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ひとはカミの似像である
- ひとはカミの似像であり、世界霊魂との一体性を表す梵我一如の考えが存在する。
- 聖書の創世記に記されている「神はご自分にかたどって人を創造された」という文句が、ひとは三位一体なるカミの似像であるという考えを問いかける。
- 人間の社会も宇宙に含まれるという見方もあり、ひとは小宇宙であるとも言われている。この見方を分析・検証する。
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>ひとは 小宇宙(ミクロコスモス)である 塵のような小さなものの中に全宇宙がある、という華厳の雑華厳飾でしょうか。 一瞬の中に永遠があるとも・・・ですが ミクロコスモスとマクロコスモスの関係でしたら密教の思想に入ってゆくのでしょう。 人間という生命現象の働き(能動性)と宇宙の究極の実在の働き(能動性)の感応の世界を論じるという事になりますと 体験による主観的認識(事相的認識)に入ってしまうものと思われます。 それらを語った場合には、客観性がきわめて薄いものとしてしか認められず、無視されてしまう可能性が高いと思われます。 >ひとは 小宇宙(ミクロコスモス)である この言葉自体が既に、マクロコスモスを意識した言葉であり >この見方を分析・検証してみてください マクロコスモスなるものをどう捉えるかという事でもあると思われます。 宇宙と生命という一般論的認識を論じるのであれば、既に十分な哲学的論議が交わされていると思われます。 そちらの方向でしたら客観的証拠を交えての事でしょうから無難な議論が成立するとも思われます。 しかしながら、果たしてそのようにして成り立つべき客観的哲理のみが真実であるのか、という疑問は残るのではないでしょうか。 宇宙とは人の智慧の理をもって推し測れるものなのでしょうか。 知れば知るほど、推し測れるものではないようにも思われます。 推し測る事を捨てては知る事もできないかもしれませんが、推し測る事のみに頼る事も誤りかもしれません。 禅定や三密といった体験による直接的認識が、哲学的論議の対象から除外されてしまう可能性の高さから見れば 客観的証拠を交えての論議から生まれてくる内容が、より哲学的であると認められるのが自然なのでしょう。 ご質問者様がその範囲内での答えを求めておられるのならば、それなりの有効的なものが得られると思われます。 分析・検証の答えではなく、方法論のようになってしまいました、悪しからずご了承ください。 それでは。
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『フローリアの告白』って情愛の話だけなのかなぁ? その読みが微妙だと思う。情愛が、アウグスティヌスの考えるほど狭いものじゃないって話が、あの小説じゃん。作者の名前も「だったかという作者」としているし、バカにしてちゃんと読んでないでしょ? そして「フローリアみたいな人」(=庶民であり、バカ)からすると、やっぱり、アウグスティヌスは変な思想であるか、浅いと思われるということはあると思う。情愛は、試練なんでしょ。そして試練を与えてくる油断ならない存在が女というわけでしょ。 結局、こういう人の理想は、男性しかいない社会ということにならないだろうか。そういう人には、ホモセクシュアル的な友愛はわかるかもしれないけれど、異性の間の友愛だとか、母性愛はわかんないのじゃないだろうか――と間口を広く聞いたつもりなんだけれど。 まぁ、こういう話をさておいても、あなたの図式は、根本的なところで、変だと思う。つまり庶民(スサノヲ)の営みを描くにあたって、アウグスティヌスというエリートの図式を基盤に置くという失態を犯している。あなたの図式はエリート(アマテラス)からみた、自分勝手な理想の押し付けに過ぎないじゃないだろうか。そして愛情など人間の根本にあると認めずに去勢し、ロボット化したスサノヲに抵抗するなと言っているのと同じである。ロボット化が必要なのは、なぜなら管理しやすいからである。管理が容易になれば、現行の格差を是正するプランの提案などしないでもよい――って感じに見える。 設問のタイトルが「カミ」の似姿だって言うけれど、それはアウグスティヌスってことだよね。どんだけ、現実に空想を混ぜてんだろう。そして多くの人は、訪れて欲しくないと思っていると考えられる。だって管理されやすいロボットになりたくないもん。小説で出てくる悪の帝王みたい(っていうか私の設問欄で、自分で悪魔と契約するって書いてたか)。 ――もういい。わかりました。ともかく図式を作ってお疲れ様。 それと、傷つけちゃって、ごめんね。
お礼
1. 神のように如何なるものの下にも立つまいと心に決めた場合の アマアガリ・シンドロームもしくはアマテラス予備軍症候群。 2. 自分の主張はどこまでも発信するが 相手の意見はいっさい受信しない半分鎖国政策の独我論。 3. いまここに新手のへそ曲がりが現われた。《中二階症候群》。 アマテラス公民の立ち場でもなくスサノヲ市民として自己表現するでもない。どちらをもすり抜けてどこか安全な場所はないかと求めつつ・もしくはそう求める振りをしつつ それでも自己表現がしたい。 そのあり得ない中二階が避けどころであり 居心地がよいとさとったと言いたい様子。そのためには ほかの人の立ち場には立たない。その見解に説得されそうになると あらゆるすり替え手段を使って 自分の立ち位置だけは確保したい。 アナーキストにも似ているが その立ち場を突き詰めることはないらしい。 あるいは きわめておとなしいスサノヲ庶民という立ち場を標榜して ただし他人(ひと)に説得されることはないと一大決心をしたらしい。洗脳はされたくないという気持ちを前面に押し出したかたちらしい。 ただ ★ ~~~~ ――もういい。わかりました。ともかく図式を作ってお疲れ様。 それと、傷つけちゃって、ごめんね。 ~~~~~~ ☆ この上から目線の要素をも持ち合わせている。これが なぞと言えばなぞ。 こういう場合は――つまり説得されかけているが そうはならないしさせないぞという局面にある場合は―― なるほど中二階なのだから その上のアマテラスお二階さんの目線をまねするのかと考えられる。 これは厄介だぞ。なぜなら 石鹸をつけてうなぎをつかまえるみたいである。
