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虚無を粉砕(解決)できる哲学
はありますでしょうか? 友人から「存在する(生きる)意味」について聞かれました。 私はこの事(哲学)については専門外なので、「分からない」とだけ答えましたが、自分も似たような事を経験した事があります。 その時、私の取った行動は「考えないようにする事」でしたが、この問いに対して何か明確な答えのようなものはありますでしょうか? 稚拙ですがウィキや教えてを使って調べたのですが、個人的には「人それぞれ」というのが私の結論で、あまり役に立ちそうもありません。 ニーチェの永劫回帰や超人についてもあたってみたのですが、どうも欲してる内容とは違うような気がします。 こちらにいらっしゃる皆様は、哲学に対して経験豊富かと存じます。 よろしければ、皆様の御知恵を拝見できますでしょうか?
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「生きることの意味とは?」「なぜ我々は生きているのか?」永遠の命題ですね。俗に言うボーズなることをしている、私自身も正直な話しよくわかりません。生きていることに普遍的な意味があり、それを体現した方がいるのなら、私が教えを請いたいくらいです。 ただ、私個人の意見としましては我々は「生きているから、生きている」のだと思います。 たまに、「なぜ働くのか?」という問いに対して「食べるためだ。食わなくては死んじまう。」と答える方がいます。しかし、食べれば死なないのでしょうか?そんなことはありません。食べても人間いつしか死ぬのです。そのように体の仕組みができているのです。では、なぜ働くか、それは「生きているから」ではないでしょうか。生きているから食べるのです。生きているから、楽しんだり、悲しんだり、いろいろあるんだと思います。 ですから、わたしは「生きている」ということを問いにまわすのをやめて、「生きている」ということを答えにまわすようにしてみました。すると結構楽ですよ。体外のことをシンプルに考えられると思います。 「人間死ぬようにできているんだから、死ぬまで生きる」といったところでしょうか。人間は「生きる」ということに意味づけをしたがりますが、私は生きていることには意味などないと思います。裏を返せば、生きていること自体がすでに意味を持っているのではないでしょうか。 生きていれば誰かに迷惑をかけることもあるでしょう。また誰かから迷惑をかけられることもあるでしょう。我々人間はお互いに迷惑をかけ合いながらでしか生きることはできません。そうやって、影響しあいながら、生かし生かされている。それだけで意味があるように思えます。 なんだかきれいごとを並べたようになってしまいましたね。不本意です。まぁ、「生きてりゃそれだけでめっけもの」ってなわけです。しかし、少なくとも答えになっていませんね。申し訳ないです。 合掌 南無阿弥陀佛
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仏教には、唯佛与佛(ゆいぶつようぶつ)という言葉があります。仏の境地のすべては仏のみが知るということです。 生きる意味を探しているようですね。 たぶん、これから一生懸命探すことによって今の自分にはないものを多く身に付けると思います。人生というものに対して深い考え方をすると思います。そうして深い考えを身に付けて多くの人と関わった時、他が浅はかな考えをしていると思うと思います。 それは知、力、心、感覚、事実を感ずる感性が高くなったものは、それ相応の人生感を持っているということです。 それを悟ったら、自分自身を高め、深い深い人生感を得たいと思うようになり、努力すると思います。 そうして、その努力により、1つ1つ人生感が深くなり、いつか、かなり長い長い先になると思いますが、「存在する(生きる)意味」に対して明確な答えが出て、それに納得すると思います。 深い人生感を持たない者に対して事実を言ってもそれを信用しません。納得できません。 人それぞれの人生感の深さが違い、その時、その時の人生感で物事を言うから、答えが「人それぞれ」になってしまうのです。 私の中で生きる意味は、ありとあらゆる苦から逃れ、解放され、苦しむような生き方はしなくなるために生きることです。そして、自他共に幸せになるために生きることです。それが今の私が求める最も良い生き方であり、意味がある生き方で、最も落ち着いて納得できる生き方です。 以上、参考になれば幸いです。
