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神のイメージと三位一体論
- 神のイメージを考えるにあたって、三位一体なる神と三一性を比較する図式が存在します。
- 神の三位一体は時間差がなく、一体性が成ると考えられますが、経験世界における三一性は時間差や齟齬があります。
- 質問は、神の意志の存在や経験世界における行為や出来事に神の意志が働いているか、また神は時間の流れを違うように考えられるか、などについてです。
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こんばんは。 ☆ 1. もしこの神のイメージがその図解のとおりだとすれば そのような神の意志は 存在すると思うか? ◇bragelonne理論におけて、 神に《こころ》は存在し得ますか? それは、神の《擬人的》理解、解釈となるのでは? 《こころ》がないのですから、《意志》はないのでは? ☆ 2. むろん人間には分からないという前提で言うのですが 経験世界における行為や出来事にかんして じつは神の意志が そのままではないが はたらいていると見る見方は ありうるのか? ◇働いていると見えることはある。 しかし、それは人間の解釈ということになるのでは? ☆ 3. つまりそれは ものごとが即時に成るのではないわけだけれども 神にとっては千年が一日だと言われるがごとく 少しづつ 神のこころづもりに沿って じんるいの歴史はいとなまれて来ていると見る見方は ありうるのか? 4. つまり 三位一体なる神にあっては すべてその意志は即時に成るのだが じっさいに人間とその世界にあっては 時間差をともないつつにでも 成就――たとえば 自由の――に向かってあゆんで来ている〔と見る〕のか? ◇神の《意志》を仮定するから、矛盾が生じるのでは? ☆ 5. それとも 神のイメージは まやかしであり まったくのまぼろしであると見るのか? ◇《まやかし》となるのでしょう。 イメージは、表象、心象であり、経験事象に属するのでは? 神を語った瞬間、それは《ウソ》となるでしょうし、 神と思った瞬間、それは神ではなくなっている。 ☆ 6. つまりは ここで《非思考の庭 つまり 信仰》の観点を持ち出すなら この信仰は いったい何をのぞんでいるのか? 何を 将来ヘむけて予感しているか? あるいは 信仰もまぼろしであって 何もないか? ◇信仰すら主観でしょう。 《まやかし》。 信仰も否定されなければならない。 で、ないと、 《智》の欠如した、新たな《グノーシス》になってしまうのでは?
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- 田場 隆司(@taba4316)
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もう少しだけ 神=父なる神・子なる神・聖霊なる神、からなる三位一体です。 父なる神は設計者、子なる神は創造者、聖霊なる神は保持者となり各々神格を持ち合わせている。 三神各の働きは異なっていても目的においては同じ、方向性を持つ これを三位一体と呼ぶ。 時間、空間、物質は神が設計し造られたもの 人は神の造った時間の中に置かれている、神は時間を支配しておられる。 この事実は人には理解しがたい、なぜなら時間の概念を持たされているから。 神は時間、空間、物質を支配しておられるゆえ、全知全能と我々は呼ぶ、もし神が時間、空間、物質にとらわれているとしたら限りある神となり、人と変わらぬ存在となる。 人は神に似せて造られているため三一性(三つの側面を持つ) 人は肉体、心、霊の三つを持ち合わせていますが、人の本質は霊である。 人は三つに依存している。水、空気、食べ物が人を生かしている。 神は自存、人は依存 神は作者 人は作品ということです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ご自身の主観における神観。こういうふうだと受け取ります。 むろん そのことを尋ねているのですが ほんのちょっとそれについて哲学の香りをも入れたい。 いえ ぎゃくに言うべきでしょうね。 哲学が考えるこの世界の生き方そしてそこにおける世界認識 そのことに ほんのちょっと信仰の香りを振ってみたかたちの表現は ありうるか。それを こころみてください。と問うていると思っています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 人は神の造った時間の中に置かれている、神は時間を支配しておられる。 ・・・・ 神は自存、人は依存 神は作者 人は作品ということです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ といった神認識が では 実際にこの世界における生活の上で どのように自分の主観の言わば動態として かかわっているか? じっさいの生活において 神は どのように人びとにかかわっているか? 神とわれとの関係が信仰であるのだから・そしてそれは あくまでわが心としての主観の内において持たれるいとなみであるのだから すべては――それについて 自由にひとに話をしてもよいのだけれど それにもかかわらず――やはりおのれの心に内におさまっているものなのか? こんな感じでしょうか。
