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「実存」って何でしょうか?
じつぞん【実存】 1. 実際に存在すること。実在。 2. 哲学:主観とか客観とかに分けてとらえる前の、存在の状態。ここに今あるということ。 実存と存在はどう違うのでしょうか?実存とは何でしょうか? 実存は本質に先立つって 本当でしょうか? 実存とは何か 教えて下さい。よろしくお願いします。m(_ _)m
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ドイツ式哲学でいう日常の“実存”の意味は、“考える人”または“外へ出てみんなで生きる人”です。いやもおうもなく、“すでに私は存在する”ことが“あれやこれやの存在を認識する”よりも先立っている。いいかえると、事実の真理は、理性の真理に先立っている、ということです。 一歩進んでみるならば、事実の真理とは、すなわち仏教でいうところの、あるがままである。そして理性の真理とは、即身にて法如を証すことであり、産まれながらに仏性を備えていることであり、それは木にも水にも土にも石にも、仏性は開示されていることである。それらの根源が宇宙の法則であり、存在性ではなかったのですか? つまり、存在性は実存をも含み、実存に先立っているということです。 だから日本人が実存なんて言葉を使う必要はありませんよ。日本語で考えて、日本の社会へ出てください。ここで私はいいたいのです。 日本の哲学を志す者らよ 教科書を捨て街へ出るがよい しかるのちに門は開かれるであろう。
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死にたくない、と思うこと。 孤独であるということ。 不安であるということ。 寂しい、という虚ろがここにあること。 「私」という認識。明確に言語化されずとも。 「母なる海」への回帰を希求する切り離された自意識。 私のメモリバンクにある、実存、に関するリンクは そういった詩的表現に焦点が結ばれています。 これもヒントの欠片、程度ですが。
お礼
死にたくない、孤独、不安、寂しい、誰もが心に思い 一人の時には考えたり、酒で気を紛らせたり?する まさに実存という感じですねえ。実存の危機につながる感じでしょうか? なるほどという感じはしますねえ ありがとうございます。どうも大変。
- kohichiro
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多くの人が書いておられますが、皆さんそれぞれ参考になり正しいことを仰っておられるようで、しかしどうもぴんとこないところがあるのは、結局日本語ではきっかりと表現しきれない部分がこの言葉にはあるのだろうと思っています。私にはブラジュロンヌさんの説明が分かりやすくて近いのではないかと。もちろん私もよくは分かりませんが、日本語の「実存」という言葉から逆にひねり出すのはどうも却って遠のくような気がします。 >実存は本質に先立つって 本当でしょうか? これは正しいように思います。古来から人間というものの存在性をどう捉えるかという困難な課題の、ひとつの答えだと思われますが、ぶっちゃけいえば記憶を含め悩み、本質(まあ、スタチックなものですよね)を追求しようとする人間個人の生々しい現状、状況をダイナミックに捉えようとした言葉ではないでしょうか。
お礼
ブラジュロンヌさんというのはブラゲロンさんのことでしょうねえ。 ここで既に訳が違ってきますから、実存という言葉も訳語ですから、フランス語?ドイツ語?で 勉強しろと哲学の先生は仰るかもしれません(そういう余裕はありませんが) 矢張り実存というのは人間のこと「わたし」のこと言うことでしょうね 本質は「わたし」が想起するもの 思うものということでしょうか?ですかね? いずれにしても唯心論的な感じはしますねえ。 どうもありがとうございます。
- ways
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うん、何よりも、そこに「ある」ということ。語るのは、そのものがある、ということの次に行われる。本質を見抜く、という言葉がありますが、それよりも何よりも前に、「存在する」ということです。
お礼
成程そうですね 我が意を得たりです。 どうも大変ありがとうございます。(質問が実存とはなにかなので)
実存 実際にあるもの 存在 感情など目に見えないものも含む
お礼
つまり実存というのは 感情など目に見えないものは含まない あるいは目に見えず分からないから 含むかどうかも分からないと言う事でしょうか? どうもありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
