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精神の充足量の最大化とはいったいどういう精神か
ひとの一生における精神の充足量の総和を最大化するということを目的とするのは いったいどういう精神であり どんな神経をしていたら そう考えるようになるのか? ただの功利主義のたわごとであると質問者には思われるのですが 果たしてどのようにみなさんはお考えでしょうか? 《お金と出世》をこよなく愛していながら ついぞその境遇にめぐまれず そのやぶれし夢をB面のぼやき節にしただけだと見るのですが 自由なご批判をお寄せください。
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それはブータン帰りのあの人の言ってることだろ。 ある意味正しい。 要は人間満足することが大事ってことだよ。 アホでもカスでもなんでも構わん。 要は満足することが大事って、そーゆー発想です。 人間賢くなると悩むから満足することはできません。 アホになれば悩むことは無いからカンタンに満足できます。 まあ、カンタンにゆーとそーゆーことです。 分かったか。
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- kurinal
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B様、こんばんは。 得意・不得意は、人による。 (カネと無関係な満足というのも、あるのだ。)
お礼
要するに 精神の充足量を最大化することを人生の目的とするというのは あまりないだろう。 こういうご意見ですよね? そのほうが すこやかだと質問者は考えています。 ありがとうございました。
- amenhotep2000
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bragelonne さん お礼ありがとうございます。 しかしbragelonne さんが、現在では干からびた思想のハーバート・スペンサーを、ちゃんと本を読み、理解しているか、お礼では不明。 「適者生存」という言葉がありますが、生物学をやっていた私は、ダーウィンが作った言葉かと思いましたが、最初に使用したのは、スペンサーです。 「進化」と日本語に訳されている言葉は「evolution」ですがスペンサーで進化と訳されているのは「development」。 しかし、19世紀における、このような社会進化主義は白人は黒人から進化したのだから、白人の方が優れているなどいう差別主義にもつながり、先に投稿したような、心理学に取って換わり、スペンサーは忘れらた。 しかし、この19世紀ころから、哲学は科学に押され、自然を人間の手によって完全にコントロールしようなどという、高慢な人間の科学万能主義となり、おそらく現在に続いている。 この19世紀の西洋哲学の本が日本語に訳され、その当事しか、翻訳されていないのは、当事の日本が近代化に向けて西洋に追いつけという司馬遼太郎の「坂の上の雲」の時代だと推察します。 どうです、bragelonneさんも、これらのことを知ろうとしたら、精神的充足が得られるのでは? では、お礼をお待ちしております。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 心理学は サイコロジー psychology です。つまり プシュケーの学です。つまり プシュケーとは 聖書では 《たましい》のことです。神話の人物でもありますが。 プシュケー・トゥー・コスムーと言えば―― psyche tou kosmou ( psyche of cosmos )―― 《宇宙霊魂》です。 ラテン語では アニマ・ムンディ〔 anima mundi ( anima of the world 世界霊魂)〕です。 要するに 神ないしその霊のことを言っています。アートマン(霊我)=ブラフマン(神)であり ブッダター(仏性)=アミターバ・ブッダのことです。 要するに 神の霊が 日常のひとの心の動きを今では表わすようになった。 そのあいだに 次のような変遷があったのでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし、19世紀における、このような社会進化主義は白人は黒人から進化したのだから、白人の方が優れているなどいう差別主義にもつながり、先に投稿したような、心理学に取って換わり、スペンサーは忘れらた。 しかし、この19世紀ころから、哲学は科学に押され、自然を人間の手によって完全にコントロールしようなどという、高慢な人間の科学万能主義となり、おそらく現在に続いている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしが 《自然淘汰や適者生存》と聞くと思うのは それは 人間にはなじまない。ということです。 資本主義は 競争経済であり競争社会ですから ものごとをめぐって勝ち負けがあるのは 仕方がない。 けれども 人間が 生き残るのが《適者》であり そのとき不適者が脱落するのは 淘汰なのだという見方――これには 考え方として反対します。ということが言いたいだけです。 ★ どうです、bragelonneさんも、これらのことを知ろうとしたら、精神的充足が得られるのでは? ☆ 精神的充足は すでにあたえられている。 イエスは 弟子たちが町へ行って食べ物を買って来たとき わたしには別の食べ物があると答えました。 それは――サマリアの女の物語においてでしたか―― 道を説くこと それが毎日の食事なのだということのようです。 ひとが元気になれば それが イエスのよろこびであるのだと。 わたしは スペンサーを読んではいないので しかもそれでもそのことに絡めてイエスの説いた道のことを少しでも説明できたなら それが わたしの三度の食事になります。食べてわたしも元気になり 解説がひとにつたわるなら それがわたしの日から日へあゆむ糧になります。
