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学問としての哲学の存在意義は何ですか?
哲学の目的は真理を追究することにあると思います。 哲学の研究対象の主なものは世界であり、それがどうなっているかです。 しかし、得られた結論が真理なのか人間には判断できないということは明らかと思います。 (無数の無矛盾の世界モデルが存在可能です) だとすると哲学のやろうとしているのは原理的にわからないものを求める徒労なのでしょうか? あるいは最もありうる世界モデルを提唱することなのでしょうか? そしてその世界モデルが興味深いものであればよしとするのでしょうか? 学問としての哲学の存在意義を教えてください。
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- koosaka
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「哲学の目的は真理を追究することにある」というより、真理とは何か?という「定義の問題」です。 いったい、何をもってそれを真理というのか、という定義の問題。 「・・・・・は真である」という文でいわれるものです。 哲学の歴史はその真理の定義を巡って、いろいろな見解が対立抗争を繰り返してきた歴史です。 もっとも古い、プリミティブな真理の定義は、アリストテレスのいう「思考と存在の一致が真である」というものです。 簡単にいうと私が言明したことが、その言明の対象と一致すれば真、一致しなければ偽、というものです。 たとえば、「ここにお金がある」といったとして、現実にお金があれば、その言明は真、現実にお金がなければその言明は偽である、というもの。 真理の「対応理論」と言われます。 最近でいうと、ウィトゲンシュタインの「論考」でいう真理観です。 いわゆる「写像理論」と言われるもので、論理は対象の「写像である」という考えから、論理が対象を正しく写像していれば真、正しく写像していなければ偽、というもの。 この個々の命題が対象に一致していれば真という理論のほかに、「真理の整合説」というものがあります。 個々には一致していなくても、全体に一致していれば、あるいは全体に整合していれば真とするものです。 アメリカの哲学者クワインやその弟子ディヴィッドソンの唱える真理観です。 真理の対応理論としては、アルフレッド・タルスキの真理観があります。 たとえば、「雪が白いのは、雪が白いときに限って真である」というように定式化されます。 その他に、ラッセル・ストローソンの真理の階層説があります。 文を1階と2階に分けて、対象言語とメタ・言語に分けて、メタ・言語から見て、対象言語の真偽をいうもの。 この考えは古代ギリシャのプラトンの「国家」という著作の中の「洞窟の比喩」という「イデア論」でも言われたことでした。 洞窟の中で民衆が壁に映った映像を真だと思っているけれど、実はそれは幻影で、実際は洞窟の上から指す、光に映ったものが真なのだ、というもの。 ドクサ・臆見に対してアレーティア、隠れのないものが真である、という見解です。 この他、フランシス・ベーコンが「ニュー・オルガノン・新機関」でいうところの「イドラ論」があります。 イドラとは、偏見・まやかし・偶像などのことで、それを排除することで真理が得られるという考えです。 ベーコンはイドラを4つに分けました。 (1)種族のイドラ。人間の感情の偏り、感覚の狭さ、から生じる幻影や偏見のこと。人間は自然を見るのに自然そのものの尺度なく、人間固有の尺度で自然を歪めて見ようとする。 (2)洞窟のイドラ。個人の性質や教育によって、自然の光を遮られ、まるで洞窟の中から世界を見ようとするもののこと。自分の狭い知見によってそれを一般化することにより、真理から目を逸らされる。 (3)市場のイドラ。人々が集団生活を営むことによって生まれる幻影・偏見のことで、実在性のない言葉が不適切に使用される結果、それがあたかも実在性があるように操られる。 (4)劇場のイドラ。哲学の劇場で演じられる真理をめぐるドラマ・脚本によって既存の体系や権威を盲目的に信じることから生まれる幻影や偏見のこと。 したがって、これらの偏見・幻影を排除しなければ、真理は得られないという。 またデカルトの「方法序説」でいう真理観もあります。 いわゆる「われ思う、ゆえにわれあり」というコギトのこと。 デカルトはすべてを疑い、外的世界の存在を疑わしいと言い、確実なのは「われ思う・コギト」であると言いました。 デカルトはそのコギトの中に思考だけでなく、感情・意志・感覚などを含めており、それを一般に「内部感覚」とか「内的体験」と言っています。 これを一般的に言うと、私たちの外にあるものは疑わしいが、私たちの中にあるものは疑えない、真である、というものです。 私が思っていたら、それは絶対に確実で真である、と言います、それを疑うことはできない、と。 私が悲しいと思ったら、悲しくないとは言えないから、疑うことができず、真です。 私がそれを意志したら、意志していないとは言えないから、絶対に真です。 私がそれを感覚したら、感覚していないとは言えないから、絶対に真です。 たとえば、「雨が降っていると思う」と言ったら、たとえ雨が降っていなくても、思っていることは真だから、真です。 このように何をもって真であるかには、いろいろな見解があります。 あなたは「哲学の研究対象の主なものは世界であり、それがどうなっているかです」と言いますが、そのためには、何が真というものか、それを定義することが、先だと思います。 「得られた結論が人間には判断できないというのは明らか」と言うのなら、なおさら真理の定義が必要です。 それによって、判断できない、判断できる、と言うことを主張すべきでしょう。 あなたがそう言う前に、ベーコンのいう「イドラ」、偏見・幻影・まやかしに操られているとも限らないのですから。 「哲学のやろうとしているのは原理的に分からないものを求める徒労なのでしょうか」と言うのは、「即断」に過ぎます。 早まってはいけない、結論はゆっくりと。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