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まず“何ものか”を感受しています。 そこに意識(=時間的流れ=記憶(過去))を前提とする時。 その原因としての存在(=空間的広がり=予測(未来))が 想定されます。 無=不確定性無限の潜在としての認識可能性(感受 表面における量子相互作用=現在)からの、自我仮説(過去) と空間仮説(未来)の対発生。 そこにおいて、無意識的なロジック(脳生理的)において 先入化される「存在」に対し、人は物理や哲学など意識的 に“存在像”を構築します。 そこで迷路にはまってしまった時に、そうした意識的な ロジック(論理)だけでなく、無意識的なロジック(感覚)も 排除して残る、真の前提を「実存」と呼びます。
お礼
実存は真の前提なのですね? 意識的、無意識的ロジックをは除しても残るもの 存在像の構築で 迷路にはまった時に、上を排除しても残るもの? が「実存」 でしょうか? 頭が寝てるのかな?頭が寝ててもボッとしてても尚自分としてあるものが「実存」?? すみません「実存」は現実存在でしたよね。現実存在って矢張りコギト・・ということになるんでしょうねえ?? どうもありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 わたしの場合は もともと《存在》についても人間の存在として捉えていますが それでは 人間存在と実存とは どう違うかになると思います。 存在は 存在論なのですが――つまり《わたし》についてすでに触れているのですが それでも―― 抽象的に世界の見方としてどうであるかにかかわっています。すなわち: 《有限なもの(時間的なもの) - 無限なもの(時間を超えたもの)》 の矛盾しつつ一体である成り立ち あるいは 精神における記憶・知解・意志の三つの行為能力が 社会形態に おける三権分立(すなわち順番に司法・立法・行政)のあり方と 対応しているといったあり方 といったふうに存在を定義します。 実存は わざわざ現実存在というふうに言うからには いま上に見た《存在》にとってすでにその位置している場やその時あるいは周りの人びとが特定されていることを踏まえることになります。《いま・ここ〔なるわたし〕》の問題です。 なるべくその情況を避けないでまた逃げないで 持てるチカラをじゅうぶんに発揮することができるようによく考え相手とのあいだで互いにその自由をとうとびさらに伸ばし合おうという志向性をもって生きる。そういう行き方を言います。いまは古くなったかどうなのか アンガージュマンとかコミットメントと言うようです。 ★ 実存は本質に先立つって 本当でしょうか? ☆ わたしの場合は 特に《本質》を 存在論に持って来ません。いかに抽象的な内容であれその認識とそして実践とは つねに一体です。 おそらく《本質》というのは――エッセンティアというのは そもそも《存在》のことでしょうし―― だいたい神を概念として捉えさらにすでに頭の中に観念として固定させているようなものだと思います。いろいろ翻訳した用語を使って 観念の神をもさらに別様に表わしているでしょうけれど。広い意味では イデアや物自体や絶対精神やなどです。 実存は本質に先立つというとき その時その場でもっともよいと判断するひとつの答えを出すわけですが 認識したことがらについては当然用いるわけですから その認識としての世界観が本質にかかわっているとするなら 実存はそのとき本質論をも参考にしているはずです。 ただし 本質に実存が先立たれることは ないわけです。本質としてはこれこれこうだから考え中という姿をその場の実存としての答えとすることはないわけです。
お礼
う~ん 人によって矢張り語感が違うようで 分かりづらいですが 前半では「存在」は一般論的、客観的な「私」あるいは人間のことで 「実存」はまさに自分の事「わたし」のこと という印象を受けました。 後半は「本質」についてのブラゲロンさんの持論というか、考えの様です 参考になります。 どうも大変ありがとうございます。
- urigadai2013
