが 後世には 言葉で伝えられてきたのでした。絵画・音楽・演劇その他その他の芸術をとおしても 並行して 伝えられてきたのですが 芸術を継承するのにも 言葉が用いられています。 しかも 言葉(文字)については ▲ 文字は殺し 霊は生かす。 ☆ とも聞いています。どうしたもんでしょう。 ▲ (マタイ27:54) ~~~~~~~~~~~~~~~ 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ (ANo.7 arayata333さん) これが、 多くの人間がおもわずキリスト者となった部分ではないですか? ☆ ということなんですが どう応えたもんでしょう。 別の見方もあるという線を添えることにしましょうか。 イエスの遺体を置いた墓地で 例のマリアが イエスに会ったという物語があります。 ▲ (ヨハネ福音20:1-18) ~~~~~~~~~~~~ ・・・後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。・・・」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この ▲ わたしにすがりつくのはよしなさい。(ノリ・メ・タンへレ) ☆ は どういう意味か。なぜ 触ってはいけないのか。 ▲ まだ父のもとへ上っていないのだから。 ☆ という理由は どういう意味か。 アウグスティヌスの言うところでは(記憶および私解によりますが) ○ 感覚もしくは表象 ないし それらによるところの目標物の認識は 意志の休息をもたらし そこに ひとつの到達点を置くことになる。それが 境界・限界となる場合がある。 ○ つまりは マリアが すがりついた場合 その感覚は 対象(イエス)の認識を それとして 確かに もたらし 次の新たな目標とのあいだに 隔たりを置く場合がある。 ☆ とわたしは理解しています。《百人隊長》の見たもの・その感覚や全体の体験も 決定的な影響をもたらしたと考えられると同時に その目標の認識にとどまるおそれも出てくる。すなわち まだこれらの段階では 《父のもとへ上り切った》かたちでの復活の姿ではなかった。 感性も理性も超えよと言っても これも 機械的な結び方ですよね。ううーん。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答番号:No.5 私はこのゲツセマネのご質問の、私としての、ご質問に対する何かご参考になれば、と存じ、投稿申し上げました。 ユダの福音書のご質問においては、私が、イエス・ユダ・眠れる弟子のことに思いがいきません。 ゲツセマネの事象において、私はこのことが思われてくるのです。 頂きましたごコメントについても、私の読解の不十分と誤読かも知れませんが、私の投稿内容に関連する内容とは少なからず、全く合致しておりませんので、ここで新たにそれを敢えて取り上げて申し上げることは差し控えます。致し方のないことに存じます。
お礼
krya1998さん たしかに No.5の補足欄にて ○ 目覚めていなさいと言われた弟子たちが 眠りこけてしまったこと対して イエスは ( a ) 叱った あるいは ( b ) 思いやりをもって たしなめた の二通りの解釈がある。 ☆ このことについて 触れました。つまり この点では ご回答の内容と重なっております。 それでも そのご回答をどう取り上げるかに難儀をするのは 次の理由からです。(1)弟子たちの眠りこけは イエスの祈りの内容と どういう重大な関係があるのかが 分からない。(2)ユダは この際 登場していない。 したがいまして 読みましたというお応えをもって ご返事に代えます。《致し方のないことに存じます》。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
私の方から言いたいことは、 愛でもいいし、その心の理論でもいいけど、それを語って権威を振り回す人はいっぱいいてもそれを実行した学者とかいないのに、 唯一神を深く語った人がその心を実行したという点だけです。 口で 美学を語るのではなくて、実際に絵を描き、歌を歌い、その心を証明して見せたのと同じ意味を持ちます。 ですから 私にとってはキリストが誰かの卓上の創作だったら私にとってはキリストはあまり意味が無くなるところ、 これがことごとくキリストの「言葉」とからの推理では、 弟子達が実際のキリストという大工さんの迫力に圧倒されて書き残したということになるので、 そのへんは議論する必要もないと思っています。 また、No3の回答へのコメントの中の三つの類型なる「たたき台」についてなら、そちらとほぼおなじ意味合いで(B)にしか興味は無かったので紹介されているURLも(B)しかみていませんが、 そのURLの説明にしても それはそのままでもいいのではと思いました。 Aは、確かにサタン御伽噺ですし、Cは原罪について自体私は否定しています。 (この原罪という考えがどうして生まれたりしたのかについては興味が無いわけではないのですが、 ここで議論する気にはなれません。) * brageloneさんによるさらなるNo3へのコメントでの解説は 私も そうも言えると思いますが、 どういったらいいのか? 私の言いたいことは理論ではないんです。 