自信があるっていうか、別にただ自分の意見を書いただけだよ。 まず『フローリアの告白』は一例であげただけだし、小説になって流布されるほどに、アウグスティヌスの愛情に関する問題点が注目されている、ってことを指摘したまで。知らないと思って、テキトーなことを言うな。庶民をなめるな、と言いたい。 次にあなたの説明は、正直言って、焦点がわからない。とりあえず、まず情欲と愛情が一致しているという前提から出発し、それを区分したんでしょ。でも情欲以外の愛情(友愛や母性愛など)を私は考えていたんですけど。 そして結局、情欲と区別がつきにくいものは、人間の活動から排除して考えようってことでしょ。つまりわけわからない不確定要素は排除しておくのが上策、ってことでしょ。やっぱ人間をロボット化してるじゃん(=過剰に人間を卑小に考えている)。 そしてジグソーパズルができたが、早合点してるのって、あなたじゃん。図式作ったんでしょ。自分に言うべきことを他人に言わないこと。 で、政治の方はどうなったの?
お礼
★ 『フローリアの告白』 ☆ は 愛情もしくは情愛ないし情欲を主題としています。いくら ★ 一例であげただけだし ☆ と言っても そういう問題として ゴイデルだったかはその物語を書いている。あからさまなはず。ところがその例を出しておいて ★ でも情欲以外の愛情(友愛や母性愛など)を私は考えていたんですけど。 ☆ とおっしゃる。 ざけんな!
私の後に来た人が、アナロジーの話は、もう既に論破しちゃったように思う。あとは見解の相違というにすぎないけど、あなたの話は説得力があんまりない。 けど、長い補足を貰ったから、敢えて真面目に聞いてみる。あなたの図式だと、具体的にどういう格差が是正される未来が描けてるんですか? 男女差別をはじめとするマイノリティ差別が撤廃されるの? 収入の格差が是正される? ――それとも、格差が広がるんですか? はたまた、理屈をこねくり回した、お遊びだったりする? 要するに、何かいいことを言っていないと、自分ではいかに正しいと思っていても、誰も支持してくれないと思う。逆にいえば、少々理屈が通ってなくても、いいことを言えば支持される。違う? それと三権分立と人間の内面の関係だけれど、結局、アウグスティヌスが言っているから、自分の言っていることは正しい(=アウグスティヌスを読んでないとか、尊敬しない奴は黙ってろ)というだけのことじゃないの。 これだと、申し訳ないけれど、あまりにも「バカは死ね」を主張するエリート的。(別にあなたと何の関係もない文脈でやってるけれど)私の設問欄の見本みたいになってる。 けどヨースタイン ゴルデルの『フローリアの告白』って読んだことある? アウグスティヌスは、愛情を重要視しなかった人だという批判的な論調もあるでしょ。そういうことに一切触れないで、話を逸らしたでしょ? 「愛」とか言わないで別の言葉を使ってもいいとか。煙に巻いてるとも言える。知識があるのに不都合な情報は隠すとかって、ズルいと思う。こうやって言わないだけで、「ホントに信用できるのかなぁ、この人?」ってバカは思ってます。
お礼
自分の考えるところが すべて妥当であるはずだという強い確信がおありのようです。 せっかくだから ひとつの事柄についてきちんとまともに答えておきましょう。 ★ 『フローリアの告白』 ☆ これは 想像力の産物です。よくも悪くも。 ただし その小説が示唆するようなこと・つまり ★ アウグスティヌスは、愛情を重要視しなかった人だという批判的な論調もあるでしょ。 ☆ といったことについては むしろそのとおりだと言っておきましょう。 想像力と推測でものを言っているのみであるから きちんと絡みあった対話にはならないけれど むしろ受け容れておきましょう。 その上で アウグスティヌスのほんとうの心根での思いは どうであるか? 大きな主題であると見るべきでしょう。 ひとつに 次の趣旨説明にわたしの見方を述べています。 【Q:なぜ情欲を劣情とするのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5922822.html そして それでは その上で――つまり局面がさらになお改まった段階においては―― その重要視しなかった愛情(ごくふつうの愛情のことです)について 《公共の秩序といった目的のもとにやむを得ずわが身に引き受けることは 試練であるにほかならない。けれどそれは 偉大なことである》という意味のことを明らかにしています。 【Q:「うつくしい」って何ですか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6472451.html ☆☆ (その回答No.5)~~~~~~~~~~~~ ◆ (アウグスティヌス:三位一体論) ~~~~~~~~~~~~~~ だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこ のようなもの(* 端的には 情欲のこと)を愛するすべての人 すべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有 される 内的なもの 高みにあるもの 内的なもの 高みにあるものを捉えようと 自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって ――魂はこのことを時間的に(*ものごとの相対的な判断によって)為すから―― 或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。 私たちが いわば(* 巡礼のごとく)帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは 偉大なことである。 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために 或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。 また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。 しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書』19:1) と聖書に記されているようになるのである。 (12・10 中澤宣夫訳 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あと 老婆心ながら添えることは 《人は誰からおそわるか?》という問いを考えるとよいでしょう。 自分から以外にありえないということに確信を持つほうが よいはずです。 説得されたくないというおそれが強すぎます。 ジグソーパズルがかなり出来上がったというときに早合点していないとも限らないからです。 なかなかむつかしいのではないかと まだなお思っています。