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実存(Existenz)は本質(Essentia)に対比された言葉で、現実存在を意味します。 その現実存在を短縮して実存と翻訳したのです。 古代ギリシャから、その対立はあります。 プラトンは個物・実存の具体的な存在の上に「イデア」という本質があり、その「イデア」こそが真の実在であり、個物・実存は真の実在ではなく、却って仮象である、といいました。 つまり簡単に言うと感覚できるものよりも、概念の方が真の実在だということ。 このプラトンのいうことは理解できないことでもありません。 たとえば机の本質といったら、いろいろな机があるけど、その中の共通なものを抽出してゆけば、「イデア」としての、「形相」としての机が得られる。 それが机の本質。 また、人間の本質といえば、人間にも白人もいれば、黒人もいる、日本人のような黄色人種もいる。そしてその差異を無視して共通なものを抽出してゆけば、本質としての人間の「イデア」とか「形相」が得られる。 問題はプラトンが、個物・実存よりも、本質がもともとあって、本質が先行すると考えたことです。 天に「イデア界」というものがあり、それが本当の世界で、地上の私たちの世界はニセモノの世界、そして私たちの心の中には本質があり、本質を分有している、だから私たちに出来るのは、もともと持っている本質を「想起」するしかない、と考えたことです。 ということは人生なんて無駄だ、何も得ることはない、ということになります。 その本質が中世には神が持っていると考えられ、人間はその神の被造物、実存でしかない、と考えられていました。 もっとも、その神は本質だけでなく、実存も共にもっていると考えられました。 だから中世の聖アンセルムスのように神が本質を有しているならば、実存も有する、だから神は概念的に存在するだけでなく、現実存在としても存在すると考えられていました。 人間は神の似姿、つまりコピーでしかない、と。 しかし、中世の末期になるとプラトンの概念実在論の「実念論・リアリズム」に対して、アリストテレスの、概念などただの言葉に過ぎないという「唯名論・ノミナリズム」が対置され、当時の神学者・哲学者が論争する有名な「普遍論争」が起きます。 普遍とは実質神を意味しましたので、その論争は神が実在するか、という論争でした。 12世紀から14世紀にかけて論争が戦わされ、結局、アリストテレスの「唯名論・ノミナリズム」の勝利で決着したと言われます。 西欧では、これ以降を近世と言っています。 概念に対して、感性の役割が抬頭し、現実に存在するものといえば、感覚で見たり触れたりできるもののことを言うようになりました。 現代の私たちも現実に存在するものといえば、感覚できるもののことですから、「唯名論・ノミナリズム」に立っていることになります。 ところが近世のヘーゲルはプラトンの概念実在論、「実念論・リアリズム」を復興して哲学を唱えるようになりました。 「精神現象学」で、感覚できるものは抽象的であって実在ではない、真の実在は個物の対立を弁証法で総合し、克服した概念にある、しかも最高でもっとも普遍的な絶対精神にある、そして人間的実存はその絶対精神を導き出す、否定的媒介に過ぎない、といいました。 これは個人の存在を否定し、国家こそが真の実在であると言ったことを意味します。 そして実存主義は、このヘーゲル哲学に対する批判として登場してきました。 ヘーゲルは国家こそが真の実在で、人間的実存など実在ではない、といいましたが、デンマークの哲学者・キルケゴールは人間的実存こそが、真の実在であり、国家はその成員である個人のためにある、といいました。 ヘーゲルの絶対精神に対して、単独者としての個人がある、国家など単に抽象的なものに過ぎない、と。 さらにドイツの哲学者・ニイチェはプラトンの「イデア論」を批判し、天に「イデアの世界」があり、それが本物の世界で、地上の世界は.ニセモノの世界だと言ったのをひっくり返し、地上の世界こそがホンモノの世界なのだといい、「神は死んだ」と宣言しました。 このキルケゴールとニイチェを先駆者として戦後のサルトルが唱えたのが実存主義です。 サルトルは言います、「本質に先立って、実存がある」「実存が先、本質は後」と。 このことは自己とか自分というのは、あらかじめ決められているのではなく、人生で自己選択を重ねることで自己とか自分というものを形成するのだ、ということを意味します。 まあ、今ではそんなことは当たり前でしかありませんが、戦前はそうではなかったのです。 実存と存在の違い? 存在は物も人間も共通に言いますが、実存は人間だけです。 サルトルに言わせれば、物は「即自」であって、自己否定できない、自己変革できない。 それに対して人間は「対自」であって、絶えず自己を否定し、自己変革する。 自己を乗り越える。
お礼
