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存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー・物質

と定義してみました。 まずエネルギーと物質は同様のものと考えてください。エネルギー(物質)も 物質(エネルギー)でも定義に差し支えるので。エネルギーだけでもよかったのですが 素粒子、量子、超ヒモ、超弦、M理論を考えると エネルギーと書いてしまうと 科学通の方にお然りを受けるので エネルギー・物質 と書いているだけです。 取り敢えずエネルギーも無いところには性質も無い。性質のないエネルギー・物質もなければ エネルギーのない性質もありません。つまり幽霊は居ないと言う事です。 存在の基本は「エネルギーが在る事」であり 当然そこには「性質」も在って、量と質の二元が在る事になります。 科学はこれを測定するために観測などをして実験して証明しなければなりませんが 哲学はそれが出来ない世界も考えることが出来るのです。 性質の存在は「精神は性質で出来ている」ので心の世界「唯心論も」を考える時に重要です。 そして(個性ある)としたのは 個性を持って「存在」と考えないと、何処から何処までがつながっているのか?その実態はなんなのか?などと言い始めたら定義ができないからです。 酸素なら「酸素分子」「酸素原子」「酸素の同位体」オゾン等々の個性を認めないと 「ここには酸素が存在する」と言えなくなってしまうのです。 色即是空とか言い出したら訳が分からなくなります。それがいいと言う人は、酔っ払ってるようなものです^^ 人間でも私「ゆにこ」ならゆにこの性格や体。五体満足か病気はしてないか?ゆにこの能力 知能指数(75?^^)ゆにこの思想などを「ゆにこ」の個性としなければ 荒井さんも山川さんも近藤さんも 1だ 数学の一人 1に過ぎないとか言ったら 私の存在もあなたの存在も味噌も糞も一緒になってしまいます。そこに個性で存在を認めなければ訳が分からなくなります。酩酊してしまうのです。 この様に定義しましたが 如何でしょうか?

みんなの回答

回答No.16

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  平等の能力を持っているでしょうか?  平等の価値観を持っているでしょうか?平等の寿命を持っているのでしょうか?  等しく平等に扱われているのでしょうか?健康だって平等じゃない  給料も平等じゃない。運不運も平等じゃない。一体何が平等なのでしょうか??  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その《持つ》のは 何がですか? 誰がですか?  《平等である・ない》の主語は 何ですか? 誰ですか?  人間が でしょう?  だったら この《人間》がすべてに共通のものとしてある。平等・対等である ではないですか?   個性は そのあと。  ようく考えてから ものを言いなさい。  それに 《性質》とは何か? これについてまったくこたえる気配がない。  不法行為です。  あなたは 死に神の子分でしょう。人びとを 知らず知らずの内に 死の世界へと誘い込もうとしている。  不毛の砂漠なんかではなしに 死の世界です そこは。

yuniko99
質問者

お礼

性質は、物質やエネルギーが持つ量にに対して必ず働く、その状態に於ける真理に従った特色を持った作用、相互作用です。 とまで言わなくても人それぞれ違うが「性質」という言葉の語感にある作用のことです。 性だけ書けば分かるでしょうし 質だけ書けばわかるでしょう それから想像してください。 人間が平等だ?人間であると言う定義に於いてのみ平等ですね どうもありがとうです

