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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学に人生を賭けるのは愚かか?)

哲学に人生を賭けるのは愚かか?

このQ&Aのポイント
  • 私は思春期に色々と考えて哲学を極めないと世界は良くならないと思いました。
  • 私はそんなに優秀ではありませんので違う方法を取った訳です。
  • 病人の為短文でご感想などお聞かせください。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.16

自身の生の価値を他者に委ねると・・・。 質問者がこの質問をし、そして、多くの回答が寄せられているのですから、それだけでも質問者の生は他者の役に立っている。たとえそれが他者の暇つぶしや時間つぶしであったとしても、何かしらの便益を他者に与えている、と思いますよ。 ☆哲学に人生をかけ 病気をして無意味な一生を終えようとする私はバカだったのでしょうか? ◇これは質問者自身が判断する問いです。 他者が無意味のように判断したからといって質問者がこの判断に従う必要はありませんし、また、他者が質問者の判断を受け入れる必要もありません。 大体ですね、学問に身を捧げる人の圧倒的多数は、これといった成果をあげることなく、儚く去っていくものです。歴史にその名と業績が残せる人は極一部です。それでも身を焦がすような、デモニッシュな衝動に突き動かされ、真理探求のために身を捧げるんですよ。 この哲学カテの名物である、 ブラゲロ、仮面ライダー、アルケ~を見よ!! 他の人にバカにされ、〈き〉印扱いをされつつも、「病院に行け」、「薬を飲め」と論われながら、その雑音に臆することなく、己れの信じる道、そして、真理を目指しているではないか。 この行為を笑いたい奴には笑わせればいいのです。 質問者は、まず、ブラゲロ、仮面ライダー、アルケ~の揺るがない信念と態度を見習うべきです。 慰めの言葉はこよなく甘美であるが、同時にこの上なく甘い自己堕落への悪魔の囁きあり、悪魔の誘惑。 哲学において、もっとも唾棄すべきものです。 慰めの言葉を求めてはいけない。

yuniko99
質問者

お礼

慰めの言葉を求めているのでしょうかね 私は。 私のような思いをしている人もいると思うんですよね 慰められれば気は楽になるかもですが 同時に批判の言葉も来ます。 人が見てどう思うか問うたのですが 自分にもよくわからないのです。 愚かな行為だったのか 一つの生き方として有り得ることなのか 本当は自分の哲学を見て欲しいのですが 反応が少ない。難しいようです。 私の書いたものを見て これは間違ってると笑うか 中には見所もあると見るか ここで宣伝したいのは山々ですが 出来ませんので こういう質問をしたくなったのです。 ネムリネコニャさんは常連でいらっしゃる様ですし 中々の論客でいらっしゃる もしいつか機会があれば読んでください 存在性思想を。 冷静な判断をどうも大変ありがとうございます。

yuniko99
質問者

補足

私の考えの一部ですが 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギーであると定義しました。 実存とはえらい違いです。 実存を説明するなら上の性質によって主体化した自我、精神の存在であって個人的なものであると思います。 存在するものは「存在性」という そのものを存在させるのに必要な性質によって存在出来ている。 存在性とはそのものを存在させるために必要な、或いは有効な性質の事を言います。 人間の目的は存在することであり、存続することであり、次代にたすきを渡して行く事です。 存在がこそが目的であり 存在が価値であり、存在する事こそが意義の基本であります。 人間は存在に有利な存続を目指し長い歴史の中(生命としては38億年、人間としても数百万年)でさらに確かに存続進化することを追求し、その延長上に永遠を目指す(到達はしない) エントロピー増大則に抗して人間は何時かエントロピーを減少させる様になる ブラックホールのエントロピーも減少しているのではないか?人間の秩序化 組織化が引力を操って循環と調和の主体をなし 永遠を目指して新たな存在を創る。 物質の持つ性質が精神を成しているのだから 唯物論と唯心論が融合する。 存在性思想は別名「性質進化論」とも言える。 等などですが 「性質」という言葉がちょっとニュワンスが違う様な気がします。 ハタラキと言い換えてはと言われましたが そうすると 性質の働きと言いたくなります。 特殊存在性理論とかあるのですが これは人間が存在することを意思して存在しようとする所に人間の特殊性があるという考えです。

