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哲学から得られた知恵は何かありますか?

前回「哲学の結論は何か?」と言うような事を質問しましたが 漠然として答えが出ませんでした(いい答えもありましたが) それでもうちょっとスモールに 哲学からあなたが得た知恵を教えてください。 この様な事が分かった。と言う事を。 人生観、世界観という範囲も良いと思います。 出来れば端的に この様な知恵に至った と言う事を教えて下さい。 よろしくおねがいします。

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  • Nakay702
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回答No.11

「お礼コメント」をありがとうございました。お言葉に甘えて、 >もう少し敷衍 させていただきます。 科学は、進歩のため不可避的に専門化の手法を使ってきたが、それは「やむを得ず」だったはずである。本来、科学は時々再構築の作業を必要とし、総合化の努力を要求する。「学際的な串刺し理論、統合する視点が必要だと言われるが、総専門家時代なので、そんなことに腐心していては成果が上がらない」という生化学者の本音を聞いたことがある。その意識評価はおくとして、ある種の問題提起は読み取れる。すなわち、もっぱら串刺しや橋渡し部分を担当する「学際的・総合的部門を扱う専門家」の存在と、それを支援する仕組みが必要だということである。関係や仲立ちを扱う「学際領域の専門家」が必要なのだ。しかし、この職位は従来の枠組みの中では正当な評価を受けることが難しく、「飯が食えない」ので、このままではますます専門化に拍車がかかってしまうだろう。 学問的統合の原理が消滅した現在、錯綜する科学を関係づけ、統合して指針を与え得る学問分野、すなわち科学哲学のパラダイム・シフトが必要である。また実践においても、最近言われ始めた統合医療のように、今は専門化より総合化に、分析より統合的手法に、より多く意を用いるべき時だと言える。これまでの科学の専門化がはたして本当の進歩であったのか、単なる変化だったのか、ある意味ではむしろ退歩だったのではないか、真の幸福に寄与したのか、していくのか。どういう方向へ向かうのか、向かうべきなのか…。我々は、自然科学の専門家ならずとも、この根本問題についてじっくり問い直してみる必要がある。それは、我々が人類の一員として我々に続く世代に対して負っている義務でもあるだろう。 以前、ある新聞に「人間は99.7%の確率で自滅する」とありました。進化は生命体の常ですが、それが頭脳に集中すると「自殺」の能力を持つに至る。そうすると、つまり「中途半端に頭がよくなる」と、破壊する能力が創造の能力を上回って、364/365の割合(=99.7%)の割合で自殺・自滅する、というのである。数値の信憑性は定かではないが、その内容、言わんとすることは、「さもありなん」ですね。つまり人間は、ほとんど「自殺に近い形で」滅亡する可能性が高いということであり、それも「中途半端に頭がよくなった」ことが原因である、ということでしょう。とはいえ、一縷の望みはあります。「自滅の確率が100%ではない」ということです。 これまで我々人間は、知識を増やすことに汲々として、肝心な「智恵」を育むことに意を用いない傾向があったと思います。アインシュタインは言ったそうです。「無限なものに2つある。宇宙の広がりと人類の愚かさだが、前者については確信がない」、と。これすなわち、「人類の愚かさについては確信がある」ということでしょう。ここで無意識の愚かさや自滅への道から逃れようと願うならば、嫌でもかかる問題を真剣に考え、真摯に哲学し、本当の智恵・英知を求めることにこそ腐心すべきではないだろうか。 そう、我々は今、「残る0.3%にこそ頭を使うべきなのだ」と思います。以上のことに私は目覚めた、というと僭越ですが、今そういう考え方にたどりついたわけですが、それはある種の知恵(認識・見識・世界観)であり、これこそ哲学のおかげに違いない、と考える次第です。 以上、再伸まで。

yuniko99
質問者

お礼

残る0.3%に頭を使うのならば 「そんなの無理」とか「お花畑」と言う様な批判もあるかもしれませんね どの様な考えになるかは分かりませんが 人類の愚かな暴走にブレーキを掛けて行かなければならないのではないでしょうか 人口爆発や集団的自衛権など色々問題がありますが 戦争の愚かさ、貧富の愚かさ、宗教、イデオロギーの愚かさ、エゴイズムの愚かさなどを 解決していかなければなりません。 Nakay702さんの力になれればいいのですが 私も認められないので 私なりにやるしかありません。お互いに頑張りましょう。 また質問をしますので どうぞお越し下さい。 学問統合 思想・宗教統合 政治・民族統合を目指して 国連を復活させて、哲学を世論に活かして、働きかけ続けましょう どうも大変ありがとうございます。^^

