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哲学の雑学的な質問

哲学ってどんな学問なのだろう?と興味を持っていました 知りたい!と思ってOKWaveの哲学のコミュを読んでいますが わたしにはとても難しくて 書かれていることも難しいです 日本の哲学者の書かれた新書版の本は何冊か読みましたが 書かれていることは読みやすくても ますますわかりません 哲学は「疑問に思ったことの答えを、いっしょうけんめい考えること」 と聞いた時は そうか~! と思ったのですが ここのコミュの質問や答えを読んでいると わかったと思ったことが かん違いだった と気がつきます ここで質問して、その答えのつみ重ねで わたしなりの哲学?が見えてきたらうれしいです 今日の質問は 哲学のことを説明する時、カントとかソクラテスとか 昔に生きた人の名前をあげて説明する事が多いのはなぜですか? 自分がいっしょうけんめい考えること と反すると思ったのです。 よろしくお願いいたします

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  • tyr134
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回答No.10

私も、哲学者ってなんであんな難しい言い回しするのか疑問に思っています。もっと平易な文章で書いたら良いのに、、、と。 さてさて、「哲学」について私なりに質問者様の疑問について回答を試みてみます。 哲学をまず二つに分けてみましょう。 1・行為としての哲学 広義の意味での哲学です。 つまり、 >疑問に思ったことの答えを、いっしょうけんめい考えること と言えます。 そういった意味では、全ての学問が含まれます。 また、「一生懸命考えた結果、出た答え」言い換えれば「信念」も「哲学」と言われることがあります。 例えば「経営の哲学」とか「サッカー哲学」とか、、、。 つまり、人間が疑問を持って答えを探求し、その結果得た知識や信念などを含めて「哲学」と言われる「行為」となるんだと思います。 2・学問としての「哲学」 こちらは、 >昔に生きた人の名前をあげて説明する事 であると言えます。 言い換えれば、「哲学史」となりますね。 これは、哲学を含む全ての「学問」は、先人が「考えて出した答え」を批判(批難ではありません。正しいかを精査する行為が学問的批判です。)する事だからです。 本来は、全ての「学問」が「哲学」であるはずなのですが、近現代は知識が整理され、専門化しています。 その結果、(日本では)「哲学=哲学史」という事になったんだろうと思われます。 哲学というのは、ギリシア語の「フィロソフィア」だとされています。 そして、この言葉は「philos」(愛)+「sophia」(知)結合です。 つまり、「知を愛す」となり、翻って「知を探求する事」となります。 「知の探求」というのは、まさに >疑問に思ったことの答えを、いっしょうけんめい考えること となります。 そして、考える「切っ掛け・道具」として先人の「知」を利用する事になります。 これを言い換えれば「学問をすること」となると個人的には思っています。 つまり、「哲学=学問すること」と言えなくもないと。 ただ、「哲学」にはさらに広い意味合いがあって、「学問で学んだ知識から、答え(信念)を導き出すこと」でも有ると思います。 そして、その信念は「何故、その分野の学問を学ぶのか?」という「疑問」に対する答えであると思います。 つまり、「哲学(信念)無き学問は空虚」だと考えています。 と、なんだか話がそれ気味なのでこの辺で。 なんだか、「哲学者の文章は難しい」と批判しておいて、私も分かりにくい文章になってしまいましたね^^; 参考になれば幸いです。

raikodon
質問者

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tyr134さん。 回答をありがとうございます! とても参考になりました。 あわてて「学問としての哲学」は 哲学していることからは遠い と思いそうになりましたが よく読んで踏みとどまりました。 哲学 という事がすこしずつわかってきたように思います。 でももしも友人に「哲学ってなに?」と言われたら 説明をするのは とても大変だとおもいます。 ここで皆様から回答をたくさんいただき ありがとうございます。

