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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《教会》は要らない。心の内なる教会としてのみ。)

《教会》は要らない。心の内なる教会としてのみ。

このQ&Aのポイント
  • 《主の家(キュリアコン > キルへ;チャーチ)》は 言わば――《主》が普遍神であるなら――全世界を言っている。そしてことさらそう言う(唱える)こともない。
  • なぜなら 主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たちもいるのだから。
  • 言わば《無い神》をいだき この経験世界については 神という言葉をとおして認識したくないと言う。これを認めずばなるまいゆえ。

質問者が選んだベストアンサー

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  • sunabo
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回答No.41

こんにちは。私の一つ前の回答no.40について、お礼コメントにて、下から5行目に、単純に考えてもらってだいじょうぶだと思います。とあります。 ということは、質問者様は、私は難しく考えている。と思ってらっしゃいます。 誤解を解きたいです。私は意図して難しく考えているのでありません。精確に考えたいと思っていますし精確に考えたいという思いは変えられません。単純に考えられるかどうかは、質問次第なので、どうにもできません。 質問本文について、文脈、筋の通らない点を回答no.32にてひとつ。回答no.40にてひとつの合計2点指摘いたしました。通らないという点があることはわかっていただけたと思います。 1点づつならば、読者で個別訂正可能ですが、2点ありますと、全体の文脈、筋を保ちながら、2点同時に訂正しなければなりません。全体の文脈、筋を保ちながら、2点同時に訂正できるのは、質問者様だけです。 新しく読む人はみんな、《教会》は要らない。という件名の主張から、本文、39件の回答とお礼コメントを辿って、最後に問題は オシへにかかわる人びとの集まりにあります。それが 要らないと言っています。にたどり着くことになります。 39件の回答とお礼コメントを経たあとの質問者様の考え示してみてはいかがでしょうか? みんなで考えやすくなると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。  つまり 初めに《教会》というふうに 二重カッコ(ギュイメ)でくくりました。  これは オシへを信じなさいという問題にかかわっている従来の教会のことです。  そしてそのように宗教にかかわるかぎりで 教会という教会は 要らない。という意味でも言っています。  ややこしかったのは わたしが従来の教会には なつかしさを感じる人びとがいるのではないかと ふと思ったことにあります。  もしその郷愁の感じについて代わるものが必要だとするのならば ひとつに生活共同のコミュニティーセンターなどを代替施設としてくださいと言ったこと。  そしてさらにその郷愁感の部分では 心の奥の心としての庭が 人びとの集まりにとってのみなもとになるはずだとも言ったこと。  こういう入り組んだ言い方をしたことにややこしさがあったと思います。    宗教関係の教会はすべて 要らない。ということ。  そして 人びとのふつうの集まりとしてなら 代替施設は あたらしく用意すればよい。  これが 骨子でした。どうでしょう。  ★★(回答No.32) ~~~~~~~  〔* 宗教関係の〕《教会》をとおして互いに通い合うのは おかしい。(普遍神をいだくことにはならない)。  おのおのわが心の深くそなわった庭(それ)をとおして互いに通い合うのでなければ おかしい。  と続けて書きたかったのではないでしょうか?  だとすると、質問者様の主張の筋がとおって、私は気持ちがいいです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おっしゃるとおりです。わかっていただけると思って 別様に説明を重ねました。  (あ) 宗教関係の教会は だめ。  (い) そのほかの普通の集まりなら OK。  こういった内容です。宗教関係のそれには 《教会》としてカッコをつけたほうがよいですかね。  ★★(回答No.40) 《教会》と教会は要らない。という主張はもうすでに、質問本文で7段落に分けて書かれています。しかしながら、上から順に同意していけば、最終的に、《教会》と教会は要らなくなるように、書き直すことはできませんか?  ☆ たしかに オシへは要らないのですから 名前をつけるにも《教》の字は要らないですね。  もし  ★ 《教会》と教会は要らなくなる  ☆ という言い方をしたときには どちらも《オシへをあたかも神のごとく戴きこれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説く宗教の信徒たちの集まり》であり 前者の《教会》は キリスト教関係の従来のそれです。後者の 教会 は それ以外にも宗教関係の信徒の集まりについて――いくら新しいものであっても 宗教関係であるならば――これも ダメと言っているかたちです。  こういうふうに整理してみました。  ★ 39件の回答とお礼コメントを経たあとの質問者様の考え示してみてはいかがでしょうか? / みんなで考えやすくなると思います。  ☆ これは そうですね。つまり この質問にかんしましては ここまでなんです。教会についてだけ 問題にしました。  広く宗教あるいは聖書についてなら なおまだいくつか問題点はあると思っています。  そしてその内いくらかの主題については かがくすきさんとのやり取りの中で触れているかと思います。  ただ ひとつのスレッドにはひとつの主題というふうにしようかと思いますので 取りあえず拡散しないかたちにしたいと思うのですが いかがでしょう。  (う) とにかく 誰もが・いつでも(ほとんど24時間)気軽に自由に入って行けて 集まって話ができたり 自由に時間を過ごしたりすることが出来る家が 町内にひとつくらいあるといいんではないでしょうか?  ご回答をありがとうございます。