補足
ぷらぽ支障よりの伝言です。 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~ いろいろ支障はありますが、師匠ではありません。 ギリシャ語は、日本語以上に古典との差がはげしいのではありませんか。 民族そのものが変化してゐるともいはれてゐますし。 あめんほてぷ師匠によろしくお伝へください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 現代ギリシャ語は 発音がそうとう変化して来ているようです。でも 文字で書いた場合 それほどの違いはないとも感じています。わたしは。 カイ(=英語の and )が いまでは キと発音されるようです。何とも奇怪な感じです。
- amenhotep2000
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bragelonne さん 三千円はたいたと回答しましたが、コピー代にです。 現在、大正12年発刊のハーバート・スペンサーの「第一哲学」を漢和辞典と旧仮名使い辞典を片手に読んでますが、原本の英語の方がわかりやすいかもしれない。 しかし、日本語訳として出版されたのは、この本しかない。 さて、この本は大正12年の当事いくらで売っていたでしょう? 答えは4円50銭。 コピー代の方が高い。 日本はデフレと言ってますが、本に関しては、超インフレですな。
お礼
つづいてのご回答をありがとうございます。 ★ ハーバート・スペンサー ☆ ってあれでしょ? つまり 社会的な自然淘汰の仮説を出した。 誤解されているのかも知れませんが 《淘汰》は 人間にはなじまない。と考えています。 現実に向き合い現実を見つめ じっさいに適者生存などという実態があると知れば知るほど この自然淘汰などという見方ないし法則は 人間には――われに還った人間たちには―― そもそもなじまない。と考えます。 その方向へと――どんでん返しを――すすめて行くのが ふつうの生活としてのいとなみであると考えます。どうでしょう。
- amenhotep2000
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bragelonne さん おはようございます。 情報提供します。 先にあげた精神学者であり心理学者であるV・E・フランクルはアウシュビッツでの体験を下に「ロゴセラピー」という実存的精神療法を創始しました。 どのようなものかというと、アウシュビッツ強制収容所では、明日の命さえ知れない、絶望状態に陥った人はうつ病に陥り、自殺を企てようとしたり、もしくは著しい衰弱死をする人がいた。 しかし、一方で、人間扱いされない受けない収容所においても、かけがいのない独自の人生の意味、さらには人生の意味への責任を自覚できた人は絶望やうつ病から脱し生き続けようとした。 この体験を元にロゴセラピーでは、精神病患者に自分の存在に意味を見出し、価値観を感じていくのを助けえる事を目標とする療法です。 ちなみに、V・E・フランクルの考えの元になったのは、M.シェーラーの哲学。彼もアウシュビッツの生き残りです。精神的充足の意味を考察する材料にしてください。 言っておきますが、これらを調べるために、図書館の書庫の雑誌を3日で三千円もはたいた。 心して情報を受け取ってください。 ところで、もう少し、聖書の原本の解釈のためplapota師匠に、ギリシア語にも、日本語の古典を学ぶときのような古語というのはあるかということを聞いていただくか、この投稿に回答する催促をお願いします。 まあ、上述したような、フランクルやシェーラーの人生を考えると、温室育ちの日本では独創的哲学の構築は無理で、今の時期だと、シベリアの強制収容所にいかないと完成しないかもしれない。 プーチン大統領に北方領土を返せ!と、デコピンしたら、シベリア送りでしょうか(笑) その前に、柔道黒帯のプーチン大統領は背負い投げをかけてくると思いますから、大外がりで対抗。 しかし、ウクライナ情勢の微妙な時期に、プーチン大統領は訪日するようですが、日本政府はどうするのでしょう。 私の予想では、おそらく安部首相はキャバクラで一本数十万円の「ルイ13世」で、お・も・て・な・し・さんと会談。その後プーチン大統領はキャバ嬢をお持ち帰り(笑い)。 ちょっと冗談が過ぎましたが、plapota師匠によろしくお伝えください。
お礼
あめんほてぷさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ぷらぽさんには伝えますが じつは それはわたしのブログにおいてです。あなたも自由に あなたからの書き込みをどうぞ。 外交政策ないし国際関係。 たぶん 国家を主体ないし単位体とする発想と行動とでは なかなか事態の解決はむつかしいと思います。 領土問題であるならば 行き着く道は どちらか一方の――または 半分個することもありなんでしょうか――所有に帰するのみだからです。 話を端折りますが わたしは インタムライズムを提唱しています。 ここでもすでにいろんなところで 書き込みをしています。 ⇒http://soudan.search.biglobe.ne.jp/s/kw/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%A0/sorting/0/catnavi1/%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%83%BB%E6%95%99%E8%82%B2/catnavi2/%E5%93%B2%E5%AD%A6/ お二階の外交では らちが開かないのではないか。それなら 一階のスサノヲ市民たちが互いに国家をそっちのけにして ときにケンカをもしつつ 問題をじっくりゆっくり共生・協力の場へと推し進める。 ★ 心して情報を受け取ってください。 ☆ って コピー代 ¥3,000だとすると うちの県の図書館は一枚¥30だから 100枚? それは すごい。と思います。 ▲ (ヰキぺ:マックス・シェーラー) ~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC § まえがき マックス・シェーラー(Max Scheler、1874年8月22日 - 1928年5月19日)は、ユダヤ系のドイツの哲学者である。ルドルフ・オイケンの門下生。哲学的人間学の提唱者。初期現象学派の一人である。 (註) ルドルフ・オイケン: フッサールの弟子・ハイデガーの兄弟子に当たる。ハイデガーと同じくフッサールから離反するが、ハイデガーとの間に交流があったようである(1829年5月19日のハイデガーによるシェーラー追悼講義など)。 §2 思想 シェーラーは形式倫理学ではなく、現象学的な実質的価値倫理学を説いた。反心理学的で超越論的である点で新カント派の価値哲学と共通するが、価値とは本質的に倫理学に属し、かつ、ただ妥当するものではなく、存在し、現に在るものだとする。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 現象学は だいたい実存――現実存在――の思想として 有効であるとわたしは思っています。 《本質》を問わない。いま・ここなるわたし〔なる現実の存在〕から出発する。 《反心理学的》である。なぜなら 心理学は そのとき一定の時間の幅において通用する人間の心理作用を取り上げ これを心の深層から起きていると見立てて 人間を観察しその思想や行動を分析する。 あるいはつまり その特定の相手との関係をふくむ場や情況を取り分けて その認識と分析に集中する。 ですから 《心の深層に発する》ということについて根拠が示されるならよいのですが どうもこれがあいまいである。ですから ややもすると 人間の心の動きをめぐって 一時的・局所的な事実についての議論におわるうらみがあると思っています。つまり 部分的な哲学だという意味です。 ですから わたしはどこかで次のように書いています。: 心は大海である。心理とは 心の動きであるが 海のオモテに波風が立つその問題である。 そうして もし心が大きな海であるならば けっきょくその初めからすでにわれわれ人間は さとっているのです。 何も問題はないのです。自然本性。 元のわれに還ればよいわけです。それだけです。 これが わたしの哲学です。 精神的充足などというものは すでに初めに用意されているようなものです。 もし問題をひきずるようであるなら その場合は 一般にそのようなナツィスの力づくの場合のように 不可抗力を受ける事態の問題です。 これが あんがい身近にもあります。起こり得ます。 権限関係にあるという情況ひとつを取ってみても その場にあるなら なかなか自由が効かないものです。 相手があることの場合は その相手がすでに《虚数癖シンドローム――非現実妄想癖 / ウリナラ・ファンタジー――》に罹っているのなら 何を言っても何をおこなっても話が通じない。 相手が われに還るのでないなら 何も話は始まらない。 現代韓国人の場合を例として考えてみてください。 (中国人の場合は アマアガリ・シンドロームと見ています。ちょっと違います。《神のごとくいかなる者の下にも立つまいと堅く誓って心が凝り固まった状態》を言います)。 ですから 情況が・つまりは相手が 半永久的に袋小路に入り互いの交通が滞っている場合もありますが 問題は基本的には ひとがそれぞれわれに還るかどうかだと見ます。 《心理学・精神分析》は その基本の道をすすむときのその《現場》と言いますか その時間・その場・その相手・その情況を特定して 問題の処理に当たる作業であるかと考えます。 《われに還る》そのきっかけは あらゆる場合が考えられます。 《ロゴセラピー》から何からすべてです。 音楽も絵画も いろんなゲームもアソビもすべてです。 誰がどのものごとをきっかけにするかは 決まっていないのでしょう。 そういう意味で 心理学の・そのむろん実践をもふくめてのいとなみは 貢献することができます。 ★ V・E・フランクルはアウシュビッツでの体験を下に「ロゴセラピー」という実存的精神療法を創始しました。 ☆ なのですね。つまり《実存的》なのですね。 そのほうがよいと考えます。《本質》をさぐり続けるのは たいがい観念論にはまって行ってしまうかと思うからです。 こんなところでしょうか。
お元気そうで何よりです。 自分は唯一無二の存在だ、自分が知覚する全ての世界より 自分一人が孤高で絶対的な存在なのだ、という呪縛から 逃れた者。 もう少し簡単に言えば、自分が恐ろしいほど取るに足りない ちっぽけな塵芥に等しい、ほぼ「無」と呼んで差支えない 儚い矮小な存在だということに、様々な人生経験から 思い知らされた者、という言い方も出来るでしょう。 その、「自らが無に等しい矮小なつかの間の幻」だと 理解できた者が、自分の欲求充足のために他人を害して 自らを利する思考と決別でき、その代りに利他により 自らの存在価値を実感できた時。 ステレオタイプではあるけれど、愛する者の命を救う為に 自ら望んで犠牲になるものの中には、笑って死んで行ける ものもいるでしょう。 その覚悟の中に浮かぶ穏やかな微笑みと、刹那ののちに 訪れる百パーセントの、死。 精神の充足量の総和の最大化、などというとテツガク的ですが、 精神の充足は論理的な思考によって導き出されるものではなく、 一点に収斂して停止した思考=終わりを覚悟する、という 「消失」にこそあると思います。 ゼロに近づく微分は無限に近づいていく。 ゼロと無限大は、すなわち自己と自己ならざるものを 入れ替えれば、同じものなのですから。 ただの功利主義だろうとお金と出世だろうと、それは 永遠にたどり着くことが出来ない地平線の逃げ水のような もの。 どうせ必ず死んでしまうから無意味になる。 