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人間は神の似像である
- 人間は神のかたちに創造された存在であり、三位一体なる神の似像であるとされています。
- 人間の社会も宇宙に含まれ、人間は小宇宙であるとも言われています。
- この見方を分析・検証しながら、人間の社会の成り立ちを明らかにし、発展させることができるのではないかと考えられます。
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お礼ありがとうございます。 >カミの三位一体としての一体性は うつろいゆくことなく変わることなく つねに 成り立っている。 しかるに それに類似する人間の三一性は つねに記憶と知解と意志とのあいだに――あるいはつまり 司法と立法と行政とのあいだに 時間的なズレがある。一度にコトが成るというわけには行かない。 フラクタルという言葉が誤解を与えそうなので、全体と部分の関係とでも言い直していいでしょうか? 車で言えば、全体も部分も重力や加速Gという法則の支配下にある点で共通です。 ですので、およそすべての部品が軽量化や軽量な素材を目指します。 一方、全体と部分、部分どうしも影響しあっています。 例えば、車体重量はブレーキの性能を殺し、エンジンの重量はフレームの強度を求め、フレームの強度は車体重量を増やします。 ここで言いたいことは、三位一体というのは、全体として共通の法則下にありながら、お互いが構造に影響を与えあうことにより生まれた関係をさしている可能性があるのではということです。 そうであるならば、時間的なズレがあろうが、一角が一時的に消滅していようが、三位一体というシステムにはなんら問題ないと言えます。(一角が消滅しようと残りとの関係から再生が可能!?)
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- MOG777
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こんばんは。 この質問は、神と人間や社会全体にフラクタル構造を観ることができるということだと理解しました。 なぜフラクタル構造が生まれるか? アイコンの樹木で言えば、降り注ぐ日光という法則性が樹木の枝の法則性を生み 海中での収斂進化で言えば、海中という環境の物理法則が、時代と種を越えてギョリュウとイルカという似たものを生み出した(厳密にはフラクタル構造と言えないかも・・・) つまり、似た環境・似た法則下ではだいたい似てくるもんなのでしょう。 よって、神がいるならば、神と人間も同じ次元にいるので似てきてもおかしくない。 ただし、その似ているというのは、容姿うんぬんではなく空間に存在するとか時間の流れにそって存在するとかそういうレベルでしょう。
お礼
もぐさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ フラクタル構造 ☆ ですか。なるほど。 たぶん そこへつけ足してもいいでしょうか。 つまりは この世の経験的な事象としては 個人と家族と自治体と企業組織と政府立法司法とが互いにフラクタルの関係にあると思われます。 これはその成り立ちが 三位一体であることすなわち あたかも光源と発耀と明暖との一体であることですから この三位一体性が さらにフラクタルの関係にあると見るものです。見るものですが ここで カミの三位一体と人間や経験事象の三位一体性(または 三一性)とのあいだには 次元の違いがあると思われることです。 じつは 光のみなもとと かがやきと 明るさ・暖かさ これら三つは 必ずしも同時一体ではありません。経験事象ゆえに 時間差もしくは空間距離の差があるかと見られます。したがって この光のたとえは あくまで仮りのものです。すなわち カミの三つの位格の一体は 時間の概念を超えてつねに一体なのですから。 人間がその《記憶》から必要な要素としての知識を取り出して これを思惟し整理し《知解》の作業として情報にまとめる。そのあと 《意志》は それらの選択肢から取捨選択し判断して結論を決める。この過程は 時間的な行為です。 あるいはさらに 結論を決めたあと これを実行する。この行為が 目的を達するのにも時間がかかる。 また別様に見れば そのような広く捉えた自己表現行為は それが三位一体なるカミのもとに 自由であるということは 同時に その答責性(説明責任)をおびている。もし その自己表現に勘違いなどがあれば その間違いを正さなくてはならない。その作業についても 時間がかかることになっています。 カミの三位一体としての一体性は うつろいゆくことなく変わることなく つねに 成り立っている。 しかるに それに類似する人間の三一性は つねに記憶と知解と意志とのあいだに――あるいはつまり 司法と立法と行政とのあいだに 時間的なズレがある。一度にコトが成るというわけには行かない。 こういうふうに いま 捉えています。いかがでしょう。