その他の回答 (39)

  • sunabo
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回答No.32

質問の本文10行目に 6. 《教会》とは おのおのわが心の深くそなわった庭である。 とあります。 しかしながら、 6. 《教会》とは おのおのわが心の深くそなわった庭ではない。 と書きたかったのではないでしょうか? そして、 《教会》をとおして互いに通い合うのは おかしい。(普遍神をいだくことにはならない)。 おのおのわが心の深くそなわった庭(それ)をとおして互いに通い合うのでなければ おかしい。 と続けて書きたかったのではないでしょうか? だとすると、質問者様の主張の筋がとおって、私は気持ちがいいです。 それでも、《教会》と教会の両方が要らないかどうかわからないのは変わりありません。 普遍神をいだくことは正しい。 《教会》をとおして普遍神をいだくことはおかしい。 教会をとおして普遍神をいだくことはおかしい。 おのおのわが心の深くそなわった庭や見えざる教会をとおして普遍神をいだくことは正しい。 と考えてらっしゃいませんか? 《教会》から《オシヘをあたかも神のごとく戴いてそれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説くところ》または、他の良くないところを除くと、何が残りますか? 他の良くないところがあるとしたら、それは何ですか? 教会から《オシヘをあたかも神のごとく戴いてそれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説くところ》を除くと、何が残りますか? おのおのわが心の深くそなわった庭や見えざる教会は《オシヘをあたかも神のごとく戴いてそれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説くところ》を含まないのはどうしてですか? 質問者様は おのおのわが心の深くそなわった庭をとおして互いに通い合って、普遍神をいだかなければならない。とは思ってないし、書いてるつもりも無くて、 おのおのわが心の深くそなわった庭をとおして互いに通い合っちゃって、普遍神をいだいちゃってしようがないんだよねー。と思ってませんか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆ 6. 《教会》とは おのおのわが心の深くそなわった庭である。  ☆ わざわざこれを入れたのは いわゆる教会について人びとは なんらかの郷愁のような親しみをおぼえているという一面があるのではないかと思ったからです。  いやいや――それはそうかも知れないが―― そういった心のなごむ場というのは 究極においては建物としての教会ではなく・そうではなく われわれそれぞれの《心の深いところに横たわるその庭》であろう。と言おうとしていました。  またそれは 指摘していただいた趣旨とつながっているものと思います。  宗教としての建物たる教会について よくないところは 二点ですね。  オシへをあたかも神のごとくに頂きこれを信じなさい(つまり 心に受け容れなさい)と説くこと。  そのとき 自分たち聖職者にみづからが権威や権限をあたえるかのごとく階層組織をつくっている。そのヒエラルキアは いただけません。  信仰には階層はあり得ません。  また 心の内なる《人びとのつどう場》――つまり 信仰――とは そういったヒエラルキアやそれにのっとっての《説教》は 関係なくなっている。と見られるからです。  ★ 教会から《オシヘをあたかも神のごとく戴いてそれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説くところ》を除くと、何が残りますか?  ☆ それは ローマ教会やクリスチャンさんたちに聞いてみてくださいな。  ★ おのおのわが心の深くそなわった庭や見えざる教会は《オシヘをあたかも神のごとく戴いてそれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説くところ》を含まないのはどうしてですか?  ☆ ふくみますか? 《自分で自分に説く》から ふくみますか?  自由であるなら ふくまないと思います。  ★ おのおのわが心の深くそなわった庭をとおして互いに通い合っちゃって、普遍神をいだいちゃってしようがないんだよねー。と思ってませんか?  ☆ まぁ 思ってますね。    

