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長平の戦い、始皇帝・政

若き日の始皇帝・政は長平の合戦後、趙の人質として大変苦労したという話がNHKを見ていてでてきました。 そこで疑問なのですが、なぜ中国の戦国時代は大勝したほうが自分の人質を引き上げて一方的に人質をとったりしなかったのでしょうか?

みんなの回答

回答No.2

私も詳しくないですが、No.1さんの回答のように、そういう社会システムだったと思ったほうが良いのかもしれません。人質というと現代では一時的な感じですが、当時は相手国でずっと住んで結婚して子供ももうけて(って生まれたのが政ですし)な訳です。政の親父が王になったときも政はまだ趙に居たらしく、後継の太子にされたので趙側があわてて秦に返したとか。なので、太子に選ばれていなければそのまま趙で暮らすところだったのでしょう。 しかし人物関係が結構ややこしいですね。個人的なまとめも兼ねて。 政(始皇帝)のひいおじいちゃんの昭襄王、彼が大活躍。長平の戦いも彼がやったものですね。この戦いの翌年に政が生まれています。 ひいおじいちゃんの昭襄王は、その10年後くらいに亡くなりますが、このときの太子(跡継ぎ)は、政のじいちゃんの安国君ではなく、別の兄弟。がその太子が死んだので安国君が秦の王に。(たぶん呂不韋(趙の富豪)が暗殺w いえテキトーですが) じいちゃんの安国君は女たらしで、子供も20人以上。政の父を産んだ母(つまり政のばあちゃん)は、安国君から気にいられてなかった(ので政の父は趙の人質として出されてます)。この安国君、王になって3日で死亡。(またもや呂不韋が暗殺w いえテキトーですが) ここで呂不韋(趙の富豪)の大活躍を。彼は政の父(荘襄王)が、趙の人質としてみすぼらしい時に彼を見つけ、金をつぎ込み立派な人物に見せかけます。更に息の掛かった女をあてがい子供(政)まで作らせます。女たらしの安国君には、べたぼれの夫人がいましたが、彼女には子がなく、自分の死後に彼女の立場が無くなることを心配していました。呂不韋は婦人に取り入り、立派に見せかけた荘襄王を、こんな立派な人物が後取りに居れば自分の地位も安泰ですよと婦人の洗脳に成功し、安国君は夫人かわいさに養子を了承。こうして安国君の20人以上の中から、荘襄王が後継に選ばれることとに。 問題は安国君が(政のひいおじいちゃんの)昭襄王の太子ではなかったこと。そこで昭襄王が死ぬと、その太子をズブリ、安国君が変わりに太子に。その安国君も王になって3日でズブリ。子の荘襄王(政の父)が、晴れて秦の王様に。 子供のころから抱き込んだ荘襄王が秦の王になり、呂不韋も秦国のナンバー2にまで上り詰め、更に秦の王が政(始皇帝)になっても、その権力を存分に揮いましたとさ。めでたしめでたし。(フィクションですw) ちなみに、政(始皇帝)は呂不韋の子供という話があります。政の母親は呂不韋があてがった女性で、政の父(荘襄王)と結婚する前に呂不韋と関係を持っていたこと(このころに子供を身ごもったと呂不韋に告げている)。また荘襄王が亡くなった後まで呂不韋と関係が続いていたこと(そのため呂不韋は別の男をあてがって、彼女はその男と2人の子供をもうけている)。などから、政は呂不韋の子供ではないか、と当時から言われていたようです。真相は闇の中。 でも自分の子供(政)を王にするために暗躍したと考えることも・・

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#223065
noname#223065
回答No.1

 もちろん、仰るように長平の戦いに大勝した勢いを利用して、秦は趙に人質となっていた子楚(政の父親、政は長平の戦いの翌年の誕生)の返還を求めることは可能であったと思われます。おそらく、求めれば返されたのではないかと思います。  しかし、秦はそうしませんでした。それは、子楚が秦王の正室の子ではなく、継承順位としては20番目くらいに位置する人で、強いて求める必要が秦にはなかったからです。もし人質問題が秦と趙だけの間の問題であれば、秦の大勝による二国間の関係変化を超に思い知らせるためにも、人質の子楚を求めてもよかったでしょう。  しかし、趙以外の戦国七雄といわれた強国は健在で、弱った趙だけを考えて行動することは秦にはできなかったのです。長平の戦いは秦としても国力を傾けるほどの大戦で、一時的にせよ戦争継続が困難になっていました。秦の将軍 白起が降伏した趙の将兵40万を殺したのも(実際には1~2桁少ない数だったらしい)、捕虜にしておくだけの兵力、兵糧、軍資金がなかったからのようです。  戦勝に慢心して油断すると、趙以外の強国が秦に逆襲しかねません(実際、長平の戦いで危機感を覚えた各国が同盟して秦に大規模反抗作戦を行っている)。しかも、人質の子楚は秦として大して重要な人物でもない。大敗した趙の弱体化で良しとし、国境問題を秦の主張通りにするくらいで辛抱しておく必要があったのです。  例の番組は、政の苦難の人生を際立たせるため、長平の戦いと政の生年をあやふやにするなどがあり、実際の事情とはちょっと異なる印象を与えるものであったような気がします。母親が趙の人だったこと(呂不韋が子楚に引き合わせた)なども、きちんと紹介されていなかったような。ただし、政が趙で冷遇されていたことは間違いありませんので、許せる範囲かな、とは思います。 P.S.  重要な人物が人質となっていた場合には、全く異なる経緯になったりします。燕の太子(王位継承権第1位)だった丹は、子どものころから趙の人質となっていました。後の秦王 政もまだ子どもで秦に人質の子としていたころで、丹と政は趙で仲良くしていたこともあったようです。  丹は特に交換条件もなく、燕に返されています。これには、趙と秦の関係悪化により、趙が燕の歓心を買う狙いもあったかもしれません。しかし、この丹が荊軻を秦王を狙う刺客として秦に送り、しかし失敗して秦を激怒させ、燕の滅亡を早めてしまいました。  人質を取るにも敗北した国が従属を約束するため以外に、同盟関係を結ぶ証しだったり、留学や外遊に近いものだったり、いろいろですので、返還される・されない、返還する場合にどう返されるかは、そのときの(古代中国内の)国際関係によります。  ですので、「大勝したほうが自分の人質を引き上げて一方的に人質をとったり」することもあったかと思います。戦国の前の春秋時代ですが、呉と越の抗争でいったん大敗した越が滅亡だけは免れようと、王自ら呉の人質になったこともあります(それが臥薪嘗胆の故事になっていく)。

jkpawapuro
質問者

お礼

ふーむ他の強国の手前えすか。 ご回答ありがとうございました。

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