その他の回答 (15)

noname#214841
noname#214841
回答No.16

回答番号1,15のplapotaです。 >人生観、世界観を扱うということです。 それがいちばん大切なことだと思つてゐます。私はyuniko99さんの論旨の結論に賛同するわけではありませんが、その姿勢には以前から好感を抱いてゐます。現状の哲学では、モクゾーさんのやうな哲学不要論が出てくるのは当然のことです。 >他者に恵まれなかったものですから このサイトは不特定多数の集合ですから、専門的な見解よりも、素人の自由な意見が聞けるのが利点です。もちろん専門家の詳細な回答もありがたいのですけれど。 私の場合は、ねこさんやNakayさんの広く深く総合的に、といふ態度が哲学にふさはしいと思つてゐます。前述のモクゾーさんの楽しい回答も素敵ですし、あほなさんやがりぞーさんの優しい気持ちも大切です。あげてゆけば長文になつてしまひますので、やめておきますが、「他者」の意見を活かせるかどうかは、自分自身の問題だと思ひます。

yuniko99
質問者

お礼

どうも心温まる投稿をありがとうございます。 此処には面白い人やかなり達観した人もいますねえ 私にとっては大切な場所です これからも皆さんの意見を伺わせて頂きながら 哲学出来たらいいなと思っています。 どうも大変ありがとうございます。

noname#214841
noname#214841
回答No.15

回答番号1のplapotaです。コメント拝見いたしました。 >戦争の話になると暴走するんで それは止めたいものです。 そのくらゐはよろしいのではありませんか。言語哲学や宗教哲学にくらべて政治哲学の分野の議論はもつとなされるべきです。別質問に記載がありましたが、政治への非難は度が過ぎると思つてゐます。国民として政府に協力する姿勢が感じられない意見が目立ちます。 >お坊様は肉食臍帯は結構ですが 原材料費無しでキンキラの袈裟を着て ものごとには、さまざまな面があると思ひます。教えて!gooのbakahageさんは立派なお坊さまです。 プラトン、アリストテレスの時代の哲学は、世界のあらゆるものを扱ふ学問でした。時代とともに諸分野に侵食され、どんどん痩せてしまつてゐます。現代の哲学の多くは単なる自己保身に見えてきます。哲学を限定しすぎです。ぶらげろ、仮面ライダー、アルケ~こそが哲学のあるべき姿に近い。世界を観察し、他者の意見を聞き、自分で考へることです。問題に対して自分で解決を見出すことです。解説書を鵜呑みにすることや、自己修正をしないドグマは、私ひとりで充分です。

yuniko99
質問者

お礼

哲学が痩せて来たと言うのは分かりますが 今でも尚大事な部分を占めています 人生観、世界観を扱うということです。 科学をやっても自分の人生感は養えません。文系の学問をやっても 人間としての自分は一体何ものなのか?と言う問いは哲学が担当しています そんな事知らなくても生きていけると言う答えもあります。 アニメや映画にそういうものを求める人も多いのではないでしょうか? しかし自分が何者かを知らないと 人生が老年期になって後悔するかもしれません。 何をなすべきかが分からずにやっていると 大切なものを見失ってしまいかねません。 他者の意見を聞くことは大切だと思います。それが私に欠けていた事だと思います。 他者に恵まれなかったものですから 昔。 どうもありがとうございます。

回答No.14

 思想は なるほど実践をおもんじますが 迂回生産としての哲学による思索にもとづき成っている場合もあります。  基礎がしっかりとした思想も あります。  哲学は 回り道をするというとき 永遠に迂回路をたどっているという場合も出て来ます。  迂回することがいけないというのではなく じつはそのような迂回路は どこまで行っても 果てしがないというのも実際です。  ということは 実践としての思想とその基礎固めとしての哲学とのあいだで 現実に応じて(また 人それぞれの考えに従って)折り合いをつけねばならない。というのが 実際問題です。  あるいはつまり 評論家にとどまらず現実の行動を――いわゆる妥協を余儀なくされたとしても――進めてゆく人と そしてそれとは微妙に違ってあくまで裏方に徹するという人とがいることになるようです。  もう一点。回り道をとおって基礎固めをする哲学も じつは 現実において思想が試行錯誤をおこなって見つけたりぶつかったりする問題 これらの問題を捉えてやっと その作業をおこなうようになる。という側面もあるわけです。  

yuniko99
質問者

お礼

何れにしても、哲学は人間がやるわけですから 人間に寄与したいと思うのも自然です 学問は飽くまで純粋に真実・真理を追求するのみと言うのもわかりますが 私に出来ることはしたい、惻隠の情はありますねえ。 何とかしたいものです。 どうもありがとうございます。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.13

