ご回答をありがとうございます。
△ Philosophy and Phenomenological Research... (Vol. 61, No. 3, Nov., 2000 )における論文
Stephen Menn: Descartes and August 1998 についての書評としてでしょうか。
1. 《 Cogito, ergo sum. 》は 確かにアウグスティヌスの《 Si fallor, sum. ( If I am mistaken. I am. )》との類似性がまづ指摘されうる。
2. ただしこの類似性は その中身が どうも違っていて単なるウワベだけ似通っているに過ぎないのではないか。
3. E.ジルソンによると むしろデカルトは 同じような表現においてアウグスティヌスとは反対の方向へ議論とその結論を引っ張って行っていると言う。(《思考ないし理性》の問題へとであろうか)。
4. そのような大方の評価に対して S.メン( Menn )は 反論を成す。
5. それは アウグスティヌスの命題を借りてむしろアリストテレスの理論に取って代わる説を打ち建てようとしているのではないかというものである。
6. メンの論点:(あ) アウグスティヌスの神義論(テオディツェー)を応用して デカルトは 科学的方法を形成しようとした。
7. (い) アウグスティヌスの神の概念は 数学的な規則性を持つかたちにととのえることが出来 そこから機械論的宇宙論の原則がみちびき出されるのだ。と。
8. (う) アウグスティヌスの哲学の検証にかかる。その中で ネオプラトニズムについてさらに詳しい評論をおこなう。
9. (え) あるいは デカルトはすでにみづから《新しい哲学》を築こうとしており 《デカルトの形而上学》と題しての内容を読み取ることが出来ると言う。これは デカルトの『省察』の考察において成されている。
10. (お) 《魂( soul )と神とを分けて捉える》ことをとおして その魂と神とについて理解が行き届くのだという論点もある。
▽ Augustine’s cogito
(Posted on September 17, 2013)
11. アウグスティヌスの命題は 《 amo ergo sum.(われ愛す ゆえに われあり。)( we love therefore we are. )》が真意である。と言う。
12. あとは 趣旨説明欄に引用した『神の国』のくだりが英訳で示されている。
□ Augustine's Cogito Argument Pre-Dates Descartes' Cogito
(December 02, 2006)
13. デカルトのコギトは かれのオリジナルだと思っていたが 次の本を読んでくつがえったと言う。
○ Richard Sorabji :: Self: Ancient and Modern Insights about Individuality, Life, and Death 2006
14. あるいは 英語版ヰキぺにも指摘がある:
▼ Wikipedea : Cogito ergo sum.
http://en.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum
15. アウグスティヌスからの引用がある。
○ Augustine, On the Trinity 10.10.14 quoted in Richard Sorabji Self, 2006, p.219.
16. この評者の考えでは デカルトはウワベでアウグスティヌスの命題を焼き直したようだと。
17. それに対して 評者へのコメントが〔ブログ訪問者から〕成されている。つまりそうではなく デカルト本人によると かれ(デカルト)の言う《われ》は むしろ《非物体的なもの( an immaterial substance / incorporeal》なのだそうである。本人が手紙の中でそう語っているようです。
■ Comments: bob | April 07, 2009 ~~~~~~~~~~
On November 14, 1640 Descartes writes to Andres Covius, a Dutch Minister who brought Augustine’s argument to his attention:
you have obliged me by bringing to my notice the passage
of Saint Augustine which bears some relation to my “I think,
therefore I am.”
Today I have been to read it at the library of this city [Leiden],
and I do indeed find that he makes use of it to prove the certainty
of our being, and then to show that there is in us a kind of image of
the Trinity, in that we exist, we know that we exist, and we love this
being and the knowledge that is in us.