お礼
最初は友人に対して何か言えぬものかと始まった質問でしたが、今では私自身に対しての質問でもあると気づきました。 思えば、私は質問を意識しないようにして逃げていたのでしょう。 それ故に、今こうして友人の苦悩を突きつけられ、空っぽである己自身の姿をまざまざと見せ付けられたんだと思います。 程度は違えど、彼の姿は己の姿でもあったわけですね…。 だから私は意識しないようにしつつも、何故かこうして懸命に探していたのでしょう。 恐らく、生きる意味は人それぞれなのでしょう。 しかし、誰しも似たような疑問があるように、生きる意味にもそれなりの共通性があると私は思うのです。 それがなんなのかまだ分かりません。 分かるかどうかも分かりません。 ただ、続けては行こうかと思います。 shoujin24tさんのお答えはある意味、一つの真実かと思います。 私もいつかそこへ行き着くことが出来るでしょうか…。 有難う御座います。 一人の人間の人生観を僅かではありますが、垣間見た気がします…。
補足
皆様、有難う御座いました。 結局、結論は出ませんでしたが、皆様の暖かい励まし有難う御座います(私が励まされて…というのもあるかもしれませんが;)。 私は私なりに答えを探してみようかと思います。 また同じ事を質問するかもしれませんが、どうか御容赦下さい。 回答者様に悪いので、一旦締め切りたいと思います。
哲学ならではの逆説ですが、 逆だと私は納得するのです。 「意味があって存在を成す」ということは不可能です。 存在は意味よりも先立って存在なのです。 私が存在して生きているのではなく、存在が私の生を示しているのです? 「意味」の存在は「欲望」の規制、制御にあります。 欲望は善悪、美醜や正誤や可不可ではなく「自然に呼ばれる」ようなものないかと思います。
お礼
まさにその通りだと思うのですがそれを彼に理解させるには、いや、私より当事者である彼の方が既に分かっているのかもしれません。 ただ、そうなるともう一つの懸念があると私は思うのです。 すなわち、欲望の喪失、欲望の放棄、欲望の消去です。 つまり、欲求そのものを虚構へと変えてしまう欲求。 そのようなパラドックスに遭遇した時、人はどうすればいいんでしょうか。 私には「とりあえず考えないようにする」しかないのですが…。 有難う御座います。
僕なりにね、いい方法だなぁと思うことがあるんです。 無理すんなぁ。無理すんなぁ。 無理をしないなら、道理に外れないと思うんです。 考えることで人は無理をすることがあります。 人と接するとき、自分をフォロー(苦難から脱そうと)するとき、他、とかく色んなときに無理をすることがあります。 この無理をしないことで、かなりいいと思うんです。 何か無理を科せられているのなら、無理を抜いてしまおう、何か無理をしているなら、無理を外してしまおう。僕はそう思ったんです。しかも、今日、一時間ほど前に。。できたてほやほやのあれです。ええ方法です。きっと。どうか意味が通じますように。。 (別にあきらめろというてるわけじゃないんです。)
お礼
分かりますよ~。 私もかえって無理をしない方がうまくいく場合とかあると思うんです。 ただ、問題なのは無理をしなくちゃいけない、無理を強いられる、そして駄目だと分かっていてもしなくちゃならない、そして破滅へ…といく場合なんですね。 友人自身も全て分かっていたようで、かえって見ていて不憫に思います。 忘れさせればいいのかもしれませんが、果たしてそれで本当に良かどうか…。 人に価値観大いに違うと思うし、彼から見て私がどのように映っているのかも疑問です(冷淡に見えるかもしれません)。 結局、私には分からないので放っておくことにしましたが、ちょっと不安だったもので。 一応、さっき試しに声とか掛けてみたんですが、普通に反応して問題ないように見えるのですが、やはりどこか落ち込んでる感じで。 でも、いずれ時が経てば解決してくれるかもしれません。 それまでは、BABAaさんの仰るように無理しないよう、アドバイスしてみます。 有難う御座います。
