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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:明治維新前後、石高が増加した国・藩。)

明治維新前後の国・藩で石高が増加した理由

このQ&Aのポイント
  • 明治維新前後、石高が増加した国・藩について調査しています。
  • 天保と明治5年の石高を比較すると、石高が3割以上増加している藩があります。
  • 具体的な理由については、以下の国・藩の石高の増加率を参考に教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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  • eroero4649
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回答No.1

いくつかの理由があると思いますが、最大の理由はWikipediaにもある >天保郷帳を作成するに当たり、幕府は表高(拝領高)に込高、新田高、改高を加えて集計した内高(実高)の報告を要求しており、天保郷帳記載の数字は全て内高である。ただし諸藩は内高報告には極めて慎重であり の部分だと思います。 実は江戸時代、武士が計算をするのは「卑しいこと」とされていたのです。「カネ勘定をするなんて、商人がやる卑しいことだ」って。なので、江戸時代の武士は偉くなればなるほど基本数字には疎くなったはずなのです。このあたり、「武士の家計簿」に説明があります。 んで、当時の検地ってのは実測はなかなか難しかったようです。最大の理由は、人材不足です。だって測量をするには算数の知識が不可欠じゃないですか。武士は算数をやっちゃいけないのに、どうやって正確に測量すんだいって話です。 だから一般的に検地は「ここは以前は三十石だな。でも最近生産が増えているようだから、三十五石にする」「お代官様、どうかこれでよしなに。南蛮名物、かすていらでございます」「・・・三十石のままとする」なんて感じだったようです。勝海舟のお父さんがケンカ番長の面白いオッサンだったというのは有名な話ですが、そのお父さんが残したエッセイに「信濃の国の検地をやれっていわれて行ったんだけどさァ、検地に手心を加えてやったからずいぶん現地の農民には喜ばれたもんサ」なんて自慢を書いています・笑。 時々「名君」という人が現れて「見ただけで判断したんじゃ客観的やないやろ。ちゃんと測量して計算して出せ」とご尤もなことをおっしゃって実態が把握されることがあります。 また特に外様大名にとっては石高が大きくなればそれに伴って幕府から目もつけられれば何かと出費が伴うことを命じられることも発生します。だから、石高は、過少に過少に報告したいという思惑が当然あります。これは別に昔の大名に限った話ではなく、現代でも赤字企業は事業税を払わなくていいので、銀行から融資を受けなくていいなら確定申告上、創業以来ン十年も赤字がずっと続いている企業や個人事業主なんてのはゴマンと存在するわけです。だから外様大名は基本的に自国の石高は過少に報告しているはずです。 さて、それを踏まえていくつかのケースを確認してみます。 尾張国は、慶長三年のいわゆる太閤検地で57万石とされています。ところがたった6年後の慶長郷帳検地では48万石に減っています。いくらなんでもこの減り方は不自然なので、何らかの政治的な思惑が発生したのでしょう。例えば、寺社領は除くとかね。それから200年後の天保の検地までの間での石高の伸び率はわずかに13%です。これは明らかに不自然で、つまり過少に申告されていたと見るのが妥当かと思います。 似たような状況が大隅国で、こちらは慶長郷帳検地以降ずーっと石高が増えていません。江戸時代ってのは基本的に経済成長があったわけですから、ずーっと経済成長(石高の増加)がないのはいかにも不自然ですね。 新庄領の名が見えるのは正保の検地からですが、3.6万石⇒5.1万石⇒6.2万石と検地の度に石高は増えているのでまあまあちゃんと検地したという推測がされますね。 そして明治の検地は明治政府という統一された中央政府が実測に基づいて算出したので、ようやく「実態に近い数字が出てきた」ということなのだと思います。もちろん200年間言い値だけでやってきたものを実測でやるといわれても現地の抵抗はかなり大きかったと思うので、「実測したことにする」ってところもそれなりにあったと思いますが、実測ができた地方となかなかそこまで踏み切れなかった地方で格差が生じたということもあったのではないでしょうか。明治の検地が本当に実際を反映していたかどうかは更に地方史を紐解いて精査しなければならないでしょうね。 蛇足:ここまで書いて書き忘れたことに気づいたのですが、土佐藩は幕府に対して一番イカサマ石高申告をしていたことで有名だったみたいです。そのイカサマ申告で増やした「裏金」が明治維新で薩長土肥に参加できる財源となったようです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 幕府に真正直に内高を報告している藩なんて、まず、無いだろうということですね。 明治新政府は、幕政時代のそんな事情を知っているから、実高をかなり正確に把握できたということですね。 納得しました。 尾張国、大隅国、新庄領個々について検討して下さってありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • jkpawapuro
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回答No.2

地租改正が明治6年でそれから数年かけて地価を確定していくわけで、おそらく明治5年の資料は廃藩置県により入手した各藩の資料を基にしています。 一方天保石高のほうは、幕府が各藩に提出を命じたとはいえ各藩はできるだけ過少申告の意識があります。 よって各藩が実際に把握してる石高と当時幕府に過少申告した石高の差が、もっとも大きな要因でしょう。 正直に大きな内高を報告しても余計な賦役を押しつけられるのが目に見えてますから。 なお各藩でも現実の石高の把握能力には差があり、割と転勤族で転封の多い譜代大名は検地の機会が多いのと家臣が土地から切り離されているので比較的正確に把握しています。一方特に薩摩のような土着性の強い外様大名の場合知行取の家臣が多く、家臣がそれぞれその土地を支配している都合上、藩も実際の石高を把握し切れていないケースがありえます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 過少申告によるものということ、よく分かりました。 >割と転勤族で転封の多い譜代大名は検地の機会が多いのと家臣が土地から切り離されているので比較的正確に把握しています。 なるほど! この点に注目して表を見てみます。

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