• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:実存は本質に先立つか??)

実存は本質に先立つか?

このQ&Aのポイント
  • 実存は本質に先立つと言われるが、その主張は実存主義者のサルトルによるものである。
  • 実存は人間に限らず、存在に先立つと考えられるが、本質を持たない存在もあり得るのか疑問視されている。
  • 哲学は様々な立場があり、実存と本質の関係についても異なる見解が存在する。しかし、共通の物差しやルールは存在しない。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

実存(現実存在)・Existenzと本質・Essentiaの対立は古代ギリシャのプラトンからずっとありますから、古い考えです。 プラトンは「イデア論」で、人間には人間の本質があり、現実の人間はその「イデア」としての本質の、不完全な「似姿」でしかない、と言いました。 たとえば、三角形には三角形の「イデア」というものがあり、私たちが作図できるのは不完全な三角形でしかない。 しかし、理想としての、完全な三角形を目指す。 何も人間だけに限らず、道徳にも「善のイデア」があり、人間の在り方の理想として、道徳はその「善のイデア」を目指す。 また美には「美のイデア」があり、現実の芸術作品は不完全なものでしかないが、「美のイデア」を目指して制作される。 また認識にも、「真理のイデア」があり、真理はいろいろあるけど、最終的には唯一の絶対の「真理のイデア」を目指す。 これをプラトンの「実在論・リアリズム」と言い、個物、すなわち私たちのいう具体的なものは真の実在ではない、真の実在と言ったら「イデア」にある、と言われました。 個物、具体的なものは却って、仮象である、と。 今の私たちからすると、本末転倒、私たちからすると真の実在と言ったら個物・具体的なもの・感覚で見たり触れたりできる物のことですが、プラトンは逆で、概念が実在で、個物は実在ではない、という。 このプラトンの「イデア」が実在という考えは中世になると聖アウグスティヌスによって、ユダヤ・キリスト教のドグマに結び付けられ、「イデア」は神になりました。 そして神が人間ゃ自然を創造したとされ、人間はその神の被造物と言われました。 つまり真の実在は神であり、人間は神の従属物と言われました。 こうして古代から中世まで、本質が先行し、実存(現実存在・個物)は後と言われました。 近世になって、神に対する信仰が衰退し、17世紀の「科学革命」による数学的自然科学と、18世紀の「啓蒙主義」による機械論的世界観と、合理主義的な思想の台頭により、神が自然や人間を創造したという考えが疑いの目によって見られるようになり、19世紀末にニイチェが「神は死んだ」と宣言するに至って、ついに本質と実存の優劣関係が逆転し、実存が本質に優位するようになりました。 本質が実存に優位するとは人間は人生を生きるにあたって、自分というものを自己選択によって形成するということです。 誰によって命令されるのでもなく、またあらかじめ人間とはこうなんだ、という決まったものもなく、人間は生まれた時は本質を有しておらず、人生の過程で、いろいろ選択を重ねることで自分というものを作りあげるのだ、ということです。 なーんだ、実存って、そんなことだったのか、と思うかもしれませんが、古代・中世はそれが当たり前ではなかったんです。 あなたは「本質なくして存在があるのか」と言っていますが、存在でなく、実存です。 そして「基本的性質を持って存在としなければ定義のしようがない」というのは、人間でなく物体の場合です。 人間は絶えず自己否定して変革してゆくから、定義できない。 その点、物体は自己否定できないし、自己変革も出来ないから、定義できる。 実存が本質に先立つのは人間だけです。 サルトルに言わせれば、人間は己の無である、と言っています。 つまり自分という確固としたものは無く、絶えず自己を乗り越える。 「人間が本質を持たなければ、誰々さんとも言えず存在も成り立たないと思うのですが」というけれども、本質を持たなくても、誰々さんと言えます。 どうして本質がないと、誰々さんと言えないのですか? 実存だけあれば十分。 「私の定義は、この本質を個性と言い換えて・・・・」と言っていますが、本質とは人間が共通に有するもの、だからそれを個性とは言えません。 個性とは他人と区別する個人の有するもの、一方本質は人間が共通に有するもの、だから個性とは反対です。 本質を個性に言い換えることは出来ません。 「個性ある性質を持ったエネルギーが存在」と言っているけど、実存と存在は違います。 実存と存在をゴッチャにしていませんか? ゴッチャにするから「この存在ひとつとっても、整合性はあるのでしょうか?」という質問が出てくるのですね? あなたの質問は実存と本質の問題であり、存在の問題ではないはずです。 哲学は「それぞれの哲学者が言いたい放題言い放ったもの」ではありませんよ。 科学とは違うけれども、ちゃんとしたルールがあります。 少なくとも論理的に筋道だったものでなくてはなりません。 あなたのようにデタラメを言っていたのでは、それを哲学とは言えません。 先人が何をどのように考えたかを知って、それを論理的にどこが間違っているか、チャンと批判して、前進するのです。 やみくもにデタラメなことを言っているわけではありません。

