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《教会》は要らない。心の内なる教会としてのみ。
- 《主の家(キュリアコン > キルへ;チャーチ)》は 言わば――《主》が普遍神であるなら――全世界を言っている。そしてことさらそう言う(唱える)こともない。
- なぜなら 主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たちもいるのだから。
- 言わば《無い神》をいだき この経験世界については 神という言葉をとおして認識したくないと言う。これを認めずばなるまいゆえ。
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こんにちは。私の一つ前の回答no.40について、お礼コメントにて、下から5行目に、単純に考えてもらってだいじょうぶだと思います。とあります。 ということは、質問者様は、私は難しく考えている。と思ってらっしゃいます。 誤解を解きたいです。私は意図して難しく考えているのでありません。精確に考えたいと思っていますし精確に考えたいという思いは変えられません。単純に考えられるかどうかは、質問次第なので、どうにもできません。 質問本文について、文脈、筋の通らない点を回答no.32にてひとつ。回答no.40にてひとつの合計2点指摘いたしました。通らないという点があることはわかっていただけたと思います。 1点づつならば、読者で個別訂正可能ですが、2点ありますと、全体の文脈、筋を保ちながら、2点同時に訂正しなければなりません。全体の文脈、筋を保ちながら、2点同時に訂正できるのは、質問者様だけです。 新しく読む人はみんな、《教会》は要らない。という件名の主張から、本文、39件の回答とお礼コメントを辿って、最後に問題は オシへにかかわる人びとの集まりにあります。それが 要らないと言っています。にたどり着くことになります。 39件の回答とお礼コメントを経たあとの質問者様の考え示してみてはいかがでしょうか? みんなで考えやすくなると思います。
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- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
>なんで 普通名詞の《かみ》が オシへのひとつなんですか。 では質問者様は《かみ》という言葉には「神という者はどの様な存在なのか」という概念が付随していないとでも思っておられるのですか? 信仰の対象とされているものに関する知識は、信仰に関する知識なのですから、それは須らく「教え」なのです。 >オシへにもとづく宗教としては そう扱う。というだけの話です。エレミヤ自身は やはりおのれと神との関係としての心の庭だけの問題です。そのヒラメキの内容を むろんはらからの人たちに伝えたわけですが。 それでは、質問者様は何故、エレミヤ書の預言などを根拠になどしておられるのです。 質問者様は御自身の考えをヒラメキによって得たものであるとして、《オシヘ》に拠らないものだとしていますが、もしそれが本当ならばそれは預言とどう違うというのです? 預言を受け取る事が出来たというのであれば、エレミヤ書など根拠にせずに、自らが神から直接受け取った預言を根拠にすべきではありませんか。 そうでなければ、神が質問者様に預言を授けた行為を蔑にしている事になります。 それにもかかわらず、エレミヤ書の預言を根拠としているという事は、質問者様もまた《オシヘ》によって預言を知ったという事に他ならないのですから、質問者様の考えはヒラメキだけでは成り立たつ事など無く、どうしても《オシヘ》が必要だったという事です。 >そのヒラメキの内容を むろんはらからの人たちに伝えたわけですが。 その行為こそが、 >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 という状態とはかけ離れているので、エレミア書の預言が成就している事を前提としている質問者様の考えを否定していると言っているのですよ。 >☆ ウソこけ! どこにもない。それに 《マチガヒだ》と言っている。《「未だ成就していない状態」にある》ということをみとめた形跡は ない。 エレミヤ書の内容を理解していない事と言い、質問者様は読解力が相当不足しておられる様ですね。 ちゃんと >「皆、わたし(主)を知るように」はなっておらず、「その隣とその兄弟に >>主を知れと言っておしえる >人」が未だに居る以上、その預言はまだ成就されてなどいない事は自明の理ではありませんか。 と申し上げておりますよ。 それを《マチガヒだ》などと何処で言っているというのです? >☆ ウソこけ! とはこちらの台詞です。 いくら現実を見つめる事が嫌だからと言ってウソはいけませんよ。 >《預言が成就する》ということにかんして 百パーセント文字どおりに現実が実現するという解釈に立つかぎり 話は物別れです。 おやおや、預言が百パーセント実現していなければ成り立たない >《オシヘは要らない》 という状態が"実現している事"を前提とした考えをしていながら、そんな事を言い出すのですか? それならば、質問者様の考えは最初から矛盾していて成り立たない考えだったという事ですね。 >ぜんぶマチガヒだというのなら エレミヤ預言をどう処理したのか。 何を訳の解らない事をw 私がいつどこでエレミヤ預言が >ぜんぶマチガヒだ などと言ったというのです? 質問者様の考えが間違いだと言っているだけですよ。 エレミヤ書の預言の処理? 何故、預言を処理などしなければならないのですか? 預言がまだ成就していない以上、処理するしないにかかわらず、何の問題も発生しないではありませんか。 質問者様の方こそ、質問者様御自身がここでこの様に神に関する事を語っている事が、 >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 というエレミヤ書の預言が成就した状態とはかけ離れた事である事を、どう処理するつもりなのですか? 貴方は自らエレミヤ書の預言を蔑にしているというのに、他人が同じ預言を蔑にしているのが問題だと、ありもしない事を問題視しています。 それは傲慢な考えで、ダブルスタンダードというものですよ。 >神懸かりの宗教としてのオシへまたはその神 こういうマボロシは 霧が晴れるように徐々に薄れて来ています。社会は 民主制になって来ています。そのような歴史の推移が 預言と関係あるわけです。 という事は、質問者様の考えも >すでに得られている信仰ゆえに・そのヒラメキをとおして・ということは ここで実際には経験思想の問題として そのように見解を述べているに過ぎません。 という神懸かりによるものなのですから、マボロシと見做すべきですね。 又、質問者様が根拠にしておられるエレミヤ書の預言も質問者様の考えで言えばマボロシなのですから、質問者様は「自分の考えの根拠だとした事はマボロシだった」と仰っておられる訳ですね。 つまり、質問者様の考えは二重の意味でマボロシだという事です。 >ここから どうして・どのボタンをクリックしたら 次のような考えが出ているサイトに移るのか? こちらが聞いても応えが無いので、 >では すべての人が キリスト者になっているか? そうではなく 理論上 キリスト者(つまりは普遍神をいだく人たち)になっているという意味に採るのがふつうなのです。 という話は話の筋とは関係のない話で、無視しても構わないものであると判断致します。
お礼