青年時代、感性が五感全部 なぜかまったく灰色みたいな無感動の時期を体験したことがありますが、 その感覚の中の命に、何の価値とか意味とかあるのでしょう。 「感じる」ということの意味を、大切さをなんで哲学はとりあげてこなかったのでしょう。 西洋哲学への疑問がわたしにはそのへん推理されてならない者です。(無学な者なので、今はほとんど推理ではあるのですが。 もし、こんなに長い間 感じることについてしっかり哲学されてきたのなら、 科学の時代でなくとも、藝術はもっともっとみんなのものとなっていたと思う。) 私が仏教を始め 多くの宗教の悟りの世界に疑問を抱くのは、悟ったと言いながら、時には悟りを否定してやっと大きな悟りにたどりついたとか言いながら、 なんであたりまえの歌を、あたりまえの音楽の中で歌ったり あるいは解かりやすく絵で示してくれなかったのか? ということです。 愛というときの極限についてなのですが、 よく知られてるのは身代わり地蔵のお話です。 親が わが子の病気であえいでる姿を見てできるものなら変わってやりたい心自体について その心境はわりと多くの人が想像できるところかと思います。 しかし、そこを身代わり地蔵として「説話」にした場合、それは間違っているとさへ言えてしまいます。 神様も仏様も 一人でも苦しむ人が増えることを望んでいないでしょうところを、 さあ苦しむ人が減るわけではないのをなんで喜べるのでしょう? つまり ほんとうには事の次第を想像できない人の作り話、それが地蔵菩薩ということだということです。 解かりにくいかもしれませんが、これは、 死の床を体験した人間からすれば 見え透いた嘘の世界だということです。 キリストが 神とはということを説明するのには、なんと、これを黙って実行しました。 「人のために 命を与えるほど大きな愛はない」と言いましたが、 これを 恐れとか苦しみを越えた人(「空」を達観するとそうなるのでしょうかね。 私の場合 ほんとうはこのことを書くのは苦しいぐらいです。)が 哀れみの心で 形だけ身代わり菩薩になるとかいう形でなく 実行したということです。 十字架上での最後の「エリエリ・レマ・サバクタニ」でしたかともかく絶望の叫びのようなものに通じていく箇所が ゲッセマネの部分ですよね。 それまで 黙って影でみていた百隊長(これがコウネリウスでもあるのですか?、ともかくおそらく人生経験豊かな人と想像しますが)が キリストが絶望したのを見た瞬間「神よ」と駆け寄った場面。 そこに通じる話だと思って読んでいました。 人を赦す? 何上から目線で言ってるの、この青二才めが、 かわいそうにとうとうつかまっちゃったよ。 人生甘く見たな。 神様だ? 馬鹿にするんじゃないよ。 人生そんなもんじゃないだろ。 一生懸命生きていても 失敗もする。 誰からも見放され、孤独をはいずる人もいる。 仲間からうらぎられ、 プライドもずたすたにされ、それでも死ぬこともできなくて 地をはいずる。 そんな「友」をどれだけ見てきたか。 けっ あなたの罪は赦された 馬鹿にするんじゃねえよ。 かわいそうに、えっキリストさんよ。 あああ、もうすぐ死んじまうよ。 n 何かうめいてるよ。 「エリ、エリ・レマ・サバクターニ( 神よ、なぜ、私を見捨てたのか)」 ん、ん? かってに絶望してろ。 n??????????!! その時 突然キリストに向かって走り出した男がいた。 「神よ!!!!!」 これが、 多くの人間がおもわずキリスト者となった部分ではないですか? ゲッセマネは、その超身代わり菩薩性を(非偽善性を超越した愛の実行者であることを)補足する意味するものと受け取っています。 眼差し(歌は本来 体を通した声の眼差しです。 絵は本来 手という心が一番細かく表れる部分のタッチの眼差しです。 そして演劇の中でほんとうは嘘は付けていないはずの部分、それが眼差しのはずです。)嘘の無い愛。 それ以上 理屈はわからないです。 以上。
補足
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。無味乾燥に図式を掲げれば 《感性》と《理論》と 両方が 大切で必要でしょうね。 ★ 「感じる」ということの意味を、大切さをなんで哲学はとりあげてこなかったのでしょう。 ☆ そうですね。常識と訳されている《コモン・センス》は 《共通感覚》ですね。あるいは 《理論=セオリ・テオリ》は 《テオーリア=観想 ないし 見ること》ですね。《観念=イデア》は ヰ゛デオと同じ言葉で またインドの《ヱ゛ーダ・ヱ゛ーダンタ》とも同じで 《見られたもの》のことです。《表象したもの》が 《知識》として 成るというふうです。 けっきょく 《人間 S 語》から 抽象化され 普遍概念として定まれば 客観と称する《観念 A 語》が 固定して来ますね。 理論も必要だというのは とうぜん起こりうる解釈の多様性の中で これこれは ありうるか・あり得ないかを ただ経験合理性という妥当性を基準とすることによってだけですが 判断するためだと思います。 じっさい 原罪論や悪魔論にかんして 必要なのだと考えます。 わたしの単なる感想ですが ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 眼差し(歌は本来 体を通した声の眼差しです。 絵は本来 手という心が一番細かく表れる部分のタッチの眼差しです。 そして演劇の中でほんとうは嘘は付けていないはずの部分、それが眼差しのはずです。)