その他の回答 (22)

回答No.23

yuniko99さん おはようございます。 私は、このサイトのyuniko99さんやbragelonneさんのような、独自の哲学を作ろうとしている人に敬服してます。 私は独自の哲学を作ろうとしても、おそらく参考となる過去の偉大な哲学者の読書するだけで人生が終わってしまう気がしますよ。 yuniko99さんにエールを送るため、No.16 ねむ猫さんと似た意見ですが、マサチューセッツ工科大学の言語学の大御所のチョムスキー言葉を書きます。 「もしあなたが孤立して、世の中の誰とも全く違っているとしたら、自分の気が変になったか、どうかしたに違いないと思い始めるでしょう。あなたが他の人々と何か違ったことを言っている事実に負けないためには強い自我が必要です。」 普通の人は単純に、この言葉に納得すると思うのですが、哲学する私には、では自我とはなにか?となるんですよね(笑い)。 yuniko99さんはどう思いますか?お互いそれぞれの道で追求していきましょう。

yuniko99
質問者

お礼

これはどうも 参考文まで頂いてありがとうございます。 この文献の最後の強い自我とは 精神世界が真理の知を目指して大きい と言う事でしょうか? 知は力なりと言いますからねえ。 いま知識や情報は溢れ 僕にとっては無縁の情報も山の様にありますが 大切な知識 と言うものがあるのでしょうね エホバの証人も「知識」の本を持って回っています。 私の考えはもちろん違いますが 勉強しました。 お互いにそれぞれ 追求の道を極めましょう 「求道既に道である」宮沢賢治

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.22

>「残された人生で身近にいる人を少しでも幸せすることが出来れば、多少は生きている価値が上がります。」 横レス失礼致します。 そのままで、「あるがまま」で、いいと、思います。 (後世、おそるべし)

yuniko99
質問者

お礼

あるがままでいいと言うのは 僕のあり方がでしょうか? 後世おそるべしというのは?  ここまで来たら在るがままでありたいです。 どうもたいへんありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.21

>「time is money? 時間の無駄ということでしょうか?お金が先ということでしょうか? 父もお金にならないことはやらせないと言っておりました。 哲学なんて お金にはなりません 画家やミュージシャンの方がずっとお金になります それは分かっていたのですが どうもありがとうございます。」 time is moneyのほうが間違いである可能性がある、というくらいの意味でした。

yuniko99
質問者

お礼

そうですか そういう意味でしたか 分かりませんでした ?マークをつけたのが良かったのかもしれませんね どうもわざわざありがとうございます。

  • pikaruche
  • ベストアンサー率35% (6/17)
回答No.20

No.14さんの回答がわかりやすいので、それへのちょっとした感想を書かせていただきます。 >存在するものは「存在性」という そのものを存在させるのに必要な性質によって存在出来ている。 この性質は条件といってもよいので、存在するものは関連する条件によっている、、、となれば、仏教の空思想に近いですね。 >存在がこそが目的であり 存在が価値であり、存在する事こそが意義の基本であります。 ここらへんは、老荘思想の延長ですね。 >物質の持つ性質が精神を成しているのだから 唯物論と唯心論が融合する。 とありますが、 >存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギーであると定義 した段階で、物理学でいうエネルギー(とたぶんその変形)しか存在を認めないので、本当のところは唯物論ではないですか。

yuniko99
質問者

お礼

どうも私の拙論を読んで下さり ありがとうございます。 成る程なるほどと思います。 最後のところですが エネルギーは必ず何らかの性質を持っていて ですね その性質が脳内で主体化して自我となり精神を形成していると考えたわけです これは論証できてないので理論ではなくて思想です。 性質の世界が精神の世界なわけですから精神の世界は性質のある限りの広さに延々と広がっています。 尤も脳が在っての自我 自我が在っての精神ですが。 だから人間は小宇宙なのです。と思うのです。 どうも大変ありがとう存じます。