その他の回答 (15)

noname#96295
noname#96295
回答No.16

わたしも 「疑問に思ったことの答えを、いっしょうけんめい考えること」 で合っているとおもいますよ。 ただ、誰かに考えを述べるとき、じつは、 答えているのはどんな人なんだろう? という疑問にも 知らず知らず答えることになります。 属性 ということばであらわされるもの、たとえば 日本人の10代であるとか、学校や仕事に通っているとか、 そういうものが平均的なら、相手に言葉は通じやすく、考えも通じやすいですね。 偏見や予断がすこーし混じっているから話が通じるということがあるのです。 でも、国籍とか、出身地とか、学歴とかが不明のまま、 たとえあなたが宇宙人であったりしても、 カントを読みました、ソクラテスを知っています、と言えば、 相手はあなたの考えの「もと」がわかります。 たとえば、売春についての考えを述べるとしましょう。 急に渋谷かどこかの女子高生が話し出すのと違って(それもきっと興味深いことですが)、 通貨や経済と売春を論じた哲学者○○がこう言ってたけれど、とあなたが前置きして話すと、 相手は、何の話が始まるかわかりやすく、どう話が進めたらよいかがわかります。 体験談や感想ではなく、深い物の見方や新しい物の見方を使って、ひとつの答えを出そうとしているのだとわかります。 コミュニケーションができなくては、哲学は、思考のない沈黙と同じなのです。

raikodon
質問者

お礼

amaguappaさん。 回答をありがとうございます。 書かれていること わたしにもよくわかりました。 最後の一行がすこし難しく思えたのですが 違う言い方を考えて じぶんで納得しました。(どんな言い方に変えたかは言えませんがw) ここでおおぜいの方に回答をいただいたこと、うれしかったです。 どうもありがとうございました。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.15

『ブッタとシッタカブッタ』僕も持ってますw 哲学の定義を「論理的道徳的実証的」なものとするなら、その具体的な判断方法、実践方法が仏法(パーリ語三蔵)には多く語られています。 サンガ出版から出ている「仏法」は上座仏教の教科書のような出来で、これを学ばれれば、過去の哲学者が何を語ったのか解りやすくなると思いますよ。 書店で見かけたら、後半の正見あたりからパラパラと読んでみてください。結構解りやすく、丁寧に、穴なく語られていると思います。 「考え方」が決め細やかに解説してあります。 納得がいったら学ばれるのがいいと思います。 そんなに難しくはありません、2500年前の当時、教育のなされていない人たちにも説かれたものですから。 スマナサーラ長老の書籍と比べると、読みにくい感じもあるかもしれませんが、理解不能に陥ることはないと思います。 ~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~

参考URL:
http://www.samgha.co.jp/products/shinkan/buppou.html
raikodon
質問者

お礼

maggaさん。 『ブとタのあいだ』も、とてもおもしろいです。 書店で仏法のことを書かれた本を探しましたが さきに仏教のことを描かれた?漫画に目がいきました。 図書館も探してみます。 サンガ出版の参考URLと、回答もありがとうございました。