- Tefu_Tefu
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こんにちは ブラジェロンさん >問題は端的に言って 神なる三位一体は 時空間を超えており 父なる神と子なる神と聖霊なる神とのあいだに 時間差がない。 神が時間を超えている すなわち 時間が永遠であり 完全なものであるならば 神は芸術家の絵画や銅像や音楽や はては 五感に関係する全ての創造物ということだと思います これらは 人間にとって 今という空間(空)では 神の全能性(真善美等)を五感で感じる以外に認識することは不可能です >1 強烈に存在意志を示すと思います >2 人間の真善美に深く関わっています >3 人類の歴史の基盤になっている >4 人類を より高度な文明へと導いています >5 人間の五感と記憶が神との繋がりです >6 人間は神に近づこうとするが 時間差のために決して近づけないけど 感じることにより 今という空間に神の存在を感じるのでは?神は全ての時空間に存在する 心穏やかな(慈悲の心を持つ)者には 神は霊として現われ 世界は神の全能性(真善美等)に溢れている 人はそれを 強い意志により創造するのである 以上のことより 現象を人間が五感で時間差を持ってしか認識できないことにより 想像が生まれ 神の心(なんとか困っている人々を救いたい 世の中を便利にしたい)という者が 強い意志を持って創造(直観による)できると思われます 神は我欲に先立つ人類愛によって生まれる 結論 私はあるがままにより 救われることに感謝します 私はただ哲学を勉強しているだけですから それに てふてふ(蝶)は生き物の味方ですから(笑) ブラジェロンさんがみんなを慰め励ましてください そして 寄付を集め貧しい人に施しを(パンの奇跡のように心を満たしてあげてください) 寄付が集まれば お金持ちになり慕われますよ(お坊さんのように) そのためには 強い意志と人類愛と良い教えが必要のようですが
お礼
てふ_てふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。全般として 要するにてふ_てふさんの主観の世界である。とは思います。 こういう場合 その主観内容が どのようにほかの人たちに伝わるのか? つまりはその結果 共有されうるのか? このことにも 問いは及んでいたことは そうなのです。 主観の内容が共有されると言うよりは 主観が共同化されうるかと言ったほうがよいかも知れません。 共通感覚(コモン・センス)は 感性がひととしては おそらく同じハタラキを持つという意味で 共通であると考えられることでしょう。 美味い・まづい 心地よい・気持ち悪い 等々の感覚は ひとのその実感を共有など出来ないにもかかわらず その概念を共有しつつ 共通の感覚として互いに話し合える。 主観の共同化は 或るひとりの主観が 共同主観(つまりやはり コモンセンス=常識)になるときのその過程だと考えられます。概念は共有されますが けっきょくむしろ意志つまり判断力が その筋道として 共同化されるかどうか。ここに焦点があたると思うからです。必ずしも中身を共有するというわけではない。 思惟や生産や行為一般の形式が 合理的で妥当なものとなっている・しかもそれは つねに情況や問題に応じて変わり得るものである。これが 共同主観=コモンセンスであると思われます。 そのような共同主観に それでは 神の学またはキリスト史観が 成りうるか? こういう問題をも問うていると 途中から気づきました。 そして てふ_てふさんのお答えになった内容は まさに神学史観が 人びとの主観のあいだに共同化され得るかを問うているかたちになっている。ということではないかと考えます。 つまり こたえは 必ずしも分からない。ということではないかとも見られる問いではあります。 言いかえると おのおのの主観の内面において 持たれている史観なのではないか。