NO1です。追記させていただきます。
まず、城についてですが、戦争になった時に、戦闘員以外に城主の支配下にあった地域の住民も籠城・避難したということです。これは城主の強制ではなく、住民が略奪などを恐れて籠城に参加したもので、城主にしてみれば住民が増えれば食料・飲料水などの面で不利ですが、住民の安全を守れない領主は領主と認められないという、現代にも共通する考え方があったようです。
次は、「禁制(きんぜい)」「制札」です。この「禁制」「制札」を得た場所、建物は略奪はしないとされていました。「禁制」「制札」は簡単に獲得できるものではなく、占領している(もしくは占領する可能性がある)武将等に交渉し、金品を払らい獲得するものです。内容的には、乱暴狼藉の禁止、放火略奪の禁止、人取りの禁止が主ですが、もしこの禁制を守らない雑兵等がいた場合、自力救済(雑兵等を捕らえる、殺害する)を許すことを明記しているものもあります。
これに関連するのですが、当時の農村は惣と呼ばれる自治的な地域共同組織に近畿地方を中心に移行していました。この惣の中には農民だけではなく、有力農民でもあった地侍も存在し、村民代表による議会と言ってもよい寄合と言う協議機関を持ち、警察・裁判権である自検断(地下検断)権を持ち、年貢の納入・荘園の管理も村の名主・百姓が請け負う地下請(惣が請け負う意味で、惣請ともいう)をするなど、自治・独立性が強いものでした。また、地侍層が存在しているように、戦力を持ち、単独、あるいは幾つかの惣が連合して大名勢力と対峙することも多く、土一揆の多くはこのような惣を基盤とするものでもあったのです。(同じように町についても町(ちょう)と呼ばれる組織が存在します)
このような惣または町が国境にあった場合には、「半手」「半所務」「半納」と呼ばれる年貢を双方の大名に半分ずつ収め、中立を維持し、地域の安全を確保するといった禁制を拡大したような制度もありました。このような地域には攻め込まない、乱暴狼藉の禁止などのような禁制と同じようなルールがあったようです。
以上のように地域住民を中心に書きましたが、住民側も安全や平和な暮らしを守るために動いていますが、大名・領主勢力も地域の安全・平和を守れないようであれば地域の支持を失い、地位もなくすわけで、それなりの自制は求められています。
本題からずれている面もありますが、参考に。
お礼
重ね重ねのご回答をいただき、ありがとうございます。 戦国時代とは言え、いろいろなルールが存在するとともに、その中で生き抜くために新しいものを作っていこうとする動きを感じました。それが戦国時代の魅力なのかもしれません。 折角ご回答いただいたのに、事情により拝見するのが遅くなりまして申し訳ありませんでした。