  • mstk2
  • ベストアンサー率26% (157/588)
回答No.19

>哲学に人生を賭けるのは愚かか 自分で考えるのもよいですが、先人の書いた本をよく読みましたか? およそ人類の歴史が4000年あり、我々より前に生まれて死んだ人間の総数が、少なく見積もって1000億人。 我々が小さな頭で考えて思いつくことなど、とっくの昔に他の誰かが考えついているものです。 で、それが山のような書籍群になって残っている。 もし自分の頭で考えるなら、こういった過去の著作をひと通り押さえ、そこに書いてないことを考えるのが普通です。 で、これが一般的に「学問」と呼ばれているものであり、それを執りおこなう場所が大学です。 それに背をむけ、自分ひとりで考えるというのは、心意気としては立派ですが、例えて言うなら東京から大阪まで2時間でいける新幹線に乗らず、東京から西へむかって歩き出すようなものです。 たぶん箱根にかかるあたりで寿命が尽きて死んでしまうとすれば、愚かとまではいわないが、あまり賢明な生き方とはいえません。 >哲学的に哲学してみました。その結果「存在性思想」にたどり着きましたが たぶんそれ、1000年前に誰かが同じ答に行きついており、その辺の本に書いてあるはずです。

yuniko99
質問者

お礼

なるほど 同じような事を考えた人は居ると言うことですね アリストテレスの思想が一部似てますね 僕も哲学者の思想はある程度は抑えたのですけどね どうもありがとうございます。

回答No.18

>哲学に人生をかけ 病気をして無意味な一生を終えようとする私はバカだったのでしょうか? いいえ。普通だと思います。 競馬に人生をかけ 病気をして一生を終えようとする人と同じ程度に有意義な人生と思いますよ。 残された人生で身近にいる人を少しでも幸せすることが出来れば、多少は生きている価値が上がります。

yuniko99
質問者

お礼

競馬ですか。とほほ。 身近な人を幸せにすればいいのですね なるほど どうもありがとうございます。

回答No.17

哲学が学問だと思っている人がいるけれど、私はそれは間違いだと思っています。 哲学は、日々の生活の中から生まれるもので、人が人としてどうあるべきかを自問自答する行為であり、その結果です。 誰もがそれぞれの人生をそれぞれの境遇、それぞれの職業、それぞれのコミュニティーの中で生きていくうちに自然に育まれるものです。 従って、哲学そのものを専門にすることはナンセンスです。 だから、世の中は哲学的思考がなくなれば、野獣の集まりになって混乱し崩壊しますが、それさえあれば学問としての哲学はいらないのです。 大学の哲学科は、ヨーロッパで大学が創設された頃から存在する最も伝統的な学科ですが、現代の実社会からは最も必要性も存在感も認められない学科になっているのです。 残念ながら、多くの学問としての哲学は、言葉遊びに終わっているのです。 難解で非日常的な言葉をちりばめているだけです。 そんなことをしている暇があったら、実学や生産活動、あるいは社会貢献活動やボランティア活動をやっていた方がいいと思います。 私は誰もが哲学だけに没頭するのではなく、自分の日々の生業をこなしながら、それぞれの立場から世の中のあり方や人が人としてどう生きるべきかを折に触れて考えていれば良いと考えています。

yuniko99
質問者

お礼

私の同じような認識はありますが 大学の研究は哲学に限らず経済学でも物理学でも なければなくても何とかなります。ただその道の専門家やその道を究めようという求道者がいます。 そこで 哲学に人生を賭けるのは愚かか と伺ったのです その答えは 愚かだということですね 分かりました そうかもしれない いや多分そうでしょう どうもありがとうございます。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.15