かみ の にすがた に立ち返ると。 「似ている(名詞に対する属性)」という言葉を使ってもよいというのは、前提として 「比ゆ(アナロジー)」を使ってもよいという 文法上の「前提」に基づいています。 しかし、比ゆは哲学ではない。 「AはBに似ている」ということに関し、根拠が示されず、指標も検査方法も示されていない。 比ゆを導入するということの前提は、「計測不能を想定している」ということを暗に示しており、無知の領域を罠として準備している。 ええっと 放射線は まだ計測していないから出ていない というとんでもない主張です。 プルトニウムが 検出されるかということに関しては、普通の人には測定できない。 プルトニウムのほうが 香りを放ち 人間の心の扉をたたいてくる。という非人道的理論です。 神の物理的表象を「プルトニウム」 神の香りを、「放射線」として読み替えると 貴方の理論が 最初から最後まででっち上げ打ということが明白になります。 問題は 文法上の前提は 哲学の前提として利用価値の乏しいものであるという事実です。 比ゆは 詳細な検討を不可能にする混乱の元であるといってもよいのです。 次に「姿」は 今風に言うと「ビジュアライジング」の原型的発想です。 しかし 姿は「表象」としてしか存在しません。 表象・色心を重ね合わせてひとつの像をむすんだとしても、それに因って「存在」を語ることは出来ません。 ドリルと馬を重ね合わせてユニコーンを創りあげたとしても、ユニコーンは被造物ではないという事実があります。 しかし心理効果は抜群。人間の潜在意識に「その存在」を深層心理に刷り込みます。ユニコーンは存在すると信じ込んでしまう人が出てくる。それが話者の洗脳意図です。 結びとして 「神の」 とすることで 「神が大元である」という前提を 文頭で断りもなく行っています。 神の説明もせず、神を仮定する。 神を説明できないとは言わせません。 で貴方の側からの反論としては、 オレ様は 「かみ の に すがた」 と ひらがなでは 書いてないじょ! 質問に忠実に答えろ! とか いうのかなwww あなたが いまやるべきことは 運動時代から おともだちの ◎死党員 たちに 電話をして 「もっとちゃんとしろ」 と文句を言うことです。 貴方がいつもここでいる 宣伝暴言を 実生活で実行に移しなさい。 友愛wwwの哲学はそれからです。 農民に嫌われているだけならいざ知らず年金をもらうのなら国に迷惑をかけないようにしなさい。 脱税供与と 脱税のピンはねで 生活をしてきたのですから それぐらいのことはするべきです。
お礼
誹謗中傷の徒であることをいまだに続けている。すみやかに内に省りみて ただちに足を洗いなさい。 ★ 比喩・たとえ ☆ にみっつの種類があると知るべきである。 1. 《豚は体を洗ってきれいになったと思ったら すぐさま泥の中を転げまわる》という命題は あなたの人格に似ているというたぐいの比喩。これは A と B とが いづれも経験世界における五感で知覚できるモノゴトである場合です。 2. ★《ドリルと馬を重ね合わせてユニコーンを創りあげたとしても、ユニコーンは被造物ではないという事実があります。》――この場合は いづれか一方が もはや知覚することはできない想像上のモノゴトである。想像は ただし 経験事象に属する。 3. 三位一体の神――父なる神と子なる神と聖霊なる神――を 光の光源と発耀と明・暖にそれぞれたとえる場合。これは 比喩は比喩でも まったく架空の話として表現しているに過ぎない。一方が 想像上のモノゴトですらなく 非経験の領域にある(もしくは 非経験の領域そのものである)と想定した上で 仮りに説明している。 それは 非経験のナゾと《わたし》との間に 非思考の庭が成るというかたちをも想定しており その庭においてわたしは 観想を得ることがある。その観想(テオーリア)から 経験事象に即した言葉の表現に言いかえて得られるその理論(テオリ=セオリ)のこと こういうたぐいの比喩である。 この前提においていまの比喩は しかしながら 哲学としての議論と成り得ている。 なぜなら 非思考の庭は ほかのアッラーフなりブラフマンなりといった別の名前の神を持って来ても何ら不都合はないのであるし あるいは 無い神つまり無神論の場合の《わが心の非思考の庭》としても何ら問題はない。こういう事情があるからである。 ☆ 三位一体なる神の似像で 人は あるという喩えは 人間の自然本性における《身体‐精神》なる存在や その行為能力としての《記憶‐知解‐意志》のあり方を問うときに威力を発揮するはずである。 特に社会形態が これら三一性のあり方に沿って 三権分立(=協業)というかたちを採っているという現実にその痕跡を求めることができるというもの。 あとは さらに精緻なかたちにして またやって来なさい。 誹謗中傷を除けば いくらかの進歩がみとめられるでしょう。くれぐれも人を謗るようなことはつつしむように。
いつもどおり網羅的ではない、断片的理論ですね。 貴方の理論の欠陥は、オレは体系的である!全てはわかる!という 「勘違いの思い込み」です。あなたは、その思い込み上に、穴だらけの断片散文を書き連ねているだけです。 体系的ということでは、2300年以上も前にできあがったアリストテレスの国家論に さえ 劣 る 幼稚なものです。 最悪の事象としてまず人間についての説明に説得力がない。 貴方の理論では、人間がはっきり描かれていない。 貴方にとっての人間は聖書や伝説に 比ゆ的に 描かれている像 すなわち 言葉で創りあげられた だけ の妄想キャラです。 携帯小説の主人公が一生を通じてのテーマということに恥ずかしさを覚えるべきです。 おいらの人生の集大成=ブログに書かれた散文=三文小説 (で ブレヒトは日本語でしか読めない という落ちもついているwww) 現実に沿った人間像を捉えるよう心がけなさい。 具体的な問題点としては、 人間の定義がころころ変わるということ。矛盾している。生きている人間が作者の意図で「コロ死に」する。 「お前は死んだ。」「生き返ってみろ。」と 自己陶酔に陥る。 貴方の意見で人間がコロコロ死ぬというくだらない独りよがりです。 かみ の にすがた というのも・・・ 根拠は聖書の一節だけ。これも何重にも誤訳改ざんされている一文です。 自分に都合がわるいと新解釈というとんでもないことをする。 またに権威主義ということではこの上もない。 まず聖書の一節を見つけて自分の理論に酔いしれる。 節の番号を控えておいてネットで英語検索する。更にギリシャ語・ヘブライ語の同節をメモ帳にコピペする。 で さも原典をひいたかの印象を与えるように工作する。 虚飾です。 