ご回答をありがとうございます。 第一パラグラフ――意味不明。 ★ エレミヤ書など根拠にせずに、 ☆ 相手の根拠――すなわち新旧の聖書――にかかわる問題を取り上げているのみ。 そんなこと わっかんないのかなぁ。 エレミヤは: ★ ~~~~~~~~~~~~~~ >そのヒラメキの内容を むろんはらからの人たちに伝えたわけですが。 その行為 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ は まだその預言じしんが 成就していなかった時である。 こんなことくらい どうして分からないのだろう。 ★ その預言はまだ成就されてなどいない ☆ ぢゃあ 成就されつつあると認識しているのかという問題です。 そして 《理論じょう成就している》という説明を無視しています。 ★ 預言がまだ成就していない以上、処理するしないにかかわらず、何の問題も発生しないではありませんか。 ☆ どうしても意を汲んで話を返さなければならない。 つまり エレミヤ預言は イエスの時あるいはいま現在 どうなっていると捉えるのですか? そのことに触れなければ 意味がない。だから マチガヒだと認識していると こちらからは見られるのです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 質問者様の方こそ、質問者様御自身がここでこの様に神に関する事を語っている事が、 >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 というエレミヤ書の預言が成就した状態とはかけ離れた事である事を、どう処理するつもりなのですか? ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このわたしの振る舞いこそが 《理論じょう成就している》という意味です。現実においても・実践においても 成就する方向を言ったりおこなったりするという意味です。 こんなことは 大学一年生の問題です。 ★ 貴方は自らエレミヤ書の預言を蔑にしているというのに、他人が同じ預言を蔑にしているのが問題だと、ありもしない事を問題視しています。 ☆ いまちょうど例証し説明したように 《ありもしている》問題です。あなたが預言をないがしろにしているのです。自由ですが だとしたら そういう立ち場だと言って話をしてください。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 質問者様の考えも >すでに得られている信仰ゆえに・そのヒラメキをとおして・ということは ここで実際には経験思想の問題として そのように見解を述べているに過ぎません。 という神懸かりによるものなのですから、マボロシと見做すべきですね。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 前回のやり取りでもそうだったことですが もうこれ以上つづけると 心が腐って来ます。同じクズ議論を繰り返すなどということは。 前回も すべてこちらに非があると申し出て 話を打ち切れるように持って行きました。 そうなんですよ。わたしこそが 神懸かりなんです。 よかったですね。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
>《かみ》という言葉は どの民族のどの言語にも持たれています。そのあと オシへをつくった。に過ぎない。 完全に勘違いをしていますね。 《かみ》という概念そのものも「預言」という概念そのものもまた《オシへ》の一つなのですよ。 従って、《オシへ》無くして質問者様の信仰心はないという事です。 又、質問者様が根拠にしておられるエレミア書の預言もまた《オシへ》の一つなのですよ。 従って、《オシへ》が無ければ質問者様がここで質問をしている事も無かったのですよ。 >《「未だ成就していない状態」にある》と答えているではありませんか。 >☆ いつ・どこで? No.29です。 >最後の段落については 意味不明です。 質問者様が神について語っている事そのものが、 >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 という状態とはかけ離れているので、質問者様が神に関して語る事自体がエレミア書の預言が成就していない事を証明していて、エレミア書の預言が成就している事を前提としている質問者様の考えを否定していると言っているのですよ。 それが判らないのは、質問者様が真実を受け入れる事が嫌だから真実から目を背けて逃げ回っているだけだからです。 そんなに真実を受け入れる事が嫌なら、もう神に関して他人と情報交換などしなければ良いではありませんか。 真実を知るのを嫌がっておられるというのに、何故、ここで質問などをしておられるのでしょうか?意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 >キリストの名は 世界のどこでもすでに知られています。 それが何か? >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 という状態になっている訳ではないのですから、エレミア書の預言が成就していない事は火を見るより明らかではありませんか。 >では すべての人が キリスト者になっているか? そうではなく 理論上 キリスト者(つまりは普遍神をいだく人たち)になっているという意味 では、質問者様が仰っておられる >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 >宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 という考えが成り立つのはあくまで「理論」という架空の話の中だけの話であって、実際にはその様な考えは成り立たたないので、「教えや教会は必要である」という事を御認めになるのですね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 《かみ》という概念そのものも「預言」という概念そのものもまた《オシへ》の一つなのですよ。 ☆ 《預言》は すでに人びとに共通の(共有される)《かみ》があってこそ現われるものでしょう。それは そうでしょう。つまり オシへにかかわっていましょう。 《かみ》という言葉が どうしてそのようなオシへのあとにしか現われなかったと考えるのでしょう? あるいはつまり アブラハムにとっては モーセが神をオシへとして示したその事件より前の時代ですから その神は ただふつうに《かみ》であるものです。 《〈わたしはある〉。それが わたしである。エフイェー アシェル エフイェー。》 という名前を明かしたのは モーセに尋ねられたゆえのことです。《ヤハヱ―》は この《エフイェー もしくは エフヱ―》という言葉とかかわるもうひとつの名前です。 あるいはそして 普通名詞としては 《かみ:エル または エローホ(複数:エローヒーム)》です。 なんで 普通名詞の《かみ》が オシへのひとつなんですか。 アブラハムは おのれの心なる《非思考の庭》にて この《かみ》と相対していた。だけです。オシヘは やっとモーセのときに出来たのです。 ★ エレミア書の預言もまた《オシへ》の一つなのですよ。 ☆ オシへにもとづく宗教としては そう扱う。というだけの話です。エレミヤ自身は やはりおのれと神との関係としての心の庭だけの問題です。そのヒラメキの内容を むろんはらからの人たちに伝えたわけですが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ >《「未だ成就していない状態」にある》と答えているではありませんか。 >☆ いつ・どこで? No.29です。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ウソこけ! どこにもない。それに 《マチガヒだ》と言っている。《「未だ成就していない状態」にある》ということをみとめた形跡は ない。 《預言が成就する》ということにかんして 百パーセント文字どおりに現実が実現するという解釈に立つかぎり 話は物別れです。 もし《「未だ成就していない状態」にある》というのであれば 少しは成就しているとなります。 ぜんぶマチガヒだというのなら エレミヤ預言をどう処理したのか。これを明らかにすべきだと 何度も言っています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 という状態になっている訳ではないのですから、エレミア書の預言が成就していない事は火を見るより明らかではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 神懸かりの宗教としてのオシへまたはその神 こういうマボロシは 霧が晴れるように徐々に薄れて来ています。社会は 民主制になって来ています。そのような歴史の推移が 預言と関係あるわけです。 (聖書じたいは 聖書が要らなくなることを目的として書かれたとも言えます。旧約の時代があったからには そのオシへまたはそのヤハヱ―という神を 外に開き普遍神という位置に揚げて棄てるという作業が必要でした。そのため 文書にもなっています)。 ここから どうして・どのボタンをクリックしたら 次のような考えが出ているサイトに移るのか? ★ 成り立つのはあくまで「理論」という架空の話の中だけの話であって、実際にはその様な考えは成り立たたないので、「教えや教会は必要である」という事を御認めになるのですね。