お礼ありがとうございました。 >哲学に関しては 人生観、世界観を問うた答えは千差万別に書かれています 同じ答えの必要があるかどうかですね。 共通性があるものと、必要ないものが存在しますよね。 違いを認識すれば解けるようになります。 自分を認識できるようになれば、違いも認識できるようになります。 自分を知ること・自分の問題を解決していくことで、認識は深まります。 >いつか哲学も「問い」に関して納得のいく答えが出るといいのですが。 哲学は答えを出しませんよ。 哲学を使って人が答えを出すのです。 科学が社会に貢献するのではなく、科学を人が使って社会に貢献するように。 特別な事ではなく、日常でも無意識に科学を使います。 お茶を入れる時でも、この緑茶はどの温度のお湯でどう入れたら美味しいか 玉露は何度ぐらいが適切か、紅茶はどの温度でどのように蒸すのが美味しいか。 美味しいを目指すのは、感じる機能と求める心の働きですが そこにたどり着くのは、方向性を持つ手法なのです。 それを人が使い、今自分が目指すことに使っていく。 日常のあらゆる事が、哲学や科学に関係していて それを、心が本来求めるものを形作るのに使うだけです。 哲学は答えを出しません。 答えは誰でも、自分の答えを自分で出すものなのです。 今、その時に、その場で必要な適切であろうものを導き出す積み重ねなのです。 誰しも、自分の問題に取り組んでいけば答えは見つかるようになります。 自分の問題から眼を背けたり逃げているのであれば その先にある大きな問題の答えは、誰であろうと見つけられません。 大きな問題を手がけたいのであれば、自分の問題を 丁寧に解決していくことが、一番の近道なのです。 自分を無視して没頭しても、問題の解決は出来ないようにできています。

yuniko99
質問者

お礼

哲学が答えを出すというのは 勿論人間が哲学して答えを出すことです。 哲学という学問を信用してるわけではありません 過去の思想家を研究しても限界があるでしょうね どうもありがとうございます。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.14

>病気をして無意味な一生を終えようとする私はバカだったのでしょうか? 無意味でバカだと思いますが、たいていの人間はそうです つまり無意味でバカな人生はふつうの人生です 凡人の生き様ですね 意味があったと言われるような人生は偉人の人生です でかい仕事をした人です 歴史に名が残るような人です あとyuniko99さんはご自身の存在性思想をよく宣伝してますけど オリジナリティ以外になにか意味があるのですか? つまり今まで議論されてきた哲学的な問に答えを与えることができるとか そういった成果はあるのですか?

yuniko99
質問者

お礼

存在性思想の成果ですか。 色々分かりましたが 結論的には 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギーであると定義しました。 実存とはえらい違いです。 実存を説明するなら上の性質によって主体化した自我、精神の存在であって個人的なものであると思います。 存在するものは「存在性」という そのものを存在させるのに必要な性質によって存在出来ている。 存在性とはそのものを存在させるために必要な、或いは有効な性質の事を言います。 人間の目的は存在することであり、存続することであり、次代にたすきを渡して行く事です。 存在がこそが目的であり 存在が価値であり、存在する事こそが意義の基本であります。 人間は存在に有利な存続を目指し長い歴史の中(生命としては38億年、人間としても数百万年)でさらに確かに存続進化することを追求し、その延長上に永遠を目指す(到達はしない) エントロピー増大則に抗して人間は何時かエントロピーを減少させる様になる ブラックホールのエントロピーも減少しているのではないか?人間の秩序化 組織化が引力を操って循環と調和の主体をなし 永遠を目指して新たな存在を創る。 物質の持つ性質が精神を成しているのだから 唯物論と唯心論が融合する。 存在性思想は別名「性質進化論」とも言える。 等などですが 「性質」という言葉がちょっとニュワンスが違う様な気がします。 ハタラキと言い換えてはと言われましたが そうすると 性質の働きと言いたくなります。 特殊存在性理論とかあるのですが これは人間が存在することを意思して存在しようとする所に人間の特殊性があるという考えです。 色々書かせて頂きました。どうも大変ありがとうございます。