中島 義道さんの「哲学の教科書 」という本を読んだことがあります。この本では哲学とは何か?という疑問に関して、哲学とは科学ではない、芸術ではない、文学ではない・・・というふうに他の学問などとの違いを通して哲学とは何かという理解を深めるという構成になっています。この中で、哲学は思想ではないという部分を読んでなるほどと思いました。私は哲学と思想の区別がついていなかったのですが、この本を読んで以来、哲学と思想を区別して考えるようになりました。思想というのは、最初に決まった考えがあり、ある方向に思索を深めていくというものです。哲学とは普通だったら疑問をいだかないようなこと、普通の人だったら、それは当たり前だろうとやり過ごしてしまうことに疑問を見出し、そのことについて徹底的に疑い考えるというものです。著者は「なぜ私は1人であって、2人ということはないのだろうか?」ということを疑問に思い考えたそうです。 そうしてみると世の中には、本来は思想と呼ぶべきなのに、それを哲学と呼んでいる場合がかなり多いことがわかりました。例えば、ビジネス関連の本などに出てくる「わが社の経営哲学は・・・」という場合の哲学はどう考えても「経営思想」と呼ぶべきものでしょう。哲学をいちいちやっていたら経営はおぼつかないでしょうから。 この本を読んで以来、「哲学」という話が出る度に、「これはいったい哲学か?それとも思想なのか?」ということを常に考えるようになりました。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 入門書の話ですね。 思想というのは人間が考えた「ある考え」であって 考えることそのものではありません 哲学というのは 考える事そのもので それを表すなら 私なこういう疑問について こう考え ああ考え また違うことも考えた となり その結果確からしいと思う考えが 思想という事ではないでしょうか。 わざわざどうもありがとうございます。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.12

>哲学からあなたが得た知恵を教えてください。 そうですね、実に漠然としたご質問で、漠然とお答えするしかないと思うのですが、一言で言えば、私の小さい頃から旺盛だった好奇心、探究心、様々な疑問は今でもたくさん解決されないまま残っていて、そういった疑問の多くが哲学という分野の学問につながっているということをいまさらながら実感しているというところでしょうか。 たとえば科学という分野は私の人生の時間に客観的にはものすごい発展を遂げましたが、それでもまだまだ私の疑問がすべて氷解したというところまでには到っていません。なぜかそういう科学の進歩は、どこまでいっても結論には達しない無限大への漸近線をたどっているような気分です。そういった気分をすっきりとひとつの結論へ(あるいは2つ以上の、更には、これは結論などありませんよと突っ放してくれるような)いざなってくれるのが哲学なのだという思いを私は持っています。そういったすっきりした結論は私を非常にいい気分にしてくれるのです。だから哲学はやめられない、というような。 もちろん科学は重要です自然科学も天文物理科学も機械工学も。でもそれらには価値観というものがスポッと抜け落ちています。非常に冷酷で簡単に人間に害をなすことだってできるんですね。その点、哲学は人間に密着したものです。人間に優しい学問、そう私は思っています。 端的過ぎますでしょうかw。

yuniko99
質問者

お礼

数学や科学では出ない結論を疑問なら疑問のまま解釈してくれる哲学 科学や政治の様に冷たい結論を平気で出さず 倫理と結びついてる哲学 そういうものに哲学の人間性の様なものを感じるという事でしょうか 成る程言われてみるとその通りですねえ。初めてそう思いました どうもありがとうございます。

回答No.10

>哲学からあなたが得た知恵を教えてください。 人生にとっては数学と物理学、生物学が重要だということを学びました。 孔子の言葉に「学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」というのがありますが、これのバージョンとして以下の警句を共有しましょう。 数学と物理学を学んで哲学を思わなければ則(すなわ)ち罔(くら)し 哲学を思って数学と物理学を学ばざれば則ち殆(あやう)し 多くの哲学愛好者は数学と物理学を学ばずに「殆(あやう)し」の状態に陥っていると思います。 それから齢を取ってから、西洋哲学よりも仏教哲学の方に有難味を感じるようになりました。

yuniko99
質問者

お礼

面白い味方ですねえ 哲学は思うに見立てて 物理、生物学は学ぶと見立てた それは言えてるかもしれませんね 哲学も物理、生物などサイエンスのの成果を取り込まないと 学者バカになってしまいますね どうも大変ありがとうございます。