- tumaritou1
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お久しぶりです、相変わらず頑張っておられるようで、喜ばしいと思います。 早速回答いたしますが、人間の命そのものの働きを『神』と形容している気が致します。或は仏性です。その根拠は『生まれた人間には全てが備わっている事です。』或は生まれる前から全てが備わっていると言う言い方の方が正解とい思います。 人間と言わず、動物といわず、植物でさえ『備わっている働きです。』植物ならば『実』を結び始めた時には『全ての遺伝子が備わっている』事実が在ります。その形や匂いや咲き時期でも全て知っていて生まれる事です。 動物でも昆虫でも全て『命あるものは』その命として芽生える瞬間に『全てを持ち合わせている事です。』その全てが『細胞分裂によって』確固たるものになってゆく働きそのものです。 厳密に言うならば『如何表現するのか、その術を知りませんが』人間に例えて話をするなら『簡単です。』 次の動画が全てを物語っていると思います。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM 仏教もキリスト教も、結果的には同じ事を結論付けています。仏教においては『自分自身の持っている仏性との出会いです。』 キリスト教においては『自身に内在する、識られざる神と和解する。』です。 科学的な言い方をするなら『左脳に存在する意識と右脳に存在する、命そのものを司っている意識(仏性や神)と出会うという意味です。『意識の根底での経験です。』 この経験以後『心の矛盾が解消される』と言う経験です。 心同士が争う事がなくなる世界です。『いつも自分の心が静寂に包まれている世界です。』この心境を、動画の中で博士が『涅槃』と形容しています。 命そのものの働きは『永遠そのもので出来ています。』その戦いは、有限と無限(永遠)のしのぎ相です。その戦いに有限である自我意識が『敗れる事によって』永遠に支配される事を意味します。 人間の苦しみは『心の中の矛盾』を感じ取って、心が内部抗争を繰り返す事によって、疲れ果てる事を意味するのかも知れません。この戦いに『自我意識が敗れ果てた時』突如として『神や仏が現前します。』 死の淵にいる人が『安らかな心持になって、脳内ホルモンが多量に出て、笑顔を見せながらお向かいの使者に従う場合』などは良い例と思います。 その心持を『行きながら体験する事を』悟ると表現していますが、二つの脳に『ホットラインが構築された事を意味します』 右脳には人間の未来の記憶までも、記憶されているようです。
お礼
つまりとうさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ジル・ボルト・テイラーさんの体験談は なかなかあざやかな《いのち》の世界を伝えているようです。右脳の世界でしょうか。あるいは 左脳との協調のような状態をも言おうとしていましょうか。 ★ ~~~~~~~~~~ ( a ) 人間の命そのものの働きを『神』と形容している気が致します。或は仏性です。 ( b ) その根拠は『生まれた人間には全てが備わっている事です。』 或は生まれる前から全てが備わっていると言う言い方の方が正解とい思います。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 仏性がやどるに対応するのは 聖霊がやどる でしょうか 精確には。これが 自然本性にそなわっているのだと。 脳卒中の体験の中で 右脳によるその穏やかな世界 うつくしいエネルギーに満ちた世界が体験できたのだとも言うことのようです。 ★( c ) 心同士が争う事がなくなる世界です。『いつも自分の心が静寂に包まれている世界です。』この心境を、動画の中で博士が『涅槃』と形容しています。 ☆ ここで ではなぜ ★ 心同士が争う事がなくなる ☆ と言うのか? つまり ○ ( a )( b )の仮説にもとづき 二つの心すなわち右脳と左脳とがともにチカラを合わせる状態が もともと自然本性としてそなわっている。 