回答No.14

回答の参考のため、いくつかあると思いますが、どのような本を読んでそう思ったのか聞かせてください。 さて、そのように「名前をあげ」ることが本当に多いのでしょうか。多いとしても、その「名前をあげ」るやり方が問題ではないでしょうか。また、「名前をあげ」ているとしても、昔の人にかぎられるのでしょうか。さらに、そのやり方も、いくつかパタンがあるだろうと思います。 1 カントや先行研究者のまったく出てこない。 2 回数としては出てくるが文章全体に比べると、あくまで引用の範囲である。 3 その研究者のあるテーマについての考察になっている。 4 その哲学者の解説である。 最近の哲学書や論文で、1ということはまずないと思います。反対に、たとえばデカルトの『省察』などをみると、まったく(もしくはほとんど)引用されてないかのようにみえますが、スコラ哲学の大家スアレスの哲学書にもとづいている部分もあります。過去の成果にまったく依存しない哲学書はまずないと考えます。 2ですが、これは正当なことですよね。哲学でなくとも、科学の導入や考察の部分では、引用することがたいていですし、先行研究から着想を得ているのに引用しないことは問題です。たとえば、フレッド・ドレツキの『心を自然化する』では、多数の引用がありますが、それは自分の問題意識と自身オリジナルの展開にとって重要な引用をおこなっています。つまり、「自分がいっしょうけんめい考える」のをさぼっているわけでなく、「自分がいっしょうけんめい考える」ことの助けにしているということです。つまり、それがないと自分はそこまでオリジナルな展開ができなかった、あるいは自分は自分で考えているが、それを補強する、さらに、自分とは別の考え方があることを示して、議論を広げる、などです。 また、過去の偉大な哲学者の引用によって権威づけているのではないか、ということですが、権威づけは効果であって、目的ではありません。いくら偉大な先人を引用していようと、その論文の問題意識とズレがあったり適切な引用になっていなかったりすると、権威づけの効果はなくなってしまいます。引用の目的が権威づけでないのは、たとえば上のドレツキをみてもわかるだろうと思います。引用元はいま活躍中の存命の哲学者がほとんどです。先人の威光にすがりたいだけなら、もっと過去の哲学者を牽強付会に引用すればよいのに、メジャーかマイナーかにかかわらず、やはり引用すべきものを引用しているだけです。 3や4についてですが、 「誰々の何々という問題系について」のような論文をよくみます。といってもタイトルだけで、中身をみたことは数回もありませんが(私は哲学の研究者ではありませんので、と言い訳)。哲学者の研究をすることは、その哲学者の思考したことを、思考しなかったことから画定する作業で、たんに哲学書の要約に終わっているのではないだろうと思います。このような論文は、もとの哲学書だけを読んでいても得られない知識であり、「自分がいっしょうけんめい考える」かたちでないとしても、哲学という分野にとってこの論文はたしかにオリジナルな成果だろうと思います。 余談ですが、みなさん哲学書の回りくどさについて触れられているので、私も。哲学が日常の言葉でおこなう必然性は個人的には感じないのですが(そんな制約を課すだけ損でしょう)、日常に依拠しているとしても、複雑さは避けられないだろうと思います。何本も延長コードを蛸足で配線しているとこんがらがってきますが、それをほどくのにはかなり手間がかかります。それと同じで、日常ありふれたことでも、その背後にある仕組みについて考察しようとすると(論理的な関係を明らかにするということですが)、日常の論理展開では追いつかないことが多いのだろうと思います。そのせいで複雑になってしまうのでしょう。ただ、そうやって回りくどく書くことで、それを読んだ人を説得させられればよいのだと思います。日常使われている論理に留めるなら、「私はこう思う、理由は日常の言葉で説明できない」で終わってしまうのでしょう。もちろん、読む人にある程度負担をかけますが、それは仕方ないと思っています。新しい考え方を学ぶときには、多少難しくはなるのだと思います。 もちろん、本人がわかっていないことを曖昧にするために晦渋になってしまい、読者に負担をかけるということはあってはならないと思います。ただ、これまで読んだ哲学書では、そのような悪い傾向はまったくありませんでした。むしろ、言いたいことをできるだけわかりやすく伝えようと整理されていたと思います(わかりやすいということではありません)。

raikodon
質問者

お礼

transactionさん。 ソクラテスは有名な肖像を思い浮かべることができますが、カントの肖像は、出てきません。哲学でなくても「この人が、こう言っていますが・・」のような言い方で、説明を補足することはよくあります。『この人』のことを、知っているときと知らない場合とでは、書かれていることを理解する深さも違いますね。『この人』のことを知らない自分を反省するべきかもしれません。時間がかかりそうですが、知りたいことなので努力してみます。回答をありがとうございました。

raikodon
質問者

補足

>どのような本を読んでそう思ったのか聞かせてください。 この本を読んで・・というような具体的な答えかたができません。 すみません。本もそうですが、哲学のことを書かれたサイトや ここへの他の人の質問と答えを読んでいても、印象として 有名な哲学者の名前が出ることが多い・・と思ったことが はじめての質問のきっかけになっています。 名前をあげることの意味を、具体的に説明していただき ありがとうございます。 質問したのが初めてなので ここの使い方がよくわかりません。 質問者が「補足」という場所に説明を付けるとメールで配信と 書かれています。間違っていたら指摘お願いいたします。