回答No.9

人は歩く時、行方を見るものだ。 同様に、生きる時は、世界をよく見るのが普通だ (目先の損得や虚栄心に流されて生かされない限り)。 私は特に哲学をしたい訳ではない。 生きているこの世界を、より深く知るために、好奇心 に従って哲学や物理学、生物学、社会学などをかじっ ただけだ。

yuniko99
質問者

お礼

先生の思想となりが分かって興味深いです。 好奇心を持って周りを見渡してみた訳ですね それで色んな学問を調べてみたと  成る程 どうもありがとうございます。

回答No.8

 ★ 出来れば端的に この様な知恵に至った と言う事を教えて下さい。  ☆ わたしは存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。  もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。  わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。  この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこと(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。  悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。  表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イツハリをおこなう。光も曲がる。  つまりは 善なる存在は その存在としての善をも損傷する自由のもとにある。  ウソが それを 思惟しただけではなく実行したなら そのぶん もともとの(自然本性としての)善を傷つける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。  このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。  善が傷つけられた存在の部分ないしその状態をも 悪とよぶ。悪は 善のうちにしかない。  存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在である。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけではない。  人びとの中には やけを起こす《わたし》がいるだけのことだ。  善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へその曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる存在を自治する。自己経営する。  《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つまり人間の関係を共同自治して生きる。  この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集まりとしての共同自治行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよばれる。悪の共同自治ゆえ。    これだけのことであるのに 世の中には――自由意志ゆえに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることもある。  

yuniko99
質問者

お礼

ん~~~成る程 存在は善と 敵対する者はないと 善も損傷すると。 世の中には 自由意志ゆえに スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクを こしらえる・・・? これは 例えば誰のことでしょうねえ?スットコドッコイは? ブラゲロンヌさんにはご自身なりの哲学があるんですねえ。 成る程どうもありがとうございます。

回答No.7

カント学者の中島義道が「哲学の道場」という本で、思想というのはちょっとした知識があればだれでも思想は持つことができるが、哲学となると哲学のセンスが必要で、滅多なことでは普通の人には哲学はできない、といっています。 そして哲学の問題はたいていその答えが無い、といっています。 では哲学の問題とは何か? というと以下のことを考えることが哲学。 私たちは世界が存在していると思っているけど、哲学はそれを疑う。 世界は存在していないのかもしれない、また、私たちはどうして世界が存在していると思うのか? 世界が宇宙が存在すると存在しないのとは半々であったはずだ、にもかかわらず世界は存在している、これはなぜだ、どうしてなんだ。 世界なんて存在しなくたって良かったはずだ、それがどういう訳か存在している、これは不可解だ、驚くべきことだ。 なぜ、存在だけがあり、無ではないのか? 在るのではなく、無いのではないのか? 存在とは何か? 「ある」とか「いる」ということの意味は何か? そもそも「意味」とはどういう意味か? 「意味」って何? そして私は私が存在していると思っているが、本当は存在しないのではないか? もしかしたら悪魔が私をダマして私を存在していると思わせているのではないか?  私が存在する根拠と理由は何なのか? 何万年間も、私は存在したことはないのに、どうして私はこの時代の、この日本に存在しているのか? どうして私は江戸時代に生まれなかったのか? どうしてアメリカでなく、日本に生まれたのか? そもそも私って何? そしてこの私は誰? 時間は存在するのか、時間は流れるのか、時間は方向性があるのか、時間は直線なのかそれとも円を描いて循環するのか、時間は規則的なのか。 どうして時間についての考えは時代によって、国によって変遷するのか? 時間は一つなのか、多数なのか。 そして過去は過ぎ去って存在しないのに、どうして私たちは過去が存在すると思うのか? 未来は先からやってきて、過去は後ろに過ぎ去るのか、逆ではないか? 意識とは何か? 意識と脳の関係はどうなっているのか。 意識は脳にあるのか、それとも単なる脳の機能に過ぎないのか。 世界は心とか精神で出来上がっているのか、それとも物質によって成り立っているのか? それとも両方で出来上がっているのか? 物質で出来上がっているという人は心とか精神は存在しないというし、心とか精神で出来上がっているという人は物質なんて存在しないという、いったいどっちなのか? そもそも心とか精神って何? 物質って何? 物質なんて、また心とか精神なんて存在しないのではないか? どうして私たちは物質だとか、心とか精神を存在すると考えるのか? 人間以外の動物も意識を持っているのか? 脳を持たない生物も意識を持っているのか? 意識って何? 意識は私だけが持つもので、他人は意識が無いのではないのか? もしかしたら、私が意識を持つ、というのも錯覚なのではないか? なぜ、善と悪があるのか? 何を以て善というのか? 何を以て悪というのか? 善があることの理由と根拠は? なぜ行為には善と悪の二つがあるのか? 人間は性善なのか、それとも性悪なのか? 中島がいう哲学のテーマはだいたい以上のようなものです。 こうした問題に捉われて、一生を費やす人間、それが哲学者だと言っています。 たいていの人は、そんな当たり前のことは考えない、だから思想家はいっぱいいるけど、哲学者といえるような人間は滅多にいない、といっています。 私が昔、ショーペンハウワーの主著「意志と表象としての世界」を読んでいる時に、突然、目の前が真っ白になり、閃光が走り、世界がひっくり返りました。 ヘーゲルは哲学とは「転倒した世界である」といっていますが、ホント、常識がひっくり返っちゃう。 アリストテレスは哲学とは「世界を前にしてそれが存在していることに驚くことにある」といっています。 さらにプラトンは哲学は「死の思索から始まる」といっています。 昔も今も、哲学は「存在に対する驚き」と「死の思索」から始まります。 これまで当たり前のように思われてたきたものが、ぜんぜん、当たり前に見えなくなってしまう。 そして私はみずからに問いました。 「なぜ、世界は存在しているのか?」 「私とは何か? 私は誰?」 「なぜ存在であって、無ではないのか?」 それからの日々、毎日それを考えないことは無くなりました。 その若い時の体験、それが私が哲学に「はまった」原点です。 ところで、あなたはそのようなことを考えたことがありますか? 考えたことが無いとしたら、あなたは思想は持てても、哲学は持てません。 世界が存在していることが、当たり前だと思っているとしたら、哲学をやる資格はありません。 自分が存在していることを疑わなかったら、哲学をやる資格はありません。