フランス語会話もろくに出来ず、ムキニなってフランス語で話そうとするが、フランス人には相手にされず、英語で返されバカにされたと思い込むあわれなひと。 自分は言葉でひとと接することが苦手であるのに、語学が得意であるという思い込みを捨てられない。 論としては、さらに大問題として、仮定の押し付けがあります。 まず論理的には、「神は存在する」という、仮定を 他人に押し売りする欺瞞があります。 災害に関する会議を開いておきながら、「原発」については話さないことと但し書きする傲慢さです。 哲学の議論をするのに、大前提として「無神論は、神論の一種であるとして論述せよ」とか、「哲学は無知の領域である」とか 一方的に押し付けてくる。 全ての論が神は存在するという仮定を 大前提にしている。 貴方の頭の中に存在している神の像は存在していません。 「姿」という言葉があるのみであり、あるとすれば「その姿」は「私」の中にしかない。 ここでしかし「姿は無知である」と主張してくる。 でさかのぼって、神の姿を思い浮かべようとするのだから、しかし、 神という言葉は存在する。 というぐあいに 格助詞「の」の機能を利用してその起源をあたかも存在するかのようにこじつける。 神がオリジナルであって、 神のに姿については、神が元祖であるという 言葉のトリックです。 神の子 神が親 人が子 くだらーん。 簡単にわかることは 「人は神の子ではない」ということです。 コレが現実です。
お礼
せっかくだから みっつ 指摘しておきましょう。 ★ 全ての論が神は存在するという仮定を 大前提にしている。 ☆ この一文で すべてが泡と化すと知らなければならない。もう少しよく読むように。 ★ まさに権威主義ということではこの上もない。 まず聖書の一節を見つけて自分の理論に酔いしれる。 ☆ 三位一体( Trinity )の理論と それの人間における相似形としての《記憶‐知解‐意志》の三一性( trinity )の探究 これについては アウグスティヌスからの請け売りです(『三位一体論』)。そのほかの《光のたとえ》あるいは《個体から社会科学主体に到るまでの社会事象へのたとえ》 これらは わたくしの考えによるものです。 だから 問うています。 わかったようなことを言ってはいけません。 ★ 貴方の理論の欠陥は、オレは体系的である!全てはわかる!という / 「勘違いの思い込み」です。・・・ ☆ うんぬんと言う。ここらあたりまでは よかったよ。その中身がない。印象批評というしろもの。さらに伸びるか? 期待したい。 おまけ。 ★ フランス語会話もろくに出来ず ☆ これは 現在において 当たっている。もうすぐ出来るようになるかも知れない。 もうひとつおまけ。 ★ 簡単にわかることは 「人は神の子ではない」ということです。 コレが現実です。 ☆ だから 物語である――あるいは 想定である――と言っている。あとは 良心・信教の自由にもとづき だれもが非思考の庭の成るのを与えられ得ると知るべきである。そのあと 信仰内容についての仮りの説明があると。 あぁ やさしすぎたかも。過ぎると つけあがるからなぁ。
逆?類推が甘すぎるって印象がするなぁ。だって、普通の人は誰も光の一致とか考えてないもん。まぁ、いいか。他人が趣味でやってることだから。 それにしても「ついで」で人を不愉快にして平気なんだからねぇ……変なの。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 けれども 絡みではないと受け取りましたし 批判点があるというところまでは言えない こういうご所見だと見ました。 それでは。
補足
☆ 新しい社会へ向けて ☆ §1 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関 人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。 《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。 《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。 強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会的な生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき 知解されたものごとを 人はこの身体の運動とともに 意志する。 《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。 わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域を兼ね 公民としての役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として公民の役割を担う者も 制度として存在します。いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。 これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで差し支えない限り 一般の市民を 単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。 次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特には S者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味では S者は 主観であり 人間語です。 §2 主観としての《S‐A連関》から出発する 主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴っていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。 すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。 このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 主体的な生きたA語客観は 主観として殊に 《共同主観(common sense=常識)》と考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。 