• ベストアンサー

デカルトの《明証性》って何ですか?

 デカルトの思想を批判します。当否を問います。  ▽ (ヰキぺ:ルネ・デカルト) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88  §3 思想  §3.1.2 方法  ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。    1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)  2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (4)については 《すべてを見直した》あと なお《何も見落とさなかったか》を確認するのが ふつうである。《気をつけて事例の枚挙やその吟味をしましょう》というのと変わりない。つまり 何ら特別なことではない。  (3) 《単純なもの》か《複雑なもの》かを判定するには その判定の能力について判定しその結果を自覚しなければいけない。つまり 判定能力次第である。つまり 何か意味のあることを言ったとは思えない。  (2) 《考える問題》を《小さい部分に分ける》と言うけれど 《小さい》というのは 量の問題だけではないはずだ。ということは その大きい小さいの判断そのことが 《考える問題》になっている。何をか言わんや。  (1) 《明証的に真であると認めた》と言っても すべては主観である。明証性も 本人の主観次第である。何をか言わんや。  もういっちょう行きましょう。  ▽ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  §3.2 形而上学  §3.2.3 神の存在証明  欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。  第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。    第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▽ 第一証明 -  意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)  ☆ というのは その《観念が われわれ人間の想像力の翼が飛び行くところまでは伸びて行く》と言っているに過ぎない。  《表現的実在性》とは どこまで行っても 《観念》のことである。  その神なる観念は  ▽ 対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。  ☆ だろうか? 阿呆なことを。  《神》が どうしてこの経験世界における現実的実在性と対応すると言えるのか?  それはせいぜい《観念》が 対応するだけである。《神》が《上》や《髪》や《守》や《紙》と――観念のあそびの上では――対応するに過ぎない。  われわれ人間の知について  ▽ この「有限」であるということを知るためには  ☆ て言ったって すでに《有限》だと言ってるぢゃん。朽ちざるべからざる存在であるなら その知も有限である。  考える葦であろうがなかろうが 死ぬべき身と心なら それゆえにこそ《永生なる無限》を想定してみるということである。《無限》を知ってから わが身の限りあるを知ったというのは 生活歴史的な順序ではないだろう。  ▽ 第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。  ☆ その神が 無でもありうる。と言わねば議論にならない。  ▽ 第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)  ☆ 観念の中にまた観念を放り込んだだけ。観念があれば 《存在》を言えるのか? そういうことは休み休み言って欲しい。  ▽ 悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。  ☆ おままごとにあっては そう言えるのだろうか? 観念のお花畑には そういう花が咲いたと見えたのだろうか? バカらしくて話にならない。のではないだろうか?  (もし観念が現実的実在性と対応する(第一証明)なら 《悪い霊》なる観念も ただの仮定ではなく 現実であると言わねばならない)。  (もし《神》をまじめに想定したならば その神のもとには 人間の善悪が繰り広げられている。それを神は 何もしないかたちで見守っているとでも言うしかない)。  なんでこんなおとぎ話に われわれは振り回されているのか?