嘘の無い愛。 それ以上 理屈はわからないです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というふうに主張した場合 二つの側面があると思います。 つまり 結局のところでは 主張として受け取られることになりますし もっと言えば 感性論を基礎とした大きくは理論による主張だというふうに受け取られるでしょう。したがって 一方で 感性に訴えるという側面が現われていますが 他方では それでも 結果としては 感性に訴えようとする理論なのだと受け取られる側面です。 ということは つねに 両側面から迫るような文章が 有効だという結論に達します。 ということで このように 理屈をも こねているというところですが どうでしょう。 けっきょく 何か議論が持ち上がったときに その交通整理のための理屈を 必要な程度には 用意しておくのは 大事だと思いますが いかがでしょうか。 ★ 超身代わり菩薩性(非偽善性を超越した愛の実行者であること) ☆ は 微妙ですね。と言うより わたしにとって かえって 分かりにくいように思います。理屈が必要であるように思います。 ○ 《愛の実行者であること》は 結果として 受け取られた内容だと思います。イエスは 白紙状態だったのではないか。 ○ 《偽善》と見られるかどうか また 見られようがどうであろうが イエスなる人であるだけとして受け取られているのなら 何も 務め(この地上における仕事)をしたことにはならない。ので はりつけにされるという事件を 実行に移したのだと考えます。 ○ 《死んだのに 生きていた!!》というその限りでの《復活》のうわさが 大事であるように考えます。 ○ 《身代わりの生け贄》説は 原罪論を受け継ぐかぎり ついて回るでしょうが それが 目的であったのではない。その意味では もともと 《〈身代わり〉説を超えている》という見方は 重要だと考えています。 ○ 《菩薩》という言葉に 《倫理 ないし 価値観》が含まれるとすれば イエスは このような人間関係とその規範を超えて 逝った。何の思いもなく=自分勝手に 去って行った。と見ます。 ☆ 舌足らずであることを自覚しつつですが。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
《今回 いくらか 自分の意見をも まとめました。mmkyさんをはじめ みなさんにも たたき台になると思いますが いかがでしょう。 ・・・・ ◆(B) 「ゲツセマネの祈り」:仙台福音自由教会~~~~~~ ・人としての弱さ・おそれ・悲しみを 共有しているところを 弟子たちにも 隠さなかった。 http://www.sendaiefc.com/mission/messages/2001/20010408.html]☆ わたしは (B)に近いです。》 mmkyです。私も(B)が一番近いと考えます。 イエスも「人間として生きた」という証だと思います。魂(心)は神(神の子)であるが肉体は誰もが背負う人間としての十字架であったと思います。それを一番、顕著に表している部分ですかね。イエスが人間であったということはある意味重要なことですね。これは処女受胎にも絡んできますね。イエスも肉体は普通の人間であったわけですから正常な親子関係で生まれたというようになりますから。信仰者はややもすると信仰の本質からそれて妄信という罠にはまってしまいます。brageloneさんのように冷静に事象を観察することができるということは、「真理」探究の熱意が非常に大きいのではないかと思います。いろいろ参考になりました。お礼を申し上げておきます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 mmkyさん 解釈例(C)が いちばんの問題になると思います。《身代わりとなっての生け贄》説 そしてそれは 《神の怒りであり 人間の罪に対する罰である》説です。イエスは その思いによって 悲しみつつ もだえつつ 思案したというものです。 No.5の補足欄に いくらかを 考えて書きました。それも たたき台になると思います。 そもそも この質問を思い立ったのは ○ 《質問番号:4531741:ユダの福音書の何が注目されるのか》 にて 1000827313さんの次の文章に出会ったからです。 ● (ANo.13 1000827313さん) ~~~~~~~~~~~~ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4531741.html ○ 〔ユダが〕自分のなさなければならないことを、十全に理解し実行したと思います。確か最後の晩餐はゲッセマネの園での出来事のあとでしたね?そこでは、イエスが苦しい胸のうちを血の涙をもって父なる神に訴えていたと思いますが・・この苦い杯を飲み干さなければならないのかと。 ○ イエス自身も死と復活を理解していたとするとゲッセマネの園のイエスの祈りはおかしなことになります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その場では 直接には 応えませんでした。あまりにも複雑になると思って 応え得ませんでした。 そういう経緯をも合わせて捉えつつ 全体について さらに整理して行ければ よいと考えています。 ★ イエスが人間であったということはある意味重要なことですね。これは処女受胎にも絡んできますね。イエスも肉体は普通の人間であったわけですから正常な親子関係で生まれたというようになりますから。 ☆ ここからも 課題ないし議論が出てくるかに思われます。 ということは 要するに ○ 肉(身体および精神)としてのイエスが 去らなければ 聖霊なる神(つまり 霊)は 人間に 来ない。 ☆ という命題に収斂するのかも知れません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