回答No.15

 ★ (No.14お礼欄) ~~~~~~~~~~~~  人間が 一 だったら大変なことになります。みんな同じだということになります  そこには性別も名前も価値観も思想も区別がありません。人間を数字で数えるなど有り得ません。  実存が本質に先立とうと、本質が実存に先立とうと 個性がないと存在は論じられません  この宇宙に全く同じものは一組もないのです。素粒子だろうと紐だろうと弦だろうと膜だろうと 全く同じものはないのです。  個性があるのです。おわり。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《個性》が無いとは誰も言っていません。  そういう読み違えは 犯罪のおそれがあります。哲学としてはです。  もし《個性がたとえ無くとも 存在はあり 存在について論じることができる》のでなければ こうやって話し合いをすることは出来ません。  日本語なら日本語としての言葉は 同じものを使いますが その表現のかたち・あるいはつまりそのかたちが表わし得る内容によって 人それぞれの思想があり得ています。  人は人として その存在が同じなのです。この平等ゆえに・平等という共通の基盤から 自由な意志の発揮がそれぞれの人に現われます。  その存在の上に一人ひとりの――〔思考および〕意志の用い方によって――文体が違って来ます。そこに個性が現われます。  この一点にとどめます。  ★ 人間が 一 だったら  ☆ うんぬんと言っていますが 《数としては》という条件を付けています。この読み違えも 犯罪行為です。  数量としては 同じ《一》でも たとえば 文体によって《香り》が違うようになります。   犯罪行為としての自己表現に成る文章は 萎れた花の腐った香りがします。  基礎ないし土台を築いて行く哲学の作業は そのまま建設的であるという香りです。いのちの萌える匂いです。

yuniko99
質問者

お礼

命の萌える匂いは結構ですが、個性を持って存在の単位としないなら 何を持って存在とするのか 考えてみて下さい。 何処からどこまでが存在なのでしょうか?例えばこの地球上のものは全て色んな関係の上になっています。 酸素分子になってる時 酸素原子の存在は認められるのでしょうか? 人間存在とういのも人に言わせればに寝現存在が全てであって 心の宇宙が全てであり 何処から何処までが存在なのか心なのかもわかりません。 人の平等なんてありません。平等という事にしとかないと話が始まらないから 平等に と言うだけです。平等の能力を持っているでしょうか? 平等の価値観を持っているでしょうか?平等の寿命を持っているのでしょうか? 等しく平等に扱われているのでしょうか?健康だって平等じゃない 給料も平等じゃない。運不運も平等じゃない。一体何が平等なのでしょうか?? どうもありがとうございます。