- sunabo
- ベストアンサー率35% (24/67)
わたしが教会から《オシヘをあたかも神のごとく戴いてそれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説くところ》を除くと、何が残りますか?とたずねたのは誤りでした。 質問本文に答えはすでに書いてありました。 一般のコミュニティーセンターと図書館と文化芸術センターが残ります。 本文を読めてませんでした。ごめんなさい。 もし、私が教会または《教会》ですでに結婚していた場合、 教会または《教会》で結婚式を挙げたいな。と思った場合、 教会が要らなくなっていると困ります。 質問本文4行目と5行目に 《無い神》をいだき この経験世界については 神という言葉をとおして認識したくないと言う。 とあります。 質問者様の分類ですと、私は《無い神》をいだいている人だと思います。 しかしながら、私は、《無い神》をいだいていると言えませんし、普遍神をいだいているとも言えません。 質問者様は¬AかAかのいづれかでなければならない。¬AかAかどちらとも言えないことを認めないと考えていますか? 本文12行目に 7. 教会は要らない。 とあります。でも、本当は 7. 《教会》は要らない。 と書きたかったのではないですか? タイトルから11行目まで《教会》について述べていたのが、12行目に突然《教会》ではなく、教会がでてくるので混乱します。《》をつけて強調している《教会》と教会がどう違うのか説明がいるはずです。 質問者様はタイトルも本文も《》をつけて強調している《教会》についてだけ述べようとしている、気がします。 《教会》と教会は要らない。という主張はもうすでに、質問本文で7段落に分けて書かれています。しかしながら、上から順に同意していけば、最終的に、《教会》と教会は要らなくなるように、書き直すことはできませんか? たとえば、下記の6段階です。上から順に同意していけば、最終的に、《教会》と教会は要らなくなります。また、私は普遍神をいだくことは良いことかどうかわかりません。良いとも良くないとも言えません。 普遍神をいだくことは良いことである。 《教会》と教会は、普遍神をいだくことを邪魔する部分を含んでいる。 邪魔する部分とは、オシへをあたかも神のごとくに頂きこれを信じなさい(つまり 心に受け容れなさい)と説くこと。と、自分たち聖職者にみづからが権威や権限をあたえるかのごとく階層組織をつくっている。そのヒエラルキア。である。 《教会》と教会から邪魔する部分だけを除くことはできない。 一般のコミュニティーセンターと図書館と文化芸術センターとその他の《教会》と教会から邪魔する部分を除いた部分を作る。 《教会》と教会を要らなくする。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~ もし、私が教会または《教会》ですでに結婚していた場合、 教会または《教会》で結婚式を挙げたいな。と思った場合、 教会が要らなくなっていると困ります。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ひとつに 式場としての施設は いくらでもあります。 ひとつに さらにわたしたちの・これぞよきお祝いごとの式場であるという施設をあらたにつくればいいぢゃないですか。 ひとつに いづれにしても それぞれわが心の奥なるその心が キュリアコンおよびエクレシアなる庭なのですから 式場がどんな施設であったとしても だいじょうぶです。かがやいています。 神について: ★ 質問者様は¬AかAかのいづれかでなければならない。¬AかAかどちらとも言えないことを認めないと考えていますか? ☆ これは 《詭弁を弄しますが》 必ずしも経験的なものごととしての《 ¬AかAかのいづれか》という捉え方とは 別なのです。 普遍神は 《無限》という概念で――仮りに認識するために――説明されることがあります。 つまり 二で割っても三で割ってもその商は やはり元の無限である。という説明です。 こういう無限あるいは絶対である普遍神については 《¬AかAかのいづれか》あるいはつまり《有るか無いか》という認識は ほんとうにはなじまない。 《有るとも無いとも どちらとも人間が決めることは出来ないナゾ》 これが 神です。 《有ると言っても 無いと言っても どちらも 神には当てはまる》となっています。 ですから あとは人が好きなほうをえらんで 自分は《有る神》派だとか《無い神》派だと言っていればよい。 無い神をえらんだなら もう神のことは触れることはないのでしょう。そんなものは知らんと言っていれば済みます。 そしてそれは 絶対ないし無限として説明され得る普遍神だからそうなる。と捉えられるのではないでしょうか。 地震がある・無いの問題ではなく 何かがあっても無くても 神は――そのナゾとして想定しているなら――人間にかかわっています。 わたしは想定などしていないと言うときには では 《無限》とあなたの関係は どうなりますか? と問われます。無限については いやと言っても好きだと言っても そこに持たれています。絶対的な関係です。しかも 空気のようなものとしてのナゾです。 ★ 本文12行目に 7. 教会は要らない。 とあります。でも、本当は 7. 《教会》は要らない。 と書きたかったのではないですか? ☆ そうですか。一貫していなかったですか。 問題は オシへにかかわる人びとの集まりにあります。それが 要らないと言っています。 極端なことを言えば もし仮りにあたらしい――いっさいオシヘにかかわらない――人びとの集まりの場を もういちど《きょうかい》と呼んだとしても 何の問題もありません。中身あるいは実質が たいせつです。単純に考えてもらってだいじょうぶだと思います。 あるいはつまり この質問の趣旨でわたしが述べた青写真いかんにかかわらず あたらしい集まりの場は あたらしい人が自分たちで自由に思い描きそのようにつくって行けばよいはずです。 すべて自由です。宗教の組織やオシへから自由であれば すべて自由です。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
>神は或る日或る時やって来て わが心の窓をノックする。 >《かみ》という言葉はそのときまでに 人びとが使っているのを見て知っていたゆえ そのノックは 神の――まぁ 霊としてのですが――おとづれであるかと捉えた。そこで これを・ということは神という名をわが心に 心としての領収証を発行して 受け容れた。 その人々が「《かみ》という言葉」を使っていたのも「教え」があったが故の事なのですから、《オシヘ》が無ければ質問者様が >人びとが使っているのを見て知って という事もある筈も無いのですから、質問者様が信仰を得る事も無かった訳です。 つまり、質問者様が信仰を得るためにも《オシヘ》が「要る」事に変わりはないのですよ。 >神はつまり普遍神は ナゾです。人間にとっては《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾの何ものか》です。 それならば、その神から与えられたエレミヤ書の預言も本当に成就するかどうかナゾという事になりますから、そのエレミヤ書の預言が成就する事を前提としている質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 >宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 という考えも成り立ちませんね。 >★ エレミヤ書の預言が無視されているという事実は存在してはいない >★ 預言が「成就した後の状態」と「未だ成就していない状態」を混同してはいけません。 >☆ ぢゃあ たとえばそのように《「未だ成就していない状態」にある》と この預言についてはこたえるべきです。いままでに何度も その問いはして来たのですから 答えているべきでした。 何を言ってんですか。既に何度も >《「未だ成就していない状態」にある》と 答えているではありませんか。 >こちらは 理論上すでに成就したと見るというひとつの見方を提出している。 それならば、そのエレミヤ書の預言は >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからである というものなのですから、質問者様はその預言通りに「神に関する事」について何も主張しなければ良いではありませんか。 つまり、預言が成就したのであれば、質問者様がそのような主張をする事は有り得ない事であり、質問者様御自身がここでそのような質問をしている事自体が預言が未だに成就していない事を証明しているのですよ。 従って、エレミヤ書の預言が成就した後である事を前提としなければ成り立たない質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 >宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 という考えがマチガヒである事はマチガヒない事なのです。
お礼
《かみ》という言葉は どの民族のどの言語にも持たれています。そのあと オシへをつくった。に過ぎない。 預言は ヒラメキとして受け留めればよい。 この観想とも呼べるヒラメキを ふつうの経験事象にかかわる人間の言葉で表現したもの。そこから 人間と社会との命題を得た。そして 人びとはそれぞれにその解釈をも述べる。 ――何の問題もありません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 既に何度も >《「未だ成就していない状態」にある》と 答えているではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ いつ・どこで? そのような考えであったなら わたしがエレミヤの預言を取り扱うことについてマチガヒだとは言わないはずです。 最後の段落については 意味不明です。あるいはつまり これまで何度も重ねて説明して来たことだと考えられます。振り返り読み返してください。 ちょっと感じたところでは ★ >こちらは 理論上すでに成就したと見るというひとつの見方を提出している。 ☆ というときの《理論上》という意味合いを勘違いしている。のではないかと見られます。 キリストの名は 世界のどこでもすでに知られています。 では すべての人が キリスト者になっているか? そうではなく 理論上 キリスト者(つまりは普遍神をいだく人たち)になっているという意味に採るのがふつうなのです。 ご回答をありがとうございます。 これまでのやり取りをしっかりと読みなおしていただきたい。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
>すでに得られている信仰 >信仰は神から与えられる >どこがどのように矛盾しているのでしょう。 そんな事も判らないのですか?明らかに矛盾しているではありませんか。 神が信仰を与えるのは、その神が存在していてどの様な神であるのかをある程度知っている人に対してだけなのですから、信仰を得るためには「教え」を教えてもらう事が前提となるのであり、質問者様の >すでに得られている信仰 とやらも《オシヘ》が無ければ成り立たないのですよ。 質問者様は「神」という言葉や、「信仰」という言葉を使っておられますが、それらの言葉はどうやって知ったというのですか? 「神」や「信仰」という概念や、 >信仰は神から与えられる という考えもまた《オシヘ》そのものの1つなのですから、 >《オシヘは要らない》 と言いながら、実際にはその《要らない》と言っている《オシヘ》に誰よりも囚われているのは質問者様御自身であり、その《オシヘ》を根拠として >《オシヘは要らない》 と主張しているのですから、これが矛盾と言わずに何と言うのでしょう。 >★ 問題はありますよ。その問題とは、「質問者様自身が否定しておられる事」を「正しい事だと見做さなければ成り立たない」考えを質問者様が主張しておられるという点です。 >☆ そのように結論だけをボーンと投げ出すのではなく この点とこの点とが矛盾しているというふうに説明するのが ふつうの話し合いです。 1.~4.の様な「『教会が要るとする人』の『要る』理由」を否定する事には全くなっていない理由を挙げているだけで、いきなり >5. 《教会》は 要らない。――表現の自由また結社の自由のもとに存続したとしても。 という結論だけをボーンと投げ出している質問者様にその様な事を言われる筋合いは御座いません。 >現実に《教会はある》し《オシヘも語られている》。ならば それらが要らないと言っても その命題とそして現実とは 相容れないふたつのことであるではないかと。 何を頓珍漢な事を言っておられるのですか? 全く、質問者様は勘違いばかりをしておられるのですね。 >いったい どういう生活をしているのですか? そんなことで世の中で共同生活をすることなどは 出来っこないはずです。いったい どういう料簡なのでしょう。 とはこちらの台詞です。 「要らない」という事は「在ってはならない」という事ではないのだから、「要らない」という事は、他人に対して「『要らない』という考えを持て」と要求する理由には何らならなければ、「要らない」と殊更明らかにする理由にもならないのですよ。 つまり、 >意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 として、「意味のないことを言い続ける事」を問題にするのであれば、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という主張もまた、殊更明らかにする理由と呼べる様なものが無い事柄に過ぎず、「繰り返して言い続ける意味がないこと」なのですから、 >意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 と回答者を非難するのであれば、まず質問者様御自身が行っている「意味のないこと」をやめてからにすべきであり、それが出来ないのであれば、質問者様には回答者を非難する資格はないと申し上げているのですよ。 >これは もう人間の手に負えません。人間の考えではありません。成り立っていません。取り扱い不能です。 >《実在している》と判断していることが 問題なのです。 全く質問者様はご自分で何を言っているのかも理解どころか記憶すらしていないのですね。 >もう人間の手に負えません。人間の考えではありません。成り立っていません。取り扱い不能です。 とは質問者様の事です。 質問者様はエレミヤ書の預言という普遍神がもたらした預言が実現する事を前提とした考えを正しい考えであるとして主張し続けているのですから、質問者様は >《実在している》と判断している という事になります。 従って、 >《実在している》と判断していることが 問題なのです。 という事であれば、問題があるのは質問者様の方です。 >エレミヤ書すなわちへブル書8章について まったく無視しているのではないかという批判点を示しています。 エレミヤ書の預言が無視されているという事実は存在してはいないのですから、既に何度か申し上げた通り、その批判は筋違いです。 預言が「成就した後の状態」と「未だ成就していない状態」を混同してはいけません。
お礼