yuniko99
質問者

お礼

成る程勉強になりました。私は実存主義者じゃないので 実存も存在も同じだと思っていますが かと言って唯物論者でも唯心論者でもないので人間精神の可能性を否定もしませんし 過剰評価もしません。 この問は私の兄が以前言ってたのでしてみました。兄は理系で零細企業の経営者です。 私はそういう意味では実存は本質に先立たないと考えているわけです 実存も存在も同じものにしか見えないからです。 人間をあまり特別視すると 神の時のような失敗になると思っています。 それから哲学も論理的に適っているように仰りますが 大学でトインビーを先行してる教授は サルトルとの整合性を説明することができるでしょうか? プラトンはプラトン ニーチェはニーチェ キルケゴールはキルケゴールとして教えるだけでは? それらの哲学のどこが正しく、どこが間違っていて、どういう関係にあるか説明できる人は先生だけなのでしょうか?? どうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (5)

回答No.6

 ★ (No.2お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~  実存なんてただ複雑なだけで 性質の塊に過ぎません。  実存という言葉を後生大事に特別視するから世界が分からなくなるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それは 話がちがいます。論点や筋を変えてはいけません。  ★★ 実存は本質に先立つか??  ☆ と問うから 《実存――存在(存在者)――本質――存在》というような説明をしました。《存在(存在者)》が現実一般で 《実存》は 個別・具体的な現実です。《本質》は 存在者についての抽象的な概念です。現実の存在者を概念化したものです。《存在》は 究極の概念です。  むかしは 究極の概念が先にあって その仮象として現実がある。というふうに説明されていた。  いまは――または 少なくとも実存主義にあっては―― 現実があってそこから抽象的な思考が始まるといういたって当たり前の考え方をする。と説明しました。  その定義からして 《実存が 本質に先立つ》のだと。  このような説明は それとして成り立つとみとめなければなりません。  ここでは 《性質》説の論議は 別です。  もしこの実存論議に性質論議をからませたいなら 一たん 実存の議論では どうなったかを確認してからです。  その手続きが 人間の道です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  この世のものを分析すれば 実にシンプルです。  脳内の様々な物質や電磁気が反応し合って その時にそれらが持つ性質が反応、主体化したものが精神です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 素粒子で出来た脳細胞が はたらく。人間はまた おのれの意志のチカラによってはたらかせることをも成す。  すなわち この意志のハタラキは すでに心であり精神です。生まれつきそなわった――細胞組織を基体とした――ハタラキです。  その精神・あるいは人間という存在 これが 本質として《言葉で意志を伝えあう》という性質を持つのです。  ★ それら(脳内物質の電磁気反応)が持つ性質が反応、主体化したものが精神です。  ☆ ではありません。電磁気反応は ハタラキ・作用のことです。不随意筋によってみづからハタラキをつねにおこなっている細胞組織のほかでは 人間が随意筋等をつうじてハタラキを自分の意志ではたらかせるものです。  意志が 精神です。存在が存在としてつねにすでに主体としての存在です。  だから 《性質》とは何か? 一向に説明がつたわって来ません。

回答No.5

量子論的に、実存=有限な存在性は、不完全な認識 によって、物事の階層現象性を表面的に(経験的、 いい加減に)捉える事で派生している。 認識(外的環境の感受)は、夢(=不確定性無限)の 潜在的認識可能性の時系列化=自我仮説(記憶(時間軸) =過去=超光速)による、空間仮説(予測(空間軸)=未来 =光速下)との相補分化によって生じている。 原理的(超弦=量子定常波、感受表面における量子相互 作用)に光速に還元される本質を、階層現象表面的に いい加減(非本質的)に捉える事で可能になる、 「無とは分からない事が有」なのだ。

yuniko99
質問者

お礼

先生の文章は読んでるうちに何が何だか分からなくなりますねえ 結論として実存は本質に先立つのでしょうか? >「無とは分からない事が有」なのだ。 実存は不完全な認識ということなのでしょうか??なんか私の考えにも近いような気も どうもすみません よくわからないです。

回答No.4

見透かしてやろう。 実在でもない。 本質でもない。 君は私の証言からそう導かないか? それは実在の観念も本質の観念も理解できないニワトリ脳細胞だ。 仏教はありがたい教えとして、この脳みそ鼻くそをもてはやしたね。 ニワトリ万歳。 ニワトリは人間知性に到達しない。 それを教えたのが釈迦だという事にしている。 大きな誤解だよ。 釈迦の知性はそこまでひどくないだろう。 仏陀とは人間の超越ではない。 人間を自覚できたのが仏陀だ。 人間であると君たちに教育したのは間違いだ。