主観が 社会的に共同化されて 共同主観となるばあいには このように S者がA者(A語・A概念)をとおして 生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が 協働性を含むことは 言うまでもありません。 §3 共同主観と共同観念 さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけが取り出されるときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように 単なる観念ないし観念的な現実というまでのものになりえます。 たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえられうる・そして感性で理解されうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語られたり論じられたりするからです。つまり 抽象的でもあります。 したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。 これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして 論じられ規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり 共同観念をつくりあげることが 可能です。 * → No.8補足欄につづきます。
うーん。まず人をエコー扱いしているのが気に食わない。友情っていうけれど、あなたがあたしに飽きたら終わりだと思う。 それから、三権分立に人間を「無理に」当てはめなくてもいいじゃんって思う。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 三権分立に人間を「無理に」当てはめなくてもいいじゃんって思う。 ☆ 順序がぎゃくです。 光のたとえ――光源と発耀と明・暖の三つにしてひとつであるというところ――がひとつ。もうひとつに それとの類推として ひとの自然本性における《身体=精神》の行為能力は 記憶と知解と意志との三つであること。この基本的な仕組みに応じて 社会形態においても 役割分担が成されて来たと見ること。この順序(= order つまり秩序)です。 あとは 忘れてください。ついでに触れたまでです。
補足
* No.9補足欄からのつづきです。 〔・・・それは 共同の観念 観念の共同性 つまり 共同観念をつくりあげることが 可能です〕。 この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。 共同主観はより一層 S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。 しかも 必ずしも感性的でないことによって 観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。 もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。 つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろスサノヲ者の感性とは一旦 基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から 一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさっているというようなしろものです。 また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま 見出されるそれであるということになるでしょうか。 §4 記憶・知解・意志(愛) 身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。 同じく《知解行為》は 記憶に基づいてのように ものごとを知解する すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。 何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。 精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛ないし他者の愛(愛とは 自治・共同自治)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。 記憶し知解し意志する《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。 また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種 不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。 従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤のなかで 人は生きることになります。 新しい共同主観は 一般にS者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。 そこで この区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。 いま《スサノヲ-アマテラス連関主体》たる人間について考えてきて 社会としては S者共同体である市民社会が 基礎であり あたかも身体(S)の上に精神(A)が 乗っているように S圏の上にもA圏が乗って 全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。 次にこれらの分析用語を整理しておきます。 §5 概念・用語の整理(1) ・《スサノヲ--------アマテラス》 連関主体 ・Susanowo・・・・・・・・・・・・・・Amaterasu * →No.7補足欄につづき