yuniko99
質問者

お礼

どうですかねえ。自分で考えて驚いたか ダイジェストを読んで驚いたかは忘れましたが 先生が本を読んで驚いたと言う様な感じで吃驚まではしませんでした その代わり 考えれば考えるほど高揚感があって「確かに地球が太陽の周りを回っている」 と言う事を感じて中学校の恩師に会いに行った事はありました。 今でも哲学ほど面白いものはないと思いますし、哲学ほど絶望的なものはないと思うこともありますねえ。 私が哲学をしてるかどうかはわかりませんが 何とかして答えを探して教えて上げたいと言う気持ちが強いです。 子供たちが苦しんでいます 大人たちも不条理に遇っています。 どうにかして上げたい どうにかならないものかと 考え考え日が暮れる。 最近はちょっともうすぐ決着がつくんじゃないかと それがいい結果か 虚しい最後か分かりませんが そんな感じはしますねえ。 先生が哲学して来て その智慧で人々を助けてくれればいいなあと思います 評価する人も多いし 知識の広さ深さも定評があります。 何とかならないでしょうか?この阿鼻叫喚の巷は? 集団的自衛権とか派遣労働者とか憲法改正とか話題になりますが 我々の信じるべき意志はどの様なものでしょうか? 人を信じて平和外交を繰り広げたら その結果はどうなると思いますか? 政治に首を突っ込むのは邪道ですか? どうも大変ありがとう存じます。

  • bgm38489
  • ベストアンサー率29% (633/2168)
回答No.6

考え方・とらえ方によって、世界は変わること。例えば、可能無限と実無限。観点に言えば、実無限は、無限という最大のものがあるとする。可能無限は、常にそれより大きいものがあるのだから、無限というものなんてないとする(無言論の教室http://www.amazon.co.jp/%E7%84%A1%E9%99%90%E8%AB%96%E3%81%AE%E6%95%99%E5%AE%A4-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%87%8E%E7%9F%A2-%E8%8C%82%E6%A8%B9/dp/4061494201

yuniko99
質問者

お礼

無限ですか。無限と言うものがある訳じゃないでしょうね。 無限という最大のもの と言って言えないものでもないでしょうね。 しかしその大きさはわかりませんね どうもありがとうございます。

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