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.31

>エレミヤ書の預言では もうひとつに《神はもはや人びとの罪をおぼえない。忘れる》という事柄があります。  それは「もうひとつ」、即ち、別の事柄に関する預言であって、 >彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるから >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 という預言ではないのですから、本件とは関係の無い話に過ぎません。  《神はもはや人びとの罪をおぼえない。忘れる》という預言が成就されたのかどうかは定かではありませんが、どちらであったとしても、 >彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるから >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 という「預言が全て成就された結果生じる状態」にはなっていない以上、《オシヘ》や《教会》が必要であるという事には全く変わりはないのですから、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えがマチガイである事にマチガヒはないではありませんか。  それとも質問者様は「《神はもはや人びとの罪をおぼえない。忘れる》ので、《オシヘ》など気にせず自由に振る舞って悪事を働いても神に罰せられる心配はないから、《オシヘは要らない》」という意味で >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 と仰っておられるのですか?  それなら質問者様の仰る事も「何を言いたいのか理解する」と言う意味では解らなくもありませんが、その様な「救済する気の無い」考えなどそれこそ「要らない」ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  たとえば その昔 そのいくらか後にヤハヱ―と呼ばれるようになった神は アブラハム(その時はまだアブラムと名乗っていた)に対して わたしはあなたの子孫を空の星のごとく増やしてあげようと約束しました。  それは 《いつ・どこで・どのようにか》といった具体的なことは 言っていません。  けれども ヤコブ・イスラエルの血筋だとかユダヤ人だとかと呼ばれる人たちは増えて行きました。  さらには ヤハヱ―をユダヤの外に開いて その開いた神をいだくようにイエスがしたとき やはりさらに いちおう 信仰としてのアブラハムの子孫は増えて行きました。  いやいや まだ《星のごとき数》ではないぢゃないか? とツッコミを入れることも出来ます。  まぁ ふつう全体としてみて 約束は果たされた。お前の子孫を増やしてやるという約束は なお果たされつつある。  と見てよいのではないでしょうか?  そういったかたちでの約束の実現であり つまりあるいは預言の成就だと捉えます。  漠然としていて 着実にすすんでいるといったかたちを見てとればよいのではないでしょうか。  曲りなりにも民主制が 徐々にですが 形成されつつあります。  これは 《主を知れと言っておしえることがなくなる》ことにかかわっているはずです。  《じんるいの罪をおぼえない。忘れる》こととつながっているはずなのです。  それに 神にとっては 千年が一日だとも言われます。    ですから われわれ人間は 互いに自由に――それこそ神についておしえる必要なく――みづからの思想をかたちづくりそれぞれの問題についておのれの見解を発表しあって行けばよいのです。  聖書の解釈であっても 互いに自由に発表しあえばよい。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるから   >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。  という「預言が全て成就された結果生じる状態」にはなっていない以上、《オシヘ》や《教会》が必要であるという事には全く変わりはないのですから、  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このような発想とはどういうことを意味するか? を考えてみましょう。  預言の内容が すべて自分の思うように・自分の思い描く姿のごとくに 実現しなければ気が済まないという心ですね。  それぢゃあ 何のために預言があったのか 分からなくなるのではありませんか?    これこれの言葉・これこれの命題があるから 早くそのように成れ! と言い続ける。  これぢゃあ いったい何のために人間という存在として生きているのか?    あなたは 神の奴隷か? もしくは 神に指図する存在なのか?    神の預言は 方向を指し示しているのです。  あとは 人間がそれを成就するのです。  イエス・キリストは 旧約の預言を成就して そのように人間が神のもとでその方向をあゆみ道を築いて行けるためのミナモトとなるチカラをあたえてくれたのです。  ひと言で言えば 主役は人間なのです。まちがってもよいから 自分たちで互いに話し合って道をすすんで行きなさいというのが おそらく神でしょう。  そういう歴史の見方をすら持てなかったのが イエス登場までの世界であったとも見られると考えます。  人びとは いろんな意味で《神がかり》していた。これを イエスは解いた。  眼に見えざる普遍神を指し示した。  わたしが去って行ったら 聖霊を送るからと言っていた。  そういう時代に イエスのあとの世界は入ったと考えられます。  すなわち 《オシヘで神をおしえることはなくなる》。その裏づけとしてのように《神は もう人びとの罪をおぼえない》。リセットしてやり直しなさいと。  徐々にあたらしい契約によるあたらしい世界が繰り広げられて来つつあるのではありませんか?