みんなが選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

あなたの質問に誰か回答する人がいるのではないか、だったら私から回答するまでもないと思って、今まで放置してきました。 それに、あなたは十分に知っていて、このOKウエイブの回答者のレベルをテストしてやろうという底意地の悪いところがあって、回答者を「サラシ」にしてやろう、叩きのめしてやろうという下心がミエミエなので、私も最近あなたのそういう性向が分かってきて「敬して遠ざける」つもりでした。 でも、ほとんど回答者がいないようなので、私から少ない知識しかありませんが、回答することにします。 飛んで火にいる虫かもしれないけど、それは覚悟して。 デカルトは人間の知識を経験的な知識と数学的な知識に分け、数学的な知識は明証的だといいました。 経験的な知識は感覚器官を経由するものだから、感覚器官は錯覚というものがあり確実な知識をもたらさないけど、数学的な知識は感覚器官を経由せず、しかも数学の規則の体系から必然的に導き出され、錯覚とかその種の誤謬というものはあり得ない。 しかも、1+1が2なのは、誰にとっても2なので客観性がある。 あなたは<明証的に真であると認めた>と言っても、すべては主観である、明証性も本人の主観次第である。何をかいわんや。 ・・・と言っていますが、1+1が2なのは主観次第ではなく、誰にとっても2なのだから、客観性があります。 問題は経験的な知識の方です。 もし、数学的な知識だけが明証的で、経験的な知識が明証的でないとしたら、デカルトの哲学は何の意味もないことになります。 デカルトは「方法叙説」で、「われ思う、ゆえにわれあり」と言って、私の思考・私の意志・私の感情そして私の感覚はそれを疑うことはできない、絶対的な確実性があるといいました。 外的世界の存在は疑うことができます。 もしかしたら、悪魔が、そして神が、それを存在するものとして私にそう思わせているのかもしれないから、存在しないかもしれない。 だけど、私が思っているということは直接的に知ることができるし、外界の存在のようにそれを感覚器官を経由して知る必要がない。 私が思っているのに、思っていないということはあり得ない。 時間が経過して、後からなら、思っていたと思っていたとしても、実際は思っていなかったのでは無いかと疑うことができるが、思っているときに同時に思っていないとは言えない。 つまり直説法・現在では思っていることと思っていないことが両立することはできない。 たとえば「私は外は雨が降っていると思う」という命題があるとして、たとえ外で雨が降っていなくても、私がそう思っていることは疑えないから、正しい命題です。 思考・意志・感情・感覚を総称して「内的体験」と言えば、内的体験には明証性がある。 明証性とは真だけあって、偽がないということ。 恒真命題のこと。 デカルトは哲学をユークリッド原論のように公理・公準から始めて定理へと必然的に推論して、数学の体系が作られたことをモデルに哲学も数学的に必然的に推論して、体系的に作ることができないか、という「普遍数学」を構想していたので、「われ思う」という私の内的体験の明証性を出発点にして、そこから自然や世界を数学的に構築しようと目論んだのです。 すでに申しあげたようにデカルトは哲学者である前に、何よりも数学者であり、自然学者(今でいう物理学者)であり、17世紀の「科学革命」の立役者の一人です。 17世紀の「科学革命」はベーコンの実験科学の提唱によるという人もいますが、何よりも数学によるものでした。 ガリレオが「偽金鑑識官」でいうように「神の作った自然という書物は数学の言語で書かれている」と言ったように、ガリレオも数学者だったし、デカルトも数学者でした。 「慣性の法則」の発見者がデカルトだったし、解析幾何学の創始者がデカルトだったし、宇宙空間を均一で量的に一様な空間と言って、アリストテレスの四層からなる地上の空間と、恒星天球からなる天の空間という別々の空間を一つの空間にしてニュートンの古典力学を準備したのもデカルトだったし、ガリレオやケプラーの運動は円運動が基本だというのを否定して、運動は直線運動が基本で、円は直線に解析できると言ったのもデカルトだった。 デカルト哲学の最終目標は自然の解明にあった、それを数学を用いて解明すること、それが目標だった。 デカルトは「省察」の中で、「方法叙説」の「われ思う、ゆえにわれあり」に代わって、「われ思う、われあり」とか「思うわれはあり」とか言った。 つまり、思うということから推論して、私が存在すると言ったのではなく、私の思考と存在が一致すると言ったのだ。 「思考と存在の一致」というのは古代のアリストテレスから、真理と言えば「思考と存在の一致」と言われてきた。 アリストテレスは「思考と存在が一致」するためには観察と経験が必要だと考えたけど、デカルトは経験を必要とすることなく、先天的に、ア・プリオリに一致すると言った。 なぜ、そう言ったかといえば、神が存在し、その神が人間に「生得観念」としての理性を付与したのだから、人間の理性的認識は文句なく、無条件に「思考と存在は一致する」と言ったのだ。 思考と存在の一致を神が保証しているのだから。 デカルトは神がいて、その神が世界を「永遠真理」として作ったことを信じていたし、だから人間の理性的認識は明証的であり、明晰かつ判明でなければならないと考えた。 そのためにデカルトは「省察」の第3章で、神の結果からする証明、いわゆる神の自然神学的証明(一名、神の目的論的証明)を行ない、第5省察で、神の存在論的証明を行なうことになります。 そして神の存在が証明されたならば、その神が人間を欺くことはあってはならず、外的世界の存在も明証的、明晰かつ判明だということになります。 そして神は世界を自然を数学的に作ったのですから、デカルトがみずから創始した解析幾何学で解明できることになります。 問題はその神の存在証明です。 後にカントが「純粋理性批判」で、神の自然神学的証明・神の宇宙論的証明・神の存在論的証明のことごとくを批判し、論破することとなりますが・・・・・、 神の自然神学的証明というものは、自然界の生物の仕組みや自然のメカニズムは無駄がなく、誰かが計画的に設計して巧妙に作ったように見えることから、このような精巧な仕組みは神が作ったに違いないと推論するもの。 結果から原因に推論するのを「遡及推論・リトロダクション」というが、演繹的推論が必然的推論とすれば、帰納法的推論といい、仮説的推論・アブダクションといい、遡及的推論・リトロダクションといい、蓋然的推論であり、カントが言うように自然の仕組みがいかに精巧にできていようと、そこから神の存在を導くことはできない。 また神の存在論的証明は中世のアンセルムスの証明から、トマスの証明などたくさんその試みがあるけど、神の定義・述語からする証明で、完全無欠だとか、それよりも大なるものがないものは存在を含むとか、いろいろ言われたけど、カントによれば、存在は述語ではないから、神がいかに偉大であり、完全無欠であっても、それをもってして神が存在するとは言えない、といって批判した。 述語は主語に何ものかを追加するけど、存在は主語に何ものも付け加えない。 述語は主語に含まれるけど、存在は主語の外にあって、主語に含まれない。 完全無欠だとか、偉大なものとかいうのは神の述語。 しかし「存在はレアールな述語ではない」(カント)。 デカルトは神の存在が証明されたならば、外的世界の存在も確実であり、明証的であると言ったけど、その神の存在証明は拙劣であり、ひとえに神の信仰によって支えられていた。 だから、神に対する信仰が衰退すれば、デカルト哲学の根底が崩壊することになる。 デカルトは神が存在すれば、私の思考と対象の存在は一致する、と言ったけど、逆にいえば神の存在が疑わしくなれば、私の思考と対象の存在の一致を保証しているものはいなくなり、そこから何が思考と存在の一致を保証しているのか、ということが大問題になり、認識論が始まることになる。 事実、デカルト哲学が疑わしくなるとロック・ヒュームの懐疑論が、そしてカントの認識論が始まることになります。 あなたは「なんでこんなおとぎ話に、われわれは振り回されているのか?」と言っていますが、デカルトの生きた時代は神が存在するのを誰もが自明と考えていたので、それを神のいない時代という特権的な位置から「おとぎ話」というべきではありません。 時代には時代の「信念体系」があり、それをそういう「信念体系」のない時代から、「おとぎ話し」というのは誰だって言えます。 私たちの時代でも、私たちの時代の「信念体系」があり、後世の人から見たら「おとぎ話し」に見えるかもしれないだろう? 自分の時代を特権視すべきではない。 なお、回答する積りがなかったのに、わざわざ回答したのだから、あなたのコメントは不要。 それだけは約束してください。