何を言ってんですか。 神は或る日或る時やって来て わが心の窓をノックする。 《かみ》という言葉はそのときまでに 人びとが使っているのを見て知っていたゆえ そのノックは 神の――まぁ 霊としてのですが――おとづれであるかと捉えた。そこで これを・ということは神という名をわが心に 心としての領収証を発行して 受け容れた。 神という言葉を知っているだけでよい。オシへなどは 要らない。 オシヘにへばりつくようなそのオコゲみたいなこびりつきから自由になりなさい。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 質問者様はエレミヤ書の預言という普遍神がもたらした預言が実現する事を前提とした考えを正しい考えであるとして主張し続けているのですから、質問者様は >《実在している》と判断している という事になります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それが 思い込みです。 神はつまり普遍神は ナゾです。人間にとっては《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾの何ものか》です。 これは 《無限・絶対》としても 経験合理性にもとづき 説明されます。 《無限》は 二で割っても三で割ってもその商は やはり元の無限なのです。∞ ÷ 2 = ∞。 こんなものが どこに《実在している》のですか? ★ エレミヤ書の預言が無視されているという事実は存在してはいない ★ 預言が「成就した後の状態」と「未だ成就していない状態」を混同してはいけません。 ☆ ぢゃあ たとえばそのように《「未だ成就していない状態」にある》と この預言についてはこたえるべきです。いままでに何度も その問いはして来たのですから 答えているべきでした。 そして 成就がまだだというのなら 預言は 人間とその歴史に関わりを持っています。 こちらは 理論上すでに成就したと見るというひとつの見方を提出している。ということなのですから そのようにまづは受け留めその上で話をすすめなければならないはずです。 これまでの態度は いったい何だったんですか。 ご回答をありがとうございます。
- kurinal
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B様、こんばんは。 >「4. 《民会(エクレシア > エグリーズ;イグレシア;キエーザ)》は そのまま《世界たるチャーチ(または 〈無いチャーチ〉)》の支所である。一般に自治体のことである。そのまた分室である。」 >「7. 教会は要らない。一般のコミュニティーセンターだけでよい。(図書館・文化芸術センターをもつけて)。」 いずれも「税金に基づく」ということですか。 「税金に基づく」というのは、民主主義では「(他者の)信教の自由」を侵害出来ないですね。 (ゆえに?)「信教の自由」という観点からは、《教会》の存続意義は、あるのでは? ・・・(代わりに、税金で(やっちゃえ?))という議論よりは。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ いずれも「税金に基づく」ということですか。 ☆ 名前を《共同拠出金》に替えて それに基づきます。 ただし この基金によってつくる《コミュニティーセンター;図書館・文化芸術センター》は 宗教とはいっさいかかわりがありません。 もっともそこに参加する人びとについて 個人として取り上げしかもその心の内面だけを問題とすれば むろんそこにそれぞれが自由な信仰を持っているはずです。ですが この信仰も 人びとの集まるセンターとは 直接の関係はありません。 あと 宗教としての従来の教会は 表現の自由および結社の自由にもとづく限りで 当分は存続するでしょう。 むろん そこにも基金はかかわりを持ちません。
- kagakusuki
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>☆ すでに得られている信仰ゆえに・そのヒラメキをとおして・ということは ここで実際には経験思想の問題として そのように見解を述べているに過ぎません。 それは質問者様が >信仰は 神からあたえられるものです。人間が自由にかたちづくるものではありません。 と述べて否定している事そのものではありませんか。 質問者様の考えは、質問者御自身がしてはならないとしている事を自ら犯している事が前提となっているのですから、その様な考えは成り立たないと申し上げているのです。 >それについて 誰もが自由に賛成したり反論したりすることがあります。 またもや勘違いをしておられますね。 私は「誰もが自由に賛成したり反論したりすること」をおかしがったり、否定したりなどしておりませんよ。 質問者様がその考えで否定している事を、質問者様御自身が犯さねば成り立たない主張をしておられるので、その様な主張をする事は「『要らない』事をしている」だけだと申し上げているだけです。 その様な矛盾した行為を繰り返さねば主張する事が出来ない考えなど、誰にとっても「要らない」ものに過ぎないという事です。 >☆ 何かのことでそれを主題として考えることに 何の問題もありません。意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 問題はありますよ。その問題とは、「質問者様自身が否定しておられる事」を「正しい事だと見做さなければ成り立たない」考えを質問者様が主張しておられるという点です。 つまり質問者様の考えは最初から破綻していると申し上げているだけでなのですから、 >誰もが自由に賛成したり反論したりすること >何かのことでそれを主題として考えること を問題にしている事にはなりません。 従って、質問者様の仰る事は何の反論にもなっておません。 大体、 >何の問題もありません。意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 と仰るのであれば、「教会が存在する事」や「教えが語られる事」には何の問題も無いというのに、質問者様はそれを問題にしておられます。 質問者様はそんな意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 >★ その無根拠である普遍神が実在している事を前提としておられる >☆ 《実在するもの》が どうして《無根拠》なのでしょう。ここまで来れば 精神錯乱でなくて何でしょう。 《無根拠》と言っているのは質問者様御自身ですよ。私は単にその事を否定しなかっただけの話に過ぎません。 従って、もしも《無根拠》と見做す事が精神錯乱ならば、質問者様が精神錯乱をしておられるという事です。 >無根拠を根拠として――ヒラメキをとおしてという意味です―― 経験的な事柄をめぐって問題を提起しそれについて 自分の考えを述べることに何の問題もありません。 それならば、教会や教えを必要なものとしている数多くの人々の考えもまた、「ヒラメキをとおして」得られたものである事に変わりはなく、その一方で >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはあくまで「要らない」という事しか意味しておらず、「在ってはならない」というものではないのですから、「『ヒラメキをとおして』得られた『教会や教えは必要である』という考え」がある以上、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはマチガヒという事にマチガヒはない事になります。
お礼
