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なぜ国府の成立は失敗だったのか?調査結果とは
- 国府の成立は過早であり、国民政府には魅力がなかったため、民衆の信頼を得ることができなかった。
- 国民政府は日本の侵略主義を隠蔽するために作られた一時的な政権であり、当時の主任者はこの決定を自身の最大の失敗としていた。
- この失敗について詳しく知るためには、明治聖徳記念学会紀要の論文を参照することをおすすめします。
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質問者が選んだベストアンサー
>この国府とは汪兆銘政権を指していると思いますが、国府をつくったことがなぜ失敗だったのですか。さっぱり分かりませんので教えてください。また、“主任者某”とは誰ですか。 ご質問文の中に、失敗だと考える理由が示されています。もともと日本は汪兆銘を擁立して政権を作らせ、支配を強化することによって、重慶の蒋介石政権に圧力をかけ、和平に応じさせるようにできると考えていました。 しかしその目論見ははずれました。士官の回答にも『国民政府は無力である』、『国民政府には魅力がない』とある通りで、国民をちゃんと統治できていないのです。それは若杉参謀が考えるように「民衆の信頼がない」からで、その根本的な理由は、「日本が真に中国のためを思い、民衆を救い、統一国家を完成するためにつくった政府というより、当時諸外国から非難された日本の侵略主義を隠蔽せんがための一時的思い付きによる小刀細工の観が深い。」からです。 ご質問の講話があった昭和19年1月(事前に将校に課題を出したのは前年12月のようですが)の時点では、汪兆銘政権を樹立したことは結果として失敗だったのではないかという疑念は、日本軍の将校の間では共通の認識に近くなっていました。中国に派遣されていた将校たちが日ごろの任務の中で痛切に感じてはいても、表立って口に出せないことを、若杉参謀が皇族という特別な立場もあって、明確に指摘したということであろうと考えます。 この汪兆銘擁立に奔走した影佐禎昭でさえ、昭和18年12月までに任地のラバウルで書いた「曾走路我記」(そぞろがき)の「第二十五章 結び」で、「本稿第二篇第六章に触れて置いたところから見ても和平政府樹立の形式に依つたのは失敗であつたと今日では考へてゐる。汪氏の心境も亦恐らくは同様であらうと思ふ」と述べています。(「現代史資料13 日中戦争5」393頁所収) この第六章で影佐が述べているのは、汪氏が政府を樹立して和平運動を展開した方がよいのか、それとも政府を樹立せずにこれを行った方がよいのかという問題です。昭和14年4月から5月にかけて、当時の仏印・河内(現在のベトナム・ハノイ)に汪氏を迎えに行った当時は、「日本が第三次近衛声明を如実に実行することが出来る場合には政府樹立の方式に依る方が力強い和平運動を展開し得」と考えるが、「若し将来日本が実際上近衛声明通り行ひ難いといふ場合ありとせば政府樹立の方式に依るものは失敗に帰する虞多く寧ろ政府を樹立せざる和平運動に依るのを賢明とするのではあるまいかと判断した」と述べています。後者の予想が的中してしまったということになります。 この影佐禎昭という人は参謀本部の支那課長や軍務課長をつとめたエリート軍人(陸士26期)で、汪政府の軍事顧問の経歴もある当時の言葉で言えば「陸軍きっての支那通」として知られた人物です。 なお、「当時陸軍省で本問題を扱った主任者某官」は、経歴から考えると、汪政権が成立し日本が承認するまでの期間を含む昭和14年9月から16年3月まで参謀本部の支那課長を務め、昭和17年4月にフィリピン・バターン半島で戦死した園田晟之助少将(陸士29期)ではないかと思われます。ただし回答者は「戦死される直前まで『国府をつくったのは自分の一生中の最大の失敗であった』といわれておった」ということを裏付ける史料を見つけることはできていません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 影佐禎昭の「曾走路我記」を教えて下さったので、よく解りました。 >この第六章で影佐が述べているのは、汪氏が政府を樹立して和平運動を展開した方がよいのか、それとも政府を樹立せずにこれを行った方がよいのかという問題です。 なるほど。そして、汪兆銘政権をつくる案を選択したのだが、所詮「「当時諸外国から非難された日本の侵略主義を隠蔽せんがための一時的思い付き」だったので、失敗したと言うことですね。 >中国に派遣されていた将校たちが日ごろの任務の中で痛切に感じてはいても、表立って口に出せないことを、若杉参謀が皇族という特別な立場もあって、明確に指摘したということであろうと考えます。 同感です。 私はもちろん、若杉参謀の講話をそのまま素直に受け入れているのですが、なかには、そんな話は宮様の偏見にすぎない、というような反論があるのではないかと思って、質問しました。