回答No.13

私も若いときに「存在とは何か?」とか「なぜ存在だけがあり、無ではないのか?」という問いに取りつかれ、哲学書を読むようになり、そのために一生を棒に振りました。 今や老年に差し掛かり、いったい何のために生きてきたんだろうと、疑問に思う日々です。 最初に読んだ本が、ショーペンハウワーの「意志と表象としての世界」で、次に読んだのがカントの「純粋理性批判」でした。 それを読んで、昔の哲学者も自分と同じようなことを考えていたのだと知り、感激し、それで夢中になって読みふけりました。 そのせいか、普通の生活ができなくなり、毎日を哲学書を読むことに費やし、遊びだとか、恋愛だとか、人間ならば通常通るコースから外れ、ほとんど「引きこもり」に近い生活を続けました。 その中でハイデガーの「存在と時間」に出会い、以来ハイデガーの著作を隅から隅まで読んで暮らす羽目になりました。 「存在とは何か?」という私の疑問に答えてくれると思ったからです。 だけど、期待は外れました。 ハイデガーは存在は「エルアイグニス・生起」という結論で、存在とは「あらわれ」そのものだというのです。 いい換えると、存在とは存在それ自体である、と。 それで別の答えを求めて、鎌倉の禅寺で、故・安谷白雲老師について禅の修行をすることになりました。 毎日毎日、朝早くから、夕方遅くまで、座禅三昧の日々でした。 老師から、趙州禅師の「無字の公案」をいただき、参究しました。 「無字の公案」というのは「姿・形の無い文字を見てきなさい」という問題です。 禅の公案はたいてい、無理難題です。 座禅をしながら「ムー、ムー」とつぶやき、修行しましたが、半年間で挫折しました。 その後、竜樹・ナーガールジュナの「中論」に出会い、少し謎が解けたような気がしました。 存在もなければ、無もない、「中」、つまり「空」だけがある、そして「空」とは縁起である、さらに縁起は相衣相関だから、何一つとして実体はない、という考えに答えを見つけたような気がしました。 あなたは永平寺で、東大出の人が修行を積んで仏教を極め、悟りを目指す、と言っていますが、全国の禅宗寺院はその傘下の檀那寺の子弟がお寺を継ぐために仕方がなく来ているのがほとんどで、いわば会社の社員教育みたいなもの、お坊さんになるための登竜門のようなものだから、真剣に悟りなんか求めていないし、それに永平寺は曹洞宗の寺院だから、道元が「只管打坐」と言っているように悟りを否定する宗旨です。 禅の修行をするのだったら、全国に何か所かある専門道場で修行するしかありません。 既存の大寺院ではダメです。 昔は三島の龍沢寺の山本玄峰老師の所に全国から悟りを求める修行僧が集まりましたが、老師が亡き後、今は廃れました。 あなたの「存在性思想」というものがどんなものか、分かりませんが、自分勝手な思想を抱きながら、死ぬのはそれこそ無駄に一生を費やすようなものです。 謙虚に先人の思想を学び、自分の自分勝手な思想を修正してゆくことが求められます。 前に、ちょっとあなたのその「存在性思想」というのを見たことがありますが、そんなものは「おとぎ話」です。 自分勝手な思想を抱きながら死ぬのも良いでしょうが、それではまったく悲惨ではないでしょうか? それに私は「存在性」の「性」というのが何を言っているのか分かりません。 「存在性」っていったい何? 「性」というのは本質のこと、だけど存在に何らかの本質があるんですか? 竜樹・ナーガールジュナのいうように存在に性質も、属性も、本質もありません。 存在は「空」です。

yuniko99
質問者

お礼

随分勉強されたんですねえ 僕はそこまで本も修行も信用してませんでした ダイジェストを読んで 成る程と思っただけです。 私は自分の持論の定義として 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー としました そういう結論に達したということです。 それは私がそう思ったということで おとぎ話かもしれません。 ただし思想信条の自由と言うのがありますから 私なりな七割方納得しています。 色んな思想を学び 色んな修行をされた方が居るのだと言う事を話して下さった事にかんしゃいたします。 どうも貴重な体験を(お聞かせ頂き)ありがとうございます。