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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貴方に似像という言葉と字を教わりました。その折はありがとう御座いました 相変わらず何ともはや難しいね。哲学とはやさしいことを難しくするものですね。 神だかカミだか。astralの存在は神の変形態でありましょうから。 そういう意味で神は神でしょうし、存在は神でしょう。神以外の存在はなく、何か創るならやはり神でしょう。 その変化進展プロセスが創造であり、神の観念の中の対象客体でしょう。 そしてフランスのある文豪がいったように、ある日神がブランジェ氏が帰ってきてであった時l、【何、君がブランジェヌか】とびっくりするんでしょう。 靴をすり減らして世界を歩き回って、ブランジェヌ氏のもっとも親しい神でさえ、ブランジェヌ氏をブランジェヌ氏とは認められない、というのが創造界ではないでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 いえいえ むつかしくしているのではないと思いますよ。 もともと《かみ》がむつかしいのです。しかも アストラルだか何だか難しくしているのは くりやさんのほうですとお応えせざるを得ないのですが どうでしょう? なぜなら 中身はむつかしいのですが 事の発端はかんたんです。 ○ なぜわれわれは そのふつうに用いる言語において《かみ》あるいは《信じる》という言葉があるのか? ☆ つまり カミとは何か? です。 それに 図式は 入り組んでいますが よく見るとそして全体としてながめると 案外 単純なことを言っているというふうになると思っているのですが どうでしょう? ★ そしてフランスのある文豪がいったように、うんぬん ☆ につきましては 趣旨説明にある図式と突き合わせてもらって もういちど説き起こしていただくとありがたい。こう思います。 おっしゃっているお話は 分かるようで分からない。 あと お示ししている図式は あくまで仮りに説明するとしたら こういうかたちになるであろうという図解であり むしろイメージであるとことわったほうがよいでしょうか。でもいかほどかの世界認識をもたらすものとも思っています。つまり 哲学の議論に耐え得るたたき台であると信じます。いかがでしょう? * No.5でのやり取りにおいて いくらか分かりやすい説明を添えることが出来たかとも思います。ということで 簡単に切り上げるかたちにてです。
>まづその片寄りの無さにおどろきました。と言うと さらに上から目線という悪い性分も出てしまいましたが この何でもないことが おどろきになるというのが いまの日本社会の情況であるかとも見られます。 丁寧にどうも。でも簡単にいえば、こいつは阿保だろうけれど、いい刺激剤になったっていうことでしょ(笑)。日本社会の情況は、まこと、オジサンくさい。雇用形態からして若者を抑え込んでおきながら、ちょっとした突き上げを食うと、ほうって驚いて見せる。なんか欺瞞だなって思いますよ。 ミクロコスモスはミクロコスモスで一語。自分の内面を、過剰に小宇宙化(複雑化)してるんじゃないか、ってこと。シンプルに言えることをシンプルに見極めていない印象がするって批判の意味。がっかりした? でも、言われてみると、1のように言えるかもしれない。私は愛を行政に割り当てたのは反対だなぁ。だって、愛って人の心だよ。そんな単純なもんなのかな。頂いた説明は我田引水か、愛の過小評価だと思う。加えて、身体の運動が「記憶、知解、意志」の三つしかなくて、愛が含まれないのも、納得できない。想定されてる身体の運動って、ロボットみたい――と書くと、私がロマンチストかな。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 日本社会の情況〔は、まこと、オジサンくさい。雇用形態からして若者を抑え込んでおきながら、ちょっとした突き上げを食うと、ほうって驚いて見せる。なんか欺瞞だなって思いますよ〕。 ☆ この主題は わたしが振ったものですが いまここではわたしは控えます。せみゆきさんとも対話の歴史がまだないので 広げないこととします。(ひとことで述べるには 大きすぎます)。 ☆☆ まづその片寄りの無さにおどろきました。 ☆ これは 感覚の問題ですとおことわりしておくべきでしたかね。文章の内容についてよりも 全体として受ける感じのことです。No.3のへきゆさんのご投稿は まったくどこから見てもまともでふつうの回答ですが その感じはほとんどお呼びでないという《香り》がします。そういうきわめて主観的な印象を 堂々とわるびれずわたしは表現しております。 これによって意外と互いの信頼感は芽生えるものだと考えるからです。《友情》のもんだいです。――これも ここまでとします。(押し売りではありませんから。つまり押し売りでないことを証明しようと思えば これまた多くの言葉を必要とします)。 主題は ふたつですね。 ★ 自分の内面を、過剰に小宇宙化(複雑化)してるんじゃないか、ってこと。 ★ 愛の過小評価だと思う。 かんたんにお応えします。 愛は 意志を言います。もしくは意志が愛です。 人がもうひとりの人と相い向かい合うとき 言わばその間にヱ゛クトルが成るのではないでしょうか? つまり関係性のことですが 力と向き――正負の(愛情と憎悪などの)向き――が出来ます。そしてそこでは それぞれの意志行為が繰り広げられます。 ★ だって、愛って人の心だよ。 ☆ 心の――意志による――判断および取捨選択であり その内容による振る舞いをも言うでしょう。(感情や心のうわべの心理の動き これらは取り立てて振れません。気持ちをどのようにおのれの判断に活かすかが問題です)。あるいは言いかえとしては 自己経営もしくは心の自治になりましょう。 ★ 身体の運動が「記憶、知解、意志」の三つしかなくて ☆ 知解は 世界とのモノやコトのやり取りについてなのですから その行為は 生活であり生活の基礎であり 一般に経済活動を言うことにつながるでしょう。大きく社会としては その経済ないし生活全般についての人びと総意による取り決め つまり立法作業に直結しています。 その立法行為は むろん憲法ないし自然法などの基本的な条理や規範――もしくは要するに 自由かつ平等という公理――にもとづき条文化されます。 その法源は 人なる存在としては じつは記憶という行為能力だと見ます。おぼえるという行為であるより注目すべきは その知解した中身を秩序立てて整理するその能力行為にあると見ます。自己組織化と言っていいかどうかは 見る人の判断にまかせますが 要するに記憶行為とは 秩序作用でありその行為能力である。 つまりは この個人における記憶行為が 社会という次元においては その社会秩序の問題であり 取り決め(法律)をつかさどる行為にやはり直結します。 簡単ですが こうして ○ 記憶‐知解‐意志 ∽ 司法‐立法‐行政 ☆ というふうに捉えられるはずです。しかもこれらの全部が 《わたし》という一人の人のその小宇宙の中に縮図としてのごとく入っているであろう。こう見ています。 果てさて いかがでしょう?