そのことから、高齢になっても目を背け続けていられる人が 世の中には沢山、掃いて捨てるほどいます。 私には、必ず自分も死んでいなくなる。 ということを、どうしてきちんと正面から見据えないのか、 そちらの方が理解に苦しみます。 良く、そんなおっかないものから目を逸らし続けて いられるものだなあ、と。 自分の消滅の向こう側に、遥かに広がる未来と世界がある。 そこに今自分が出来うる全てを渡して、使ってもらえたら 微笑んで死んで行けることもありそうです。 (病や怪我で苦しむことを別にすれば、ですが。) ところで、あなたはお金と出世をこよなく愛していながら、 ついぞその境遇にめぐまれず その破れし夢を人生レコードの B面でぼやき続けている功利主義者、なのですか? 何故って、裏は表、表は裏でもあるからですよ。 何もないところに言葉は生まれません。 その人の思考体系の中から、対立する二者として二つの言葉が 生まれます。 一人で二役を演じる人もいれば、正義の味方に拘って、 悪役を誰かにやらせようと他人を睥睨する人もいます。 どちらにしても、その人の思考が生み出したものです。 肯定も否定も、都度の立ち位置による表明に過ぎません。 その思考が裡に在る。 そのことこそが、世界を自分がどう見てどう捉えているのか、の 「世界認識モデル」そのものなのですから。 つまり、自分自身、というわけです。 数年前に比べて、だんだんとご質問(という形はとられていますが)の トーンが「普通」になってこられた気がするのですが、それを透かして 葛藤のようなものが随所に見受けられます。 今直面しておられるのは、進歩でしょうか?それとも脱皮? ひたむきな自立思考は、自分を人間だと頑なに信じ続ける アンドロイドのような哀しさや寂寥感を感じます。 (決して批判や揶揄ではなくて。) どうしても自分が固執している思考形態で完全な姿や ゆるぎない安心が得られず、その価値観を全否定するような 誰かの思考に納得できないのでしたら、その固執する思考や 価値観を捨ててみる断捨離も面白いと思いますよ。 気まぐれの旅だと思って、いつもの自分とは違う価値観で 旅の恥をかき捨ててみる訳です。 昔から言うではありませんか。 押しても駄目なら引いて見な、と。 あなたに限らず、迷惑が掛からない限り自由な価値観と思考を 許されているこの国です。 あなたに限らず、他人を批判するのは自由ですが、それは 同時に固執によって天井天下唯我独尊と、自分を孤立させ 自分を牢獄につなぎとめる束縛でもあります。 何のためにどうでもよい他人の「異なる思考や価値観」を 尺服したくて仕方がないのか、その心理の底にこそ、あなたが 求めておられる扉の鍵が落ちているように思います。 要は、そんなに孤高で自分を自由だと思う牢獄に居続けなくても いいじゃないですか、いつかはどうせ命の海の一滴に戻るのだから、 私は、そう思って時折あなたのご質問を眺めています。 誰が上だとか下だとか、消滅を前にすればどーでもいいことです。 あとどのくらいしたら、伝わるかしらん。 本当に、ただそれだけのことなんですから。 本当の自由を。 そこに精神の充足がありますよ。 必ずです。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ううーん。 ★ 自分は唯一無二の存在だ ☆ ですよ。誰もが。つまり 掛け替えのない存在ですよ。《絶対的な》ではないでしょうけれど。 ★ 自分が恐ろしいほど取るに足りないちっぽけな塵芥に等しい、 ☆ これはですね。《わたし》が あい向かい合う人びとに対してそれぞれに従ったかたちで《触媒》となる。つまり 相手が ふつうのわれに還るという化学反応を起こすようになる。終わったときにも 触媒ですからこちらは 何ら変わりない。 そういう社会的な――勝手ながらの――ハタラキを持ち得て実際にうごくとき そのときにはへりくだって――と言いますか 実際にほかの人びとからは その言葉そのもので呼ばれて嫌われるゆえに――《わたしは この世の屑です。ごみ処理工場ではあるが 多くの人びとから ゴミだとよばれる存在です》と名乗るときのセリフです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ その、「自らが無に等しい矮小なつかの間の幻」だと 理解できた者が、自分の欲求充足のために他人を害して 自らを利する思考と決別でき、その代りに利他により 自らの存在価値を実感できた時。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはですね。――と言って 質問者が言いたい放題になっていますが―― ひとつ見方が 落ち着かないところがあるように思います。 《利己と利他》とは そんなに互いに排他的な・二者択一のようなものごとではない。と理解しています。論拠もあまりもう示しませんが。 《存在価値》は ゴミでいいわけです。ゼロでも大丈夫です。 ひとが ふつうのわれに還ることが出来るなら それでよいわけです。一介の《触媒屋》です。 ★ 犠牲 ☆ も 犠牲になる・ならないという二者の択一ではないと思うんですけれどねぇ。 自分が 犠牲になることを信念としていたら・そして実際に相手のために犠牲となったなら その相手は むしろ負い目を負って 心苦しくなる場合もあり得ます。 それよりは おれはいつも利己的に行動するのだ たまたま自分を無にして相手を活かすようなことが出来たが それはあくまでおれの利己なる振る舞いから出たものだ。とでも言っていたほうが 相手も気が楽でしょう。 ★ 死 ☆ は知りません。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 精神の充足量の総和の最大化、などというとテツガク的ですが、 精神の充足は論理的な思考によって導き出されるものではなく、 一点に収斂して停止した思考=終わりを覚悟する、という 「消失」にこそあると思います。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ テツガク的とさえもわたしは みとめません。