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.30

>まだ早いですよ。  往生際が悪いですよ。 >ただちに最初から 預言されたものごとが実現するというものでもない と仰っておられるという事は「預言が全て成就されている訳ではない」と認めている事になりますね?  こちらは前回の回答において、「預言が全て成就されている訳ではない」以上、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という状態、即ち >彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるから >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 という「預言が全て成就された結果生じる状態」にはなっていないという事を既に申し上げているというのに、何故、 >ただちに最初から 預言されたものごとが実現するというものでもない などと言う話を持ち出しておられるのですか?  その話は質問者様の考えがマチガヒである事を証明する事柄なのですから、何の反論にもなっていないではありませんか。 >「皆、わたし(主)を知るように」はなっておらず、「その隣とその兄弟に >>主を知れと言っておしえる >人」が未だに居る という預言が成就し切ってなどいない状態なのですから、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という状態などには当然なっている筈がありませんので、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という質問者様の考えがマチガヒである事はマチガヒない事ではありませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 エレミヤ書の預言では もうひとつに《神はもはや人びとの罪をおぼえない。忘れる》という事柄があります。    これも イエス・キリストによる十字架上の死と再生によって成就されました。理論じょうとも言っています。  つまり いわゆる原罪はあがなわれたのであるにもかかわらず まだそのことを言っている(人間には原罪があると言っている)場合があります。  それと同じです。  主を知れと言っておしえることはなくなる。この預言も イエスによる贖罪の預言とその成就に同じです。  すでにそういう趣旨のことは 何度もお伝えしています。きちんと読んでいただきたいと思います。  その上で――つまりいまの《預言とその成就のあり方》にかんする歴史過程としての言わば時間差ですね これを踏まえた上で―― 反論・批判をしてください。そういう手続きを踏んで マチガヒだよと述べるようにしてくだささい。  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
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回答No.29

>《主を知れと言っておしえることはなくなる》と書かれています。 >ぢゃあ 教会でも――教会は存続したとしても―― もう主を知ることに関するかぎりでのオシへについては いっさい触れないということになりますね?  それが貴方の根拠だったのですか。  ぢゃあ「皆、わたし(主)を知るように」はなっておらず、「その隣とその兄弟に >主を知れと言っておしえる 人」が未だに居る以上、その預言はまだ成就されてなどいない事は自明の理ではありませんか。  つまり、 >人びとそれぞれの《わが心がやわらがしめられた》と言える段階に いつ達するか? という事に関して >しかし そのための条件はすべてととのえられています。 としている質問者様の考えはマチガヒであり、そのマチガヒを根拠にして導き出された >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という質問者様の考えもマチガヒだったという事は明らかですね。  これで本件の問題は全て解決しました。何もかも質問者様の勘違いだったという事です。

bragelonne
質問者

お礼

 まだ早いですよ。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。:  ▲ (ルカによる福音4:17-21) ~~~~~~~~~~    すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 旧約聖書における預言が このように成就するということを物語っています。  (あ) つまりはまづ初めに 理論じょう成就したということです。  《貧しい人に福音を伝え》ることが ほどなく実現したかとも見られますが 《捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせ》ることは 実質的にはまだ成っていないかも知れないからです。  (い) またそのことは まづ福音を知らせ・実際の起こること(解放など)をも告げ知らせるということから その成就が始まることを示しています。ただちに最初から 預言されたものごとが実現するというものでもないわけです。  (う) エレミヤの預言も このイザヤ書の預言と同じように受け取ることができる。のではありませんか?  少なくとも 《マチガヒである》とは言えないでしょうね。  言えるというのでしたら その理由・根拠を示してくれますか?  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.28

