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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸の総町数。)

江戸の総町数と町の増加要因

このQ&Aのポイント
  • 江戸の総町数は、正徳3年(1713)の933町から延享年間(1744~1748)には1678町に増えました。
  • 町数が増えた理由は、町地の強制移転による「代地町」の増加と、居住町人の増加による寺社門前町の町奉行支配です。
  • 町地の強制移転により元の町地は無くなり、その分の町数は減った可能性がありますが、代地町の町数が増加したため総町数は増えました。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fumkum
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回答No.4

NO2です。急いだので、西暦を間違えましたので、訂正します。延享2年は西暦1745年でした。 ところで、延享2年の門前地等の町奉行所への移管ですが、移管理由の出典ですが、『体系日本史叢書6 土地制度史1』です。延享年間の町数の増加は745町ということですので、その9割は門前地等の町奉行所支配に移行によるものということになります。 なお、町地を強制移転させると、元の町地はどうなるかですが、ケースバイケースですが、元の町地が少しでも残る場合、元の町名は残った部分に用いられ、代地町については新しい町名を用います。また、代地町が一町と限らず、数町に増える場合もあります。吉原はもともと現在の日本橋人形町あたりにあり、一町だったのが、浅草田圃に移って5町になっていたと思います。また、元の吉原は元吉原として存続していたと思います。 根本的なことですが、江戸ご府内と言えども農地が存在することです。江戸は武家地・寺社地・町人地だけではなく農地も存在し、年貢等については代官支配、行政、警察機能等については町奉行支配という二重支配を受ける土地も存在します。浅草田圃、吉原田圃という言葉も、元々は田圃があったことに由来します。ですから、江戸の中でも農地から町屋に移り、町数が増える要素があったことになります。初期については埋め立て等により増加することもあります。 まとまりませんが、参考まで。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく解りました。 「延享2(1745)年に、一括して門前地440町、境内地227町を一括して町奉行支配地に移管」したのですね。 そして、移管した理由は「門前地等の住民が増えるとともに、寺社奉行支配地をよいことに、風俗関係の店などが増え、風紀が乱れ、大名である寺社奉行では、取り締まることが難しいなどの理由」によるものですね。 >延享年間の町数の増加は745町ということですので、その9割は門前地等の町奉行所支配に移行によるものということになります。 そういうことですね。 東京都公文書館のサイトの説明では、 「町地の強制移転により「代地町」が増加。 居住町人の増加により寺社門前町を町奉行支配に。」となっていたので、「代地町」の増加の方が多いと思っていました。 すっきりしました。 ご教示に感謝申し上げます。 ところで、市立図書館に山川の『新体系日本史3 土地所有史』があったのですが、いつのまにか無くなっています。 同じシリーズの『流通経済史』『国家史』『産業経済史』も無くなっています。 どうも怪しからぬ奴が居るようです。

その他の回答 (6)

回答No.7

bungetsuです。 付け加えてお話するならば、(よもやま話) 両国橋ができて、両国、本所、深川が発展しはじめ、それに伴って、以下の料亭などが有名になりました。おそらく、当初は別の場所、例えば、神田とか日本橋辺りにあったと思われますが、移転をして店構えなども立派になったことも一つの要因かと考えます。 両国: 「ぼうず志ゃも」・・・天和年間頃(1681~)創業。軍鶏鍋で有名。 深川洲崎: 「枡屋望汰欄」(ますやぼうだらん)・・・明和年間頃(1764~)から隆盛を極めた。 向島: 「葛西太郎」・・・天明年間頃(1772~)から隆盛を極めた。 これらの年代以前は、宴会場と言えば「吉原」でしたが、江戸の各地に趣向を凝らした料亭が誕生し、利用客も年々増えていきました。 しかし、当時は浅草から通じる「東橋」(現・吾妻橋)と南の両国橋しかなく、駒形橋や厩橋、蔵前橋などはありませんでしたので、交通的には非常に不便でした。 そこで考え出されたのが「猪牙舟」(ちょきぶね)でした。 この猪牙舟で、料亭専用または料亭の近くの河岸へ乗りつけるのが「通」と言われました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 「よもやま話」は楽しみです。 ちょっとだけ、江戸を見た気分になりました。 東京へ出張時、東京の仲間が深川近くに宿をとってくれたことがありました。 深川は、情緒があるぞ、と言ってました。 確かに、宿近くに木場があって、潮の香りがしたような記憶があります。

