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新吉原の建設期間
吉原の歴史に詳しい方におたずねします。 いろいろな資料によると、元吉原の移転が町奉行から通達されたのが1957年11月、千束と本所の2箇所を代替地として提示された結果、元吉原の経営者は千束を選択します。 当時の千束は1面の水田または沼地で、遊郭を作るには盛り土をしなければなりませんでした。 日本堤から一段低いところに四角の盛り土をし、水道や下水道も完備させ、その上に元吉原の1.5倍の遊郭を建築します。 これだけの大工事であれば通常ならば2年くらいの時間はかかると思うのですが、記録上では1658年8月にオープンしています。 吉原は何度も火事に遭い、そのたびに仮宅営業をしていますが、遊郭の再建には長いときは2年以上かかっています。 新吉原の建設では盛り土もしていますが、これは土が落ち着くまで普通ならば2年ほどかかるでしょう。さらに家屋の建築で1年から2年。どんなに大特急の工事をしても2年はかかったと思うのですが、どうして記録上はわずか8ヶ月程度でオープンできているのでしょうか。 この辺のからくりがおわかりになる方はいらっしゃいませんか。 唯一考えられるのは、6月にオープンした仮宅営業(今戸など)をそのまま続け、新吉原の方は時間をかけながら内部を整備していったというやりかたです。公式には町奉行としても遊郭を移転させたという実績さえ作れればいいので、公式記録は1658年8月開所になっているのではないかと思いますが。
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- fumkum
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こんにちは 吉原の移転ですが、まず、時間を追って、移転の関連事項を列記すると次のようになります。なお、旧暦のまま記載します。 明暦2(1656)年 10月9日。 北町奉行石谷左近将監貞清が、吉原の年寄衆を呼出し、所替を命じ、代地として本所か、浅草日本堤のいづれか勝手次第と言い渡す。 吉原側は代地については持ち帰り、相談の上、浅草日本堤を選択。(本所は隅田川の向こうで遠く、1686年の国境の変更までは、江戸のある武蔵国ではなく下総国であったことと。当時隅田川に架かる橋も少なかった-両国橋は1659年完成。) 浅草日本堤への移転を承諾したことで、石谷貞清は次の5項目を恩典として吉原に与えた。 1、敷地は現在の吉原の1,5倍とし、2町(丁)四方(4町歩)から、2町3町(6町歩)の敷地を下付する。(Wikiの3丁四方は間違いで、3丁四方では面積は9町歩になり、旧地の2,25倍となります。) 2、今まで昼の営業のみであったが、遠いので夜の営業も認める。 3、江戸に200軒ほどあり、吉原の商売敵であった風呂屋(湯女を置き、接待させる当時の風俗店)を取り潰す。 4、吉原に課せられていた町役である山王神社、神田神社の祭礼への手伝い、出火の際の消火活動の免除。 5、引料(引越費用)として吉原全体で10500両を下賜する。(間口1間につき14両の割合だとされます) 11月27日 引料10500両を下賜。同時に、来春より代地の普請にかかるように命じられる。 明暦3(1657)年 1月18日 振袖火事(明暦大火)で吉原類焼。 2月初旬 所替の沙汰は追ってすることとして、当分は仮宅での営業を命じられる。 4月?日 北町奉行石谷貞清、南町奉行神尾備前守元勝、地方(じかた)曾根源左衛門が、日本堤を見分。傍らに定杭を建てる。 代地の境界の確定で、普請工事の始まり。旧暦の4月は初夏で、昨年11月に命じられた春より遅れたのは、振袖火事が原因か? 6月9日 北町奉行石谷貞清が、吉原の年寄衆を呼出し、当月中に代地に移るように命じる。同時に山谷、今戸、新鳥越の住人に、吉原が代地に移り家作が出来るまで、山谷、今戸、新鳥越の住宅を吉原の遊女屋に貸し、仮宅営業させることを許可する。賃料は双方相談の上決めることを命じられる。 6月15・16日(14・15説もあり) 遊女屋及び遊女全員が代地に引越し。ただし、普請中のため山谷、今戸、新鳥越の仮宅で遊女屋を営業。 7月 普請が落成。 8月10日 新吉原に移転が完了。 工事の開始が日にちがわかりませんが4月で、完成が7月中ということになります。土木から家作の造営まで足掛け4か月という短期間に完成しています。また、8月に移転も完了し、代地の新吉原で営業をしています。上記の羅列の中にも見えますが、町奉行は移転を督促しています。また、下記にも述べますが、仮宅での営業は町奉行所の許認可が必要で、許認可された以外の期間、場所で営業することは許されません。 さて、当時の建築工事は意外に早いものです。例えば江戸城ですが、本丸の新築についての記録がありますが、元和8年2月18日に本丸の殿閣と天主台の石垣改築を始めますが、同年11月10日には本丸御殿が完成し、同日には将軍秀忠は入居しています。