こうなると思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神が時間を超えている すなわち 時間が永遠であり 完全なものであるならば 神は芸術家の絵画や銅像や音楽や はては 五感に関係する全ての創造物ということだと思います これらは 人間にとって 今という空間(空)では 神の全能性(真善美等)を五感で感じる以外に認識することは不可能です ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そしてこれらの主観としての見方は それがけっきょく《神とわれとの関係》の問題であるかたちにおいて 基本は主観の内におさまりとどまるものである。こう ひとまづは考えられるのではないかと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以上のことより 現象を人間が五感で時間差を持ってしか認識できないことにより 想像が生まれ 神の心(なんとか困っている人々を救いたい 世の中を便利にしたい)という者が 強い意志を持って創造(直観による)できると思われます 神は我欲に先立つ人類愛によって生まれる ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この観想といったものも 同じくだと見ます。 その主観の共同化が ままならぬのではありますが ただし そういう事態を人びとが捉えるということは おのれの主観のあり方――人びとのあいだでの自分の存在の位置づけといったこと――が はっきりと思いの中に捉えられて行くかと思うなら それも 有意義なことではないか。こうも考えます。 こういったことを思いました。
- 田場 隆司(@taba4316)
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とても難しい、質問ですね。 神が存在しているのなら、人の物差しで測れるものではないとおもいますよ。 私たちの物差し(測り)は、全て自然法則によって成り立っていますね、 この自然法則の存在原因を理解しなければ何も始まらないのです。 もしあなたが、「自然法則は偶然に生じたと思っているのなら」残念ながら神、信仰、三位一体などを 理解する知恵は無いと考えられます。 しかし、「自然法則は神が制定したと考えることが出来るなら、」その前提に沿って考えるなら、 おのずと答えが見えてくるはずです。 聖書は神の霊を持った人だけが理解できる「実行できる」書物です、学問の書ですが頭で理解しても実行は出来ません。 神の霊を持つことを勧めます。「これを救われるといいます。」 ヨハネ3:16の意味をご理解ください。救いの意味です。
お礼
たば4316さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ☆☆(趣旨説明欄) 4. つまり 三位一体なる神にあっては すべてその意志は即時に成るのだが じっさいに人間とその世界にあっては 時間差をともないつつにでも 成就――たとえば 自由の――に向かってあゆんで来ている〔と見る〕のか? ☆ このとき ひとりの人の《記憶‐知解‐意志》の三つの能力行為が 互いに時間差をともなって・またその認識内容に食い違いを持って おこなわれるということ。 あるいはまた 社会形態において《司法‐立法‐行政》の三つの権力行為が 互いに時間差をともなって・またその認識内容に食い違いを持って おこなわれるということ。 このとき もし《あやまつならば われあり》と言ってのようにマチガイについては 一般に見直され できるものであれば おこない直されます。 つまり これら二種類の三つの行為のあいだでは 互いの認識のズレにかんしては いちおう正されます。互いの合意に到るものと思われます。そしてそのことが 時間差をおいて 成されるということ。 これが あたかも三位一体のその完全な一体性に似ていると言われる三一性のことです。 三位一体は 時間を置かずに一瞬にして一体性が成ります。それに対して 人間のそして社会の三一性は ともかくも時間をかけて追いかけるようにして その互いの一体性を保持しようとつとめる。これが 神と人間とのはなはだ不類似な類似とよばれるものです。 問題とここでの問いは この三一性の三位一体との類似は われわれがどう扱えばよいか? これです。
- 鷹取 飛鳥(@haruka-asuka090)
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こんにちは。 (1)存在すると信じる者には存在します (2)あります ただ悪魔や神は直接手を出しません ただ悪魔のささやきと言われるように 誘惑はします 神はアドバイス 直感など ただ直感は守護霊の場合が多いです 高等な霊なら可能かもしれませんが 基本人間界に干渉はしません (3)時間は分かりませんが 自分の望む姿でいられるが普通だと思いますし 恐らく 時間 はないでしょう。 (4)不明ですが 個人の自由 尊厳のため 基本神は干渉はしないでしょう (5)いいえ います。 (6)信じることで人は強くなれます お守りやお札などと同じで 心のよりどころになるという意味では 存在は大きいと思います。 ただ 人の嫌がるようなことをしている人間については 神様はちゃんと見ていると言っておきましょう。