福島大学経済学部経営学科教授飯田史彦氏の著作を読まれたら良いと思います。 「生きがいの創造」 http://www.amazon.co.jp/%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%89%88-%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%AE%E5%89%B5%E9%80%A0-%E9%A3%AF%E7%94%B0-%E5%8F%B2%E5%BD%A6/dp/4569657060 「愛の論理」 http://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86%E2%80%95%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A7%E6%84%9B%E3%81%9B%E3%81%B0%E3%82%86%E3%82%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E9%A3%AF%E7%94%B0-%E5%8F%B2%E5%BD%A6/dp/4569577938/sr=1-6/qid=1167993441/ref=sr_1_6/503-9461685-0027147?ie=UTF8&s=books
お礼
何だか面白そうですね。 一度読んでみます。もし、友人にも勧められるようなら勧めてみます。 有難う御座います。
- Buddha1219
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もし人が、「生きている意味とは何か」ということを思惟・考研して、それそのもの、あるいはそれにまつわる特定の何かにこだわるならば、かれは快楽論,苦行論,懐疑論のいずれかを奉じるに至り、それゆえにかれは人が生きていることの意味をついに知ることがない。 また、もし人が「生きていることには何ら意味が無い」と予め断じるならば、かれは虚無論,断滅論(唯物論),業(カルマ)否定論,運命論,宿命論などに陥ったのであり、少なくともかれがそのままであるならば、かれは自らの人生を意味あるものにすることはとてもできないであろう。 ところで、人生の真実はこれら(外道)の諸説とは実は無関係のところにあるのだと(知る人には,すでに覚知した人には)知られる。 そしてこのことは、たとえ未だ覚りの境地に至っていない人であっても、かれが真実なる人生のありようを知ろうと熱望するならば、かれははからずも自らの人生を意味あるものと為し、自らの人生を真実ならしめ、そのようにしてかれは死ぬよりも前に為すべきことを自ら為し終え、死ぬよりも前に人生の意味を完全に識り終えて、人としてのあり得べき(最後の)人生を全うするに至ると期待され得る。 心構え正しく直ぐなる人だけが、人生の真実をこのように識り、他ならぬ自らの人生を真実ならしめる。 こころある人は、破り難き迷妄と超え難き妄執とを自らによってまさしく超克して、他ならぬ自らの人生を真実ならしめよ。 ***
お礼
ただ、懸命に必死に生きた者が否定的な現実を見られ、見出す事に疲れ果て、見出す事そのものがもはや苦痛でしかない、と感じている場合には果たしてそれが通じるかどうか。 人生に絶望し虚無の淵にいる者には、そこから這い上がる為に原動となような明確な理由(意味)が必要かと存じます。 どうなのでしょうか?もしよろしかったら、また御教授下さいね。
補足
励まし(?)の言葉有難う御座います。 つまり、「結論は出ないがそれを見出そうとする事に意味がある」という事でしょうか?
- schneewittchen7
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もしも生まれる前に「虚無である」「生きるに価しない」と分かっていたらば、それでも敢えて生まれてくるものでしょうか? 我々の前に横たわっているのは「生まれ落ちた」その事実だけです。 明確な答えがあるものなら悩みもありませんが もしも誰かに 「そう!生きる意味などないのだよ、虚無なのである」 と断言してもらったら、そのあと、どういう選択をするでしょうか。 「あそう、虚無なの、そんならやめとくわ」となりますでしょうか。 現状は個人で「虚無だろ虚無」と判定してサイナラする人もいれば 「いや、虚無かどうかは生き抜いてみなくては分からん」 「分からんなら、やっぱサイナラ」 或いは「生きる意味は自分でつける!」と宣言する人もいるわけですね。 私個人は珍しいほうかもしれませんが辛うじて生まれてきた、そして生き抜かなければならなかった理由がハッキリしておりますから、それが自覚できるようになった頃から自分の存在理由を、それほど思い悩む必要はなかったですが、それでも、その「理由自体」に何の価値があるのかとか突っ込みだしたらキリがありません。 