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.13

本来、哲学というものは我々の日々の生活やその人生において必要不可欠のものなのに、過去の多くの哲学者たちは、いろいろとこねくり回して極めて難解、煩雑なものとしてしまったのですが、特に全部とは言いませんが、なぜか哲学者には自己陶酔タイプが多いようで、一般の人に理解しにくい用語や言い回しを多用することで、自分しか解らない世界を構築して、悦に入っているようで、挙げ句、人々を哲学から遠ざけてしまっているのです。 大体、学問における最も重要な点、それはいかなる分野のものでも言えることですが、それはその学問が、いかにして人々に役立つようになるかを探求することにあるかと思われます。それは物理的であれ、精神的であれ、です。ただ精神世界は具体的に視認できず、公正な確証をつかんでいないので十人十色の哲学観となって、哲学を志す人にとっては大いなる困惑となるのでしょう。 ところで、私の一つの哲学観を述べさせてもらうと、これは経験的なもので、それこそ確証はないのですが、この宇宙は一つの大生命体であり、それは卓越した知性も兼ね備えていて、そして我々は時折ですが、その知性を借用して、様々な発明、発見をしているように思われます。 たとえば、アインシュタインにしろニュートンにしろ、彼等は難問に直面した時に、それこそ寝食忘れて頭を使い、ある時突然にひらめいたりして、それを解決するというパターンがよくあるのですが、これを人によっては「天の啓示」とか、ニュートン自身が自分を「神に選ばれし者」と言ったりしていましたが、「天」しろ「神」にしろ、それが指し示しているものは同じかと思われます。おそらく誰もが時々、様々な諸現象を見て「これはとても偶然の所作ではなく、何らかの力が働いているの違いない」と感じることもあるかと思われます。これらからして、その表現方法は違えど、何らかの知性を持つ大いなる存在を否定することはできないかと思われます。 格言に「天は自ら助くる者を助く」というものがありますが、「自ら助くる」とは、努力するということで、やはり、一生懸命努力する者にはその大いなる存在は手を差し伸べてくれるようです。 ですから、過去の哲学者の話は参考程度にして、一生懸命考えられれば その大いなる知性は、的確な解答をもたらしてくれるのではないでしょうか。

raikodon
質問者

お礼

abc2008さん 哲学観を読ませてくださってありがとうございます。 sf的な書き方のほうに興味を持ってはいけないですね。(^^ゞ 回答をありがとうございました。

  • code1134
  • ベストアンサー率20% (703/3370)
回答No.12

A)「如何に生きるか?」を考えた末、死んで行く存在との宿命下にあるが故に、(質問者さんを含む)興味を持ち始めた方々には難しく映り易い事 B)死んだ事を一切未経験の生きている人間(の一部)が哲学をしたり、学ぶ訳であって、この特殊性も上掲の点と絡む事 C)「如何に生きるか?」に対する視座は時代、民族や文化等により多少の差異はあると考えられそうな気がしますが、「結局"死んで行く存在"との点はソクラテスや孔子等々が活躍していた時も全く同様であって、哲学は結構誕生当時から完成度が高い分野ではなかったか?」と言う事 (但し未検証ですので、私自身の偏見のリスクは大いに孕みますが) 最後に延べ11名の方々は地域面でインド哲学に触れておられぬので、この点並びに私が接した範囲内で比較的平易に哲学書を著した人物に池田晶子氏が含まれそうな点を挙げて置きます。 http://www.hat.hi-ho.ne.jp/funaoto/link/ikeda.html

raikodon
質問者

お礼

code1134さん。 回答をありがとうございました。 池田晶子さんについてのリンク集のサイトの紹介も、 ありがとうございました。 『14歳からの哲学』を読んだことがあります。 簡単に書かれているのだろう という甘い考えで図書館から 借りましたが、いま思い出そうとするとあまりよく覚えていません。 多くの著書を出されているので ほかの本も探してみます。

  • at9_am
  • ベストアンサー率40% (1540/3760)
回答No.11

哲学、というのは、私が考えるには、社会科学など人文科学の基礎研究であろうと思います。丁度、理系の科学に対する数学や基礎物理学のようなものです。 一つの方向性としては、人間はどう生きるべきか、という方向があるでしょうし、別の方向性としては、人間とはいかなる存在なのか、と言う方向性もあるでしょう。これは丁度、数学でも関数論があったりトポロジー論があったりするのと同じようなものです。 多分、大雑把にくくれば、この世界の見方を研究する学問、とでもいうことになるのでしょう。 例えば私の専門は経済学ですが、根底の一つは「最大多数の最大幸福」があります。この考え方はベンサムやミルの時代まで遡ることが出来ます。色々な立場がありますが、結局のところ、どういった状態が「良い状態」なのかという点については、経済学は哲学に下駄を預けた形になっています(最近はこの方面で、例えばノーベル経済学賞を取ったセン等が研究をしています)。 > 哲学のことを説明する時、カントとかソクラテスとか昔に生きた人の名前をあげて説明する事が多いのはなぜですか? こういったことは、一つにはメクラマシで、一種の権威付けです。単に「私はこう思う」というよりも「ニーチェがこう言った。私も同意である」と言う方が偉そうで正しそうだからです。 フランスでは「ニーチェはあらゆる事を言った」という言葉すら残っているくらいです。ニーチェはドイツ人で大量の著作がありますので、こう言っておけば「ニーチェはそんなことを言っていない」といわれる心配があまりない上に、ニーチェの評価は高いからです。因みにドイツに行くとニーチェがカントに変わったりします。 > 哲学者ってなんであんな難しい言い回しするのか疑問 理由は二つあると思います。 一つは、正確に意味を伝える、という事を考えた場合、平易だといくつもの意味が考えられますので、誤解を生じやすい、という点です。これには学術用語も多く含まれます。多分、この意味での難解な言い回しは、全ての学問に共通してあるものだと思います。 もう一つには、おそらく自分でも分かっていないことを説明しようとしているからです。人間、自分でもよく分からないことを説明しようとするときは、回りくどくてさも難解な事象を説明しようとしているかのようにふるまうものです。