ちょっとなかなか読める様な状態でなく、やっと読みました。 国家と個人では 人間の所以が何と言っても個人の精神であり、良心であり、DNAである訳ですから、個人こそが人間の根拠、主体でしょうね。 馬が幾ら集まったって国家はできません。 キルケゴール「あれか、これか」ニーチェ「神は死んだ」サルトル「実存は本質に先立つ」 は確かに高校時代に読んだのですが、この様な流れであるとは よく分かりました。 「実存」は人間の現実存在の事で、「存在」は人間以外も含む現実存在?含むもの? 認識的にもデカルトのコギトが先に来るなら 実存の意味もわかるように思います。 神よりもまず人間の精神があるのでしょうね その前には自然の摂理があったのでしょうけど どこかで混じって神の摂理と言う事になったのでしょう。 先生の話は面白いですねえ 勉強になります。 兎に角 実存とは 人間の現実存在 の事ですね。 これはどうも大変ありがとうございます。
- tlc_me
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私が「存在と無」を読んだのは40年前です。当時は、マルクスの図書よりもむしろ幻惑されるような虹彩と熱気がまだサルトルの周囲にはありました。今その魅力がほとんど消えてしまったような気がするのは熱気から遠くなったせいなのでしょうか。「実存」という言葉には、さまざまなニュアンスがあると感じますが私のざっくりした理解ですけれどもこれは「意識」と「存在」とのあいだの距離感が関係していると思っています。 意識は自分自身の存在を突き詰めるために無限に迫ってゆくのですが、現実の自分自身の自我は状況的なものを棄てきれず怠惰なものに留まりがちではありませんか。その次元では存在のありかたは意識にとっては、不足のある存在現象に過ぎません。意識は無限に意味を求めますが、存在はつねに意識の求めに応じる事ができるわけではありません。それは非現実的な存在であったり、意識をたぶらかす虚偽を含んでいたり妄想が強いる幻影だったりしませんか。とりわけ日本語は作家安部公房が言うように、言語としての不全さを含んでおり意識の願望を全うできるほど「真実を開示しない存在」に留まりがちです。言霊成分とか呪言を含む日本語という言語が非論理的な構造を表現に含んでいるからです。 ところが、サルトルが学んだデカルトなどの意識Cogitoの時代から彼ら西欧人の意識への期待は病的なほど「真実存在」を求める傾向は強い。そしてその真実こそが現実だと言うわけです。「真実存在」(実存)であり、そしてそれが意識にとっての「現実存在」(実存)であるという「実存」。それは意識求める意味像よりも先行して深いといわれる。なぜならばその実存のありかたが意識を駆り立て招き寄せるからかもしれません。実存が本質に先立つのが本当なのか、というのではなく本当なものは追い求める力であって本質の示現する前提として先行することを自明とする精神が導くものだと考えられているのではないでしょうか。
お礼
最後の所で貴方の言わんとする事は分かった様に思うのですが それをどう表現するか 難しいですね(句読点がなく、どこで切るのか分りづらいのもある(^^ゞ) 私の考えでは実存とは現実に存在するもの全て現実存在。それは今の所確認も証明もでいない それよりも大切な事は 存在する為に多くの性質による作用が働いて現実存在(エネルギー、物、人間を含む)を実現して未来にもまた何かを実現しようとしている ベクトルは永遠の存在へ向くもの。その方向だと思います。 なるほどどうも大変ありがとうございます。
- catpow
- ベストアンサー率24% (620/2527)
まあ、簡単にいえば、「この世」に私は、なぜ生まれてきたのか、どこからきたのか?死後、私はどうなるのか?っての考え悩むことです。 素直な方なら、宗教的な考え方をするべきなんでしょうけど、そういう考え方が嫌いな人、霊感が無い人が哲学の世界に留まり、「実存」とか「存在」って単語を使うわけでしょう。 実存の答えを知りたい人は、宗教を学べばいいと思います。
お礼
実存って そんなに特別な意味があるのですか?宗教に学ぶほど。 実存主義のことでしょうか?実存という言葉もありますよね。 実存主義の実存ってどういうものなのでしょうねえ? どうもありがとうございます。
お礼
そのとーり そのとーり そのとーり 教科書を捨てて街の人間の営みを見てください。現実がどうなってるか? 現場を見てください 私は物流、メーカー、営業、新幹線整備、教育、福祉の現場を見てきました エリートも見たし、最底辺も見ました。 その中で考えたのです。現実を見て考えたのです。観念だけではないのです。 無理に言えば 実存、本質、存在性、実存、本質、存在性、実存、・・・・・・ という流れで因果律で変化存在していきます。 それと存在性と言うのは根源ではないです。無数にある性質のうち存在に役立ったものです。 これはどうま大変ありがとうございます。^^