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明治に廃仏毀釈があったそうですが、
明治に廃仏毀釈があったそうですが、 仏教の影響で被差別とされた、神人などは明治以降もそのままなのはなぜ? 江戸期河原から追い出され、街で興行し税金払った為、被差別で無くなった歌舞伎のように現在思われる以上に柔軟であった筈です。
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No.2です 補足を頂戴しました。 補足に下記のように記載されておられますが、お考えのように単純に割り切れないのが「神人」の扱いが内包している問題です。 「仏教導入前、神人は地位的には高かったのでは? 網野氏や水平社の本ではそのようです。 又穢れ自体の解釈が仏教導入前では全く違うようです。又八瀬童子は天皇家グループでは名家で、明治天皇の生母も中山家となっていますが、身分的には逆で、その原因が仏教の死穢から来ると認識していました」 時々の表面的な階級の位置づけだけを追ったのでは誤解や混乱がおきますので御注意願います。 社会的な階級や位置づけというのものは時々の為政者のある意味でのご都合主義のところがあるということを御承知おき願います。 権力闘争の世界では、前任者の政策のみならず価値観や制度までを徹底的に攻撃し破壊することは歴史上むしろ常態とお考え願います。 卑近な例として現在の中国共産党の思想統制の経緯と現状がイメージとしては分かり易いかと思います。 ご指摘の廃仏毀釈を生みだした神仏分離令もこの一つです。 仏教に関しましては、日本仏教といいますのは、古代インドのバラモン教、中国土着の儒教、道教、日本古来の神道が融合されて出来上がっています。 密教のようにインドですでに融合が起こっていて釈迦仏教とは異質なものが含まれているものもあります。 柳田邦夫などは明治政府の役人であったこともあり、仏教の影響を排除する思想が濃厚ですが、折口信夫などは排除できないという考えを持っています。 このように、歴史的な経緯をもった問題を考える際には、立場や思想の異なる人の意見も併せて考えませんと議論が迷走してしまいますので御注意願います。 その位置づけ以前になぜ「神人」という他者と区別する言葉が生じたのかという問題があります。 意想的に隣接する概念から生まれた「非人」という言葉も歴史的に古くから使われていました。 皇室との関係を云々されておられますが何時の時代からとお考えでしょうか 明治政府は江戸時代まで続いた身分制度を基本的には継承した政府でした。 伯爵、侯爵、士族、平民、新平民などと基本的な骨格は維持されていました。 江戸時代の身分制度もそれ以前とは異なります。 武家が最上層の階層とされたのは江戸時代からでした。 平安時代には、さぶろうものつまり侍としてきわめて低い階級でした。 「神人」と呼ばれる人達がどのように位置づけられていたとお考えでしょうか ご質問にも「江戸期河原から追い出され、街で興行し税金払った為」とされておられますがなぜ河原に居たとお考えになられましたでしょうか。 「街で興行した」以前はどような興行形態であったのかお考えになられましたでしょうか。 江戸の街や大阪の街に定住することなく興行を続けていた旅芸人や現在も伝わる郷土歌舞伎というものとの関係はどのようにお考えになられますでしょうか。 この点は専門家でも意見が分かれます。 ご質問の階層やその取り扱いについては、中立的な史料がほぼ皆無です。 伝誦、伝聞の聞き書き程度がの残されているだけです。 現在も社会的な感情に影響が深いことから一般向けの纏まった書籍も余りありません。 その中でも比較的分かり易く手軽なものとして下記のようなものが目に留まりましたのでご紹介させて頂きます 中世の非人と遊女 細野善彦 講談社学術文庫 悪所の民俗史 沖浦和光 文芸新書 仏教民俗史 山折哲雄 講談社学術文庫 浅草弾左衛門(一~六) 塩見鮮一郎 小学館文庫 中世に国家はあったか 新田一郎 日本史タブレット(山川出版社) 戦国時代、村、町のかたち 仁木宏 日本史タブレット(山川出版社) なぜ身分外身分が新平民としてのこり、現代も差別意識や感情論として残っているのか、ということをお考えになられる際のお役に立てれば幸いです。 SNS上ではきわめて議論が難しいご質問ですので、直接的な回答ではないことを御容赦願います。
