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土佐 山内容堂の話す言葉は?
土佐 山内容堂の話す言葉は? かねてから気になっているのですが、土佐藩の藩主、上士は土佐弁を使っていたのでしょうか。 ドラマなどでも「ちくと~じゃきに」とか言っている印象があります。 山内家(とその家来)は関ヶ原後入ってきて、上士、郷士の身分差別をしていましたよね。 それを考えると、下の身分と思っている土地の言葉をあえて使う必要もないと思うのですが??
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こんにちは。 NO1.のbungetsuです。 >>言葉というのは、その身分や考え方に規定されるように思うのです。 土佐入国後の経緯を考えると、家来の上士も含め、山内家が意識して「土佐っぽの言葉」に自分たちを合わせた、というのは考えづらいのですが、いかがでしょうか。 確かに、身分などによって、独特な?言葉が使われることは否定できません。 例えば、京の朝廷やお公家さんたちの言葉。 江戸を例にとれば、千代田城(江戸時代、「江戸城」とは呼ばず「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました)での将軍や役職者の言葉。 などと、特別な?言葉はありましたが、京も江戸も庶民は、やはり、その土地で生まれ育った環境や場所により「方言」がそなわったものと考えます。 また、容堂や家臣たちも江戸で育ったわけではありませんので、 例えば、江戸の言葉文化を「標準語」と定義したとすれば、 容堂たちは土佐が母国であり、愛着が増すのは当然ではないかと思います。 従って、江戸の「標準語」ではなく、愛着のあるその土地(土佐)での言葉になっていった、と考えます。 >>山内家が意識して「土佐っぽの言葉」に自分たちを合わせた、というのは考えづらいのですが そうですね。その通りだと思います。 上士と下士を区別する言葉もあったかもしれませんが、やはり、日常生活の中で、また、生育の中で郷土の言葉が自然体でそなわった、と考えた方がよいのではないでしょうか。 また、容堂や家臣たちが土佐弁を使うことにより、その国(土佐)の庶民に受け入れられたのではないでしょうか。
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- sijya
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私も土佐弁だったのでは?? と、思います。一豊の時代はともかく、 それ以降特に土佐に生まれ育った人間ならば やはり土佐に愛着もありますし、土佐弁も 抵抗なく受け入れるのではないでしょうか? 郷士にたいする思いと自身の生まれ育った土地に たいする思いはまた別では? と思います。 本筋からはずれますが・・ これは私が学生時代にきいた話ですが 幕末の薩摩長州土佐などの志士達は、皆お互いの国のなまりが ひどくて会話が成立しないので、筆談を多く 使って会話したとのことです。 当時、書き言葉だけは日本中どこへ行っても通用しましたので ・・ということでした。 江戸にいることが多い人間をのぞけばこのような 感じだったのではないでしょうか。
お礼
お礼が遅くなりました。土佐弁に一票ということですね。 郷士への思いと、土地への思いは別、というお考えですね、なるほど。 ご回答ありがとうございます。 余談の志士の筆談の話、興味深いですよね。 当時は音や映像のメディアはありませんから、そうなりますよね。 個人的に当時の手紙の候文は、テンポがいいなあと思います。 返信したいことがたくさんあるのですが、 お礼欄なので、このへんで。 sijyaさん、ありがとうございます! 追伸: 逆に、容堂公は明治まで生きたのですから、史料や伝聞は残っていないものでしょうか。 調べもせずに書いてて申し訳ないです…。 (こういう興味をヒマな学生のときに追究しておけばよかったのにと思います)
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>かねてから気になっているのですが、土佐藩の藩主、上士は土佐弁を使っていたのでしょうか。 土佐藩初代の一豊は、当然、土佐に入国した頃は、以前の領内の言葉・・・つまり、尾張弁や美濃地方の方言だったと思います。 考えられることとしては、 (1)容堂は15代藩主で一豊の死後200年余り過ぎています。 (2)容堂は、11代豊興の分家の子として生まれていますので、出生は江戸ではなく土佐の生まれで、土佐で育ってしています。 (3)また、家臣たちも一豊から200年余り経ていますので、すべて土佐生まれの家臣団と思われます。 (4)従って、容堂の頃には、すでに、上士も下士も関係なく、土佐弁が当たり前になっていたのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。感謝します。 なるほど、入国後200年という時間の経過と、土佐の生まれという点などから「土佐弁」というご意見ですね。 質問した私個人の意見では、「どこの言葉かはわからないが、土佐弁ではないのではないか」という考えですが、もちろん根拠はありません。 言葉というのは、その身分や考え方に規定されるように思うのです。 土佐入国後の経緯を考えると、家来の上士も含め、山内家が意識して「土佐っぽの言葉」に自分たちを合わせた、というのは考えづらいのですが、いかがでしょうか。 言文一致の史料でもあったら面白いんですけどね。 引き続き、ほかの方の回答もお待ちしております。 bungetsuさん、ありがとうございます。 こんな私は、お恥ずかしながら日本史学科の出であります…。
お礼
bungetsuさん、さらにご回答ありがとうございます。 やはり生まれ育った土地、土佐への愛着、ということですね。 どうも質問者の自分は、為政者とその家来層が被支配層と同じ言葉を使うことに、ちょっと違和感があるのですね。 逆に、維新の志士と呼ばれる人々のうち郷士分だった彼らの中には、その身分差を覆すことがその行動原理のひとつになっていた人も少なからずいたのではないかと思っています。 日本をどうにかしたい→現在の為政者、しくみではだめだ→結果的に革命(身分を越えたり、逆転したり?)→結果的に新しいしくみになった、こんな感じ?? 話がそれている上に、Q&Aサイトなのに、なんというか議論?主張コーナーみたいになってしまってすみません(でもとても有意義でありがたいです)。 あ、あと、階級闘争を謳う某思想にかぶれているわけでも、意識しているわけでもないです(笑) でも他の方のご意見や、真実を知っている方の回答があればと思い、 もうちょっと締め切らないでおこうと思います。すみません…。 bungetsuさん、ありがとうございます!