その理由は私にとっては詰まらん理由、でも他の者にとっては値打ちのあることなのですし、その格差が最初の段階で、すでに生じているのですから一言で「ある」「ない」と断言することは難しい。 繰り返しますが私たちの前に横たわっているのは 「生まれ落ちた」「そして、ここにいる」その事実だけです。 何を言ったって、その事実に色付けをするようなことをしているだけで死んでみなければ分からない…いや、死んだって分からないかもしれませんよ。 詰まるところ、この世界自体の存在価値を問うのと同じことになります。 さし当たって我々にできることは確実な答えを手に入れる前の段階、要するに「いっしょう懸命、やる」ということに尽きるのではないでしょうか。 先にも申し上げたように 「あそう、虚無なの、そんならやめとくわ」 とは、なかなか行きませんでしょうし、それが現実ですから。 ニーチェとかよりも私個人は、むしろカミュの「ペスト」等を思い起こしました。 たとえムダだと分かっていても、なし崩しに敗北しようとも最後まで抵抗する。人間の最後の誇りをかけて。 なかなか、こんな壮絶な覚悟は持てませんが、せめて私たちは日常のささやかな快いものを愛で喜び、まじめに、おもしろがりながら最終ゴールに向かいましょうか。 そんなこんなしているうちに「答え」があるのかどうかも、どうでもよくなってくるかもしれませんね。 なお年齢が若い、つまり「しがらみ」とか「責任」とか「実績」といったものが少ないほど、「虚無だ」となると「ほなサイナラ」に傾くと思います。 「未来時間」に対する恐れですね。その「未来時間」を踏み越えてしまうと逆に腹が据わってくるということもあります。 「虚無?今さら言われても、なんじゃい、そんなもん!」とね。 「虚無」かどうかハッキリさせてもらうことよりも「より良くあること」を求めるほうが生まれてきてしまった以上は健康的でしょうね。 ところで当サイトの当カテゴリーは私も含めて「経験豊富」でない人が殆んどです。純哲学としての専門的なことをお尋ねしたい向きは、別のサイトをお探しになられたほうがよいでしょう。そういうことを説明できる人は、このサイトには滅多に来られません。私も時に待ってはみるのですが。 私の投稿も飽くまで現時点での個人的考えの披露に過ぎません。 御自身の御考えを進めていくうえでの一助になれば幸いです。
お礼
空いた時間での返答になり稚拙で申し訳ないのですが、まずお礼を。 御回答下さり有難う御座います。 そうですね、私も取り敢えず死ぬわけにはいかないから生きてみる、といった部類の人間です。 しかし、そのせいか生きる事の根本を聞かれると、答えられず口を噤むしかないのもまた事実で、時々これでよいのかと思う時があります。 恐らく、探そうと思ってもそう簡単に見つかる事ではないでしょう。 だからなるべく考えないようにしています。 schneewittchen7さんのいうようにここで聞いたところで、それ以上の答えるを得る事は出来ないのかもしれません。 友人も、私が答えを出せると思って聞いたのではない様子でした。 ただ、思うのです。今はよくとも友人のように虚無と向き合わねばならぬ時が来た場合、私はそれと向き合えるのだろうかと。 そう考えると私も不安のようなものを感じたので、友人の事も含めここで質問させて頂きました。 参考になりました。有難う御座います。
補足
>ニーチェとかよりも私個人は、むしろカミュの「ペスト」等を思い起こしました。 後で私も調べてみます。
お礼
>生きていることに普遍的な意味があり、それを体現した方がいるのなら、私が教えを請いたいくらいです 全くですな。 >「生きている」ということを答えにまわす なるほど、逆転の発想ですか。斬新だと思います。私も一理あるかと思います。 ただ、生きる事を放棄しそうな(そこまで深刻な様子ではありませんでしたが、早めに手を打つに越した事はないというか、少し気がかりだったもので)人間には、やはり明確な理由を求めずにはいられないのでしょう。 私もいつ向き合わねばならぬ時が来るかどうか…。 ただ、実は私もbaka-hageさんと同じ、生きていることに意味などないと感じてる人間の一人だったりします。 だからなおの事生きる意味を考えないようにしているのですが。。。 私も今を生きればそれでいいんだと…。 しかし、今を生きる事が困難な者にとっては、「生きる事」そのものが苦痛なのでしょう。 とりあえず、今の私のは友人が立ち直ってくれる事を待つ事しか出来ないのですが、なんとも人間とは苦難な生き物なのですね…。 >少なくとも答えになっていませんね。申し訳ないです。 いえいえ、有難う御座います。 参考になりました。 合唱