brageloneさん、おはよう御座います ★ brageloneさんは、どうしてこう何か問題のところをかかげるのでしょう。☆ という問いかけが 次の二つの文章(判断)と どういうふうに つじつまが合っているのか よく分からないのです。 ◎これを問いかけとして受け取られたとは、申し訳ありませんでした。なんとすばらしい、ことを取り上げてくださることよ!という感嘆の表示でありましのですがね。 ★ こういう歴史の事実はあるだろうし、あったであろうことは自分の心理の生活でも、社会で一緒に生活する経験でもうなずけることであります。 ◎ゲツセマネに出されている事実を、私はゲツセマネを書いた方の、ゲツセマネで伝えることの説明の材料として見て、自分の身に置き換えて考えました。ゲツセマネがいうような事実は多分あったかもしれませんね。でも現実にイエスという存在の像に結合していたか、編集の中の結合かは、かんけいないものとして、自分の経験の中の照合で、重なることに気づいたので、出してみました。 無論、普通、一般に認められているゲツセマネの受け取り方とは異なるけれども、brageloneさんも、ご訪問の皆様も読んでくれると存じました。 噴飯か、苦笑か、横向かれるかの思いはむろんあるけれども。 私はゲツセマネの聖なる記者の伝えごとをどうとるか、歴史事実の書き残しではなく、また、イエスの十字架の一般的なことではなく、何か無いかと思ったから、いわゆる私の独断で、試行てき思いを書きました。ユダは或いはイエス内部の一意識かなとも思っています。 http://kikitai.teacup.com/qa4035774.htmlで臨済宗さんのことばを質問しました。 信仰の道は、漫然とくっ付いていくだけではどうしようもありません。血の汗を滴らせながら、祈り、瞑想することも必要です。 釈迦が王宮をでようとしたら、妃がこの子をどうするのですか。ときいた。釈迦となる王子は応えた。それは単なる邪魔者だと。 臨済では、親も、師家も、釈迦もぶっ殺して、自己を歩んでいけ。 という禅語もあるとか。(自己が考えている中の、そんなないようとしての)そんなものに捉われるな、ということらしいですね。 異端。結構ではないか。反逆。それこそ自己だ。 ということでしょうか。裏切り。これは概念が違うでしょうが、敢えて自分で裏切りだと思いながらも、自己を歩む。 そういうことを、眠る他の弟子たちとの対比で連想しました。 そういう切れ切れの考えを書きました。 親鸞は法然を尊敬しながら、自分を歩んだ。 そして後の人はそれを真宗と称しょうした。 親鸞には真宗という別宗派を創設する意図は無かったのではないか。 これはbrageloneさんから解き明かしを期待したい。 以下のことは上のことの中に縷々陳述しましたので、どうかご理解ください。 ★ 忠実なればこそ、叛く。そんなことって人生ではたくさんありすぎますね。 尊敬私淑する多くの方を、心ならずも裏切る結果の行為をしてきた自己の拙い思いも含まれて居ますが、所詮人は忠実であろうとすれば、自己の足で実践、展開していくことになり、精神はともかく、異なることをせざるを得ないのはありえましょうね。違いましょうか。
お礼
krya1998さん ご投稿をありがとうございます。 ですが この質問とは趣旨が異なると申し上げざるを得ません。 ★ 自分の身に置き換えて考えました。 ☆ どう置き換えたのか 分かりません。次も どう気づいたのか 分かりません。 ★ 自分の経験の中の照合で、重なることに気づいた ★ 試行てき思いを書きました。ユダは或いはイエス内部の一意識かなとも思っています。 ☆ その中身が 捉えられないのです。 次のことに留意してください。 ☆☆ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ どうも 《弟子たちの行動や考えを扱っている》と勘違いしておられる。けれども ここは ○ ゲツセマネにおけるイエスの祈りが 前後の行為関係で どういう意義を持つのか。 ☆ と問うています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうも 師匠と弟子との関係をめぐって 弟子が師匠に背き叛き裏切る このことを主題としているようですが ここでは 違います。 裏切りが出ようだ出まいが イエスは ゲツセマネからゴルゴタの丘へ向かって 歩んでいきます。その一場面を捉えて どういうことが起こったのか。イエスは どういう考えであったのか。これを問うています。 また No.3のお礼欄に 質問趣旨の補いとして さらに たたき台を書きました。これを参照してください。 したがって ユダや他の弟子たちの問題は さいわい 《Q:ユダの福音書・・・》を質問していますから そちらに投稿してください。
補足