西の丸については元和9年7月27日に将軍の代替りにともなって、西の丸の殿舎改築(実質新築)の課役を発令、翌年の寛永元年4月に工事着工、同年6月下旬に立柱式(*建前)、同年9月22日には完成し、大御所の秀忠が移転しています。立柱式の前に木材に可能な加工はするにしても、3か月で完成しています。 仮宅での期間が2年ということは、吉原の復興に2年がかかったということではありません。元和元年の元吉原時代から、安政2年の安政大地震までに21回の吉原で火災がありましたが、その内17度仮宅で営業しています。しかし、仮宅を設けることは町奉行所の許認可がいり、通常吉原側が仮宅営業について、場所、期間を申請し、奉行所側が許可を出すようになっています。吉原側は長期で、中心地に近く、多くの場所(町)に仮宅を設けることを望みますが、町奉行所側はそれを削減するようにして、許可することが一般です。 なぜ、吉原側が長期で、中心地に近く、多くの場所(町)に仮宅を設けることを望むかというと、仮宅の方が断然儲かるからです。江戸時代も、時代が下るにつれて岡場所などの歓楽地が増え、吉原は既得権(江戸で唯一の公認遊郭)を侵害され、客も奪われていきます。日本堤はやはり遠く、さらに格式が高く、金もかかります。ところが仮宅では、日本堤より江戸市中に近く、格式を張ることもなく(女郎・遊女屋・客共に)、気楽で、金も日本堤よりかからないので、客が集まるようになります。例えば、職人が半纏姿で日本堤の大門をくぐろうとすると、追い返されるとされますが、仮宅ではそのようなこともなく、遊べるとされます。また、紋日の付け届け、祝儀(二階花・総花)などもなく、気軽に遊べたとされます。また、女郎も日本堤に比べて拘束が緩く、近所に買い物などで出歩くこともできたようで、女郎も仮宅を望んでいます。 そのために、吉原側は、日本堤の吉原の復興・建築の進捗具合に関係なく、仮宅営業の長期化を望みます。安政の大地震による仮宅でも最初500日の仮宅営業が許可になり、追加で100日の営業が許可になり、合せて600日の許可が下ります(結局奉行所の意向-事件の多発等により-で10日強の短縮となります)。 つまり、仮宅での期間は、復興にかかる期間とはイコールではなく、仮宅期間の方が長く設定されているということです。 「新吉原の建設では盛り土もしていますが、これは土が落ち着くまで普通ならば2年ほどかかるでしょう。さらに家屋の建築で1年から2年。どんなに大特急の工事をしても2年はかかったと思うのですが、どうして記録上はわずか8ヶ月程度でオープンできているのでしょうか。」について。 家屋の建築ですが、上記の江戸城の例にあるように、当時はそれほど長期ではありませんでした。さらに、江戸では繰返し大火があり、町人などの建物は、次の火災に備え、細い柱、薄い板などを使用していた(大火後の木材の値上がりも一因)とされ、また、度々の大火に対する知恵として、予め木材に必要な加工を施すプレハブ化が促進され、工期の短縮がはかられた(大火による工賃の上昇もある)とされます。 さて、地面についてですが、「地形」という言葉があります。「じぎょう」と読み、(現代)仮名表記もしますが、この言葉は江戸時代には用いられています。「建築前に地固めすること」という意味です。特に、城を築く、石垣を築く時によく出てきます。江戸時代後期になりますが、寺子屋の教科書(往来物)の中に、『番匠往来』というものがあります。「番匠(ばんしょう・ばんじょう)」は、大工の意味で用いられることが多いのですが、広く木工・土工を言う時があります。この『番匠往来』の中に、次のような記述があります。 地形方(ちぎょうかた)、櫓胴築(やぐらどうづき)、勢遣(きやり)に而(*て)、二重胴築、大胴築、千本胴築、樽地形、亀甲胴築、蛸胴築、指取(さいとり)胴築、勢備(せみ)胴築、根切、十露盤(そろばん)、平地形、捨石、捨杭、捨台、砂利入、切入の堅 地形には、櫓胴築以下の多数の工法があったということになります。当時よく行われた工法としては、松材などの丸太を、堅い地盤まで打込む方法、松材などを掘り下げた地面に横に並べ、基礎地盤とする工法、砂利や石などを掘り下げた地面に敷いて、上から圧力を掛けて固めることを繰り返す工法、葦などを掘り下げた地面に敷いて踏み固める方法など、多数の工法があったようです。人海戦術で地面を踏み固めるために、人を集めるために工夫を凝らすこともあったようです。加藤清正が子供たちを菓子や餅などを与えて集め、葦を敷いた地面で子供を遊ばせ、地面を固めたという話も伝わっています。もう死語になりつつありますが、「よいとまけ」という言葉があります。地固めのために、大勢で重い槌(つち)を滑車で上げ下げすることを言います。同じようなものが上記の「胴築」で、地固めをします。ただ、城を築く、石垣を築く時の地形については、実際に行なったことが分かっていますが、日本堤の吉原の普請に、地形を実施したかはわかりませんし、田圃を埋め立てただけで、たいした地形もせずに建物を建てたことも考えられます。ともかく、江戸時代にも建築前に地固めが行われています。 以上、長くなりましたが参考まで。