功利主義者のただのたわごとだと言っています。 心が満たされるのは あくまで心をつくしたましいをつくし知恵と知識をつくして そのつどのコトにあたる・その結果得られるものでしょう。 ★ 精神の充足は論理的な思考によって導き出されるものではなく、 ☆ であるわけです。《なく》ではなく そうだと言い張るのは 功利主義の阿呆でしょう。自分がそして世界が見えなくなっていることでしょう。 ★ ただの功利主義だろうとお金と出世だろうと、それは永遠にたどり着くことが出来ない地平線の逃げ水のようなもの。 ☆ どしどしこちらの言い分を推し出してまいりますが たぶん功利主義者を相手にしたなら 初めからこちらも利己主義者でお金と出世をこよなく愛すると言ってのけておくとよいかも知れません。 その心は ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ゼロに近づく微分は無限に近づいていく。 ゼロと無限大は、すなわち自己と自己ならざるものを入れ替えれば、同じものなのですから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりけっきょく 微分も為しあたわざるいわゆる特異点と自分が成っていればよいわけです。この世の無限をも超えていればよいわけです。 その特異点たるわれの中には 世に言う出世もお金もうけも じゅうぶん――小さい位置づけではありながら――ふくまれているからです。われは ガリガリ亡者であるということに――存在の一万分の一ほどの部分をでも占めていれば―― マチガイはないわけです。 こちらは この世の屑でありゴミですから その自己表現は 何とでも言えます。自由とは このことでしょう。すべては あらゆる人がわれに還るそのためです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私には、必ず自分も死んでいなくなる。 ということを、どうしてきちんと正面から見据えないのか、 そちらの方が理解に苦しみます。 良く、そんなおっかないものから目を逸らし続けて いられるものだなあ、と。 自分の消滅の向こう側に、遥かに広がる未来と世界がある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ はっきり言いますが ここはダメ。 この掛け替えの無い存在だと言ったぢゃないですか。 果敢無いいのち しばしばうつろいゆく心 朽ちてゆかざるを得ないこの身。 それでも ひとはおのれをうんうんと押してこの道をあゆみます。 あたかもたましいがあちこちをめぐって巡礼の旅路をたどるがごとく 精神の軌跡をえがきます。 この限りある心と身との自然本性にしか過ぎない存在ではあっても その生涯の旅路は とうといものです。愛着があってもいいはずです。 そのときわれは 死を知りません。死は 知らないのです。避けているのではなく 知らないと言って 道を行きます。どこまでも。 ――こうではないでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ ところで、あなたはお金と出世をこよなく愛していながら、 ついぞその境遇にめぐまれず その破れし夢を人生レコードの B面でぼやき続けている功利主義者、なのですか? 何故って、裏は表、表は裏でもあるからですよ。 何もないところに言葉は生まれません。 その人の思考体系の中から、対立する二者として二つの言葉が 生まれます。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは きびしいご指摘ですね。 もっともすでに触れましたように このわれなる存在には いろんな側面・いくつかの部分を取り込んでいることは可能です。要は そのひとつの側面によって振り回されるかどうかではないでしょうか。 ★ そのことこそが、世界を自分がどう見てどう捉えているのか、の「世界認識モデル」そのものなのですから。つまり、自分自身、というわけです。 ☆ わづかの違いは わたしの場合 いくつかのモデルがあって どれかひとつのモデルが そのまま自分自身であるわけではない。ということになります。全体は もっと大きい。(と自分で言っていますが。) ★ 今直面しておられるのは、進歩でしょうか? それとも脱皮? ☆ 悪びれずはっきり言うとすれば ミーちゃんハーちゃんの思考形式をきちんと捉えそれに合わせて 理論を築き話し合いをおこなって行くこと。です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ どうしても自分が固執している思考形態で完全な姿や ゆるぎない安心が得られず、その価値観を全否定するような 誰かの思考に納得できないのでしたら、その固執する思考や 価値観を捨ててみる断捨離も面白いと思いますよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これにははっきり言えます。すでに通って来た巡礼の道を思い出して この功利主義なら功利主義なる側面を問題としている。ということです。すでにとっくに捨てています。よ。 いろんな寺や神殿をすでにめぐって来ているという意味です。 ★ 押しても駄目なら引いて見な、と。 ☆ これは 海で泳いでいる魚の場合に言う言葉です。蛸壺に入っているタコには 通じません。という問題であると考えています。もう数年のあいだ進展がありません。相手は 《押し籠もり》です。蛸壺は しゃべってはいるのです。 お手上げなのは 分かっています。ただし 何も言わないなら・何も批判をしないなら すでに人びとはその功利主義の成れの果てから出される《テツガク的な命題》について みなが認めていると思ってしまいます。それを避けるためにこのような質問をしています。 ★ 誰が上だとか下だとか、消滅を前にすればどーでもいいことです。 ☆ 《消滅を前に》しなくとも どうでもいいのだと言っています。 すでに消滅しているのですから。すでにゴミでしかない存在なのですから。いちばん下の底のそのまた底から 言葉をつむいでいます。 ★ 本当の自由を。 ☆ ご確認ください。
