※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態)
《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態
このQ&Aのポイント
《聖なるあまえ》はものごころがつく前の頃のひとの心の状態を言います。
赤子が母親にあまえる――つまり全面的に考えも計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――ときこれをひとつの典型として言います。
聖なるあまえはどのように変態するのか、そしてきよらかなおそれとの関係について解説します。
1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前の頃のひとの心の状態を言います。
2. 赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言います。
3. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。
4. このとき聖なるあまえは どうなるか?――幼虫がさなぎになる。
5. 聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。
6. きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。
7. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。
8. どういうことか? すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれにその《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。
9. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持っていない状態であった。(意識としてはです)。
10. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔ほぼ同じおそれを何ものかに対して持ってのように〕現われる。
11. これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものと考えられるが ここではまだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。
12. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉はしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》となる。
13. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。その現われである。
14. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。
15. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 大筋としては《わたしがわたしである》道をあゆむ。
16. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。ひとにとって共通であると。
17. つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同の主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。
18. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものでしょう。(無根拠なる根拠において受け容れているという意味です)。
19. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。
20. 成虫した場合には 社会の中でおのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に言ってそのおそれは 世の中の社会力学じょう既成勢力たるチカラの前にほぼ無力となる。
21. この情況における《わたし》は どう生きるか?
《きよらかなおそれ》のゆくへは どうなるか?
22. 聖なるあまえ・もしくはきよらかなおそれ あるいは 《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆくブルドーザーの《しばしば無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。
23. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。
24. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉をも着せてもらってその身を飾り立てている・つまり おごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していく。ということ。
25. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的なすがたであり 使命でもある。
26. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。
27. 無根拠なる根拠において ごみ処理工場と成る。
28. ごみ清浄化工場であり きれいな酸素をも供給するらしい。
29. 義無きを以って義としているらしい。(あるいは 《無住処涅槃》)。
あらためて以上を問います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ つまづいちゃったらどうしたらいいんですか。 ☆ 《われ あやなつなら(あざむかれるなら) われあり。》と言って われに還り 軌道修正します。 われはわれなり。: 1 = 1 《われはわれなり》なるわれがわれする。: 1 x 1 = 1 つまり 道草や寄り道あるいは脱線したときのわれは: 1 + β または 1 - β われに還ったとき: 1 + β または 1 - β ⇒ 1 に立ち戻る。その 1 にわれ(= 1 )を掛ける。 つまり われは つねに数として 1 です。 ★ 私は、そのときは、メラニー・クラインの理論を読むと良いと思います。 / 対象関係論を学ぶ―クライン派精神分析入門 ☆ そうですか。フロイトもユングも わたしは否定し見下しています。クラインは 正面からまなんだことがありません。推測では 同じ筋ではないとは言えないと思っています。でもこれは 憶測に過ぎませんので あるいはよい哲学を提供しているのかも分かりません。 ですが おそらく上の《 1 》なるわれの方程式だけで済むのではないか。きわめて安上がりで基本的に有効であるとは思っていますが どうでしょう? ▲ 樫村晴香:『資本主義』 第1部 文 化 ☆ については 幅広い主題を扱った長い議論なので 一たんこのご回答への応答のみとしてお応えすることとします。 ★ 16~29までは、神さまと資本主義をどう折り合いをつけようかの説明です。 ☆ 具体的な内容として おっしゃるとおりかと思います。 ★ 私は、貨幣を信仰するとよいと思います。 ★ 神さまに自分をささげたいです。 ★ 神さまに大事な貨幣をささげ貯金します。 ☆ つまり 神と貨幣とは 結びついているということなのでしょうか? つまり ★ 貨幣は無根拠です。みんなが信仰してるから使えます。 ☆ という現象が明らかに起きているが それでもその奥のそのまた《無根拠という根拠》は 神なのである。といった意味なのでしょうか? たしかに貨幣は 現象ですね。 資本主義の興隆期においてこそ 成長が起こるから利子率(≒利潤率)が或る程度高くて 増殖することが出来ますが 安定成長期に入ると モノが豊富でしかも社会全体として飽和状態に達する。すると 利潤の発生する余地が少なくなる。 別様に言えば そのときには経済生活の質を充実したものへと《成長》することがのぞまれる。 のではあるが もうその定常状態に達すれば 貨幣の役目は さほど――増殖という点において――大きなものではなくなるのではないか。 あるいは もし生産力がさらに上がってしかもその社会的な分配ないし配分においてそこそこの程度でのぞましいものであるなら もう人びとは 欲するだけ求めるものを得ることが出来るかも知れない。 となると 貨幣の役割りは 余計に薄くなります。 ですから 神に貨幣を結びつける視点は 一般的な理論には成りにくい。のではないかとは考えますが どうでしょう。 そしてちょっとした物言いを差し挟むなら 《貨幣信仰》を持ってしても 世の中のシガラミなる社会力学に対しては 向き合わねばならないでしょうし ガップリ四つに組むときすらあり得ます。そういった現実じょうの問題について 観念的と言いますか 社会に対して超然的な姿勢であるようにも見受けられますが どうでしょう。 言いたい放題になりましたが。 保留した論文についてコメントがうまく出来ましたら 補足欄にでも書き込みます。
補足
樫村論文を途中まで読みました。 ■ 啓蒙主義——合理性と暴力 ☆ については 得手ではありません。物言いを添えるほどの見解を持ち合わせていません。 ■ テクノロジー ☆ これは わたしには無理です。みなさんからまなびます。 ■ 文化装置——文化支配 ☆ この主題については 一定の見解をつくりあげていません。 ■ 制度——学校 ☆ という問題にもわたしはまだ首をつっこんでいません。 ■ フェミニズム、エコロジー ☆ フェミニズムには言うべきことを持ちますが 積極的に言って来てはいません。エコロジーは 保留しています。 さて ほかの問題で考えるところがありますが この論説者とは だいぶ取り組む姿勢や分析の視角やあるいはけっきょくまとまった世界観として かなり違っているように思います。 樫村氏は 城を攻めようとするとき 兵を配して濠を囲み表門から城内をうかがうという正攻法と言いますか つねに大きく全体観を示しつつ じわじわと推し進めるように見られます。 わたしは 搦め手にまわり城のあり方をうかがいます。つまり具体的な問題点を取り上げ それをもっぱら問い求めて行きます。 早く言えば その総論はだいたい分かったから もっと具体的なあるいは緊急の問題点について分析してみて欲しい。というような感想を持ちました。(これまた 言いたい放題になりますが)。 資本主義と現代社会を 特には人間論から切り込もうとしてやって来ました。コメントをうまくつづれないゆえに コメントの代わりにそれらこれまでに書きためたものを以下にかかげ任に代えます。 ○ 【Q:にんげんの前史を終えるということ(!?)】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7679617.html ☆ ひとは主戦論で行くか非戦論を採るかというふたつのタイプがある。この人間論を出発点として そこに階級論をからめて 国家がどうなるかをも視野に入れて論じて行きます。 ○ 【Q:疎外―→物象化―→理象化(?)―→人象化?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8557906.html ☆ 表題のもとに 前項と同じような趣旨で 世界を展望しようとしています。 ○ 【Q:国連に代わる村際連合(インタムライズム)によって世界を主導するシステムを!】 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9113048.html ☆ 経済生活については 或る意味で資本主義も《自然史過程》であって人間にとって不可抗力である部分が大きい。したがって 共同自治(政治)の側面からの 展望とアプローチを扱っています。