ヱブ上でさらに検索した結果を 情報および批評として 記します。 ◆(D) ゲツセマネの祈り:キリスト改革派教会~~~~~~~~ http://www.jesus-web.org/radioprg04/prg_seisho_20040108.htm 十字架に架けられるのは 人間の罪に対する神の与えた罰であり それを イエスが 人びとの身代わりになって 受けるのだ。だから その罰の徹底した深さを思って イエスは ▲ ひどく恐れて もだえ始め、・・・言われた。《わたしは死ぬばかりに悲しい。・・・》(マルコ) ☆ と。という意味に採っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ かたちとして――つまり アダム以来の原罪をめぐる議論のかたちとしては――そうなのでしょう。ただ こうも思います いったい 望みもしない死を 受けるべき務めとは言え 受けようとするときに 《おそれ》ず《もだえ》ない人がいるでしょうか。死を恐れるものではないという論調も まま見られますが おそれは 死という事態だけで じゅうぶんに思えるのですが。 そもそも 原罪などという図式は 自分たちでこしらえた物語です。その主観の範囲内で 意義があるとしても 人類にとっての普遍的な歴史(=または物語)とするには 勇み足があります。 むろん 原罪の思想は 実際には ほとんど 普遍的な内容を持っています。持っていますが だから この原罪およびそこから派生する罪一般を つぐなう あるいは 神の子が 代わってあがなう というのは 物語=主観の内部での自己満足の話です。自由意志という毒を入れておいた饅頭を のちに その自由意志なる存在としての人間が こわいと言い出したので 毒消しとして 神の子を派遣したのだと言われても 勝手にしてくれと こちらは 言いたい気持ちです。 それゆえ 神の罰という説を 大きな顔をして 持ち出すのは お門違いだと考えます。 別の主題として こう主張しています。 ▲ ここを離れず、目を覚ましていなさい ☆ とイエスが 言いつけておいたのに 三人の弟子たちは 眠りこけてしまった。何と われわれ人間は イエスのおしえに忠実でありたいと思うのに だらしのない存在であることか と語っています。 イエスが ペテロら三人に対して 眠ってしまったからと言って どうして 叱りつけていると採るのか。実際 言葉では そう言っているのだけれど なぜ イエスが かれらに怒りをぶつけなければならないのか。弟子たちと言えども まだ イエスのこと イエスの行なおうとしていることを 理解しているとは思えない。イエスが ほんとうに かれらを叱りつけているとは とうてい 思えません。 次の議論は 《イエスが怒っているのではない》と主張します。 ◆(E)マルコ福音書講解 83 ゲッセマネの祈り:市川喜一~~~~ http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_083.htm ◆ 《またそれが非難ではなく、人間の弱さに対するイエスの思いやりがこめられていることが感じられる》。 ☆ ところが 《飲み干すべき杯》は 逆に 《神の怒りであり罰》だと言います。 ◆ 「杯」という象徴は、旧約聖書では神の救いや祝福を指し示す(詩編二三・五など詩編に多い)と同時に、神の審判の象徴として用いられることが多い(預言書では圧倒的に審判の象徴である)。その杯に盛られるのは神の怒りである。 →▲ イザヤ書51:17-22 / エレミヤ書25:15-15 →▲ マルコ10:38 《あなたがたはわたしが飲む〈杯〉を飲むことができるか》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 余白がないのですが この《神の課す罰》は 《人びとの怒りとその蓄積(つまり 恨みつらみの積み残し)》と解します。《神の》ではなく 《人びとの思いとしての》だという解釈です。どうしても そうなら その筋では イエスの磔は その《癒やし》のためと採ったほうが すっきりすると思うのですが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
brageloneさんは、どうしてこう何か問題のところをかかげるのでしょう。 このお話は聞いたこともあり、私たちのマザー・センターでもよくはしに出してきます。でもエピソード、祈り方というなかでのお話、取り上げ方だったと存じます こういう歴史の事実はあるだろうし、あったであろうことは自分の心理の生活でも、社会で一緒に生活する経験でもうなずけることであります。 だから裏切るもの、そして逝く者の決定的な事柄の通底なことがらとして身に感じます。 対人生生活の中では: 眠ってしまう弟子と裏切る者。 漫然とイエスに従う弟子といわれる人たち。 自己として、自分の足で自分の地面を歩き、どうしても、イエスのフットステップを自分では自分として更に新たに歩かなければならない、信仰者としての必然の運命。 真実なるが故の運命、必然としての異端。自己の道。 対内部の心理では: 常に眠る心と、何とか自己としての生き方、そして叛き。 独自という、個性化ということの結果としての叛き。 そんなことを思い知らされる、くだりだと読みましたが、誤読かもしれませんね。 忠実なればこそ、叛く。そんなことって人生ではたくさんありすぎますね。
