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現在でも形而下に置けない「神」という存在について

いわゆる人格をもった神と汎神論的な神が在られますが、 人格的神とは、人格を持たない(人に似ない)神においての化身、顕現なのでしょうか。 それとも、有格的な神こそが唯一なのでしょうか。 人格を持ちうるなら、真の実在、一者という観念と相克するのではないでしょうか。 またさらに、何らかの形や性質,分別を持ち得るなら、 我々が後天的に分別、自我を得るように、それらは事実であるとしても 本来的に真実的なものでは無いのではないのでしょうか(?)。 実証以前の論説ですが皆さんのお考えをお聞かせください。 (しかしこれは、ほとんど暴論かもしれません。)

質問者が選んだベストアンサー

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  • sheep67
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回答No.4

人格的な神は、主体的なものですし、心と組み合わさると思います。 汎神論的な神は、意識ー精神、と関係があるように思います。客体的です。 人格的な神は主体となって組み合わさることで、全体的な統一をもたらすので、一つの真実ではないでしょうか? こういう神の現れのパターンは、人間の脳の側の不完全な機能の制約によって生まれるものだと思います。 問題は神ではなく人間の側だと思うので。

その他の回答 (3)

  • manuke22
  • ベストアンサー率54% (19/35)
回答No.3

人の人格は時間を経て育まれる。神の人格もそのように育まれるとするならば、成育は変化の一種なのだから、神は真の実在(不変な存在者)ではないと考えるべきだとならないか? みたいな感じでしょうね。 人間の自我は後天的に生じますが、神の人格はそのようなものではないと考えればよいでしょう。神の人格は先天的だという意味ではありません。神は人のように母体から生まれたりするわけではありませんから。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

形而下の神とは、例えば、街角のヴィーナスとか。

noname#215306
noname#215306
回答No.1

個人的には、自分なりの実践・経験・確認の中での、 霊的自己探求にある事が感じられない(そのような言及 ・表現がない)質問には、正直?不毛を感じるのですけど? (批判でも指摘でもなく・・・こんな断りをするのは面倒ですけど(笑) してもダメですが、しないよりは増しという経験ばかりなので) それは実に見事な、ずば抜けた知識量・記憶力・思考力も素晴らしく (完全に宗教学者のレベル)ポジティブで、綿密な議論・探求を している人達に以前出会い、そんな人達でさえ、根本的な霊的真理・真実を 理解・認識出来る感覚を持ち合わせていなかった事に、私は結構な 衝撃を受けた為に・・・(これは爽やかな大きな不毛感) 1つ聞きたいんですけど?、、神がどうとか言うより以前に、、 天界という存在には、どうも意識があるのは間違いないようなのですが、 それをどうやって私達は確認出来るのでしょう? 私は初歩の初歩ですけど、生命体・意識体の、意識の ある・なしというのは、明確に両極に存在・表現されていながら、 実は極性なく浸透し合い、一体化している事も感じ観察でき、 霊的真理・真実というのは、シンプルではあるけれど、 単純ではないとつくづく(多重の多重・複合の複合の連続の果ての果て) 自然霊・神(多分6次元以上)----------------神仏様方や霊人(4~5次元) 私に見えるのはこんな感じ・・・ 神仏様方というのは、簡単にいうと、人々に主に?人々の 想念により創造され、強化・共有・追体験されている無数の半実体の 一時的存在のようで、、意識があるといっても、それは? 私の経験では、なんと言ったらいいのか?、、意識のあるように 振舞えながら、ロボットのようにぎこちない所があるというか? (ただしこれは?根本的というか?本来的な感じでもあり) んー?、、人が夢の中で、独特の自己意識の不活性さと、 同時に?独特の集中状態でもあるという事などが観察出来ると 思うのですけど? それに近い部分もあるのかな?と・・・ 現世とは違った不活性さと集中力という意識の状態を理解出来ると、 現世の人の自己意識も、別の形で酷く不活性でありながら、ある部分での 集中力の中にもある、という事などに気付けると思うのですけど、、 つまり、、意識のあるなしというのは、明確ではなく、、出来る限り 詳細を理解するしかなく、、それらからも感じるのは、霊的真理・真実 というのは、厄介な自由性である為に、曖昧・矛盾という驚異的な? 形で成立出来る・している、という事などを観察出来るだろうと このような事に辿り着けずに、早々と躓かずに歩みを進め、理解出来る 人はどれ程いるでしょう?、、ある程度、優れた秘教家の方々でも、 躓いたままである事は、多いようですし・・・ 霊的に高い段階にも、残酷な霊的不条理は存在するのだなと・・・ 散らかりましたが、、1つまとめになるかな?と感じるのは? 意味・印象・概念、一瞬の認知のやり取りというのが、本来の コミュニケーションのようで(人は、分かっていても言語に依存する)、、 それからもう1つは?現世にあっては、本来的なコミュニケーションの性質 (バリエーション)がどうも?当てにならない気紛れという現象になるようで (どうしてもそう捉えられてしまう)これなども、霊的世界への失望・挫折、 否定にもやすやすと繋がるようで、、 詳しくはそれも、罠・テスト・踏み絵・振り分けという、残酷な 不条理とも感じますけど・・・

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