- amenhotep2000
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bragelonne さん今日は早く帰宅できたので、こんばんは、か、こんにちは、かの微妙な時間に回答します。 ギリシア語の訳のお礼ありがとうございます。 しかし、これが分かったとしても、心とは?精神とは?意識とは?という命題の定義を考えるのは、難しいと思います。 意識とは?を科学的に突き止める研究はされていますが、デュ・ボア・レーモンが1872年に行った、「宇宙の7つの謎」という講演では、意識と言うのは、科学的に永遠に解明できないだろうと言われてます。 なにしろ、意識というのは自分自身しかわからず、他人が客観的に脳を調べてもわかりません。 最近のどなたかの回答で、脳梗塞になった神経科学者の体験から、科学的な右脳による仏教的な悟りの見解が述べられて、サイトが投稿されてましたが、その神経科学者自身の体験で、他の人が、脳の同じ場所で脳梗塞が起こり、同じ体験ができるかというと、可能性はほぼゼロに近く、科学的な客観データは得られません。 白い巨塔の大学の准教授が教授になるため、この哲学カテから情報を集めているかもしれませんよ。 しかし、私の大学院時代の教授は理学部長までのぼりつめましたが、理学部長の仕事は科学研究費(科研費)の申請などの事務仕事ばかりで、早く任期が切れて実験の世界に戻りたいと、ばやきのメールが着ました。 まあ、家を買うため、銀行でローンを組もうとすると、銀行員はぺこぺこする肩書きと思いますがね。 bragelonne さんは、お金と出世に恵まれないなどとぼやいてますが、だからこそ哲学が出来る環境であると思います。私も同じですよ。 私は本をひとりで読む事でも精神的充足を覚えますが、このようにbragelonneさんと情報をネットに開示し、情報交換のコミュニケーションすることでも、精神的充足を覚えます。 誰かが自分と同じ発想で哲学体系を考えたとしても、それを元にその考えを否定し更なる哲学体系を考えれば良いのみ。科学の世界でも同じで、ヘーゲルの言う事が正しいなら、時代により哲学(思想)は変化し進化するものと思ってます。 bragelonneさんも私とのネットでの情報交換に精神的充足を覚えれば幸いです。 権力を嫌い、一匹狼を望む、哲学者、大門未知雄。またの名をMr. X。 お肉食べた~い。お肉~(笑)。
お礼
☆☆(No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~ 8. 一夜漬けではきちんと説明できないので おあづけです。検索してしらべてみて欲しい。 9. 《力を尽くして》から《思いを尽くして》に代わったことについては どうか。何かいい受け取り方はありますか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ われながら よい応答であった。わたしはまだ試みていませんが 検索で専門的な知見が見つかるかも分かりません。 あるいはまた ぷらぽ師匠がおぎなってくれるでしょう。(ぷらぽ氏 ぷらぽさん この呼び名は いいですね)。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ しかし、これが分かったとしても、心とは?精神とは?意識とは?という命題の定義を考えるのは、難しいと思います。 ☆ 取りあえずは わたしのまとめをたたき台として 探究をすすめて行ってください。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 意識とは?を科学的に突き止める研究はされていますが、デュ・ボア・レーモンが1872年に行った、「宇宙の7つの謎」という講演では、意識と言うのは、科学的に永遠に解明できないだろうと言われてます。 なにしろ、意識というのは自分自身しかわからず、他人が客観的に脳を調べてもわかりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですかねぇ。《意識》は わたしの整理したものに入っていませんが かんたんですよ。 ○ 意識とは ~~~~~~~~~~~ 1. 意識した現実のことです。 2. 意識したというのは 精神のみっつの行為能力のうち《知解》によって得られた認識を言う。 3. 感性をとおして得た知覚内容(感覚)も それを言葉ないし概念として知解する。その認識したものも 意識である。 4. あるいは 要するに世界を捉えたその内容は すべて《意識》と呼ぶ。 5. つまりは 記憶にあったものごとを思い出して知解が認識したなら それも意識であり いまこれこれのことをおこなおうとしているという意志行為についても それを知解が認識したなら その内容も意識である。 6.さらにあるいは わたしには どうも意識していないところの何かがいま心に引っかかっているように思う。というとき その中身の分からないものごとも 分からないと認識しているそのことが 意識である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 神経科学 ☆ さっぱりです。分かりません。 ★ 理学部長 ☆ と懇意なのですか。マスターコースだけでも確かに 知り合いの度合いは深いものがあると思いますが。 ★ 大門未知雄。またの名をMr. X。 ☆ 《米倉涼子主演「ドクターX~外科医・大門未知子》から来ているということですか。 わたしのよろこびは 人びとがよろこぶのを見ることです。(ぷらぽ先生から そう言えと言われました)。 餅は おいしかった。ほうれんそうを入れただけ。 ○ 心とは?精神とは?意識とは? ☆ 質問してみたら?