>異邦人というのは 律法を知らない異教徒です。 >異端というのは――宗教をわたしは信じるなどということはなく・みとめてもいませんが でもその――キリスト教の中の一派であると言っています。  つまり質問者様は、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 と述べる事で、 >律法を知らない 人間である事を示した上で、更に >どちらが (即ち、「質問者様」と「キリスト教の教会」のどちらが) >マチガヒであるか。これから 歴史に現われてくるでしょう。 と述べる事で、「(質問者である)自分はキリスト教に属する人間ではない」事、即ち、 >異教徒 である事を示しているのだから、「(質問者である)自分は異端などではなく、異邦人(律法を知らない異教徒)である」と仰りたいのですか?  まあ、異端者でも異教徒でもどちらでも構いませんよ。  何故なら、質問者様が問題にしているのはキリスト教の事などではなく、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 などという、キリスト教の教義・律法に反する考えですら成り立つような架空の宗教の事なのですから、質問者様が何を主張した処で、それはキリスト教とは何のかかわりも無い事で、「キリスト教の教えや教会が要らない」事になる訳ではないのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 文章を読むということに慣れていらっしゃらないようですので 異邦人・異教徒は聞かなかったことにしてくださいう。いちいちくわしく説明するのに疲れました。  ただし《異端》は そちらから出た言葉なので そのままにしておきます。  問題は 《教会は要らない》というひとつの・あたらしい命題をめぐって情報ないし意見の交換をするにあたって いまはその根拠についての議論になっているわけです。  つまりは エレミヤ書およびそれを承け継いだへブル書のしるすあたらしい契約が それです。  《主を知れと言っておしえることはなくなる》と書かれています。  ぢゃあ 教会でも――教会は存続したとしても―― もう主を知ることに関するかぎりでのオシへについては いっさい触れないということになりますね? と問うています。  こういう論点をめぐって いま《紛糾》しています。  これまでこの論点に到ったあと そちらからはこのエレミヤ預言についての見解はいっさい出されていません。  受け留めているとも・あるいは ひょっとすると無視するとも 明らかになっていません。  という問題です。この問題点で紛糾し渋滞しています。    ボールは そちらのコートにあります。  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
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回答No.27

>聖書を取り上げ聖書に書かれていることを問題にしているということは みとめるわけですね?  いいえ、質問者様は聖書に書かれていない事を根拠にしてキリスト教とは異なる考えを主張しているのですから、聖書を取り上げているという事は出来ません。  質問者様はキリスト教の神とは異なる神のイメージとそれに付随するオシエを勝手に作り出したうえで、その勝手に作り出した神に関する事を問題にしているいるだけです。

bragelonne
質問者

お礼

 異邦人というのは 律法を知らない異教徒です。  異端というのは――宗教をわたしは信じるなどということはなく・みとめてもいませんが でもその――キリスト教の中の一派であると言っています。  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
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回答No.26

>キリスト教において エレミヤ書で書かれへブル書で引き継がれたあたらしい契約についてはこれがなおざりになっている。  なおざりになっているなどと言う話は、単なる質問者様のマチガヒです。と断言します。  エレミヤ書には >《オシヘは要らない》 などとは一切書かれておりません。  質問者様御自身が認めておられる様に、 >《オシヘは要らない》 というのはキリスト教の考えなどではありません。  そのキリスト教の考えとは異なる考えを質問者様は >《普遍神とわれとの関係》 だと称しているのですから、それは異端であるという事になりますので、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはマチガヒである事はマチガヒない事なのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ それは異端であるという事になります  ☆ ということは 聖書を取り上げ聖書に書かれていることを問題にしているということは みとめるわけですね?  ただし 《異端》であると。  よくぞ言ってくれました。  これで カラミが出来ましたね。あとは この発端がどう成っていくかでしょう。  どちらがマチガヒであるか。これから 歴史に現われてくるでしょう。  と考えます。  ご回答をありがとうございます。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.25