On the other hand, I use it to make it known that this “ I ” who
is thinking is an immaterial substance, and has noting in it that is
incorporeal. These are two very different things…. 13a
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
18. もしそうだとすれば(つまり 《われ考える われある》の《われ》が 非物質的な実体であるとすれば) それは取りも直さず《アートマン(霊我)》と同じことになります。梵我一如のアートマンです。
19. つまりは 《霊》のことであって ヘブライイズムにおける《ルーアハ》に通じており プネウマやスピリトゥスともまったく同じであると言ってよいと考えられましょう。
20. 一般にそのようには受け取られなかった。とともに もしそう受け取るのならば 余計にアウグスティヌスの命題の中に単純におさまるものだと言わねばならないでしょうし(註) しかもすでに旧約の時からの聖書の伝統であると同時にインドのブラフマ二ズムとの比較もがおこなわれなければならないものと思われます。
(註) アウグスティヌスの《われ》は まったく単純に いま・ここにいるわたしのことですが しかもその経験的な存在者としてのわたしには これも単純に神の霊がやどるというわけですから その限りで無理なく何の問題もなく デカルトの非物質的な実体をもふくむものと考えられます。
☆ (17)のデカルト本人の自筆の声について分かったことは とりわけ特に貴重でした。ありがとうございます。
みなさんからも もう少し意見を聞かせて欲しいといった意味で開いていましょうか。余韻がありますし。
お礼
ご回答をありがとうございます。 △ Philosophy and Phenomenological Research... (Vol. 61, No. 3, Nov., 2000 )における論文 Stephen Menn: Descartes and August 1998 についての書評としてでしょうか。 1. 《 Cogito, ergo sum. 》は 確かにアウグスティヌスの《 Si fallor, sum. ( If I am mistaken. I am. )》との類似性がまづ指摘されうる。 2. ただしこの類似性は その中身が どうも違っていて単なるウワベだけ似通っているに過ぎないのではないか。 3. E.ジルソンによると むしろデカルトは 同じような表現においてアウグスティヌスとは反対の方向へ議論とその結論を引っ張って行っていると言う。(《思考ないし理性》の問題へとであろうか)。 4. そのような大方の評価に対して S.メン( Menn )は 反論を成す。 5. それは アウグスティヌスの命題を借りてむしろアリストテレスの理論に取って代わる説を打ち建てようとしているのではないかというものである。 6. メンの論点:(あ) アウグスティヌスの神義論(テオディツェー)を応用して デカルトは 科学的方法を形成しようとした。 7. (い) アウグスティヌスの神の概念は 数学的な規則性を持つかたちにととのえることが出来 そこから機械論的宇宙論の原則がみちびき出されるのだ。と。 8. (う) アウグスティヌスの哲学の検証にかかる。その中で ネオプラトニズムについてさらに詳しい評論をおこなう。 9. (え) あるいは デカルトはすでにみづから《新しい哲学》を築こうとしており 《デカルトの形而上学》と題しての内容を読み取ることが出来ると言う。これは デカルトの『省察』の考察において成されている。 10. (お) 《魂( soul )と神とを分けて捉える》ことをとおして その魂と神とについて理解が行き届くのだという論点もある。 ▽ Augustine’s cogito (Posted on September 17, 2013) 11. アウグスティヌスの命題は 《 amo ergo sum.(われ愛す ゆえに われあり。)( we love therefore we are. )》が真意である。と言う。 12. あとは 趣旨説明欄に引用した『神の国』のくだりが英訳で示されている。 □ Augustine's Cogito Argument Pre-Dates Descartes' Cogito (December 02, 2006) 13. デカルトのコギトは かれのオリジナルだと思っていたが 次の本を読んでくつがえったと言う。 ○ Richard Sorabji :: Self: Ancient and Modern Insights about Individuality, Life, and Death 2006 14. あるいは 英語版ヰキぺにも指摘がある: ▼ Wikipedea : Cogito ergo sum. http://en.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum 15. アウグスティヌスからの引用がある。 ○ Augustine, On the Trinity 10.10.14 quoted in Richard Sorabji Self, 2006, p.219. 16. この評者の考えでは デカルトはウワベでアウグスティヌスの命題を焼き直したようだと。 17. それに対して 評者へのコメントが〔ブログ訪問者から〕成されている。つまりそうではなく デカルト本人によると かれ(デカルト)の言う《われ》は むしろ《非物体的なもの( an immaterial substance / incorporeal》なのだそうである。本人が手紙の中でそう語っているようです。 ■ Comments: bob | April 07, 2009 ~~~~~~~~~~ On November 14, 1640 Descartes writes to Andres Covius, a Dutch Minister who brought Augustine’s argument to his attention: you have obliged me by bringing to my notice the passage of Saint Augustine which bears some relation to my “I think, therefore I am.” Today I have been to read it at the library of this city [Leiden], and I do indeed find that he makes use of it to prove the certainty of our being, and then to show that there is in us a kind of image of the Trinity, in that we exist, we know that we exist, and we love this being and the knowledge that is in us. On the other hand, I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an immaterial substance, and has noting in it that is incorporeal. These are two very different things…. 13a ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 18. もしそうだとすれば(つまり 《われ考える われある》の《われ》が 非物質的な実体であるとすれば) それは取りも直さず《アートマン(霊我)》と同じことになります。梵我一如のアートマンです。 19. つまりは 《霊》のことであって ヘブライイズムにおける《ルーアハ》に通じており プネウマやスピリトゥスともまったく同じであると言ってよいと考えられましょう。 20. 一般にそのようには受け取られなかった。とともに もしそう受け取るのならば 余計にアウグスティヌスの命題の中に単純におさまるものだと言わねばならないでしょうし(註) しかもすでに旧約の時からの聖書の伝統であると同時にインドのブラフマ二ズムとの比較もがおこなわれなければならないものと思われます。 (註) アウグスティヌスの《われ》は まったく単純に いま・ここにいるわたしのことですが しかもその経験的な存在者としてのわたしには これも単純に神の霊がやどるというわけですから その限りで無理なく何の問題もなく デカルトの非物質的な実体をもふくむものと考えられます。 ☆ (17)のデカルト本人の自筆の声について分かったことは とりわけ特に貴重でした。ありがとうございます。 みなさんからも もう少し意見を聞かせて欲しいといった意味で開いていましょうか。余韻がありますし。