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- oska
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>明治に廃仏毀釈があったそうですが そうですね。 奈良の興福寺では、坊さんが「一夜にして、春日大社の神主に変身」しました。 住職が居なくなった興福寺は、一時荒れ放題。 讃岐の金光院松尾寺は、坊さんが「一夜にして、神主に変身」しました。 最悪な事に、金光院松尾寺を廃寺にして「境内・建物全てを、金刀比羅神社」に変身! 同時に、金光院松尾寺の偉い坊さんの霊を「神さんとして、奥の院に監禁」。 本尊の金毘羅大権現も、境内から追い出してしまいました。 ※現在、金光院松尾寺は旧末寺に引っ越して灯明を守っています。 >神人などは明治以降もそのままなのはなぜ? 明治政府は、士農工商という身分制度を廃止しましたよね。 が、戸籍などには「士族○○」「平民○○」と身分制度を温存しました。 同時に、神人などエタ・非人も同様です。 神人は、神職とは似て非なる物(者)です。 祇園感神院でも、神人は「祇園感神院に付随する物(者)」として、扱われました。 神仏分離で八坂神社になっても、実質的に温存です。 被差別問題は、現在でも一部に残っていますよね。 完全に差別が無くなると、困る人達・組織もありますし・・・。 封建社会から近代社会になっても、将軍が天皇・幕閣が御前会議に模様替えした程度では直ぐに社会は変わりません。 余談ですが・・・。 芸能人も、昭和45年代頃までは低く見られていました。 「勉強しなかったら、吉本(興業)に行くか!」(関西・中四国地区) 関西では、山口組が芸能プロダクション的な興業を行っていました。 ○空ひばりプロなんか、筆頭株主が故田岡組長の嫁さんでしたからね。 実弟(死亡)も、組員でした。 最近でも、吉本興業(旧経営陣)と暴力団の関係が新聞・雑誌紙上を賑わせていましたよね。^^; 今では、芸能人の地位が上がりました。 勉強しても、吉本興業の正社員になれません。
>明治に廃仏毀釈があったそうですが、 正確には廃仏毀釈を行った集団がいた、ということです。 明治政府は仏教勢力の政治的影響の排除と天皇を中心とした祭政一致を目的として年号を明治と変更する直前の慶応4年(1868年)3月に太政官布告として神仏分離令をだしました。 それを補完する形で明治3年に大教宣布を出しました。 これによって寺院が所有していた領地を没収しました。 政府として布告実施したのはこれだけです。 破壊活動を薦めたわけではありません。 破壊活動は過激思想をもった神官や国学者がおこなったものです。 政府内部に設けられた神祇省がこの活動を抑えきれなかったために明治5年に廃止して教部省を設けてました。 以降は神仏共同布教の体制としました。 >仏教の影響で被差別とされた 仏教の影響ではありません。日本古来の穢れ思想が元となっていたものです。 仏教の殺生戒がこれを補完する形となっただけです。 >神人は仏教とは直接関係がない身分呼称です。 元来は神社の雑役を担当する階層の人達です。ときには武装して警護にあたることもありました。 延暦寺の僧兵などと類似した階層の人達で、事実、延暦寺の僧兵と戦闘を交えたこともあります。 天皇の輿を担ぐことも担当していました。 皇族をはじめ上流階級で死者が出た場合に、その遺体の取り扱いを請け負ったことから穢れ思想に基づいて差別化されるようになりました。 現在も八瀬童子として受け継がれていて、昭和天皇の大喪儀のさいにも古式通りに任務に当たりました。 後の被差別階層とは重なる部分はありますが、直接的には関係がありませんので御注意願います。 >被差別で無くなった歌舞伎のように現在思われる以上に柔軟であった筈です。 一般市民が取り立てて差別しなかっただけです。 身分制度上は身分外身分としてあつかわれました。 天保の改革の際にも町人などとの交際を禁止されています。 又この採決を申し渡すさいにも、お白洲での履物の使用、莚などの使用もゆるされませんでした。 江戸時代には身分外身分の人の取締りは浅草弾左衛門という人物(世襲)が全国を横断して一括して管理していました。 江戸浅草の一角に特別居住地を持ち、その内部には奉行所と同じお白洲も備えていました。 歌舞伎役者はこの人物の支配から町奉行の支配下に変わっただけで身分の取り扱いが変わったわけではありません。 巷間でも「役者は千両とっても乞食」といわれていました。 