回答No.14

 ★ 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー・物質  / と定義してみました。  ☆ 《モノ(質量)がコト(エネルギー)である》というときのモノを軽いかたちで まづ《そのモノがある。有るモノ》という表現で捉える意味で 《存在》とも呼ぶ。という順序なのではないですか? そもそも。  《個性》の問題をあとにのこします。    ★ 取り敢えずエネルギーも無いところには性質も無い。性質のないエネルギー・物質もなければ / エネルギーのない性質もありません。つまり幽霊は居ないと言う事です。  ☆ どうしてそのことが 《幽霊は居ないと言う事》になるのでしょう?    《個性》ないし《性質》が いきなり出て来ます。まだ定義されていません。    ★ 存在の基本は「エネルギーが在る事」であり 当然そこには「性質」も在って、量と質の二元が在る事になります。  ☆ やはり モノが先でしょうね。《存在》があって モノがあるというわけには行かないでしょう。《ひと》があって 人間が生まれて来るわけではないでしょう。  《量と質》は モノにそなわる特徴です。一口でモノと言ってもそれぞれは違った要素で成り立っていて ただし物指しを作ればそれによって別の要素でも或る程度同じ基準でその《量》を測ることができる。  これは 量と質とは おなじモノの備えた特徴であって そのことは モノがそれら二つの独立した要素から成っていることを意味しません。つまり 《二元》ではありません。《元》というのは げんみつにはそれがそれだけで独立している場合を言います。いまの場合は 認識すべきふたつの側面があるということだと見ます。  《性質》とは何か? まだ分かりませんね。重なる部分があるようにも見られますが。  ★ 科学はこれを測定するために観測などをして実験して証明しなければなりませんが / 哲学はそれが出来ない世界も考えることが出来るのです。  ☆ あいまいな表現だと考えます。  哲学は 一般にモノについての自然科学の――量および質にかんする――認識を基礎として モノから成る世界にあってモノからさらに広がって認識をおしすすめます。  科学のうちすでに社会科学は 必ずしもその問い求めが――自然科学のようには――誰が認識しても同じ内容に成るとは限らない。一定の条件を前提してその限りでより一層いわゆる客観的な世界認識を得ようとつとめます。近似値を捉えると言いますか あるいは ある時代ある地域における部分領域的な認識として普遍性をめざします。  そういう場合社会科学も 《観測をしそれなりに量や質を測定する》ことをおこないます。歴史の推移において後付けとしてなら ある種の《実験》をおこなったと見なして それとしての認識材料とします。  あとは 人文科学です。これは すでにモノを認識としたその概念としての中身を超える場合が出て来ます。モノとの対応を超えて あたまの中の想像によって飛躍することがあります。さきほどの《幽霊》という観念のごとくです。  初めはモノにもとづく認識でありその概念であったものが 《こころ・精神・たましい・霊》などというように 基礎概念からあたまの中の想像としてのみによって表現が成されるところの《観念》として持たれるようになります。  人文科学は この観念をも交えて 世界認識をおこないつつ自己表現をおこなう場です。  哲学は このように常にモノについて・世界について・世界認識についての科学について常にその基礎を問い求め いろんな科学やふつうの思惟・行動を交通整理します。  ★ 性質の存在は「精神は性質で出来ている」ので心の世界「唯心論も」を考える時に重要です。  ☆ 《性質》は まだ一向に明らかにされていません。  ★ そして(個性ある)としたのは 個性を持って「存在」と考えないと、何処から何処までがつながっているのか? その実態はなんなのか? などと言い始めたら定義ができないからです。  ☆ よく分からないので 保留しつつ次へすすみます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  酸素なら「酸素分子」「酸素原子」「酸素の同位体」オゾン等々の個性を認めないと / 「ここには酸素が存在する」と言えなくなってしまうのです。  色即是空とか言い出したら訳が分からなくなります。それがいいと言う人は、酔っ払ってるようなものです^^  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ モノには質と量とがあるから 別に問題はないのでは? でもまだよく分かりません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  人間でも私「ゆにこ」ならゆにこの性格や体。五体満足か病気はしてないか? ゆにこの能力  知能指数(75?^^) ゆにこの思想などを「ゆにこ」の個性としなければ  荒井さんも山川さんも近藤さんも 1だ 数学の一人 1に過ぎないとか言ったら  私の存在もあなたの存在も味噌も糞も一緒になってしまいます。そこに個性で存在を認めなければ訳が分からなくなります。酩酊してしまうのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ はっきりつかめませんが なかで:  ★ そこに個性で存在を認めなければ訳が分からなくなります。  ☆ は マチガイでしょう。  ここは 存在としても《ひとの存在》をあつかっているようです。  この《人間》は 数で表わすなら 個々の存在が《一》であるとしていいはずですよ。  身と心とから成る自然本性として生まれて来る存在 この人間が 一人ひとり数として《一》であり 《一》でありつづける。これでよいはずです。  《個性》を言うとすれば この人間としての《一》なる存在は 動きを持つからです。なぜ動きを持つかと言えば 思考しその結果をどう行動に移すかについて判断するゆえです。判断をおこなうのは 意志であり これは一般に自由意志として捉えられています。  人間という存在は ヱクトルだと言いましたが それは一人ひとりその自然本性の中軸として《意志》をはたらかせるところから来ています。  自然本性の中身(質)が同じであっても たしかに人によってその量が違うかも知れない。(または 潜在力としてなら 同じであるかも知れない)。しかもそれだけではなく これら質と量としての・いまの場合は意志については その判断のあり方や判断内容の実行の仕方などにかんして 人それぞれだというところから――《個性》が――来ています。  この意志のハタラキにかんする個人差を言うなら  ★ 個性で存在を認めなければ訳が分からなくなります。  ☆ という命題は まったくのマチガイです。《存在》の内に自由意志を持つ。ゆえにそのハタラキをめぐって 人それぞれのあり方・振る舞い方が現われる。ゆえに《個性》が出て来る。――のであって 初めに個性があってそれによって存在が成っているなどということはありません。  意志の自由なハタラキによって 人それぞれに思想の内容に違いが出て来ます。  この思想とそれの社会的な実践のかたちなどなどについても 哲学は 基礎的な認識をおこない世界におけるそれらの交通関係を整理して行きます。  さて  ★ 存在とは 性質である。  ☆ とは どういう意味でしょうか? まだ定義はなされていません。百年同じことを言いつづける気か?