bragelonne
質問者

お礼

 コメントご法度とのこと。  内容についてではなく わたしの質問のあり方についてひと言添えます。  つまり およそ三つのタイプに分かれます。  (1) ドゥルーズについて何も知りません。『アンチ・オイディプス』の著者としては いただけないと知るのみです。  ですから ただただおしえて欲しいというタイプの質問があります。自然科学についてもそうです。  (2) 次には すでに自分の答えが出ている場合でしかもそれが定説や常識とは異なる内容であるとき すでにイニシアチヴを握ることができるほどであっても それは学問のつねとして世間に向けて発表するのが自然であるからには 質問をおこなう。世に問うことは ふつうの流れです。    たとえば ソシュール≒丸山圭三郎の《言語記号の恣意性》なる仮説は ものの見事に破綻しているという仮説を得ています。  たとえば 聖書の神は―ーローマ教会やほかのもろもろのクリスチャンの説くそれとは違って―― すでに旧約聖書において《自己揚棄》をおこなっているという命題があります。エレミヤ書31:31以降のくだりであり これを新約ではへブル書の8章が取り上げています。  その内容は 二点あります。《神はすでに人類の犯した〔と言えば犯したと思われる〕罪のいっさいを忘れる。すでに覚えない》ということとそして《すでに人びとは神を知れと言っておしえることはない。要らない》と言っていることです。  《個人の内面における信仰のみ》という命題です。《聖書のみ》ですらなくなっています。  どの名の神でも すべてひとしい。《無い神》であっても 互いに同じである。完全なる民主制です。  (3) あとは その中間として 答えについての自信が中途半端な場合です。上のふたつのタイプに入らない場合です。  ご回答をありがとうございます。

その他の回答 (2)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

B様、こんばんは。 >「われわれ人間の知について  ▽ この「有限」であるということを知るためには  ☆ て言ったって すでに《有限》だと言ってるぢゃん。朽ちざるべからざる存在であるなら その知も有限である。」 「1000ドルパソコンが、全人類の能力を超える」てのが、2045年だそうですが。 その知は、無限?夢幻??

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。  つまり 有限+α という《超え》が限りなくつづいて発展するということでしょうか。  《全人類の能力》を超えた状態が さらに限りなくつづく でしょうか。  その《超えた》分を測ることができれば 有限ですね。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

B様。 だから 「ダカラ」だから・・・ ? (アタマが良くなる)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いまでもこのデカルトさまに振り回されている人たちがいるのです。問題ですよね。  それを解きほぐすことが 先決だと思うんですが。・・・  そのあと  ★ ~~~~~~~~~~~~~  「ダカラ」だから・・・   ?  (アタマが良くなる)  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ へとすすむ(!?)。・・・

関連するQ&A