お礼
はるか‐あすか090さん こんにちは。 ★ (1) 存在すると信じる者には存在します ☆ なるほど。そうなんでしょうね。 ただし 《存在すると信じない者》にも・つまり《存在しないと信じる者》にも けっきょく雲をつかむような話としては 神は関係していると思いますよ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (2) あります ただ悪魔や神は直接手を出しません ただ悪魔のささやきと言われるように 誘惑はします 神はアドバイス 直感など ただ直感は守護霊の場合が多いです 高等な霊なら可能かもしれませんが 基本人間界に干渉はしません ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。神にかんする領域と言いますかの問題は――その存在を受け容れているとしても―― この世界と切り離して捉えるということですね。 つまりは 仮りに《神によるこの世界や人びとへの介入》が 直接のはっきりしたかたちであるというのであれば(そう決めてしまうのであれば) それは 人びと一般にとっては おかしいのでしょうね。 ただし 個人としては・その主観の内面においては ★ 悪魔のささやき〔も〕 アドバイス 直感〔も〕――これらは ヒラメキでしょうか―― ☆ があり得るということですね。 ★ (3) 時間は分かりませんが 自分の望む姿でいられるが普通だと思いますし / 恐らく 時間 はないでしょう。 ☆ つまり 《即時の実現》は 人間の世界では無理だし 《千年が一日》だとして見るとしても あまりにも間延びのした見方になりがちだというところでしょうか? そうですね。千年単位で たとえば民主主義が進展して来たというような捉え方は たいしたことはないでしょうかねぇ。あり得るかもとは 思います。自由へ向けての じんるいのあゆみといったような。 ★ (4) 不明ですが 個人の自由 尊厳のため 基本神は干渉はしないでしょう ☆ これは (2)と(3)とで だいたい済んでいるかも知れません。 ★ (5) いいえ います。 ☆ これは (1)の議論ですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (6) 信じることで人は強くなれます お守りやお札などと同じで 心のよりどころになるという意味では 存在は大きいと思います。 ただ 人の嫌がるようなことをしている人間については 神様はちゃんと見ていると言っておきましょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。 けっきょく次の命題を ふたたびかかげたいと考えます。 ☆☆ ただし 《存在すると信じない者》にも・つまり《存在しないと信じる者》にも けっきょく雲をつかむような話としては 神は関係していると思いますよ。 ☆ すなわち 《信じない人たち》にとっても ★ 神様はちゃんと見ていると言っておきましょう。 ☆ のような感じですね。
お礼
ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 1. ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ bragelonne理論におけて、 神に《こころ》は存在し得ますか? それは、神の《擬人的》理解、解釈となるのでは? 《こころ》がないのですから、《意志》はないのでは? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ じつは この質問は 質問の仕方が変に手の込んだかっこうになっています。おっしゃるような疑問をとうぜんのごとく抱きつつ (1)からつづく――これも変な・なぜならおっしゃるように 神が擬人化され心を持つかのように扱われている――問いに答えよと言っています。 言いかえると 神の擬人化といった架設をどう扱うかという・隠れた問いにも答えつつ 全体をどう料理するか。こういう問いになっています。 神はまぼろしかとか 信仰はまぼろしかといったふうに 少しでも擬人化された神のイメージと 哲学的思惟とのあいだを取り持とうとしていますが これは ほころびを縫い切れるものではないようです。――と分かっているかたちででも 問うてみるという質問です。 ということは けっきょくのところでは 《あなたの信仰は どうなっていますか》といった問いになっていると受け取っていただけるのではないでしょうか。どうでしょう。 変則的ですが 回答を俟ってみたいと思います。 2. ◇ 働いていると見えることはある。 / しかし、それは人間の解釈ということになるのでは? ☆ ええ。つまり 個人の主観の問題だということだと思います。 ということは 一般に回答者氏の主観として 回答してもらってよいということにもなります。 あるいはさらには 主観においては 《神の意志が この経験世界に はたらいていると見えることはある》と言ったとき では ほかの主観にとっては・つまり社会一般のあいだでは その自分の主観が どう成って行くのか? 《神をめぐる主観は 他者とのあいだで どのように扱われて行く》のか? といった問題をともなっているかと考えます。 3.および4. ◇ 神の《意志》を仮定するから、矛盾が生じるのでは? ☆ あぁ それでしたら 問いは《神の意志を仮定した》のですから その問いじたいが 矛盾をはらんでいる。という回答ですね。 そうですね。そうだとまでは言わなくても まだ済むように思いますので 言うことにしますが。 たとえば (2)で主観の内では 《神の この世への介入》がありうるということでしたので その線に沿って この(3)および(4)を いちおう矛盾なく 答えていただけるのではないかとも考えます。 5. それとも 神のイメージは まやかしであり まったくのまぼろしであると見るのか? ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《まやかし》となるのでしょう。 イメージは、表象、心象であり、経験事象に属するのでは? 神を語った瞬間、それは《ウソ》となるでしょうし、 神と思った瞬間、それは神ではなくなっている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは すごく微妙ですね。 かんたんに言ってしまえば その《まやかし》にあって《まぼろし》として (3)や(4)の問いに 主観として どう答えるか。これを 求めているかっこうです。 6. つまりは ここで《非思考の庭 つまり 信仰》の観点を持ち出すなら この信仰は いったい何をのぞんでいるのか? 何を 将来ヘむけて予感しているか? あるいは 信仰もまぼろしであって 何もないか? ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 信仰すら主観でしょう。 《まやかし》。 信仰も否定されなければならない。 で、ないと、 《智》の欠如した、新たな《グノーシス》になってしまうのでは? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん――これまでの(1)から(5)までに一応の説明をした《問いとしての仕組み》がかろうじてでも妥当だという前提に立つかぎりでは―― グノーシス主義のような《神をめぐる知識としての理論やその体系》にはならないと考えます。 むしろ雲が空に浮かぶようなかたちの説明内容であり 問いとしての前提なのですから 主観のいだく思惟にかんするかぎりの表現は 言ったあと すぐにでも消えてしまうかも知れないからです。その成立があやうい《対話》であり そこに閉じ込められた哲学としての探究に成っているかと思うからです。 そしてもう一点です。 この(6)の問いは こうです。 ひとつに (1)から(5)までにおいて 擬人化した神(つまりそれは 偶像と化すおそれのある内容を持つ)をめぐる主観としての歴史観――つまり 言ってみれば キリスト史観――の開陳と そしてこの(6)では そのキリスト史観(=思考物)と信仰(=非思考)との組み合わせは 出来るか? と問うています。 おそらく《出来る》とすれば それこそ《まぼろし》としてだろうと思います。 ただし・ところが 《信仰》というものも その非思考の庭にあって ヒラメキを得ることがあり ヒラメキから経験思考にまでつなげる場合もあるということが言えます。 だったら 経験思想としてのキリスト史観と ヒラメキ思想とを照らし合わせてみることも可能なのではないか。 つまりは早い話が 信仰からのヒラメキは 将来の歴史の過程に何を見ているか? 何をのぞんでいるか? 見ることも望むこともないとき それにもかかわらず 何かの予感をあたえられているということが あるかも知れない。 そういう――主観内面における――歴史にかんする予感また預言を もしあったら 聞かせてください。という問い合わせになっています。 どうなりますか。
補足