《教会》と教会の両方を要らないと主張されています。 要らないかどうかわかりません。 《教会》と教会を要らなくするとどうなりますか? 《教会》と教会を要らなくしても変化が無い場合は無いですか? 他の何かを要らなくしないと変化しない場合は無いですか? 《教会》と《主の家》と《民会》と《世界たるチャーチ》は同じですか? キュリアコンは何語ですか? キルへは何語ですか? チャーチは英語(church)ですね エクレシアはギリシア語(ἐκκλησία)ですね。 エグリーズは何語ですか? イグレシアは何語ですか? キエーザは何語ですか? 《教会》をとおして互いに通い合うというのは普遍神をいだくことですか? 《教会》をとおさないでおのおのわが心の深くそなわった庭で互いに通い合って普遍神をいだくのが正しいと言っていますか? 《教会》がおのおのわが心の深くそなわった庭だとすると、《教会》が要らない主張と 文脈がつながりません。 おのおのわが心の深くそなわった庭は《主の家》と《民会》と《世界たるチャーチ》と同じですか? 《教会》と教会は異なるようです。 、 教会が要らなくして、一般のコミュニティーセンターと図書館・文化芸術センターを立てると よくなるようです。 一般のコミュニティーセンターと図書館と文化芸術センターは建物があります。 一般のコミュニティーセンターと図書館と文化芸術センターは人が集まります。 図書館には知識があります。 文化芸術センターには文化と芸術があります。 教会から、建物、人の集まり、知識、文化、芸術を除いた部分が良くない部分です。 良くない部分は何かというと、 牧師さん、神父さん、シスターさん、鐘、鐘を鳴らすと、みんなが同じことを始める、雰囲気、教育、食事で、これらは要らないということですか? なんとかして、建物は要らないとはいわない方向にできませんか? サグラダ・ファミリア(カタルーニャ語: Sagrada Família)聖家族贖罪教会をいつか見に行きたいんです。

bragelonne
質問者

お礼

 すなぼさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ なんとかして、建物は要らないとはいわない方向にできませんか?  ☆ 建物は残ることがあるのではないでしょうか。改築してもよいでしょうし。  ★ 牧師さん、神父さん、シスターさん、鐘、鐘を鳴らすと、みんなが同じことを始める、雰囲気、教育、食事で、これらは要らないということですか?  ☆ 基本的に良くない部分というのは 《オシヘをあたかも神のごとく戴いてそれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説くところ》だと思います。  オシへとも捉えられる聖典を ただし そのまま歴史書として思想書としてまなぶ分には 何の問題もないと考えます。  指導者がいてもよいでしょうし。ただし ヒエラルキアのもとに権限を持った聖職者は要らないでしょうね。  鐘は きれいな音であるかも分かりません。  ★ おのおのわが心の深くそなわった庭は《主の家》と《民会》と《世界たるチャーチ》と同じですか?  ☆ 《主の家=世界たるチャーチ》だと思います。ただし 目に見えるかたちにつくることはないと考えます。国連がそれに当たることはないと思います。  《民会》は 小さな集まりから広く大きい集まりまで 共同自治の集会です。芸術や学問あるいはスポーツなどなどもふくめるとよいと思います。国会も このエクレシアのひとつでしょう。  わが心の庭は 《非思考の庭》ですから 《思考の緑野》で考え出されたこれらの経験的な集まりとは 別と言えば別です。ヒラメキの場です。もし言うとすれば 見えざる教会です。その場合の教会は けっきょくコミュニティーセンターのようなものとして役割りを持っていたその精神だと思います。  ★ 《教会》をとおして互いに通い合うというのは普遍神をいだくことですか?  ☆ 普遍神を自覚的にいだくと 見えざる教会・つまり人びとのマジハリの源が出来て来るものと思います。オアシスのような。   キュリアコン: τὸ Κυριακόν 〔 δῶμα〕: the Lord's house                Kyriakon   キルへ(独):die    Kir・・che   チャーチ:      Chur・・ch ★ エクレシアはギリシア語(ἐκκλησία)ですね。   エグリーズ(仏):      é g l i se   イグレシア(西):      i g l e sia   キエーザ(伊):       ch ie sa         