回答No.6

そうそう、言い忘れました。 一部の住民・・・と簡単に書いてしまいましたが、 主に、料亭や茶屋などが、それまでより広い土地が与えられる、ということで移転をしました。 深川芸者・・・と聞いたことがあるかと思いますが、こうした料亭や茶屋の移転に伴って、それに関連した商売の人たちも移住したのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答真にありがとうございます。 よく分かりました。 >これは、当時、密集していた町(例えば、日本橋、神田、本郷、小石川など)の >一部の住民を代替え地(例えば、両国、本所、深川など)へ移転させ新たな町を形成したため、 >旧町数はそのままで、新たに、代替え地に町数が増えたためです。 なるほど!そういうことですか! そして、「主に、料亭や茶屋などが、それまでより広い土地が与えられる、ということで移転」したのですね。 私は、幾つかの町が、町丸ごと強制移転させられたと解釈していました。 ご教示に感謝申し上げます。

回答No.5

これには、やはり、明暦の大火が関係しています。 開幕以来自然増加に任せて、ある意味では、庶民も商人も空地を見つけては自由に土地を手に入れて町を形成してきました。特に寺院等も普通の町家と接しながら広大な地所を所有し、かつ、比較的と言うよりも、かえって繁華な場所に構えていました。 また、御三家を筆頭とする大名屋敷も千代田城近くに広大な地所を与えられていました。 江戸の道路は軍事用道路でしたが、年を追うごとに、町屋が競り出して道路も狭まってしまい、当初の役目を果たさなくなってしまいました。そこで、幕府は北の浅草方面の開発を考えていたところ、幕府としては好都合にも明暦の大火が発生しました。 浅井了意(あさいりょうい)の「むさしあぶみ」という本によると、この大火で大名屋敷500余、寺社300余、商家の蔵9000余、橋60、道路の全長にして22里8町。町家の数は判明せざるが、(これまで府内と呼ばれていた)全江戸と言っても可なり。と書かれてあるように、千代田城を除いては一面が焼野原となりました。なお、千代田城でも天守閣が消失しました。 これにより幕府は、直ちに新たな街造りに着手をし、例えば、神田明神下にあった東本願寺を浅草へ、築地本願寺も日本橋横山町から築地へ、吉祥寺も本郷元町から現在の武蔵野市へ、また、御三家なども城郭内にありましたが、水戸家は小石川へ、尾張家は市ヶ谷へ、紀伊家は赤坂へと移転をさせられました。 明暦3年6月、道幅を広く確保し、大通りは10間、中通りは7間、その他は7間~5間とする。さらに、火除け地や広小路と呼ばれる空地を各所に設置するという令を発しました。 これにより、区画整理が行われ町数も600余から700余に細分化されました。 しかし、その後も町屋は増え続け、府内もまたまた手狭になっていきました。そこで、万治2年(1659)<寛文元年(1661)の説もある>に両国橋ができ、下総国の一部(本所、深川など)が江戸の範囲となったこともあり、それまでの府内が2里四方から4里四方へと拡大していきました。そして、延宝7年(1679)の調査では808であった町数も正徳3年には933にまで増加しました。 前置きが長くなってしまいましたが、 さて、そこで「町地の強制移転・・・」の件ですが、 これは、当時、密集していた町(例えば、日本橋、神田、本郷、小石川など)の一部の住民を代替え地(例えば、両国、本所、深川など)へ移転させ新たな町を形成したため、旧町数はそのままで、新たに、代替え地に町数が増えたためです。 次に、「寺社門前町を町奉行所支配に」ですが、 江戸時代は、現代のように遊園地などありませんでしたので、寺社は広大な地所もあり、桜や菊、もみじなど四季を通じての恰好な遊覧地だったのです。そして、人が集まればそれを目当てに商売をする店も増えていき「門前町」が形成されました。しかし、この人が集まるが「くせもの」で、縁台を軒に並べて休憩するための小さな茶店などはともかくとして、お大尽や武士たちの憩いの場として茶屋(出会い茶屋)なども立ち並び、中には、春を売る茶屋なども出現しはじめました。 寺社奉行は寺社およびその関連を見回り管理、監督する権限はあっても、風俗取り締まりの権限はなく、言って見れば「野放し状態」でした。そこで、町数の増加に加えて門前町も町奉行所の管轄としたのです。

回答No.3

私文書で申し訳ありません。 意味(あなたの言わんとすること)が分かりました。 今夜は、ただいま来客中ですので、明日、その件については詳しく回答させていただきます。ごめんなさい。

