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土佐藩、上士と下士
Wikiで谷干城のページをみると、「谷家は、大神姓。長宗我部氏の旧臣で、土佐藩の上士の家柄。」とあります。長宗我部氏旧臣であれば、下士であると、教科書的には書かれてあると思いますが、これは、どういうことでしょうか?
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山内容堂(豊信)の腹心で、土佐藩参政の*吉田東洋の祖先は、長宗我部氏旧臣で、関ヶ原後に土佐に入部した山内氏に取り立てられ、上士として遇されています。その他に、長宗我部氏旧臣の豊永氏なども、土佐藩で上士として仕えていました。 確かに長宗我部氏旧臣には下士・郷士であるものが多いですが、それらの先祖には長宗我部氏の一領具足が多く見られます。一領具足は他地区の地侍と立場が似ており、武士身分を持ちながら通常は農村で農業(3町歩ほどといわれています)に従事し、いざ合戦となると、武士として参戦した者を指します。 地侍は太閤検地などにより、ある者は武士として大名等の下士となり、ある者は帰農し名主などの農村指導層になり、さらに郷士として武士身分を持ちながら農業に従事する者などに分かれます。ですから、一領具足の子孫が土佐藩の郷士となり、下士となるのは他の地域と比べて奇異なことではないのですが、上士が山内氏が引き連れてきた者の子孫で大部分が占められ、下士が長宗我部氏旧臣のことが多い上に、上士と下士の身分差を大きくし、極端に下士を冷遇したために、長宗我部氏旧臣を中心とした下士層に、上士、山内氏が連れてきた者の子孫に対する反発を生み、それが平等を求める考え方に発展していくことにもなり、明治期の自由民権運動の主体に、土佐藩の下士・郷士出身者が多い一因にもなります。 谷干城の祖先は*土佐南学の大家の谷秦山(諱=重遠)です。そもそもは長宗我部氏旧臣で、一族には長宗我部氏の重臣として活躍した*谷忠兵衛忠澄がいます。谷秦山の家は土佐藩では郷士でした。しかし、秦山の子孫は土佐南学の宗家とも言うべき立場でもありました。谷干城の父親が上士に取り立てられたのは、幕末近くになり、長宗我部氏旧臣の家系への差別も緩みだしたこともあるようです。 なお、谷氏の本姓の大神氏は、大和の大物主大神を祭り、三輪山を御神体とし、本殿は無く、拝殿だけという古い形式を残す大神(おおみわ)神社の神職であり、三輪地域の古代豪族の家系です。この一族は神事と関係が深く、谷氏の土佐への移動も、土佐一宮(谷忠兵衛忠澄は神主)などの神社・神職との関係があったものと想像できます。土佐一宮の祭神は、本来大和国にいたものが、雄略天皇と同じような服装をして(天皇と同格を示す)、天皇の前に出現したために、天皇の怒りをかって、土佐に流されたとする話(記紀)があります。脱線してしまいましたが、家系の面でも谷家は他の郷士より由緒を持っていたことになります。 *吉田東洋の祖先=鎌倉武士で、伊勢・伊賀の守護にも任じられたことがある有力御家人の山内首藤氏。苗字の地は鎌倉の山内(山之内)荘。現在の北鎌倉で、室町時代には上杉氏の一流が住んだために、その一族を山内上杉氏と呼び、関東管領を世襲しています。室町時代の初期に山内首藤氏の傍系が土佐に土着し、国人となり、戦国期に長宗我部氏と婚姻関係を結び、長宗我部氏の四国統一戦に功績があった。なお、近世土佐藩藩主山内氏は、山内首藤氏で、同じく室町時代の初期に山内首藤氏の傍系が尾張国に土着した流れであり、祖を同じくするとされ、吉田氏を取り立てた一因とも言われます。 *土佐南学=日本儒学の一派。戦国時代の南村梅軒より始まるとされていたが、不明な点も多く、現在では谷時中(干城の谷氏とは別家系)が始祖と考えられている。弟子に野中兼山・山崎闇斎などがいる。その他の儒学の系統には、藤原惺窩が興した京学派と、桂庵玄樹の興した薩南学派があります。この内、京学派からは林羅山が出て、子孫が幕府の官学の長として大学頭を世襲し、また昌平坂学問所などを管理しました。 吉田東洋 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B4%8B 地侍 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%BE%8D 郷士 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%A3%AB 土佐 谷氏系図 http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-oomiwa-tani.html 谷秦山先生小伝 http://asiarestoration.com/?p=696 谷忠兵衛忠澄 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%BF%A0%E6%BE%84 Wikiの内容に関して批判が多いことも存じています。また、個人的にもおかしいと思う記述もあります。ただ、上にあげたWikiについては、当該部分ですが、内容を確かめてあります。 長くなりましたが、参考まで。