お礼欄をおぎないます。 ひとつに 神の想定を置き ふたつに 神を人間になぞらえて意志を持つとさえ仮定して それでは神は 人間たちの世界にどのように介入しているか? とまで問うこころみです。つまりは それぞれの主観における・神と人間との関係としての歴史観――キリスト史観――を問うています。 そしてじつは この問いを けっきょくすべての人に問うています。なぜなら 神の想定の中から《無い神》をらぶ無神論の信徒にも 同じく同等に問うているからです。また 有神論の信徒については キリストの神とそのほかの別の名前の神とは すべて互いに同じ類型であると見ているからです。 少しでも一般的になるならキリスト史観を 梵我一如史観と言っても ヤハヱー史観と言っても あるいは アッラーフ史観と言っても 同じです。 すべては 一人ひとりの主観の問題であり そのような内面における思いやそれを言葉にして表現した内容をあつかっています。これが やはり大前提です。 そしてひとは 人生観や世界観を持つことになるからには そこに歴史観をもたずさえていると言っていい。 漠然と持つ思いとしての史観のほかに 非思考なる信仰から得られるヒラメキを思考の次元に降ろして来て これを預言やあるいはけっきょく一般の思想としても表現する そのような歴史観をも持つことがあり得る。 このあくまで主観の内面で持たれ場合によってはいくらかはさらに繰り広げられる歴史観 これを 主観の内から外に出してみた場合 それは どのように社会の中で扱われて行くものであろうか? ここまでをも問おうとしています。 早い話がたとえばキリスト史観として言えば 神にとって千年が一日だとすれば イエス・キリストの歴史への登場のあとちょうど二日を過ぎて 世界にはおおむね民主主義が根を下ろしつつある。といったまぼろし史観が得られるかも知れません。 あるいは 別様に考えるなら 三位一体なる神にあってはあたかも司法と立法と行政とが 神の意志するその一瞬にことが決まりその内容は即座に実現している。たとえば《自由》も そのように成る。 というときこの神の意志する《自由》が 人間の歴史においては どのように推移しているとひとは見るか? (あ) 神において自由はすべてにおいて即時にまたつねにすべてであるのだから 人間は そのことの地上における実現を――みづからも努力しつつ―― 気長に俟てばよい。と考えるか? (い) 立法府の立てた法律の行政による執行が その内容が違っているではないかという物言いを受けたとき そこに司法を巻き込むことをも伴なって 時間をかけて 解決への人びとの努力がすすめられる。これをキリスト史観にあっては すでに神においてはすべて食い違いも時間差もなく即時に実現したかたちになっているのだから 初めから解決している。と見るか? つまり 神にあっては 問題が初めからない。と見て そのあとどうするか? (う) すなわちそのようなキリスト史観をいだく主観は どのように実際の具体的な時間過程としての歴史の中で振る舞うか? (え) 言いかえると こういった梵我一如史観はすべて まぼろしに終わると見るべきか? 勝手な空想であり妄想であるということになるのか? No.2の回答によるなら 《病的で ねじの外れた妄想》であり《思考の名にあたいしない》となるのか?・・・ (お) あるいは別様に考えるなら ひとりの人間にあって おのれの自然本性に合った身と心との内的な秩序(=記憶)は そのまま即座に知解され その秩序内容(=知解内容)に沿って意志されるといったことがあり得るか? (か) これこれが 論理としても合理的であり情感の共同性としても妥当であると知解した内容が そのまま意志によって実行に移されるということはあり得るか? (き) 前二項を言いかえると ひとの意志行為は 記憶と知解とのあいだで 内容の食い違いとその認識や実現の過程としての時間差とをともなっているのが一般的であると考えられるが 果たしてこの実態は――つまり 記憶・知解・意志の互いに食い違った三一性は―― 神の三位一体のごとく成れるか? 成れないとき そのへだたりについて どう考えるのか? (く) 言いかえるなら 神の三位一体は 不整備なる三一性をたずさえて生きる人間にとって まぼろしか? しかもまぼろしとしてどこか心の片隅にでも持たれるような総合的に捉えた《現実》であるのか? (け) ひとは神の似像であるというのは おそらくこの三位一体と三一性との類似において言っていることだと考えられるが そういった人間観は もはや廃れたか? 必ずしも廃れてはいないとしたら その人間観からさらに歴史観にまで思惟を広げたとき それは 人間にとってどういう《現実〔の一端〕》を成すか? (こ) 要するに 神をひとは何であると思っているか? これが問いです。 (さ) なお 神の三位一体は 真理と言い表わされ 人間と社会の三一性は 〔変わり得る〕真実や〔客観と言っても皆に共通の内容を措定しがたい〕事実として表わされると見ます。(そういう定義での用語として使えると思います)。 (し) 人間にとっての現実は 心の主観的な真実と社会における事実とから成るか? それともそれらのほかに 神の真理をも どこかにのぞみ見ているのか? (す) つまりは 三位一体なる神は 無神論の信徒にとっても 真理としてけっきょくは持たれていると推し測られます。そういう勝手な前提で質問しています。