補足
* No.8補足欄からのつづきです。 次に これらの分析用語を整理しておきます。 §5 概念・用語の整理(1) ・《スサノヲ--------アマテラス》 連関主体 ・Susanowo・・・・・・・・・・・・・・Amaterasu ・S者・S語(人間語)・・・・・・・・A者・A語・A語概念 ・身体・感性・・・・・・・・・・・・・精神(記憶-知解-意志) ・《わたくし》・・・・・・・・・・・・・・《おほやけ》 ・市民(homme/bourgeois)・・・・・公民(citoyen) ・社会主体・・・・・・・・・・・・・・・・社会科学主体 ・政治経済主体・・・・・・・・・・・・政治経済学主体 * 象徴としての国王・元首はアマテラシテAmaterasite; Amaterasity; Amaterasitaet §6 概念整理(2) ・《 スサノヲ--------アマテラス 》連関形態 ・スサノヲシャフト------アマテラストゥーム ・Susanowoschaft--------Amaterasutum ・S圏------------A圏 ・市民社会---------〔狭義の〕社会形態 ・《まつり》---------《まつりごと》 ・ヤシロ Yasiro-------スーパーヤシロ Superyasiro ・自治態勢および生産態勢---行政府・立法府・司法府 ・ムラ mura----------国家:イエ・ナシオナルihe national ・エクレシアecclesia(eglise)---- 社会形態;キュリアコンkuriakon(church) §7 スサノヲイスム(インタスサノヲイスム)およびインタムライスムへ向けて ・スサノヲイスム:自治(個体の自己経営・愛)を基礎とする社会 ・インタスサノヲイスム:愛 ;S圏主導(民主主義)による《S圏-A圏》連関の社会 ・インタムライスム:国境を超えたスサノヲイスト市民社会連合 ・・・
うーん、カミって、そんなテキトウなもんだったのかなぁ。聖書でも仏教でも何でもいいから、持論にもって行こうとしてんじゃん。 図についての感想?意志が愛で、愛が行政になるって、何か個人的な願望、混じってる、っていう感じする。ロマンチストすぎない?、ってのが感想かな。 全体的に、自分をミクロコスモス化し過ぎなんじゃない?
お礼
せみゆきさん ご回答をありがとうございます。 こう言ってはなんですが ふつうにご批評の言葉を対話として述べていただいている。こう思います。 つまり表現には 微妙に枝葉がクリスマスツリーの飾りのように そしてむしろ負の色合いを帯びて 添えられていたりすることがよくあります。 わたしの見るところ いまこのカテで 人びとに共通の概念を用いてしかも自己の意志や見解を述べ伝えることをしているのは ひさんくらいだと思います。ほかにも学識見識のある方や学問としての問い求めのあり方に忠実な方がいらっしゃいますが 最後まで・つまりここまで共同主観を失わずに自分の考えを探究するのかという人は残念ながらそれほどいません。この質問のNo.1&2さんは はじめわたしの考えに対していくらかの偏見を持っていたのですが いまではともに真理の探究にあゆんでいるとわたしは思っています。 という言い方は けっきょくわたしの偏見だと見られても仕方のない勝手な言い分になりかねませんが まづその片寄りの無さにおどろきました。と言うと さらに上から目線という悪い性分も出てしまいましたが この何でもないことが おどろきになるというのが いまの日本社会の情況であるかとも見られます。(哲学カテでなければ それほどくどくどは言いません)。 さて ★ 全体的に、自分をミクロコスモス化し過ぎなんじゃない? ☆ これは分かるようで 意外と意味が取りにくいのではないでしょうか? 1. ひとりの人間という存在をふつうの存在論で扱うその扱い方よりも小さく見積もってしまっているのではないか?――こういった評言でしょうか? 2. それとも ミクロがついていてもコスモスと言うからには つまりは宇宙だというわけだけれども その割りにその宇宙を 一定の地域における国家といった社会単位体に狭めて捉えてしまっているのではないか?――こうでしょうか? ☆ そうですね。もし(2)に対してなら こうお答えします。 つまり 神は自然やこの経験世界のすべてを超えているわけですが それを持ち出さないとすれば スサノヲの《身体》 これが 自然を意味するかたちです。スサノヲは アマテラスの普遍概念にもとづくアマテラス科学語およびアマテラス人格語に対しては あやまちうるけれどもそのアマテラス普遍語を宿す基礎としてのその幅いっぱいにひろがった人間語ですから 自然であり大自然であるとも見ます。 この図式には そういった自然の要素や領域がほとんど示せなかったようですけれど。 あと《国家》は その類型でおおよそのこれまでの歴史上の社会単位体のあり方を示すことが出来ると思われます。国家以前の社会についても そのムラムラの共同体のあり方は 揚棄されて保たれているでしょうから それでよいと考えます。決して狭く解釈しているわけではないと。 (1)の場合には どうか? これはその疑いが じつは分かりません。そう推し測って《ミクロコスモス化し過ぎ》の中身を書き出してみましたが どうしてそうなのかはよく分かりません。