別段遊郭の歴史に詳しい訳ではありませんが、周辺状況から推測させて下さい。 >遊郭の再建には長いときは2年以上かかっています。 どちらでお調べになられましたでしょうか。 遊郭の営業再開に要した日数ではありませんでしょうか。 建物そのものの工期でしょうか。 土が落ち着く期間など現代の技術的な常識を基とされておられるようですが、江戸時代の家屋の構造は現代とは相当に異なります。 江戸時代には庶民の家屋は比較的簡単に建設されていました。 庶民の家は、現代のような布基礎は勿論寺院や大名屋敷などに見られる礎石も余り用いられませんでした。 掘っ立て柱が主流でした。 礎石を使いますと、礎石に応じて柱の長さを変えるとか建設中に柱の倒壊を防ぐなど技術的にも面倒で時間がかかりました。 礎石を使う場合も現代のようなコンクリートの布基礎ではありませんので、礎石の下だけを地固めしていました。 >家屋の建築で1年から2年。 江戸の街は火災が頻発していたことで知られています。 その度に1年も2年もかけていたのでは、街中ホームレスになってしまいます。 新吉原も移転工事の最中に明暦の大火が起きて、遊郭に入るべき店も仮設状態で営業していました。 大火直後に幕府が区画整理を目論んでいて、恒久的な家屋の建築を差し止めていました。 元吉原の遊郭にしても、せいぜい雨風が防げる程度で掘っ立て柱の建物だったでしょう。 新吉原の地の整地が終われば、すぐに同じような代物を作って営業を始めていたのではないのでしょうか 盛土も、周囲に掘割が設けられていましたので、これを掘った土や大火で発生した瓦礫などを入れれば短期間で可能だったでしょう。 当時は舗装道路に自動車が走るわけでもビルが建つわけでもありませんから、現代のように地盤の沈み込みなど気にも止めていなかったでしょう。 テクテク歩くだけです。 沈んだり凹んだりすればその部分に都度土を入れればOKです。 元々が簡素な建物ですから、傾けばバラシテ立て直せばいいだけです。 江戸時代は破壊消防ですから、家一軒バラスのに時間はかかりません。 (手慣れたものです) 浮世絵などに出てくる二階建てや三階建ての本格的な建物は営業をしながらおいおい建てていったのではないのでしょうか。 >記録上はわずか8ヶ月程度でオープン 新吉原の地への移転命令は前年の10月6日に出されています。 営業開始が翌年の8月ですから、都合10ヶ月ではないのでしょうか。 (マッこの際、1月や2月どうでも良いことではありますが) >公式には町奉行としても遊郭を移転させたという実績さえ作れればいいので、公式記録は1658年8月開所になっているのではないかと思いますが。 江戸城の再建や大名屋敷、武家屋敷の再建など一大復興事業の最中です。 幕臣である旗本、御家人の住居は幕府からの現物支給でした。 こんな小手先のことをやればたちまち失脚します。 町人任せの遊郭の移転ごときで小細工をしなくてはならない理由などないのではありませんでしょうか。 新吉原のみなら、江戸の街全体が埋め立て地でした。 地盤がどうのと2年も3年も放置して待っていたのでは、幕政に支障をきたします。 家康が江戸の地へ入ったのが1590年です。 直ちに城造り、町造りを始めています。 隅田川の対岸である深川の埋め立てが始まったのが1596年です。 ウカウカしていたのでは、関ヶ原の戦どころではなくなってしまいます。 参考 礎石 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/礎石 抜粋 民家に広く礎石が使われるようになったのは江戸時代以降で、18世紀までは東日本では掘立柱建物が一般的であった。 伝統的な基礎及び地業 - Tamura's page iisee.kenken.go.jp/staff/tamura/work/break/01tradition/trad_... 抜粋 民家などの家屋の場合は、明治になっても堀立式が用いられることも少なくなかったようです。また、堀立式の場合でも、基礎柱を地中で根固めするための方法も数多くあるようです。 (写真があります) 江戸の火事 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/江戸の火事 抜粋 関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回もの大火が発生した。 大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、1601年からの100年間で269回、1701年からの100年間で541回、1801年から1867年までの67年間で986回となり、人口の増加による江戸の繁栄に比例して、火事の回数も増加していった。