>哲学の目的は真理を追究することにあると思います。 思うのは貴方の自由ですが、、。 >哲学の研究対象の主なものは世界であり、それがどうなっているかです。 形而上の世界、つまり実世界ではなく、観念なんです。 >しかし、得られた結論が真理なのか人間には判断できないということは明らかと思います。(無数の無矛盾の世界モデルが存在可能です) 結論なんて出ては困るでしょう。 結論がでないから「次回のお楽しみ」ってことで延々と哲学が続くのです。 >だとすると哲学のやろうとしているのは原理的にわからないものを求める徒労なのでしょうか? 見返りを求める者にとって徒労と言ってもよい。 でも、哲学をやる人で見返りを求める人なんて、おるかな? >あるいは最もありうる世界モデルを提唱することなのでしょうか? 汎用のモデルではなくて、あなた専用の認識モデルですね。 >そしてその世界モデルが興味深いものであればよしとするのでしょうか? それは、ご自由に(=観客の選択です) >学問としての哲学の存在意義を教えてください。 学問で無くなると、哲学の教授連中に税金から給与を払うわけにはまいらなくなる。 本来、ディレッタントがボランティアでやればよいものを税金で補助するためには「哲学は学問である」という命題を是としなくてはいかんでしょう。さもなくば納税者が黙っていないよ。 本質的には、哲学は落語と並ぶエンターテインメントですから、演者や観客から木戸銭を貰って生活するか、別に生業をもちつつ趣味でやるモノですね。
お礼
回答ありがとうございます。 ただ、どうしてそう思われるのか私の書いたことが理解されていない気がします。 哲学においてもはや「形而上学」は過去のものになりつつあります。 私がどうのこうのというのでなく、哲学研究をされている研究者はこのように考えているのではないですか?という意味で書きました。 哲学はもはや学問でないというお考えですね。 確かに哲学は面白い、それはそうだと思います。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
哲学の目的は真理を追究することにあると思います。 ↑ ハイ、その通りで、この世界はどうなっているのか なぜ存在しているのか、などの疑問が生じる訳で、 これは当初神話で説明していました。 しかし時代が進むにつれ、神話では満足しなくなり もっともらしい理屈を並べた哲学に進化した のです。 しかし、真理追究なら科学の方がはるかに合理的 です。 かつての神話と同じく、哲学における真理追究は、 科学にその座を譲りつつあるのだと思います。 哲学は今後は、真理の追究ではなく、人生の 指針としての役割に特化していくのではない でしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど哲学は時代的に学問的な役割を終えたということですね。 確かに人生の指針としての役割は重要とは思うのですが、それは学問ではないと思います。現代においてはその学問的存在意義を認めるのは難しいということですね。
- 雪中庵(@psytex)
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かつて宗教が、哲学(価値観)や科学(世界観)も 兼ねていた時代があった。 しかし、やがて研究をしていた僧侶の中に、 聖書の教えに反するとして処刑される者が 現れ、次第に科学は独立したフィールドに なった。 結果的に、宗教も、科学の隙間を縫って生き 延びる、世界観の核から外れたものになった。 そうして、生き物を扱う生物学や天体を扱う 天文学、あるいは神を扱う宗教というように、 個々の現象に対応した分“科”学が独立して行った 残り、そうして得られた知見を総合して、 世界観(存在の意味)や価値観(生きる目的)を 形成するものが哲学だと言える。 哲学とは世界観、即ち我々自身の普段の環境 認識の深まりそのものだと言える。 物質的な豊かさが生きる目的ならば、哲学は 直接のメリットをもたらさないかも知れないが、 生きる目的が精神的充足量の最大化ならば、 感じている世界(意識)をより鮮やかにするもの として、あるいは自己の生命の社会的拡張の 自覚化による自律的生=生きること自体による 充足を可能にするものとして、如何なる物質的 成果よりも「直接的に」精神的充足量に寄与する。
お礼
回答ありがとうございます。 精神的充足ということだと、それは個人的なものになるのでしょうか。 ただそうすると哲学としての客観性を保つのが難しくなりそうです。 客観性がないと学問としては成立しない気がします。 確かに人生論としての哲学は有益なものだとは思うのですが・・・
お礼
回答ありがとうございます。 真理に関するいろいろな学説の紹介をありがとうございます。 真理の定義というのは難しいのかもしれませんが、哲学研究者が「私は真理を追究するのだ」という意識を持っているのは共通ではないのですか? 学問としての哲学の存在意義について哲学にくわしいkoosakaさんから「哲学の存在意義とはこれだ」というのをガツンと提示していただけたらありがたかったです。 何人かの方から存在意義がないという回答はいただきましたが、存在意義があるという回答がなかなか出てきません。 「早まってはいけない、結論はゆっくりと。」 とは言われますが哲学に関する議論は2000年以上されているわけでして、2000年では足りない。早急に過ぎるといわれるのでしょうか?2000年たって皆目わからないものに存在意義はあるのでしょうか?