いったいどこが矛盾していると言うのでしょう? どういう勘違いをすれば そんな考えになりましょうか。 ☆☆ すでに得られている信仰 ☆☆ 信仰は神から与えられる ☆ どこがどのように矛盾しているのでしょう。 次の段落の《矛盾》も分かりません。どこで相反することを言っていますか? ★ 問題はありますよ。その問題とは、「質問者様自身が否定しておられる事」を「正しい事だと見做さなければ成り立たない」考えを質問者様が主張しておられるという点です。 ☆ そのように結論だけをボーンと投げ出すのではなく この点とこの点とが矛盾しているというふうに説明するのが ふつうの話し合いです。 ★ 「教会が存在する事」や「教えが語られる事」には何の問題も無いというのに、質問者様はそれを問題にしておられます。 ☆ ひょっとして 次のようなことを言っていますか? つまり 現実に《教会はある》し《オシヘも語られている》。ならば それらが要らないと言っても その命題と そして現実とは 相容れないふたつのことであるではないかと。 開いた口が塞がらないとは このことです。 カトリックの教会の神父は――世界各地で複数において―― 児童の性的虐待を犯している。という現実がある。ならば それを批難しバチカンを批判しても 仕方がない。というようなあなたの反論内容です。 いったい どういう生活をしているのですか? そんなことで世の中で共同生活をすることなどは 出来っこないはずです。いったい どういう料簡なのでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >★ その無根拠である普遍神が実在している事を前提としておられる >☆ 《実在するもの》が どうして《無根拠》なのでしょう。ここまで来れば 精神錯乱でなくて何でしょう。 《無根拠》と言っているのは質問者様御自身ですよ。私は単にその事を否定しなかっただけの話に過ぎません。 従って、もしも《無根拠》と見做す事が精神錯乱ならば、質問者様が精神錯乱をしておられるという事です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは もう人間の手に負えません。人間の考えではありません。成り立っていません。取り扱い不能です。 《実在している》と判断していることが 問題なのです。 最後の段落は すでに何度も触れて来ています。 聖書を共通の要素と捉えるならば エレミヤ書すなわちへブル書8章について まったく無視しているのではないかという批判点を示しています。 いったい何度こちらの話を無視すれば気が済むのですか。 ご回答をありがとうございます。
- kagakusuki
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>《神の行為はない》。 >そして 《〈これこれが神のおこなった行為である〉と言ったり他人に説いたりする人間はいる》ということです。 それで良いではありませんか。 そういった人間を必要としている人間が存在しているのですから、そういった人間のためにも教会や教えが必要であるのは間違いない事なのですから。 つまり、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはマチガヒという事になります。 >☆ その預言の内容が 《狭い・神のオシヘに狭くかかずらわっていてはならない》と言っています。 などと仰っておられる事自体が、「狭い・神のオシヘに狭くかかずらわって」いる事に他ならないのですから、《狭い・神のオシヘに狭くかかずらわっていてはならない》としておられる以上、質問者様の考えがマチガヒという事はマチガヒないと申しているのです。 >★ それは宗教が信仰から出かけているのではなく、質問者様が神に対する信仰心を失いかけているという事です。 >それは 人間としてのあなたの判断です。 >《普遍神》は 人間の誰がみとめて誰がみとめないということがあっても 何の影響も受けません。 《普遍神》が人間に影響されるかどうかの話などしておりませんよ。 それにもかかわらず、私が質問者様の信仰心の有無に関して述べた事に対して、 >人間としてのあなたの判断です >《普遍神》は(人間の判断には)何の影響も受けません と仰っておられるという事は、質問者様は 「自分の信仰心が何かの影響を受けるという事は、《普遍神》が影響を受ける事だ」 と考えておられる事になります。 つまり、質問者様は御自身の事を《普遍神》であると見做して、「自分は普遍神なのだから、その自分が持っている信仰心も、回答者の判断になどには何の影響も受けない」と仰るのですね? それはそれは傲慢極まりないお考えですね。 >☆ 信仰は 神からあたえられるものです。人間が自由にかたちづくるものではありません。 それならば、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 などと主張して、信仰を自由にかたちづくるのはマチガヒなのですから、止めて下さい。 >>世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 >滑稽な事を仰いますね。一体何のためにその様な事をする必要があるのですか? >宗教が《要らない》のであれば、その様な考えなど《要らない》ではありませんか。 >☆ 残念ながら 意味不明だと思います。 「宗教とそのオシへから自由」という事は、即ち、「宗教が《要らない》」という事であり、「宗教とそのオシへから自由」である以上、宗教に関する事でどうした方が良いとも、どうすると悪いとも考える必要はない(つまり「要らない」)という事です。只単に質問者様個人が、宗教に関わらずに過ごせば良いというだけの話です。 それにもかかわらず、ここでこうして宗教に関する事でああでもないこうでもないと散々拘っているのですから、 >世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 と主張している質問者様御自身が、最も「宗教から自由」ではなく、その上、キリスト教の考えとは異なる制限を質問者様御自身が勝手に設け、キリスト教の教義以上に御自分を縛ってしまっておられるのですから、滑稽だと申し上げているのです。 つまり、 >世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 と主張している事自体が矛盾した行為であり、「『要らない』事をしている」だけに過ぎないのです。 >普遍神というのは 無根拠のことです。無根拠という根拠です。 質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えは、その無根拠である普遍神が実在している事を前提としておられるのですから、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えには根拠が無く、それ故、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 というなどは出来ないと申し上げているのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 意味を成さない文章ばかりです。 一例です。: ★ ~~~~~~~~~~~~~ >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 などと主張して、信仰を自由にかたちづくる ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すでに得られている信仰ゆえに・そのヒラメキをとおして・ということは ここで実際には経験思想の問題として そのように見解を述べているに過ぎません。 信仰の成立について 順序が違います。 オシへは 経験思想です。人間の言葉で書かれたものですから。 それについて 誰もが自由に賛成したり反論したりすることがあります。 つまりそのようなことについておかしがるのは 何の意味をも成さない文章です。 ★ ここでこうして宗教に関する事でああでもないこうでもないと散々拘っている ☆ 何かのことでそれを主題として考えることに 何の問題もありません。意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 ★ その無根拠である普遍神が実在している事を前提としておられる ☆ 《実在するもの》が どうして《無根拠》なのでしょう。ここまで来れば 精神錯乱でなくて何でしょう。 無根拠を根拠として――ヒラメキをとおしてという意味です―― 経験的な事柄をめぐって問題を提起しそれについて 自分の考えを述べることに何の問題もありません。 いったい何を食べたら そういう錯乱に落ち入るのでしょう。
- kagakusuki