yuniko99
質問者

お礼

目に付いた所だけ書くと >《モノ(質量)がコト(エネルギー)である》 まず最初から分からないのですが モノ(質量)、トコ(エネルギー)と言うのは どういう事なのでしょうか?科学で言えば 質量もエネルギーの一種と考えられると思うのですが。 そのエネルギーが働いて起きるのが事なのでしょうね。 >>性質のないエネルギー・物質もなければ / エネルギーのない性質もありません。つまり幽霊は居ないと言う事です。 私の考えによると 霊と言うのは精神もそうですが性質で出来ているので エネルギーのない性質 つまり性質だけ 霊だけで存在することは有り得ない と言う事です。 「モノ」という言葉が多いようですが これはどういう意味で、何を表しているのでしょうか? 社会科学は複雑な事物の科学 と考えます。自然科学は単純な事物の科学ですから その法則も捉え得ますが 社会科学は複雑なので 人間が割り切ることはできません。 例えばいまの憲法問題でも 憲法が正しいのか それとも時代遅れなのか分かりません さらに人文科学は モノではなく 性質(サガ タチ)の科学だと思います。 精神の世界です。 人間が 一 だったら大変なことになります。みんな同じだということになります そこには性別も名前も価値観も思想も区別がありません。人間を数字で数えるなど有り得ません。 実存が本質に先立とうと、本質が実存に先立とうと 個性がないと存在は論じられません この宇宙に全く同じものは一組もないのです。素粒子だろうと紐だろうと弦だろうと膜だろうと 全く同じものはないのです。 個性があるのです。おわり。 どうもありがとうございます。

yuniko99
質問者

補足

腹痛が強いため今長文は読めません。 出来れば読みますが、なるべく端的にお願い申し上げますm(_ _)m

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.12

個性についてですが・・・ 確かに、酸素分子、酸素原子などの間には構造の違いがあるので、それは別のものだと思います。 では、同じ同位体の酸素原子の間には個性ありますか? 同じ同位体のどの酸素原子も同じものですか? さらにいえば、どの電子も同じものですか?どの陽子も同じものですか?どの中性子も同じものですか?それとも電子ごと1つ1つに個性があるのでしょうか?

yuniko99
質問者

お礼

この宇宙に同じものはないと思います。双子でも違いが出てくる様に 電子でも陽子でも、個性としては同様ですが違うのは違います。 スツミンさんも僕も同じ人間ですが、人間という個性は同じで 同じ人間存在ですが 個人としては違います。地球上に同じ人間は二人といません。 同様に電子としては同じ種類ですが、同じ電子は二つとありません。 状態が違うということです。 どうも大変ありがとうございます。