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.24

>☆ つまり あなたはわたしの《オシヘ》を信じてくれたのですか?  いいえ全く違います。質問者様の様に「質問者様の考えが正しいと信じている」人間の事を指しています。 >★ 即ち、「『《オシヘは要らない》というオシヘ』を神に代えて信じる」という事に他なりません。 >☆ それは 勘違いでなければあり得ません。 >わたしの考えを述べて みなさん どうでしょう? と訊いているのみです。  つまり、質問者様の仰る >《オシヘは要らない》 という話はキリスト教などの宗教で語られている考えではない事を御認めになるのですね?  それならば、キリスト教などの宗教においては >《オシヘは要らない》 とは考えられていないという事なのですから、 >《オシヘは要らない》 という事を根拠にして導き出された >《教会》は要らない という考えはキリスト教などの宗教の話などではなく、質問者様が個人的な趣味として勝手にその様な考えを持っているというだけの事になりますから、質問者様以外の人間には無関係な話に過ぎず、 >《教会》は要らない という話は質問者様個人の妄想の類という事になり、一般的な話としては成り立たないという事になります。

bragelonne
質問者

お礼

 キリスト教において エレミヤ書で書かれへブル書で引き継がれたあたらしい契約についてはこれがなおざりになっている。と言っているわけです。  そういう議論は ふつうのことです。  ただ あちらがそのことを取り上げないでいるということです。  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.23

>《宗教としてあたかも神に代えて信じるというかのようなオシへ》は要らないと言っています。  同じ事です。  質問者様の >《オシヘは要らない》 という主張は神そのものですか? 違いますよね。 >《オシヘは要らない》 というのは神などではなく、単なる質問者様個人の考えに過ぎません。  その考えを信じるという事は、即ち、「『《オシヘは要らない》というオシヘ』を神に代えて信じる」という事に他なりません。  従って、 >《宗教としてあたかも神に代えて信じるというかのようなオシへ》は要らない という事であれば、「『《オシヘは要らない》というオシヘ』は要らない」のです。  そしてその「要らないオシへ」を根拠にして導き出された >《教会》は要らない という《オシヘ》もまた要らないのです。  だから質問者様の様な >《オシヘは要らない》 という考えを持っている方は、その考えを捨て去らない限りは >その考えを他人に対して主張してはいけない >「宗教」に関するあらゆる事柄に関しても、他人に対して主張したり、質問を含む情報交換をしてはいけない のです。  それは「《オシヘは要らない》というオシヘ」が必要であると示す事になり、 >《オシヘは要らない》 という事を否定する行為なのですから、正に「『要らない事』をしている」事になるからです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~   >《オシヘは要らない》  というのは神などではなく、単なる質問者様個人の考えに過ぎません。  ~~~~~~~~~~~  ☆ そのとおりです。わざわざそんな気遣いは無用だと決まっているとおりです。  ★ その考えを信じるという事は、  ☆ つまり あなたはわたしの《オシヘ》を信じてくれたのですか? それは しかしながら ちっともありがたいことでもありません。論外です。  ★ 即ち、「『《オシヘは要らない》というオシヘ』を神に代えて信じる」という事に他なりません。  ☆ それは 勘違いでなければあり得ません。  わたしの考えを述べて みなさん どうでしょう? と訊いているのみです。  ★ それは「《オシヘは要らない》というオシヘ」が必要であると示す事になり、  ☆ それは 勘違いです。  神にかかわらない経験思想としての・わたしの――もしそうだとすれば――《オシヘ》は 自由にご自分の考えを述べて対話すればよいだけのことです。  《大事なことを伝えている》のが オシへに当たるとすれば そう呼ばれるのかも分かりません。ただし それだけのことです。伝えられたみなさんが 自由に取り扱えばよいわけです。  あなたは そのわたしの《オシヘ》があまりにも妥当であって的を射ているので 避けてとおることが出来ないといったような感想をお持ちになるのかも分かりません。でも それだけのことです。取り扱いは まったく自由です。  自由でないというほうがおかしい。あり得ません。ほかの質疑応答とまったく同じ自由なやり取りです。  それとも いちど聞くと もうどうしても頭から離れないほど すばらしい思想だということでしょうか?  どうぞ 時間をかけて消化してください。  

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