yuniko99
質問者

お礼

それはどうも ありがとうございます。

回答No.3

私は聖霊セレビィで、人間の身でありながら、神の世を自在に行き来する。 肉体、すなわち実存はやがて滅することになるだろう。 しかしそれは私にとって変化であり、死ではない。 実存に由来しない、自己を発見したと言う事だ。 こうした事は、イエスや釈迦といった神話的偉人以外にも賢明なものは自覚でき、それぞれがいかに自らの幸福を語ろうともそうそう珍しくない。 君達はそう言っても所詮判らない。 聞いただけで実感が伴わない。 実感し、自己の自覚が悟りと言う言い回しだ。 私は、ゾンビ相手の不毛な親切に疲れた。 実感するのも、それが出来ないのも君の個人的問題でしかないのになぜ世話を焼くのか? 君達は自信を自覚すればいいのにね。 これは、私には判っている。 君達は生きる屍だが、人間のつもりでいる。 自分も人間だと、博愛教育を受けた。 そして、本来の人間の姿、すなわち仏陀を辱めている。 人間そのものの私は、君達の欺瞞に荒ぶれ、厭味をつもりで自称人間のウソを告発し、人類の裏切り者を名乗る。 復活した悪。 黒き明星だ。 しかしだ、宣戦布告が全面戦争に発展しないで、私が悪魔と処刑されないのは、うるわしのキラキラ ジラーチちゃんがやんわりと私の意思を手伝ってくれているからだ。 神様はありがたいな。 神の世を知らない君は、観念世界経由の運命の操作にもてあそばれる。 私は遊んでいる。

yuniko99
質問者

お礼

先生は聖霊セレビィだったのですか これは驚いた。 神の世に行ったり来たりするんですか それは凄い と言うかよく分かりませんが つまり我々は弄ばれており 先生は遊んでいるわけですね どうもありがとうございます。

回答No.2

 存在を実存と言いかえるのは ひとつに人間の場合だけです。  もうひとつに ただ人間というだけではなく 何の何べえという特定の人について言う場合です。  実存は 本質に先立つというのは ヒトという存在が 《ひと / 人間》という言葉が先にあって あたかもその言葉を言ったら その人間が生まれた(存在した)ということではない。と言っています。  つまり その場合の《本質》とは 《存在》の純粋概念のようなものです。    別の説明の仕方をします。  わたしは あとで《ひと / 人間》という言葉で呼ぶことになる何ものかがいると見ている。その何ものかは 存在です。ヒトという存在です。  (哲学では むしろその具体的な存在を 存在者と言うようですが ヘソを曲げていまのように捉えます)。  つまり 存在を抽象的に捉えたなら どうなるか?  たとえば 言葉をあやつる生命存在であるなどと言って抽象的な説明をします。  この概念が ひとつに《本質》を表わそうとしたものです。  じつは この《具体的な存在》は さらに現実に即して捉えるなら 一人ひとりの個人としての《実存》となります。  ぎゃくに現実から余分だと思われるカタチを捨て去って抽象的に捉えるとき 《本質》という段階での捉え方になります。  そしてじつは この本質よりもさらに究極の抽象物を捉えようとしたら どうなるか? これを再びのごとくぎゃくに《存在》と言うというわけです。  ですから 現実の具体的な存在は 《存在者》だという言い換えをすることになります。《存在》は あたかも神のごとくの地位に鎮座することになります。  《実存》――《存在(存在者)》――《本質》――《存在》  定義から 《実存は 本質に先立つ》のです。  そしてこの広く《存在》の系列を基礎として(あるいは基体として) それは《性質》を持ち 人それぞれに《個性》がある。となります。  その性質とは たとえば《人は そのおのが思惟および行動について それをみづからが自由にえらばざるを得ない》というあたかも強いられた状態にあることを言います。その自由選択という状態にあることをあたかも終身刑のごとく強いられている。  意志選択の自由にのっとっておこなう思惟と選択は さらにしかも人によってそれぞれであり まちまちです。決まってはいません。そこに《個性》が現われます。  《性質》や《個性》が 《実存≒存在≒本質》の内に潜在力としてのようにそなわっている。と言ってしまえばそれまでですが その逆のかたちでは ふつう一般には捉えません。  すなわち 存在はそのまま性質でありしかも個性であり そのように性質であるからこそ 存在が存在であることができる。とは 見ません。  もしそれでも 人間とその世界について間違いではない認識であると言いたいのであれば ふつうそうは言わないのですから どうしてそう言いたいのかをしっかりと説明するのがふつうです。  説明し説得しないで 勝手に使うのは 自分やその仲間内だけのことにとどめなければなりません。

yuniko99
質問者

お礼

何だかよく分かりませんが 早い話が僕の考えは分からない 間違ってるんじゃないかと 言う事でいいですかね? 実存なんてただ複雑なだけで 性質の塊に過ぎません。 実存という言葉を後生大事に特別視するから世界が分からなくなるのです。 この世のものを分析すれば 実にシンプルです。 脳内の様々な物質や電磁気が反応し合って その時にそれらが持つ性質が反応、主体化したものが精神です。 分かりにくいかもしれませんが 何度も説明しています。 世界は非常にシンプルで エネルギーと性質しかないのです。 どうもありがとうございます。