- amenhotep2000
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追伸 bragelonne さん さすがですね、精神をすでにここまで考察して哲学体系が出来上がっているとは。 ところで、精神の充足量の最大化を目的にするかと言う問いに、先ほどはディオゲネスをあげましたが、聖書の言葉を書きます。 思い悩むな それからイエスは弟子たちに言われた「だから言っておく、命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようか思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋の倉ももたない。だが、神は烏を養ってくださる。あなた方は鳥よりもどれほどの価値があることか。思い悩んだからと言って、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんな小さな事さえも出来ないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つか考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。・・・。」 私は、若かりし頃は、未来に対し不安を感じたり、過ぎ去った過去を後悔する等、思い悩んでばかりいました。 しかし、現在の私は「今という現在を生きる」ことに集中してます。 昨年、私が最も好きだったハリウッド・スターのロビン・ウイリアム氏が自殺というかたちでなくなりましたが、彼が主演した「今を生きる」という映画は、思い悩んでばかりいたマイナス思考な私の価値観から、プラス思考に変えるのに大きな影響をあたえました。 他にも黒澤明の「生きる」など。 明日は明日の風が吹くという精神で過ごしてます。とにかく今日という日を精一杯生きたなら、明日死んでも悔いはないと思って毎日寝ます。少なくとも今日 bragelonne さんとこのようにしてIT media を通じて私が回答した記録は、明日私が死んでも誰かが見てくれる記録として、今日、今現在、私が実存する証明になると思います。 しかし、そのために毎日、精神の充足量を最大にするかといえば、私の生活の中では違います。自分の実力を考え、ほどほどにちょっと頑張ったくらいの充足量です。 そのような毎日の背伸びし過ぎない充足の積み重ねが死ぬとき、自分の中で、まあ自分なりに良くやった楽しい人生だったと思えれば、それが最大限の精神の充足と私は考えてます。 「ここらでよか。」西郷隆盛
お礼
お早うございます。ごかいとうをありがとうございます。 ★★(回答No.8) ~~~~~~~~~~~~ bragelonne さんか、plapotaさんに是非この投稿に回答してもらいたいのですが、聖書には、 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 とありますが、「心」と「精神」と「思い(思惟)」は違うものと思いますか? 是非お礼にて原文のヘブライ語を教えてもらいたいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ぷらぷら師匠は わたしにヘブル語原文を示したあと 応答をしぶっています。おまえ(=ぶらじゅろんぬ)がよきに計らえと。 ▼ (マタイによる福音書/ 22章 37節) ~~~~~~~ イエスは言われた。 「『心を尽くし、 精神を尽くし、 思いを尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい。』 (cf.申命記6:5)」 ▽ (申命記 6:5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ וְאָהַבְתָּ אֵת יְהוָה אֱלֹהֶיךָ בְּכָל־לְבָבְךָ וּבְכָל־נַפְשְׁךָ וּבְכָל־מְאֹדֶֽךָ׃ ▽ (同上) καὶ ἀγαπήσεις κύριον τὸν θεόν σου ἐξ ὅλης τῆς καρδίας σου καὶ ἐξ ὅλης τῆς ψυχῆς σου καὶ ἐξ ὅλης τῆς δυνάμεώς σου ▽ (同上) あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 ○ לבב ( lebab )= καρδία ( kardia ) = heart:心; נפש (nephes ) = ψυχῆ ( psyche ) = soul:魂 ; מְאֹדֶֽ ( me'od )= δυνάμεώς ( dynamis ) = might:力 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▼ (Mat(マタイ) 22:37) ויאמר ישוע אליו ואהבת את יהוה אלהיך בכל־לבבך ובכל־נפשך ובכל־מדעך׃ ▼ 22:37 ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτῷ, Ἀγαπήσεις κύριον τὸν θεόν σου ἐν ὅλῃ τῇ καρδίᾳ σου καὶ ἐν ὅλῃ τῇ ψυχῇ σου καὶ ἐν ὅλῃ τῇ διανοίᾳ σου ▼ (KJV:Mat 22:37) Jesus said unto him, Thou shalt love the Lord thy God with all thy heart, and with all thy soul, and with all thy mind. ○ לבב ( lebab ) = καρδίᾳ ( kardia ) = heart:心 נפש ( nephes ) = ψυχῇ ( psyche ) = soul :精神 מדע (madd' ? ) = διανοίᾳ ( dianoia ) = thought; mind :思い ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここからは次のことが分かるかと思います。 1.新約でのイエスの言葉としての《心・精神・思い》は 初めの二つを旧約の申命記の言葉と同じくし 三つ目が代えられている。 2. 一つ目は 《レバブ=カルディア=心》である。ギリシャ語のカルディアは 英語のハートや独語:ヘルツや仏語:クール(カール)や西語:コラソンなどなどと同じ語である。ちょっと訛っているだけである。 3. 二つ目は 日本語でそれを《魂》と訳そうが《精神》としようが 《ネフェシュ=プシュケー=たましい》に変わりない。 4. 三つ目の《思い》が 旧約での《ちから》から代わりに用いられている。