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- oska
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>Wikiで谷干城のページをみる 他にも回答がありますが、Wikiは「嘘も真も、書き放題」なのです。 大韓反日民国では、親日的な書き込みをすると「サイト荒らし」として書き込みが規制されます。 日本では、中華反日人民共和国・大韓反日民国に批判的な書き込みをすると「サイト荒らし」として書き込みが出来なくなります。 ※中華反日人民共和国・大韓反日民国は、実際に存在しない架空の国です。^^; 非営利・中立と言いながら、しっかり「書き込み内容監視員」がチェックを行っています。 質問者さまも、「こんな意見・主張・認識があるのか!?」程度に利用して下さい。 >長宗我部氏旧臣であれば、下士であると、教科書的には書かれてあると思いますが 今も昔も、敵方でも「能力ある者は、採用する」のが常識です。 何が何でも、敵は皆殺し!はありません。そんな事をすると、統治できませんからね。 山内家でも、長宗我部氏旧臣でも新規採用(召抱え)していますからね。 谷干城先祖も、何らかの理由で正式採用されたのでしよう。 能力が無くても、「寄らば大樹の陰」的な考えを持つ人はいつの時代にも存在します。 赤穂藩取りつぶしでも、多くの藩士は他家へ転職していますよね。 転職先が見つからなかった者。(本当の忠義で)他家への転職を拒んだ者。 これらの者が、赤穂事件を起こした訳です。 ※講談・歌舞伎の「赤穂浪士」は、あくまでフィクションです。 幕末でも、多くの直接敵対した(戦火を交えた)幕臣が新政府に高条件で迎えられていますよね。 日本では「昨日の敵は、今日の友」なんです。 何処かの国と違って「百年後も千年後も、敵は敵」という過去志向の国ではありません。
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ありがとうございます!
- ithi
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spongetakさん、こんばんは。 どうもその内容によると、谷干城の父親が上司に出世したということになっています。 詳細に調査するなら、県レベルの図書館か何かで土佐藩の分限帳をお調べください。うまくいけば、谷家の知行高のほか、家格がどう変化したのかわかると思います。 「長宗我部氏旧臣であれば、下士である」というのはあくまで一般的なお話です。もしかしたら、郷士身分から上士身分に取立てられる立身出世の方法があったのかもしれません。この景井さんは武道師範ということは武道の指南で上士に取り立てられたということなのかもしれません。
お礼
ありがとうございます!
- hamazo2004
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Wikipediaは気をつけなければ行けない点は、いろいろな人が自分の主観で書き込むので、食い違いが結構見られます。引用には注意が必要です。ところで、詳しくは分かりませんが、書かれていることの前後の読み方によっては、谷家が元長宗我部氏旧臣であったが、谷干城の父が上士に取り立てられたとも読めます。山内氏が土佐入りした際、長宗我部系の反発があったと聞いていますが、土佐24万石を治めるに当たって、すべて郷士(下士)として固定されたとも考えにくいところです。従ったもの、優秀なものは採用した。このようにも想像できます。実際、土佐に限らず、士分のやりとりは当時あったようです。この当たりもう少し調べる必要がありそうです。
お礼
ありがとうございます!
お礼
ありがとうございます! 自由民権運動との関係など、基本的なことなのかもしれませんが、興味深いですね。具体例がいくつか挙げられていて、どういったかんじで取り立てられたりするのか、イメージがつかめました!