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>つまり神の《行為》は ありません。 つまり質問者様は、質問者様が仰る様な >エレミヤ書およびそれを承け継いだへブル書のしるすあたらしい契約 などはないと仰るのですね。 ぢゃあ >教会でも――教会は存続したとしても―― もう主を知ることに関するかぎりでのオシへについては いっさい触れない という事にはならないのですから、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはマチガヒという事は論を待ちませんね。 >旧約やそのオシへやヤハヱ―神までもが揚棄されたのなら もう過去には用はないことになります。(ないがしろにするという意味ではありません)。 それならば、質問者様が根拠にしておられるエレミヤ書の預言に囚われて考える必要などない訳ですから、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはマチガヒという事ですね。 >人びとよ 神という神またそのそれぞれのオシへに狭く固定されるのではなく 滑稽な事を仰いますね。 「エレミヤ書の預言」というたった一つの《オシへ》にのみ狭く固定されて考えて、それ以外の事に目を向けない考えを主張しておられるのは質問者様御自身ではありませんか。 >宗教は ワタシの信仰から外に出かけてしまっているのです。 それは宗教が信仰から出かけているのではなく、質問者様が神に対する信仰心を失いかけているという事です。 >世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 滑稽な事を仰いますね。一体何のためにその様な事をする必要があるのですか? 宗教が《要らない》のであれば、その様な考えなど《要らない》ではありませんか。 質問者様は、御自身が根拠としていた事自体をも否定しておられるのですから、質問者様は何も根拠もないまま >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 と主張しているに過ぎないという事です。 従って、 >どうでしょうか という御質問に対しては 「何の根拠も示さずに只主張しているだけの妄言としか言えません」 というもの以外の答えが見つかりません。
お礼
《神の行為はない》。 そして 《〈これこれが神のおこなった行為である〉と言ったり他人に説いたりする人間はいる》ということです。 ★ 「エレミヤ書の預言」というたった一つの《オシへ》にのみ狭く固定されて考えて ☆ その預言の内容が 《狭い・神のオシヘに狭くかかずらわっていてはならない》と言っています。 ★ それは宗教が信仰から出かけているのではなく、質問者様が神に対する信仰心を失いかけているという事です。 ☆☆(No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~ それは 人間としてのあなたの判断です。 《普遍神》は 人間の誰がみとめて誰がみとめないということがあっても 何の影響も受けません。 だれがその神をほめたたえようが誰がけなそうが 神は痛くも痒くもないのです。 あなたは 普遍神が嫌いだいやだと言っているだけのことです。ご自由に。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 信仰は 神からあたえられるものです。人間が自由にかたちづくるものではありません。 神からわが心の窓をノックされたとき それについて受領証を発行して 受け容れますというこちらからの人間としての意志行為をおこないますが それはあくまで受け身において成り立ちます。 《神に対する信仰心》を人間が神からの音づれの何もない所でその自由意志によって持つとか それを捨てるとか そういう問題ではありません。 おのれの意識として《神を持った・捨てた》ということはあり得ますが それは・それが 普遍神ではなくただの人間がつくった神だという意味です。それが 宗教です。――普遍神の信仰とは 何の関係もありません。 ★ ~~~~~~~~~~~~ >世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 滑稽な事を仰いますね。一体何のためにその様な事をする必要があるのですか? 宗教が《要らない》のであれば、その様な考えなど《要らない》ではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 残念ながら 意味不明だと思います。 ★ 質問者様は何も根拠もないまま ☆ 意味を取り違えるおそれはありますが 表現だけを取り上げて考えを述べるなら そのとおりですよ。 つまり 普遍神というのは 無根拠のことです。無根拠という根拠です。 ご回答をありがとうございます。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
>漠然としていて 着実にすすんでいるといったかたちを見てとればよいのではないでしょうか。 滑稽な事を仰いますね。 もし仮に預言が成就していないにもかかわらず、その預言が「果たされつつある事を持って成就と見做せる」のであれば、預言に書かれている出来事が将来において起きる事は確定事項なのですから、未来においてエレミア書の預言通り >彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになる のであれば、エレミヤ書の預言など無くとも、いやエレミヤが預言を授かるずっと以前、天地が創造される以前の内から「エレミヤ書の預言にある事柄」が、 >着実にすすんでいる という事に変わりはないのですから、エレミヤ書の預言が >彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるから >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 というものである以上、アダムが創造された時から既に >彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになる という状態になる事が成就されていると見做さねばならないという事になり、全ての預言で語られている事は主に関する事である以上、「全ての預言で語られている事はその全てが全人類に知られつつある」という理由で、人類は預言が授けられる前にその内容を知っている事になってしまいますので、そもそも神が預言者に預言を授け、預言者は授かった預言を口外したり、書物に残したりする事は「要らない」事、即ち無意味な事という事になるのですから、預言と呼ばれるものは最初から存在している筈がないではありませんか。 しかし実際には様々な預言が伝えられています。 つまり、預言が成就した事と、成就していない事を同じものと見做す >そういったかたちでの約束の実現であり つまりあるいは預言の成就だと捉えます。 >漠然としていて 着実にすすんでいるといったかたちを見てとればよいのではないでしょうか。 という考え方は成り立たない、即ちマチガヒという事なのです。 そんな簡単な事まで態々説明しないといけないとは疲れますね。 >預言の内容が すべて自分の思うように・自分の思い描く姿のごとくに 実現しなければ気が済まないという心ですね。 何処をどう取ればその様な勘違いをしてしまうのか信じられない話ですが、全く違います。 質問者様の考え方は神の御言葉を不要のものと見做す事で、神の行為自体を否定しているにもかかわらず、御自身の考え方の事を宗教的に正しいと見做しているので、それは矛盾しているので成り立たないと申し上げているだけです。 >これこれの言葉・これこれの命題があるから 早くそのように成れ! と言い続ける。 一体誰がその様な事を言い続けていると仰るのですか? 質問者様お得意の架空の宗教ではその様に言い続けているのですか? キリスト教では主の御心に適う生き方をする事が本人の幸いに繋がるとされているだけで、幸福になるのも、不幸になるのも自由ですよ。 >もしくは 神に指図する存在なのか? つまり質問者様は、人間が >これこれの言葉・これこれの命題があるから 早くそのように成れ! という言葉に従う事によって、神の御計画が成就される時を早める事が出来る、即ち人間の行為が神の行動に影響を与える事が出来るので止めるべきだと考えておられるのですね。それはとても傲慢な考え方ですよ。 >わたしが去って行ったら 聖霊を送るからと言っていた。 主イエスは、「神の賜物のことを知り、また、私を知っている者は自分からその精霊を受け取る」という内容の事を仰って、その聖霊を受け取る事が出来るのは「私を知っている者」である事が条件である事を示した上で、その場にいる者に対してその場にいなかった者を自分の所に呼んで来る様に仰っておられます。 