noname#212313
noname#212313
回答No.9

> 私は陽電子もエネルギーがあるならあるだろうと書いたのです。書いた甲斐がないです。  あるならある、とは無意味な陳述だと思いますよ? 別世界の穴である陽電子にエネルギーがあると認めるのなら、穴は「無い」とはならないですよね。エネルギーが「無い」のなら、陽電子ならずとも電子も「無い」ことになりますよね。そこまで話が進んだはずですよ。ちゃぶ台は引っくり返りません。質問者様のちゃぶ台ですから。 > あなたがどうしてもドーナツの穴も存在すると言うのなら そう思って置けばいいじゃないですか  ドーナツは喩えだと申して、理解されたはずですよね。正孔、陽電子、電子ですよ。 > その様に存在を定義してみて下さい。私はそうは思はないから自分の定義で行きます。  別に定義はしていませんが? 質問者様の疑問にお答えしているだけです。その定義では行けませんよ、というのが現状です。 > 果たしてその定義で矛盾が生じないか?全てを説明できるか やってみて下さい。  物理学に矛盾は生じていないようですよ。 > エネルギーは素粒子、量子からヒモ、弦、膜まで色々に考えられています > そのミクロの世界であっても エネルギーと性質で説明できると考えています。  で、例えば正孔は? > 何かが在るか?無いか?突き詰めれば禅問答の様な哲学ではなく ごく当たり前の話になるのです。「当たり前の話しか世の中に通らんわ」とレオナルド熊が言っていました。  禅問答ではないんですけどね。物理学ですから。物理学とは無縁の独自観念論ということなら、エネルギー、物質、それとエントロピーでしたか、それらの用語を使わないことをお勧めします。「違いますよ」と教えてくれる人が出てきますからね。 >どうもありがとうございます。  いえいえ、大したことではありません。 > エネルギーにはポテンシャルエネルギー、運動エネルギー、力学的エネルギー、熱エネルギー、電磁エネルギー、光エネルギー、化学エネルギー核エネルギーなど色々ありますが 運動エネルギーは力学的エネルギーの一種、光も電磁波ですから電磁エネルギーと関係があるのでしょうね。  その通りです。 > そして質量までがエネルギーと言う事は言えそうです。 「まで」というのは不明瞭な言辞です。 > それらが エネルギー(量)と性質(質)の量を表します  表さないですよ? 電子と半陽子の作る電磁場は同じだったりしますから。 > 穴や孔は量じゃない 量がない というのが僕の定義からの理由です。  で、例えば正孔はなぜ電子1個分のエネルギー変化を伴って機能しているのですか? 電子1個分の、そうですね例えば電荷は量ではないのですか?  ちっとも先に進みませんね。

yuniko99
質問者

お礼

どうも。

noname#260418
noname#260418
回答No.8

>人間でも私「ゆにこ」ならゆにこの性格や体。 五体満足か病気はしてないか?ゆにこの能力 >知能指数(75?^^)ゆにこの思想などを「ゆにこ」の個性としなければ 思想は自由です。 >荒井さんも山川さんも近藤さんも 1だ 数学の一人 1に過ぎないとか言ったら 私の存在もあなたの存在も味噌も糞も一緒になってしまいます。そこに個性で存在を認めなければ訳が分からなくなります。酩酊してしまうのです。 そうですね。 >この様に定義しましたが 如何でしょうか? 意義はないです。 中国からイラク、アメリカ、 世界平和、民主主義、社会主義、 資本主義、共産主義、人口爆発、 温暖化、戦争、憲法、物理学、脳科学、生物学、etc.. 多趣味でいいと思います。

yuniko99
質問者

お礼

意義はない・・・これは手厳しい。 多趣味ですか。必要に迫られて何とかという感じですよ 趣味は音楽とスポーツ観戦です。 どうもありがとうございます。

noname#212313
noname#212313
回答No.7

 #6です。 > 何か「正孔」に拘ってらっしゃるみたいですが、そんなよく分からないミクロの例えは議論しにくいだけです。  分からないですか。ミクロですが、性質としてシンプルなのですけれどね。シンプルなものでも説明できないものをお考えなのですか? > 陽電子がエネルギーを持つというのなら在るのですよ。  どのように? 陽電子がどのように「在る」のか、先ほどから説明申し上げていますよね。穴ということです。穴は「無い」という持論ではなかったのですか? > ただの孔なら存在してる訳じゃない。その周りが存在してるから存在してるように見える影のようなものです。  正孔は影ではありませんよ。 > 周りがなくなればそこには何もないのですから。  その通り。周りが在れば、正孔も在る。こういうものを説明できないようなものをお考えなのですか? > 真空でも何か在ると言うなら在りますよ。 >電子にしても電流にしても 電荷のある方を負にしてしまった電子の流れる方向と電流の流れる方向を逆にしてしまった。  数学的な扱いにおける、プラスマイナスだけの問題です。電子ですよね? > そこにあると思ったから無いものを在ると考えた。流れてる方向を遡ってしまった  電子、無いんですか? 普遍的で電子無くしては、今見ているような物質すらなくなってしまうのに? > その様なものだろうと思いますよ 正孔と言うものも。あると考えているだけでしょう。  何かが作用している。それが正孔であったということです。無いものが作用するのですか? だとすると「無い」とはどういう状況ですか。 > エネルギーがなければですね。  例えば、閉鎖系において至る所全てセ氏100度だとします。熱エネルギーありますよね。この熱エネルギーは何かの作用をできますか? > なかなかしぶといですねえ。ありがとうです。  エネルギーは難しいですからね。ご理解が進みにくいのも仕方ありますまい。お気になさいませんよう。