ぜひ この問いでしたら おしえてください。 ★ 意志が愛で、愛が行政になるって、何か個人的な願望、混じってる、っていう感じする。ロマンチストすぎない?、ってのが感想かな。 ☆ これは すでにほかのところで触れてお応えしていると思います。 ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~ 趣旨説明の中の《愛》は 《意志・共同自治・経営・政治》と互いに《意志〔による判断と取捨選択の〕行為》を基軸として 同じ類型概念と見ます。個人の愛と言えば スサノヲ市民としての自治もしくは自己経営といったふうにです。中立概念です。 言いかえると 好きと嫌い愛情と憎悪などなど――《陰陽》と同じように――正負の概念を大きく含む内容としての《愛》です。方向性を帯びた人間関係 あるいは その互いの意志行為の関係です。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり《愛》は ここで《関係性》といった程度に取ってくださるとありがたいです。 ぎゃくに言いかえると この関係性に色をつければ 《行政や政治》もとうぜんのごとくいわゆる《愛》としての人間行為になるかとも考えます。共同自治のあり方如何にかかっているのではないでしょうか? 互いに持ち前の力を十二分に発揮し得るように制度や環境をととのえること こういった政治のことです。《自己経営》という用語がいちばん無難でしょうか。 ★ うーん、カミって、そんなテキトウなもんだったのかなぁ。聖書でも仏教でも何でもいいから、持論にもって行こうとしてんじゃん。 ☆ これは そのままおっしゃるとおりです。《持論にもって行こうとし》なくて どうするのですか? その一般性如何であると。
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お礼
へたのすけさん ご回答をありがとうございます。 おっしゃったことは そのまま当てはまると思います。さてどうするかですが まづはその経過を復唱します。 趣旨説明でもおことわりしたように 《自然》について触れるところがほとんどない。そしてそのまま見切り発車しているということ。ここに《方法論》の狭さがあります。 ぎゃくに言えば 社会現象にしぼって論じ合い深めて行きたいという趣旨であったわけですが ★ 宇宙と生命という一般論的認識を論じるのであれば、既に十分な哲学的論議が交わされていると思われます。 ☆ という主題(分野?)について わたくしの認識があいまいであるという意味になります。 ★ そちらの方向でしたら客観的証拠を交えての事でしょうから無難な議論が成立するとも思われます。 ☆ ということについて あやふやであるという意味です。言いかえると そういう分野でもやはり ★ それらを語った場合には、客観性がきわめて薄いものとしてしか認められず、無視されてしまう可能性が高いと思われます。 ☆ に行き着くのかと思っていました。次のように主観的認識に行き着くのかと思っていたのでした。 ★ ~~~~~~~~ 人間という生命現象の働き(能動性)と宇宙の究極の実在の働き(能動性)の感応の世界を論じるという事になりますと 体験による主観的認識(事相的認識)に入ってしまうものと思われます。 ~~~~~~~~~ ☆ そこでですが もし ★ 客観的証拠を交えての事でしょうから無難な議論が成立するとも思われます。 ☆ ということでしたら いちどしっかりと この質問に議論を寄せていただけるとありがたいと思いますね。基本的なことがらを いちど挙げておいていただければ・・・。ということは もしほかの質疑応答ですでに投稿済みということでしたら その箇所をここにも加えておいてくださいな。お願いします。 ところが・ところが しかしながら・しかしながら ★ しかしながら、果たしてそのようにして成り立つべき客観的哲理のみが真実であるのか、という疑問は残るのではないでしょうか。 ☆ と話はつづきます。 ★ 宇宙とは人の智慧の理をもって推し測れるものなのでしょうか。 ☆ 物理学などの知識は ひととおりの情報ではあるのでしょうが。 そうして ★ ~~~~~~~~~ 禅定や三密といった体験による直接的認識が、哲学的論議の対象から除外されてしまう可能性の高さから見れば 客観的証拠を交えての論議から生まれてくる内容が、より哲学的であると認められるのが自然なのでしょう。 ~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの憶測でものを言いますと こういうふうに考えられませんか? つまり客観的哲理としての事実認識について さらになお体験をも交えた直観的認識を添えて(あるいは 絡ませて) ご自身の主観真実を述べていただくということ。事実の知解とそれについての考えとしての主観真実を合わせて 大きく現実であるともわたしは考えます。 ふうーむ。どうでしょう? こう考えて来ましたが 要は ご自分の考えるところを自由に展開していただく。これに落ち着きましょうか。どうでしょう? あっけなくですが。
補足
No.8補足欄からのつづきは No.5補足欄につづく でした。 おわびします。 また へたのすけさんにも この場をお借りしたことをおわびします。