raikodon
質問者

お礼

at9_amさん。 哲学のことで『この世界の見方を研究する学問』と 書かれていたことを忘れないようにしたいです。 丁寧な説明を、ありがとうございました。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.9

哲学カテって、時々難しい文章を書く人が多いですよね。 なので、できるだけ簡潔に書くことにします。 哲学っていうのは、自分なりの考えを作っていく作業です。 ですから、あなたなりの考えを出すのが哲学なわけです。 でも、人間は1人で全部に気づくことは難しい。 今あなたが質問されているように誰かに聞かなければならないことも多いし、またふとした時に誰かが言ったことばがあなたに何かを気づかせてくれることもあると思います。 結構、他人に頼っているのです。 また、「純粋に自分だけの考え」にこだわるなら、それで満足するのは自分だけですし、何よりひとりよがりになってしまいがちです。 「自分がいっしょうけんめい考えること」というのは、「自分だけでいっしょうけんめい考えること」とは違います。 時には他人から刺激を受けながら、自分の考えを作っていくものだと思います。 今生きている人ならともかく、なぜ昔の人を頼りにするのか、という疑問もあるのかもしれないので、そのことについても書いておきます。 同じ時代を生きている人の言葉は、確かに親しみを感じます。しかし、もし時代が変わってしまったら、その人の言葉は吹けば飛ぶほど軽いものになっているかもしれません。 ところが、時代を隔ててもなお残っている人の考えというのは、時代が違っても通用するようなするどいことを言っている場合が多いのです。 ならば、昔の人の言ったことも、馬鹿にはできません。 もちろん、時には昔の人がめちゃくちゃなことや迷信を語っていたりすることもあります。そのことは差し引いて考えた方がよいのは確かですが。 いずれにしても、昔の人の言葉ばかり集めて喜んでしまっていては「知識だけで知恵がない」人になってしまいます。いわゆるにせものの哲学者です。 知識はほどほどでいいですから、自分なりの考えをしっかりと組み立てて、知恵のある人であることを望むのが、理想の哲学者像ですね。

raikodon
質問者

お礼

nabayoshさん回答をありがとうございます。 いまお礼を言いたくて回答を読みながら考えています。 お礼を言いたいという目的があっても自分で考えることは いつも同じではなく変わっていきます。 それなら哲学で名前が知れている人たちが考えたことを 自分が考えたことのように思えるようになるまで読む ことができたら、それはとても実用的なことだと思いました。 (そんな集中力があったらいいのですが) だから先に知っている人が「このように考えている人がいます」 と名前を挙げて教えてくれることは正しいことだと思いました。 なんだかよくわからなくなってきました。

回答No.8

僕は >「疑問に思ったことの答えを、いっしょうけんめい考えること」 であってると思います。 過去の偉大な哲学者を紐解いたり、考えについて意見を交える事はとても大事な事だと思いますが、頭が固くなっちゃってる人もいますし、そうなるくらいだったら勉強しない方がマシです(多分・・・)。 日常の生活の中にある疑問に目を向けて考える。 もしかしたら世間では答えの出てる事なのかもしれないし、当たり前だと馬鹿にされるものかもしれませんが、実はそういうところ哲学的ヒントがあったりするのかもしれません。 肩の力を抜いて好きなように勉強するのが一番ですよ。 後はたくさん疑問もってたくさん考えればある意味プチ哲学者なんじゃないかなぁ?なんて思います。 おもっきり抽象的ですんません。

raikodon
質問者

お礼

tunedriverさん。 まだ疑問に思っていることがありますが、かん違いな 質問をしないように、努力したいと思っています。 優しい回答をありがとうございます!