というふうに 初めの肯定的な命題を出すかたちでなぜ 言わないのか? ○ ひとは カミの似像である。 は そういう捉え方であり 打ち出し方です。 そのあたりに違いがありましょうか? ないでしょうか? 右脳・左脳については 勉強していませんので このようつべの講演内容をそのまま受け容れました。 * あとは 右脳を活かす精神活動は平和・静寂・しかもエネルギーに満ちたしあわせな状態だそうですが ここで《ひとは カミの似像である》というときには なるべく価値自由な認識として 存在論が打ち出せればよいとは思います。そういったところでしょうか。
- gldfish
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もっとシンプルに理論的に考えてみてはいかがでしょう。 人間は所詮人間なので、人間が知る限りの概念の中でしか「創造(もしくは想像)」が出来ません。 人間が、この世に存在する最も知的で最も偉大(自分に大きく影響を及ぼすという意味)で最も身近な存在を考えた時に、真っ先に思い浮かべる対象の1つは明らかに「人間」なのです。時代や地域によって身近な動物だったり祖先だったりもしますが、それも意図は全く同じで、それらがその人々にとって身近で「想像し易い」存在だからです。 なので、もし人間が神という存在を意識した時に「おそらく人間のような姿だ」という発想に至ったのなら、それはごく自然なことだと思うのです。むしろそれと違う発想になった方が不思議です。 そう考えると、(もし神というものが存在するのだとしたら)「人のような外見」という話は怪しくなってきます。だって「神を人の姿に重ねる」というのはいつの時代も人間であれば誰でも思いつくことなんですから。もし歴史が伝える「神」というものが、現実には存在しないような誰も想像つかないような姿をしていたなら、少しは「これが神の姿なのかも」とも思えますけどね。自分には所詮「発想の貧しい人が編み出した、よくあるアイデア」に思えてしまいますね。 神がどんだけクリエイティブな存在であったとしても、それを想像するのが「知識」や「創造性」に限界のある人間でしかないのですから、結局「よくある普通のもの」に収まってしまうのですね。 そう考えると、神なんてものは人間に左右される存在であり、人間の中でしか生きられない存在なのでしょう。どうやっても人間を超えられないのです。
お礼
きんぎょさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ そう考えると〔* すなわち 《「知識」や「創造性」に限界のある人間でしかない》と考えると その人間が想像したところの〕神なんてものは人間に左右される存在であり、人間の中でしか生きられない存在なのでしょう。どうやっても人間を超えられないのです。 ☆ この命題がご結論であると受け取ってよろいしでしょうか? そうですね。 ただちに反論して この問い求めの成果をゆたかなものにしたいと願いますが 二点申し上げます。 まづ: (1) 人間の言語による表現の問題 すなわち《想像力や認識の》だけに限らず 言葉による表現の限界の問題 これがあると考えます。 どういうことか? たとえば 《かみ》を自然現象としての光に喩えていますが カミは決してこの光ではありません。しかも 一般に経験世界のモノゴトではなく カミは経験世界を超えています。そのように想定されます。またそのような想定においてしてしか カミは あり得ません。われわれは カミ語を使うわけには行かないからには 人間語で仮りの規定をするしかありません。 ということは カミは 光に喩えられるけれども 光ではない。ということはカミは 人間の想像力によっていろいろと規定されるけれども その規定・その規定された内容そのものではあり得ません。 という意味において ★ 神なんてものは人間に左右される存在で ☆ はあり得ないという初めの想定があると同時に それを定義においてもその表現によって《左右される》ことはいっさいあり得ません。 ★ 人間の中でしか生きられない存在なのでしょう。 ☆ これは カミについて ほかの動物や植物が考えたり捉えたりするのではなくあくまで人間がそうしようとしているからには つねに《人間にかかわる存在》でありつづけましょう。しかも仮りのとは言え言葉で表現し得たとすればその表現をとおして 人間の心のなかに言わば生きている。