yuniko99
質問者

お礼

私は陽電子もエネルギーがあるならあるだろうと書いたのです。書いた甲斐がないです。 あなたがどうしてもドーナツの穴も存在すると言うのなら そう思って置けばいいじゃないですか その様に存在を定義してみて下さい。私はそうは思はないから自分の定義で行きます。 果たしてその定義で矛盾が生じないか?全てを説明できるか やってみて下さい。 エネルギーは素粒子、量子からヒモ、弦、膜まで色々に考えられています そのミクロの世界であっても エネルギーと性質で説明できると考えています。 何かが在るか?無いか?突き詰めれば禅問答の様な哲学ではなく  ごく当たり前の話になるのです。「当たり前の話しか世の中に通らんわ」とレオナルド熊が言っていました。 どうもありがとうございます。

yuniko99
質問者

補足

エネルギーにはポテンシャルエネルギー、運動エネルギー、力学的エネルギー、 熱エネルギー、電磁エネルギー、光エネルギー、化学エネルギー核エネルギーなど 色々ありますが 運動エネルギーは力学的エネルギーの一種、 光も電磁波ですから電磁エネルギーと関係があるのでしょうね。 そして質量までがエネルギーと言う事は言えそうです。 それらが エネルギー(量)と性質(質)の量を表します 穴や孔は量じゃない 量がない というのが僕の定義からの理由です。

noname#212313
noname#212313
回答No.6

 #4です。 > 具体的に聞かれたので 具体的に答えただけです  お聞きしていないことも仰ってますよね、複数。しかも、間違いが多い。 > 陽電子の正孔のと言えば在る様に思うかもしれませんが、早い話がボルトとナットで ナットに穴が空いてなければ使いものにならない  そのナットの穴(ドーナツの穴)が実体となる例を示したわけです。正孔は実体としての周囲があるからこそ、物理的実在となっています。陽電子は真空の背後とでも呼ぶべき、この宇宙外の存在(ディラックの海)によって、この宇宙の実在として存在しています。  ご見解によれば、ドーナツの穴というのは「無い」のですよね。ナットの穴も「無い」でよろしいでしょうか。正孔はどうですか? 無いのであれば、半導体は半導体としての機能を果たさず、PCやスマホは動作しません。陽電子が無いのなら、なぜ電場を作るのですか? 電場があることは、 > 穴の直径を測り ネジ溝?を測り 穴の大きさを問題にしてるわけで陽電子とてプラスの電荷を持つわけでしょ からは肯定ですよね。電子はも電荷があり、電場を作る。陽電子が「無い」とすれば、単に電荷の正負が逆の電子も「無い」のですか? > マイナスの電荷が抜けたからプラスだというだけで陽電子がエネルギーをもって存在するなら存在するでしょうけど  それ、正孔です。正孔は電荷は「無い」です。 > ただ抜けた穴だとすれば マンピーのGスポットと同じことじゃないの?  喩えは理解不能なのでパスしますが、「だとすれば」論は不要です。 > あると言うけど ないからそう呼ぶ 問題はその周りがどうかちうことでしょう(^^ゞ  意味不明な言辞ですが、例えば正孔と陽電子、違うものだとしてお考えになってみてください。今回の応答からすると、全く理解されておられません。  多少のヒントを差し上げておくなら、「有る」「無い」は誰が、どういう視点、基準で判定しているのか、といったことでしょうかね。物質を含むエネルギーにも関係しますよ。 > どうもありがとうございます。  いえいえ、お気になさらず。