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.7

なぜカントやソクラテスが出てくるのかというと、人間の発想法など限りがあり、極端な話、古代ギリシャの多数の哲学者と、中国の諸子百家の段階で、すべてパターンが出尽くしてしまっているからです。 つまり、哲学史を全部理解すれば、人間の発想法は全て分かるということです。私や交流のあった教授の特異技能として、「他人の話している内容から相手のロジックを見抜き、結論を先読みできる。場合によっては、相手が解決できないでいる問題を見抜き、相手に代わって解決法の提案もできる」というものがあります。 ただし、普通の人が哲学史を全て理解するのには、10年かかります。哲学史を学ぶという態度より、いろいろな哲学者の入門書を読んで、自分の問題意識に近い哲学者を探しだし、そこからスタートしてまずその哲学者の思想をマスター、続いてその人物に批判的な人物の主張を読みながら、自分の意見を深めていくほうが効率的かつ建設的です。 古典的には、戦前からのエリートの世界(今の高年齢者)の世界では「でかんしょ」と言って、デカルト、カント、ショーペンハウエルを理解していることが教養人としてのステータスだったのです。中曽根元総理は、自分の愛読書としてカントの「純粋理性批判」をあげており、昨今ではこういう深い教養のある政治家は減ったな、と思います。 あなたのおっしゃるとおり、哲学は自分でものを考えるという行為をしなければ、意味のない行為です。この意味では「でかんしょ」よりもヘーゲル、キルケゴール、アドルノの方が向いています。彼ら弁証法の系譜に入る哲学者には、書物に記された他人の思考過程を、読書を通じて追体験するということを重視する傾向があるからです。確かにこれをやれば、自分で考えることと、哲学者本人の主張を理解することを、同時に達成できるでしょう。一番の本格派は、ヘーゲルの「精神現象学」ですが、常人が読んでいきなり理解できる本ではありません。キルケゴールの「不安の概念」や「死にいたる病」のほうが向いています。キルケゴールの立場は非常に明確で、「どんな幸福者にも、不幸者に転落してしまう可能性はある。自分がそのプロセスを示してみせる」というのが、彼の主張の基調なのです。そして、キルケゴールの思考過程を読書を通じて追体験することは、幸福者が不幸者に転落するさいの行き方や思考のありさまを、実世界において体験するのと同じくらいの価値があることなのです。

raikodon
質問者

お礼

harepandaさん。ありがとうございます。 哲学は漠然と興味を持つことまでは 誰にでもできますが、哲学を勉強として学んでいくのは、とても大変なことなのだと気がつきました。 (勉強として=ここはほかの言い方を思いつかないので、書いています) 哲学だけに興味を集中できるような才能も時間もないのですが キルケゴールという人の本を読んでみます。 それから「たくさん考えること」と「発想法」という言い方は わたしの中では意味が違うのですが、そのことはまたいつか考えます。 回答をありがとうございました。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.6

「なんとなく言ってみた」「考え方の提示」 こんな印象を哲学に持ちます。 具体的な方法や細部の解説。は私には感じられません。考え方の提示も社会に受け入れる範囲で考えた場合、そんなにあるわけではないでしょう。 だから過去の人たちの考えによるのではないでしょうか? 上座仏教(パーリ語経典)には具体的な方法や細部の解説があるように感じます。 一度スマナサーラ長老の書籍「ブッダの幸福論」「心の中はどうなってるの」「現代人のための瞑想法」や、「テーラワーダ仏教の実践」「NHKダンマパダを読む下」などを読んでみてください。 きっと「あなたなりの哲学」に大きな恵みをもたらすと思いますよ。

raikodon
質問者

お礼

maggaさん。 哲学は西洋のものと思っていて仏教に関係がある本は一冊も読んだことがありません。 わたしに読めるのか?不安ですが本の題名の提示をありがとうございました。 まじめなお礼じゃないと笑われるかもしれませんが、小泉吉宏さんという人の描いた 『ブッタとシッタカブッタ』というマンガには、やさしいお釈迦様のようなブタも出てきて好きです。