千両役者でも身分外身分の人間という意味です。 蛇足 浅草弾左衛門は、身分は身分外身分でしたが、苗字帯刀を認められ将軍に拝謁する権利も持っていました。 登城の際には大名クラスの駕籠に乗り行列を組むことも認められていました。 江戸幕府というのは軍事政権です。 皮革は鎧や武具にとって必要不可欠な軍需物資でした。 この皮革の生産管理を浅草弾左衛門が一手に請け負っていました。 結果として、地方の大名領(藩)の百姓が飼育している牛馬が死んだ場合には、浅草弾左衛門の支配下の人間以外は手を触れることができませんでした。(皮革の流通制御) つまり大名領に居住しながら皮革に関しては大名の支配を受けない権利を持っていました。 このために領主をはじめ領民からも忌嫌われてました。 皮革の供給だけでは生活費が充分に賄えないことから、行燈や蝋燭等の灯心の独占的加工販売が認められていました。 その他に芝居や大道芸なども行っていました。 乞食物乞いも支配下で組織化されていましたので、高額の金銭を落とした場合には乞食に拾ってもらえば全額戻りました。 ねこばばは町人が拾ったときに起きていました。 これが「役者は千両とっても乞食」といわれた所以です。 社寺の祭礼のさいの屋台も請け負っていました。 武家が主家を離れて浪人になったさいにつらかったのは、うっかり乞食物乞いもできないために、町人から仕事を分けてもらう以外に生きる術がなかったことです。 薩長などの下級武士であった明治政府の役人はこのことを知らずに、皮革や灯心の取り扱いの自由を認めたために生活に困窮するようになりました。 江戸時代の身分制度は極めて硬直的な制度である一方で、キチント生活が成り立つような施策が施されていたことを御理解願います。 差別被差別の遠因は定住者と非定住者との関係が歴史的にも主要因ですので御承知おきください。 ある意味では自然発生的な部分が多く歴史学会でも定説は未だに確立していません。 非常に難しい問題を内包したご質問ですので、分かり難かったかと思いますので何かあれば補足質問を願います。
- whaihansei
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シニア男性です。 >仏教の影響で被差別とされた、神人などは明治以降もそのまま なのはなぜ? >被差別で無くなった歌舞伎のように現在思われる以上に柔軟で あった筈です 上記の意味が分かりません。 廃仏毀釈についてお答えします。 島原の乱等に手を焼いた徳川政権は、民をキリスト教から隔離 するため寺院の管理下におきました。 檀家制度です。 この結果、ゆりかごから墓場まで寺の行事になりました。 明治政府は、先の民主党政権ではありませんが、徳川政策の真逆を やろうと、今度は民を神社の管理下に起きました。 氏子制度です。 そのため寺院を弾圧したのです。これが廃仏毀釈です。 一部神社に墓があるのはこのためです。 しかしながら250年間先祖伝来の墓を移せない民が多数出たので、 明治政府は妥協して、生前の神社、死後の寺院と棲み分けをしました。 これが今の、葬式仏教の由来です。 敗戦により、GHQは「政教分離」を行いました。天皇は神ではなく 人間である。国と神道の分離です。 が、民の生前の神社、死後の寺院について不問にされました。 こうして今日があります。 寺院で行われる七五三があり、仏前結婚があります。 新年の行事も神社、寺院とも盛況です。(ある意味)好き勝手です。 以上です。
お礼
ありがとうございます。 質問内容が下手で申し訳ありません。 廃仏毀釈が質問ではありません。 明治以降も神人等の人々が新平民とされた理由が質問趣旨です。民俗学的に、仏教取り入れ前は神人は穢れを寄せ付けない特殊能力者とされていたようです。仏教の勢力拡大の元、被差別とされたようです。廃仏行われれば神人は被差別から外れる筈です?歌舞伎は表面上簡単に被差別から外れています。
補足
ありがとうございます。 歌舞伎の件は私の完全な理解ミスでした。 追加1件 仏教導入前、神人は地位的には高かったのでは? 網野氏や水平社の本ではそのようです。 又穢れ自体の解釈が仏教導入前では全く違うようです。又八瀬童子は天皇家グループでは名家で、明治天皇の生母も中山家となっていますが、身分的には逆で、その原因が仏教の死穢から来ると認識していましたので、主題の質問に至る訳です。 余談ですが 産穢は仏教導入以前の概念のようです、仏教では現在の意味での穢れなのでしょうか? 長々済みません。