yuniko99
質問者

お礼

何か「正孔」に拘ってらっしゃるみたいですが、そんなよく分からないミクロの例えは 議論しにくいだけです。 陽電子がエネルギーを持つというのなら在るのですよ。 ただの孔なら存在してる訳じゃない。その周りが存在してるから存在してるように見える 影のようなものです。 周りがなくなればそこには何もないのですから。 真空でも何か在ると言うなら在りますよ。 電子にしても電流にしても 電荷のある方を負にしてしまった 電子の流れる方向と電流の流れる方向を逆にしてしまった。 そこにあると思ったから無いものを在ると考えた。流れてる方向を遡ってしまった その様なものだろうと思いますよ 正孔と言うものも。あると考えているだけでしょう。 エネルギーがなければですね。 なかなかしぶといですねえ。ありがとうです。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

yuniko99様、こんばんは。 >「色即是空とか言い出したら訳が分からなくなります。それがいいと言う人は、酔っ払ってるようなものです^^」 いえいえいぇ。 ・・・「色即是空」を否定したいのか、「酔っ払い」を否定したいのか。 どちらでしょう(笑)

yuniko99
質問者

お礼

色即是空はいいとしても、酔っ払いには生まれてからずっと困ってきたので 酔っ払いもほど程にして欲しいものです。 色即是空は一つの哲学としてはいいと思います。でも現代で言えばどういう事か 我々が考える必要がありますね。 どうもありがとうございます。

noname#212313
noname#212313
回答No.4

 #1です。 > ドーナツの穴は存在しません。存在しないのに存在する様に見えるものは多いです。  おやおや、エネルギー・物質云々と仰っておられるのに、そんな認識では困りますね。  例えば半導体の正孔。電子が抜けた穴です。でも、物理的にきちんと作用する実体です。  また、代替理論が出て人気は下がっていますが、ディラックの海。陽電子など、反物質を説明する理論です。観測できない電子が真空の背後には詰まっており、その電子の抜けた穴が陽電子ということです。陽電子は物理的な実体です。  周囲があることにより実体として存在するものもある。それがドーナツの穴の喩えなんですよ。 > 幽霊という言葉と概念はありますが、幽霊は存在しません。心の中のものです。  幽霊については何も申し上げておりませんが? > 点 には面積がありませんが 実際にその様なものがある訳ではありません。  古典的(マクロ)には、例えば電子は点です。近代的(ミクロ)でも観測の極限的には点ですよ。観測すれば点になります。位置か速度か、どちらかが定まらないだけです。 > 0なんて在りそうでありません。インド人が発明しましたが 現実に存在している訳ではありません、頭の中にあるだけです。それは概念としてあります。概念は性質によるものです。  これも申してはおりませんが、ちょっと大事なポイントではあるので、お答えしておきます。どんな数も同じく、現実世界には存在しないのです。全て脳内世界のものです。もし、0以外にせよ、数が現実世界に存在すると思うのは、一種の迷妄です。 > 光は存在しますが 影が存在する訳ではありません。光がないから 存在しないから影なのです。  この点は問題ありません。その通りです。だから申し上げてないわけです。 > 従ってドーナツの穴は見えますが そこに無いから穴に見えるだけです。存在しないのです。そう見えるだけです。  喩えですからね。喩えではなく、喩えられたものについて、お考えください。 > どうもありがとうございます。  どういたしまして。

yuniko99
質問者

お礼

具体的に聞かれたので 具体的に答えただけです 陽電子の正孔のと言えば在る様に思うかもしれませんが 早い話がボルトとナットで ナットに穴が空いてなければ使いものにならない 穴の直径を測り ネジ溝?を測り 穴の大きさを問題にしてるわけで 陽電子とてプラスの電荷を持つわけでしょ マイナスの電荷が抜けたからプラスだというだけで 陽電子がエネルギーをもって存在するなら存在するでしょうけど ただ抜けた穴だとすれば マンピーのGスポットと同じことじゃないの? あると言うけど ないからそう呼ぶ 問題はその周りがどうかちうことでしょう(^^ゞ どうもありがとうございます。

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