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なぜ朝鮮は中華の中に入れなかったのか?

中国の春秋や戦国時代初期以前は、華北周辺を中華を考えていたと思います。 その後の楚や秦の地も蛮地と考えられていたはずです。 戦国時代を経るに楚や秦も中華に含める様になり、現在までも中華の中にあります。 しかしながら、華北に近く漢の時代には楽浪郡すら置かれながら、朝鮮は中華の中には含まれる事がありません。 清の時代にはチベットやウイグルすら藩部になりましたが、朝鮮は属国であり中華に入ることが出来ません。 中国の歴代皇帝が朝鮮を中華に含めなかったのには何か理由があるのでしょうか?

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  • tanuki4u
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回答No.3

中国における、中原 周以前の段階で、中原とは現在の洛陽地域(河南省北部)+αでした。 この中原意識が拡大されたのが、中華領域と言えます。 南部、つまり楚や秦の地方には農業地域として延長できるのですが、現在の東北部南部、つまり遼寧省や河北省は中国的な農業生産地として限界にあります。北京に元が首都を置いたのは、そこがモンゴル的な遊牧世界と中華的な農業世界の境目であることと、大運河によって、南部からの農業生産物を持ってこれる北限であったためです。 つまり、楚や秦の地区へは、農業生産のパターンとして拡大できたが、朝鮮半島へは、地続きで延長することができなかった。 このために、朝鮮半島部分は、独立した文化圏になった。 では、清の時代になぜ中国本土にならなかったのか? それは、清として直接統治する必然性がなかったからです。 清は中華帝国ではなく、女真族の王であり、女真族はモンゴルの統治原理に生きていました。女真族として独立するには、モンゴルの統治権を握る必要があった。そのモンゴルの歴史認識としては、現在のモンゴル国の地理的範囲ではなく、ウィグルも遊牧世界としてモンゴルの一部であり、チベットはモンゴル原理での宗教の中心として位置づけられていました。 よって、女真族が独立国家になるためには、現在のモンゴルを支配する必要があった、モンゴルの一部としてチベットやウィグルも認識されいたので、チベットやウィグルも支配下にした。 女真族は金として独立した後、大清として皇帝を名乗りました。皇帝は世界に一人なので、明と競合関係になったので、決着を付ける必要があった。なので明を滅ぼして中国本土まで支配下に入れた。 以上の清という国家体制を考えたときに、朝鮮半島を直接支配下に入れる国家原理としての必然性はありません。 歴代中国国家というと、それぞれ理由がありますが、大きくは、北京のあたりが中国式農業文化の限界値であったことが大きい。 現在の中国東北部まで直接統治するのは、対遊牧世界の抑止としてなどがあります。

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  • korczak
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回答No.6

・地理的に鴨緑江や長白山脈などの諸山脈があり、海に囲まれていて、直接支配するには難しかった。楽浪郡による支配の失敗は教訓となったでしょうし、隋は高句麗に破れたことが切っ掛けになって滅亡し、大唐帝国でさえ半島を直接支配しませんでした。 ・古来から中国文明を受け入れ朝貢関係を維持し続けていたので、冊封体制内にいる限りは中国諸王朝も面子を保つことができました。 ・朝鮮半島を直接支配すると倭国(日本)と近くなりすぎます。百済との関係、白村江の戦い、元寇を退けた事実、壬辰・丁酉の倭乱を見れば、それがどれだけ危険なことか分かります。朝鮮半島は日本との緩衝地帯にしておくほうが合理的です。