お礼
krya1998さん ご回答をありがとうございます。 ★ 裏切るもの ☆ は どうも ユダのことを指しているようですね。 ★ 眠ってしまう弟子と裏切る者 ☆ というように対比されているからです。《眠ってしまう弟子》らも 逃げたり イエスを知らないと言ったりして 裏切りましたが それとは 別に イエスを売り渡したという意味での《裏切る者》のことを 指しているようですね。 でしたら その視点と主題は 別の質問 《Q:ユダの福音書・・・》のほうに してください。 この質問では ご回答内容について どうも 読み解くのが むつかしいです。理由を述べます。 ★ brageloneさんは、どうしてこう何か問題のところをかかげるのでしょう。 ☆ という問いかけが 次の二つの文章(判断)と どういうふうに つじつまが合っているのか よく分からないのです。 ★ こういう歴史の事実はあるだろうし、あったであろうことは自分の心理の生活でも、社会で一緒に生活する経験でもうなずけることであります。 ★ 忠実なればこそ、叛く。そんなことって人生ではたくさんありすぎますね。 ☆ こうでしょうか。つまり ○ 《人生にたくさんある》普通のことを それなのにそこに さも《問題があるかのように》見せているだけだ。たしかに 一見すると 《問題があると見える箇所》を引き合いに出して 質問としているだけだ。 ☆ こういう意味でしょうか。けれども それだと どうも 《弟子たちの行動や考えを扱っている》と勘違いしておられる。けれども ここは ○ ゲツセマネにおけるイエスの祈りが 前後の行為関係で どういう意義を持つのか。 ☆ と問うています。弟子の動きは それほど 前面に出て来ないと考えます。 もし それでも 回答とするということでしたら わたしの考えによればですが お手数ですが 《Q:ユダの福音書・・・》のほうへ そのままででも 投稿してください。そこで 考えてみます。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
追伸まで brageloneさんに答える内容ではありませんが、「神は、その独り子」、「独り子」のように独り子がよく使われていますがイエス様は「私は独り子といったことはない。」「私は神の子といったのです。」とおっしゃっていました。「独り子」といいたいのはわかりますが「独り子」では「神々」に失礼に当たるし、事実ではないということかと思いますし、また、いろいろな解釈に違いが生まれるのではないかと思います。 私、個人の感想では、ゲツセマネの件、ユダの件、十字架の件などについては信仰者として各自の捉えようでいいのではないかと思っていますが、「真理」からはずれた解釈については、父もイエスも「正すべき!」とお考えなのでそれに従っています。それゆえ、 【人びとの罪を贖うために 生け贄として死んだのではない。】 【個人の罪は個人の懺悔(反省)でなくすもの。】 はそのままお伝えしている次第です。このことが事実としてもイエスの偉大さが少しも変わるものではないということと捉えています。 蛇足の追伸程度におとりください。 mmky
補足
mmkyさん ご回答をありがとうございます。 検索してほかの見解を読みました。いま 三つの類型があります。 ◆(A) ゲツセマネの祈り:? ~~~~~~~~~~~~~~~ ・肉の弱さを 人間と同じく 負って サタンとの闘いを行なった。 http://jackin.mydns.jp/message/getsusemane.html ◆(B) 「ゲツセマネの祈り」:仙台福音自由教会~~~~~~ ・人としての弱さ・おそれ・悲しみを 共有しているところを 弟子たちにも 隠さなかった。 http://www.sendaiefc.com/mission/messages/2001/20010408.html ◆(C) ゲッセマネの祈り:中野教会~~~~~~~~~~~~~ ・原罪および罪を贖うためには 罪のない存在であるイエスが 身代わりになって 生け贄とされる必要があった。呪われるべき磔に遭うこと・それは 神から見放されることであり そういう手段を採っても ほんとうによいのか これについて もだえつつ 考えをまとめた。 http://www.nunochu.com/bible/74_cs/20000319.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしは (B)に近いです。(A)は おとぎ話です。 (C)は たしかに もしアダムとエワを持ち出すのなら 第二のアダムとなるイエスについて 《〈第一のアダムの 自由意志のへそ曲がり〉を正すこと》として アダムの子孫すべての者の罪を背負って 身代わりになるという解釈も 現われるかと思います。聖書も そう記しています。と同時に イエスの目的は 先に見たヨハネ福音に じゅうぶん 記されていると考えます。 ですから いま現時点でのわたしの考えは こうです。 ○ イエスが去らなければ――つまり 《なぞ・無根拠・絶対》として人がキリストを知るのでなければ―― 聖霊は来ない。つまり 人の自然本性の回復〔および それ以上のこととして 永遠の生命のさづけられること〕は 成就しない。 ○ しかも イエスとして ふつうの人間であった。これが ゲツセマネの祈りで示された。 ○ ならびに 父なる神の《みこころのままに》であり ということは 子なる神である自身の心としても はりつけの姿を表わすという手段を採った。 ○ なぜなら もしキリストとして神であるのでなく ただ人間として 十字架に上ったのなら その後も何度も そのような身代わりの生け贄が 罪の清めのために 必要となる。むろん 永遠の生命の問題は 脇に追いやられている。 ○ なぜなら もしキリストなる神であるだけであって 人間イエスでなかったなら――ちなみに これは グノーシス主義の主張に関係するようです―― 超絶した神が 勝手にやっている そりゃあ 神なら何でも出来るだろうよ で終わってしまう。 ○ しかも イエスもキリストも 自分勝手に この用意された木に上ったのである。《おまえたち よく見ておけ》とも何とも 言ってはいないし 思ってもいない。それゆえ 人びとの間に 《復活》したとも言い得る。《復活》としか 言いようがないのである。 ★ 独り子 ☆ の問題は 神は 絶対であり無限ですから その分割は あり得ません。無限の半分は それぞれが 無限なのです。存在はひとつ。位格(ペルソナ)ないし顔が 三つです。そのさらに具体的な・そして具象という意味では細分化しうるゆえ 細分化された神々は 種々のはたらきとでも採るとよいでしょう。 ★ 【個人の罪は個人の懺悔(反省)でなくすもの。】 ☆ 反省・和解・癒やしあるいは広く愛 これらは むろん 人が みづからの努力で おこなうものです。その努力が成就するのは 最終的には 神の愛によると考えます。 《最終的に》という意味は たとえば努力の基礎としてのもろもろの行為能力 これも 人間が 自分で獲得したものではなく さづけられたものだという意味です。さづかった生命において 罪や苦や悪は 呑み込まれていくでしょう。そのすがたへと 人も 走るのですが 目的地に到達するのは 生命の側のはからいであると考えます。 今回 いくらか 自分の意見をも まとめました。mmkyさんをはじめ みなさんにも たたき台になると思いますが いかがでしょう。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
参考まで 「イエスは 自分勝手に 磔の刑に――正当に抵抗しつつですが――就くために すべての心と体と人格とを決めたということではないか」 brageloneさん、mmkyです。私はこのように聞いています。 【ゲツセマネでのイエスの祈り(目から血を流すような祈り)に神々(救世主界の神々、父も含む)は沈黙で答えた。】 つまり祈りに対して何の回答も無かったわけです。この理由は、イエスが救世主であるがゆえに自身で判断すべきことであったということだと思います。だから「自分勝手に」という表現は適切でありまた適切でもないような感じがします。 ▲ この杯を去らせてください。 「杯」の意味は私にはわかりません。油を注がれし者の「油の杯」という意味であれば「救世主」という冠をともとれますね。あまりの苦しさのためにこの冠をおとりくださいと祈った。これはイエス様に叱られそうな推測ですので、その程度に。
お礼
mmkyさん ご回答をありがとうございます。 そうですか。 ★ 父は沈黙で答えた。 ☆ そうですね。 まづ ▲ この杯を去らせてください。 ☆ は 単純に 《去らなければ 聖霊は やって来ない》というその《去る》ことが 《杯を飲み干す》ことだとは 思っていましたが そのあとの《救世主》の問題にも 延長されていきますか。 あるいは 少し違った視点から なぜ《取りのけてください》と言ったのか どういう心境だったのかを 知りたいとは思っていました。 ★ 〔磔の刑に就くことに関して〕「自分勝手に」という表現は適切でありまた適切でもないような感じがします。 ☆ これは ★ 〔父の沈黙〕の理由〔が〕、イエスが救世主であるがゆえに自身で判断すべきことであったということ ☆ にかかわっています。そして わたしの心づもりでは ○ 十字架に上るのは 無償の愛であるゆえ ☆ 《自分勝手に》と形容しました。すなわち 《人びとの罪を贖うために 生け贄として死に就く。あとでは そのわが愛に 人びとよ 応えたまえ》というようなことは 言っていないし 思っていないという意味でしたが いかがでしょう。 ○ イエスは 勝手に死んだ。 ☆ というのも 持論でしたが 物議をかもし出しそうですか。
お礼
★ 父は沈黙で答えた。――☆ というその祈りの内容は 何だったのか。 ▲ できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り(マルコ) ☆ これは 《飲み干すべき杯》のことでしょう。祈ったあとでは ▲ もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 さあ 立て。 ☆ なら ★★ 目から血を流すような祈り――☆ は何だったか。 ★★ イエスが救世主であるがゆえに自身で判断すべきことであったということ――☆ とは何か。《救世主であること》の内容は ヨハネの記述からも 分かる。 ○ その中身について 問うたのか。 ○ どのように行動するか 思案したのか。 ○ なぜ このような道を選択するのか・しなければならないのか 考えたのか。 ○ ただ単に 人の心として おそれを持ち 無念さゆえに 泣いたのか。(わたしは この説でした)。 ● 十字架に上ったのは1000年も前からの予言を成就するため。――☆ これは この道の形態のことですね。理解しやすいように すでにその言葉は伝えられて来ていると 説明しています。 ★ 【個人の罪は個人の懺悔(反省)でなくすもの。】――☆ これは 微妙です。 ○ 罪は 人間の努力で 癒やすことも 失くすことも ほんとうには 出来ません。まして 《反省》によって 《律法》の内容を成就することは 叶いません。神の後押しがあってこそだと思います。 しかも 生け贄も いわゆる原罪も もはや 神は 覚えることはない(エレミヤ書)と言うためにも イエスは 形態としては 最後の生け贄となった。――☆ のではないでしょうか。そのことに ゲツセマネの祈りは どういうかかわりを持ったのか。そして ★ 霊界――☆ の問題は この経験世界におけるものごとと関連させて 説明し得て 意味を持つと――霊界の方々は この憐れむべき人間に譲歩しつつ――考えるのが 妥当であると思いますが いかがでしょうか。 * まだ 何か 分からないものが ひっかかっているように感じていますが 取りあえず このように 文字にしました。
補足
mmkyさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。そう言えば 《ユダ》の質問のほうでも ありがとうございました。前回 失念していました。ごめんなさい。 ユダは その福音書あるいは広くグノーシス主義の思想について わたしは まだその良さを見出せないでいますが――そのようにご回答いただいたとおりに 思っているのですが―― どうも 問題は 別のところにあるかにも思えて来ました。それは どうして そのように 日陰に行ってしまう誇り高き優秀な人間が 出てくるのかです。保留します。 さて 今回は 課題多しですよ。初めは 《イエスが 自分勝手に 呪うべき形の死として 木に懸けられた》という見方が――以前 一度 ここでもあったからですが―― 反対を受けるかと思っていましたが 今回の第二回答をいただいて なぞは 広く深まっていくように感じています。 まづ ヨハネ福音から イエスの磔刑の意味を確認して そのあと 質問を提出します。 ▲ (ヨハネ福17:11-26 抄録)~~~~~~~~~~~~ わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。(1)《わたしたちのように、彼らも一つとなるため》です。 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。(2)《聖書が実現するため》です。 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、(3)《わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるため》です。 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。 わたしがお願いするのは、(4)《彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださること》です。 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。 (5)《真理によって、彼らを聖なる者としてください》。あなたの御言葉は真理です。 わたしを世にお遣わしになったように、(6)《わたしも彼らを世に遣わしました》。 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。(7)《彼らも、真理によってささげられた者となるため》です。 また、(8)《彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも》、お願いします。 (9)=(1)《父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください》。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。(10)=(1)《わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるため》です。 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、(11)《天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるため》です。 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。(12)=(1)《わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるため》です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おそらくは 次の聖句に要約されるのでしょう。 ▲ (ヨハネ福音3:16)~~~~~~~~~~~~~~ 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ では ゲツセマネにて 何を祈ったのか です。