つまり、「イエスの事を教える」ための「教え」を知っている者が知らない者に対して教える必要がある事を、イエス御自身が説いておられます。 従って、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えがマチガイである事にマチガヒはありません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 神の行為自体を否定 ☆ ここが 問題になります。 つまり神の《行為》は ありません。あっても人間には分からないものです。永遠にです。 信仰の心の庭にヒラメキ(インスピレーションですね)が得られて その内容を預言としてほかの人びとに公表することがあります。 つまり 神のことばが預言として告げられることとその預言が人類の歴史においてどのような出来事と関係しているかとは 直截につながっているかどうか。それは人間には分からない。という前提があります。 旧約聖書の時代は ユダヤ民族の中での預言と歴史の事件との関係でしたから 割り合い――と言ってもそれを比較するほかの民族の事例もあるとも思えませんが――分かりやすかった。 いわゆるバビロン捕囚という出来事がありました。ユダヤ人の国はほろびました。そういった事件が預言されていたとすれば その言葉と事件とをつなげて捉える。ということでした。 これまでわたしが言って来たことと矛盾するようなことを言いますと――なぜなら もとからそういう見方をしていたという告白になっているからなのですが―― イエスの登場する以前(つまり旧約の時代)は そのようの預言者も出たということで 人間と神とが 人びとの思いとしては 直接につながっていたとも言おうと思えば言える。 イエスの登場を境として この預言による神と人びととのつながりが 基本的になくなったという見方です。人びとが共有するような《神と人びととのつながり》はです。 言いかえると 旧約の時代は 神とわれとの関係としては すべて新約によって揚棄された。ヤハヱ―という 民族神も普遍神に揚げて棄てられた。わけです。 極端に言えば その歴史はなかったことになります。信仰という問題としてアブラハムのそれが はじめから新約の時代までつづいている。 信仰は 《非思考の庭》とわたしは呼んでいますが 要するに《わたし》の内なる世界であって 外とは・他者とは 直接のつながりはない。ということをも意味します。 イエスの指し示した普遍神が 世界の人びとに受け容れられるなら 神とのあいだの原罪であるとか(ふつう一般の罪についても 神によるさばきにかかわらせたその罪の扱いなど)あるいは いま問題にしている広い意味での・神にかかわるオシへであるとかは――エレミヤの預言がなかったとしても―― 公共の場では問題にならない。ということです。 すべて神とわれとの関係の問題は 信仰として《わたし》の内なる世界にとどまるということです。 このことが 《漠然としかし着実に世界に知られ それが現実となるようにわれわれは歴史を歩んで来ている》という見方の意味です。 ★ 「イエスの事を教える」ための「教え」 ☆ すべては イエスの指し示した《真理――それのもとに恩恵をも告げ知らせましたが――》としての普遍神のことに帰着し そしてそれですべてです。 ユダヤの旧約の歴史があるからには そこで人びとの拠りどころとされて来た神の言葉(その意味で聖書)について いろいろとイエスも説明しなければならなかった。というに過ぎないでしょう 《オシヘ》というものにかんする話としてはです。 人類の歴史と世界は ユダヤ民族の話に限定されるものではないわけですから 旧約やそのオシへやヤハヱ―神までもが揚棄されたのなら もう過去には用はないことになります。(ないがしろにするという意味ではありません)。 もっとかんたんに言いかえるなら この《教会は要らない》という命題は 人びとよ 神という神またそのそれぞれのオシへに狭く固定されるのではなく 普遍神に着き心を開き 信仰はその心の明けとしての《わたし》の内なる信仰にとどめましょう。――と言っています。どうでしょうかと言っています。 宗教は ワタシの信仰から外に出かけてしまっているのです。そのオシへは 信仰と何の関係もありません。その限りで 普遍神とも関係ありません。 世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。という趣旨です。
お礼
そうですか。 つまり 初めに《教会》というふうに 二重カッコ(ギュイメ)でくくりました。 これは オシへを信じなさいという問題にかかわっている従来の教会のことです。 そしてそのように宗教にかかわるかぎりで 教会という教会は 要らない。という意味でも言っています。 ややこしかったのは わたしが従来の教会には なつかしさを感じる人びとがいるのではないかと ふと思ったことにあります。 もしその郷愁の感じについて代わるものが必要だとするのならば ひとつに生活共同のコミュニティーセンターなどを代替施設としてくださいと言ったこと。 そしてさらにその郷愁感の部分では 心の奥の心としての庭が 人びとの集まりにとってのみなもとになるはずだとも言ったこと。 こういう入り組んだ言い方をしたことにややこしさがあったと思います。 宗教関係の教会はすべて 要らない。ということ。 そして 人びとのふつうの集まりとしてなら 代替施設は あたらしく用意すればよい。 これが 骨子でした。どうでしょう。 ★★(回答No.32) ~~~~~~~ 〔* 宗教関係の〕《教会》をとおして互いに通い合うのは おかしい。(普遍神をいだくことにはならない)。 おのおのわが心の深くそなわった庭(それ)をとおして互いに通い合うのでなければ おかしい。 と続けて書きたかったのではないでしょうか? だとすると、質問者様の主張の筋がとおって、私は気持ちがいいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おっしゃるとおりです。わかっていただけると思って 別様に説明を重ねました。 (あ) 宗教関係の教会は だめ。 (い) そのほかの普通の集まりなら OK。 こういった内容です。宗教関係のそれには 《教会》としてカッコをつけたほうがよいですかね。 ★★(回答No.40) 《教会》と教会は要らない。という主張はもうすでに、質問本文で7段落に分けて書かれています。しかしながら、上から順に同意していけば、最終的に、《教会》と教会は要らなくなるように、書き直すことはできませんか? ☆ たしかに オシへは要らないのですから 名前をつけるにも《教》の字は要らないですね。 もし ★ 《教会》と教会は要らなくなる ☆ という言い方をしたときには どちらも《オシへをあたかも神のごとく戴きこれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説く宗教の信徒たちの集まり》であり 前者の《教会》は キリスト教関係の従来のそれです。後者の 教会 は それ以外にも宗教関係の信徒の集まりについて――いくら新しいものであっても 宗教関係であるならば――これも ダメと言っているかたちです。 こういうふうに整理してみました。 ★ 39件の回答とお礼コメントを経たあとの質問者様の考え示してみてはいかがでしょうか? / みんなで考えやすくなると思います。 ☆ これは そうですね。つまり この質問にかんしましては ここまでなんです。教会についてだけ 問題にしました。 広く宗教あるいは聖書についてなら なおまだいくつか問題点はあると思っています。 そしてその内いくらかの主題については かがくすきさんとのやり取りの中で触れているかと思います。 ただ ひとつのスレッドにはひとつの主題というふうにしようかと思いますので 取りあえず拡散しないかたちにしたいと思うのですが いかがでしょう。 (う) とにかく 誰もが・いつでも(ほとんど24時間)気軽に自由に入って行けて 集まって話ができたり 自由に時間を過ごしたりすることが出来る家が 町内にひとつくらいあるといいんではないでしょうか? ご回答をありがとうございます。