  • tiuhti
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回答No.5

Gooの国語辞書によれば、「中華」は、『(1)中国、漢民族が、自己の文化・国土を理想的なものとして自国をいった美称。それに対し、周辺諸民族を東夷(とうい)・西戎(せいじゆう)・南蛮・北狄(ほくてき)などと蔑称した。中夏。』と定義されています。「漢民族の、自国の美称」ですから、それに朝鮮が含まれない、といった場合、「漢民族ではない」、「同じ国ではない」という二重の意味を含みます。 この二つは密接に関連しますが、一応は別の問題です。 まず、「漢民族ではない」、言い換えれば漢民族と同化しなかった、という事ですが、既に他の方からも、ご指摘があった通り、「地理的に、遼東半島近辺など、漢民族の支配が安定していなかった地域をはさんで地続きであった事」というのが大きいでしょう。また、それに加え、農業を基本とする民族だったので、人口密度が高く、多少の漢民族の移動では、かえって漢民族の方が同化された、という事もできるでしょう。例えば、歴史上その存在が確認できる最初の王朝である、所謂「衛氏朝鮮」は、燕からの亡命中国人である満が作った事になっており、それ以外にも歴史上、漢民族の移住があったと考える方が自然なのですが、とにかく事実としては、漢民族の方が吸収されました。 次に、同じく国でない、という事ですが、中国の直接的な領土にする試みは、漢の時と唐の時にされました。漢の時は、結局は、魏をはさんで晋自体が北方民族の侵入で南に押し込められ、唐の時は、新羅による半島統一で追い出されます。晋の例は、上に述べたような地理的位置から理解が容易ですが、唐の時代の失敗は、新羅や旧高句麗などの抵抗が強かったから、という説明しか無理でしょう。 尚、戦国時代の秦や楚が、蛮族から漢民族の一部になっていったのは、なんといっても、言語の共通性が大きいです。勿論、完全に同じ言葉を使っていた訳ではないですが、一応は、漢字で表現できる言葉ではありました。ですから、秦や楚と、全く系統の異なる言語を使っていた朝鮮半島を同列に論じる事はできません。秦・楚の場合は、中原文化そのものが広がって同質化が進んだという事と、中原の民族の地理的な認識の範囲が広がって、秦・楚の向こう側との比較において、秦・楚と中原との共通性がよりはっきりした、という二点から考えるべきです。 また、清代のチベット等ですが、漢末・魏晋南北朝ぐらいから、北方・西方民族が中原の争いに関与する度合いが高まっていましたが、朝鮮半島では高句麗が西方への勢力拡大の動きを見せた以外は、中国への進出の動きはありませんでした。ですから、清以前から、中国の王朝にとっての重要性という意味では、チベットやウイグルと、朝鮮では比較になりません。これも比較の対象としてはあまり適当ではないでしょう。というか、個別に歴史的な関係を見ていくしかないと思います。 尚、中華という言葉には、漢民族というニュアンスも含まれているので、現代のチベットやウイグルにおいては、中華人民共和国という単位での帰属意識を育てようという力が働いているのは事実としても、少数民族として扱われ、かつチベット人&ウイグル人もそのように認識しているので、中華人民共和国の一部だからといって、「中華」にはいったとは言えないでしょう。(清の時代も言うまでもありません。)

  • fujic-1990
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回答No.4

 なぜ、楚や秦が中華になったのか、なれたのか、考えれば分かると思います。  一言で言えば、相互にちょっかいをかけあったためです。こん日的に言えば、組合の外に置いて好き勝手をさせるよりは、組合の中に入れて縛りをかけたほうがよい、と判断された場合、中華の中に入れられたのだと思っています。  好き勝手しないなら、組合外に置いてかまいません。 つまり、朝鮮の場合、 (1) 遠地で、無理矢理中華に含める必要を感じなかった。   冊封してやれば、よろこんで中国の指示に従った。よって現状を変えるべき問題がない。 (2) 朝鮮族が併合に抵抗した。   時々朝鮮あたりに派兵して失敗している。けっこう強い。   が、単独で中国への侵入を考えるほど強くはないし、そうしようとした実績もない。プライドが高く協調性が欠けていて、他の蛮族と結託して事を起こす危険性がない。要約すれば、潰さないと中国の政権を揺るがしかねない、と心配する必要がない。 (3) 「蛮族が、中華帝国の徳を慕って朝貢する」というパターンが、中華帝国の優越感を刺激した。  なんてことじゃないでしょうか。

  • demio
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回答No.2

私個人の考えですが、今の北朝鮮の外交戦術をみると 軍事も経済も何もないのに大国に負けないでやりあう根性は 昔から中国にたいして、どんな手段を使ってでも飲み込まれないようにする手段としてつかっていて身につけたワザではないでしょうか  日本のように外国が襲ってきたのは元寇ぐらいで占領もされない、される危険もあまり感じないできたため平和ボケで、戦後もアメリカに占領されたからたまたまあまり悲惨な目にあってないので、お人よし外交でナメラてばかりとはちがう歴史でしょう

  • mouryou
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回答No.1

 朝鮮半島にいた人達はある時期は中国の属国のようでしたが、勢力の強いときは独立を保てていました。隋に遠征を受けていますが隋の侵攻を阻んでいます。彼らも独立できればそれに越したことはないと考えていたようですが、あまりにも周辺国の力が強いときには従って、実質独立を保つという外交政策で乗り切っていたようです。  それでも中華思想の影響は大いに受けていたので、塞外の蛮族が清を打ち立てたとには正統的な中華は失われたので我々が継いだのだという賞中華主義を生み出しました。  もともとアジア大陸は大きく現在の中華人民共和国の版図は欧州が一つの國になったよりも大規模な國ですから、それ以上は征服をするより長拳などで名を取って友好していた方が安上がりと考えていたのでしょうね。

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