  • fumkum
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回答No.2

こんにちは 1についてですが、恰好の例があります。明暦の大火の後に、神田の連雀町を火除け地にするために移転させた例があります。連雀商人は現在の三鷹市に移転させられ、上下の連雀町となり、元の連雀町も近くの筋違橋近辺に移動させられ、住民も移動します。火除け地だけでなく、武家地、寺社地にするための町及び住民の移転もあります。 http://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/renjaku.html 2についてですが、寺社門前町を町奉行支配にしたのは個別の寺社の移転ということではなく、延享2(1719)年に、一括して門前地440町、境内地227町を一括して町奉行支配地に移管しています。これは、門前地等の住民が増えるとともに、寺社奉行支配地をよいことに、風俗関係の店などが増え、風紀が乱れ、大名である寺社奉行では、取り締まることが難しいなどの理由で、移管されます。 それ以外の町数の増加ですが、江戸が発展するとともに、江戸の内外で農地が町屋に代わり、新たな町ができ、さらに今まで江戸の範囲外であった地でも町屋が出来ると、江戸府内に移管されて行き、江戸の町数が増えることになります。江戸の範囲内でも農地などであった地に町屋ができ、それが町として認められたものが江戸中期で250余町あります。先日巣鴨について調べていた時に、巣鴨は江戸中期に中山道沿いの地に寺社奉行により町屋の建設が許可になり、江戸後期にご府内(町奉行支配地)に移行しています。このように代官地から江戸ご府内に移管した町数が、江戸の初期でも200町強あります。また、本所・深川地区が本所奉行支配を経て、町屋について江戸町奉行の支配に享保4(1719)年に移行したことも江戸の町数の増加に貢献したともされます。 以上、取り急ぎ参考まで。

回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>1.町地を強制移転させると、・・・ まず、江戸の街で開幕後、整備が行われたのは、明暦の大火(明暦3年(1657)1月18日~20日・別名「振袖火事」)が大きな要因となりました。 当時、幕府は府内での武家地が少なくなってきていたため、浅草方面の開発を考えていました。しかし、どのようにして町民を移転させるか悩んでいたところ、天から降ってわいたように、火災が発生し府内のほぼ全域が消失しました。 幕閣は、「これ幸い」とばかり、府内にあった寺社をお城から遠くへ、そして、お城の近くに風俗店があるのは「風紀上よろしからず」とばかり、吉原遊郭も街ごと浅草方面への移転を命じました。 巷では、この火事について幕府の陰謀説さえささやかれたほどでした。 >>その分の町数は減るはずです。 町民の移転は基本的にはありませんでしたので、町数の変動はそれほど極端に(全くと言って良いほど)減少はしていません。 寺社や吉原を移転しただけで、ご存じのように、当時は寺社は広大な土地を保有していましたので、これらの寺社や吉原を移転しただけでも新たな十分な武家地の確保ができたのです。 >>2.寺社門前町で町奉行支配になった具体例を教えてください。 例えば、西本願寺が横山町→築地へ、東本願寺が神田明神下→浅草、霊巌寺が霊巌島→深川、山王権現社が三宅坂上→溜池上、へそれぞれ移転をさせられたため、これらの寺社の門前町は寺社奉行から町奉行所の管轄となりました。 >>3.延享2年(1745年)2月、六道火事が発生しています。町数が増えたことに何か関係ありますか。 この時代になると、幕府も庶民も安定期に入っていますので、江戸への流入者も増え、府内と呼ばれる地域も、現在の上板橋らか王子方面にまで広がりました。特に、六道火事が増加の原因とは結びつかないと考えます。 あなたの貼ったURLにもありますが、 >>文政元年(1818)8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。 この時、幕府から初めて御府内の域が示されました。 下記URLは御府内(赤線、朱線、または、朱引図と言います)。黒線(墨線とも呼ばれました)は町奉行所の常町廻り同心の受け持ち範囲を幕府が回答したものです。 しかし、目黒あたりでは朱引図の外に墨線が引かれるなどの矛盾もありました。 http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 質問文が拙くて、お聞きしたい主旨がうまく伝わっていないようです。 延享年間(1744~1747)に「745町も増えて、1678町になった」理由ですが、 東京都公文書館のサイトでは、 「町地の強制移転により、代地町が増加。 居住町人の増加により、寺社門前町を町奉行支配に。」 と説明されています。 「町地の強制移転により、代地町が増加」の意味が分かりません。 例えば、新橋でもどこでもよいのですが、そこにあった町地を取り上げて大名屋敷にするとした場合、新橋にあった町名は無くなりますね。 町名の数だけ「町数」も減ると思います。 代わりに「代地」が与えられて新町(代地町)ができると、できた数だけ町数が増えますね。 単純に考えると差し引きゼロで、町数は変わらないと思います。 しかし、現実には何百も町数が増えているので、疑問です。 「居住町人の増加により、寺社門前町を町奉行支配に」の意味が分かりません。 寺社門前町に住む町人が増えたので、町奉行が支配することになった。 そこで、新しい町名を付けたので、町数が増えたと言うことでしょうか。 それにしても何百と増えているのが疑問です。 いつもしつこく聞いてすみません。

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