こうも言えることになりましょう。 ゆえにぎゃくに言えば 仮りの表現による定義 つまりは言わば代理表現としての言葉に囚われているかぎりでは ★ どうやっても人間を超えられないのです。 ☆ つまりは もともとカミは 人間をも経験世界をも超えています。はじめの想定です。 それからさらにこの問い求めにかんしては: (2) すでに《ひとは カミの似像である。》と言っているごとく 人間とは何か? 社会とはどういう現実か? こういう方面での問いに重きを置いているということになります。 誤解をおそれずに言えば ここでは《カミとは何か?》は どうでもよいとすら考えられます。 《カミの似像》とは何か? これです。 ですからたとえカミは何であるかについて あやふやであっても その《似像としてのヒト》とはどういう現実か? について妥当性のある経験科学的な内容が示されればよしとする。そういう姿勢になるかと考えます。 それを追究したい。こういうねらいです。 この点について触れていただけなかったのは 残念です。 すべて《カミは 人間の認識と想像の能力を超えて描き出せず 表現し切れない》という制約を言うのみであると考えられます。 どうでしょう? 記憶・知解および意志の三つの行為能力から成る自然本性 あるいは それらの能力行為からかたちづくられて来た社会の成り立ち こういった方面について触れていただければと思います。 言いかえると このような人間存在および社会現象については 人間の認識と想像の能力の範囲を超えないとしても 何がしかの図式を描いているかと思うからです。
お礼
もぐさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ ここで言いたいことは、三位一体というのは、全体として共通の法則下にありながら、お互いが構造に影響を与えあうことにより生まれた関係をさしている可能性があるのではということです。 そうであるならば、時間的なズレがあろうが、一角が一時的に消滅していようが、三位一体というシステムにはなんら問題ないと言えます。(一角が消滅しようと残りとの関係から再生が可能!?) ~~~~~ ☆ おそれいりました。言い残したことと言いますか ひとの意見のあら探しをした罰と言いますか みごと的を射てくださいました。 ★ (一角が消滅しようと残りとの関係から再生が可能!?) ☆ ここは ちょっとにわかには 飲み込めていませんが。つまり《再生》というのは しっかりとどういうことかを定義しなければならないかと思ったりしますし。 あるいは 《一角が消滅する》というのは どういうことか。たぶん 考えてみれば それはないかも知れません。でも さらにひるがえって 知解行為としての学識はあふれかえりその記憶にかんするかぎり知識はふんだんに活用するという場合にも ものごとの判断にかんしては 案外のろくてあいまいだという事もあり得ます。そのような意志行為についての問題をはらむこともあります。そうすると その意味で《一角が消滅する》かのごとくはたらかない。こういうことも考えられますね。 立法府が法律をつくり 行政府がこれを執行する。 それらについて 司法府がほかの二つと一体であるかのようにあたかも自省します。(その法律などによって被害をこうむった側の人びとが自省をうながします)。 大きく記憶能力として一つひとつの事実認識としての情報を秩序をもって整理する。知解しつつ整理してまとめた結果というのは すでに判断をふくみ つまりは意志行為でもある。 つまりは 《記憶行為》にたとえられる司法府のしごとにも 《知解》と《意志》の行為もふくまれている。まさに おっしゃるように《フラクタル》の構造を成す。 これで いいでしょうかねぇ。 ということは ☆☆ 人間の三一性は つねに記憶と知解と意志とのあいだに――あるいはつまり 司法と立法と行政とのあいだに―― 時間的なズレがある。一度にコトが成るというわけには行かない。 ☆ しかもそれにもかかわらず 時間的なズレをともないながらも ★ 全体と部分、部分どうしも影響しあっています。 ☆ というようにして 三つの能力行為は互いに協力をも牽制をもしあって その整合性ある一体性を実現しようとしている。 こういったところでしょうか。 言ってみると かんたんなように思いますが こういうことは いちどはっきりと しっかりと押さえておくとよいのでしょうね。まさにそういうことを質問者は 知らず知らずのうちに 狙っていたと思います。 様子を見ると言うと変ですが もう少し開いていようと思います。