むろん ヘブル文・ギリシャ文の変更にしたがっている。 ○(旧約・申命記) מְאֹדֶֽ ( me'od ) = δυνάμεώς ( dynameos ) = might:力 ○(新約・マタイ) מדע (madd' ? ) = διανοίᾳ ( dianoia ) = thought; mind :思い 5. 《たましい・霊》についての語は ヘブル語もギリシャ語も ただひとつだけとは限らない。となると ややこしい。研究がおこなわれている。きわめて専門的な議論になると思われる。 6. ヘブル語で《霊・魂》は ネフェシュとルーアハがある。ところが わたしが知るかぎり どちらも《息・風》だと言う。ただし ネフェシュは 動詞としても《息をする》だが ルーアハのほうは 《香りがする。匂う・臭う(to smell, scent, perceive odour, accept // of horse; of delight (metaph))だと言います。 http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?strongs=H7306&t=KJV 7. ギリシャ語では たましい・霊を言うのに いくつかあるらしい。やはり《息》から来ているらしい。 プシュケー(現代語で psychology などとして用いられている)。 プネウマ(現代語では pneumonia (肺炎:呼吸つまり息がかかわっている)に)。 8. 一夜漬けではきちんと説明できないので おあづけです。検索してしらべてみて欲しい。 9. 《力を尽くして》から《思いを尽くして》に代わったことについては どうか。何かいい受け取り方はありますか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 明日は明日の風が吹くという精神で過ごしてます。・・・ しかし、そのために毎日、精神の充足量を最大にするかといえば、私の生活の中では違います。自分の実力を考え、ほどほどにちょっと頑張ったくらいの充足量です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 要するに――勝手に自分の田に水を引っ張って来ますが―― この時ここで充足量を極大にするんだなどと思ってそのときそのつど努力するなあんてことは ない。あり得ない。と言いたいです。 いい結果を出そうとすることに専念するに決まっています。 しかも その結果を集めて あぁ よくがんばった これでこんなに満足ポイントがたまったなぁなんてほくそえんでいるバカがどこにいますか。
- amenhotep2000
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bragelonne さん こんばんは。明けましておめでとうございます。 1月2日から、このサイトに回答できないトラブルが起きまして、昨日から復旧。 昨年、bragelonne さんに過激な回答をしたため、危険分子として、IT Media のブラックリストに載ってしまったのかも知れません。 ところで本論ですが、bragelonne さんも、キュニコス学派のディオゲネスのように、樽の中で生活できたら、精神的充足を図れるのでは。 キュニコス派の学説は 「本当の幸せは物質的な贅沢や政治権力や健康などの外面的な、偶然のはかないものを頼みにしてはならない。だから誰もが本当の幸せを得ることができる。」 というものです。 ですから、後世に作られたのかもしれませんが、ディオゲネスはアレクサンダー大王に、「望みはなんでもかなえましょう」と言われたら、「それなら邪魔だからどけ、お前がいると影になる」という逸話があります。 ところで、今回、bragelonne さんは、どのような「定義」として「精神」をテーマに投稿しているのですか? bragelonne さんは、ライプニッツを肯定し、モナド(単子論)のように、死んだら精神はばらばらになるとお考えですか?精神を構成するモナドの窓とは何でしょうか?ギリシャ時代のデモクリトスのパクリのような考えですが。 bragelonne さんか、plapotaさんに是非この投稿に回答してもらいたいのですが、聖書には、 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 とありますが、「心」と「精神」と「思い(思惟)」は違うものと思いますか? 是非お礼にて原文のヘブライ語を教えてもらいたいです。 また、著書「夜と霧」で有名な、アウシュビッツに送られた、オーストリアの精神学者で心理学でもある、ユダヤ人のV・E・フランクルは、精神と意識は違うという学説を立てました。 「精神とは何ぞや?」 この命題を考えるだけでも、私は充足しますが、上野動物園でガンダムのアムロやシャーのような、「ニュータイプ・ホモ・サピエンス」として樽に入った私が陳列されていたら、バナナでも恵んでください(笑)。 では、聖書のヘブライ語の件は是非ともお礼にてご教授くだされば幸いです。
お礼
おめでとうございます。 そして ご回答をありがとうございます。 ★ ところで、今回、bragelonne さんは、どのような「定義」として「精神」をテーマに投稿しているのですか? ☆ すでに図式でも用語解説としても説明していると思いますよ。 ○ 身と心とから成るわたしなる存在 ~~~~~ たましい:《非思考の庭》:ヒラメキ ---------------------- 精神:《思考の緑野》:思考・想像 知覚:《感性の原野》:直感・感情・気持ち 【Q:感情と魂について】回答No.4 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8692404.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ bragelonne さんは、ライプニッツを肯定し、モナド(単子論)のように、死んだら精神はばらばらになるとお考えですか? ☆ ライプニッツはほとんど知りません。モナドも苦手です。 死んだあとのことは 考えません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ bragelonne さんか、plapotaさんに是非この投稿に回答してもらいたいのですが、聖書には、 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 とありますが、「心」と「精神」と「思い(思惟)」は違うものと思いますか? 是非お礼にて原文のヘブライ語を教えてもらいたいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ぜひ ぷらぷら氏にお願いしてみましょう。近頃哲学カテをさぼっていますから。 あっ。新約は ギリシャ語が原文ですよ。 ★ 「精神とは何ぞや?」 ☆☆ (《たましい》と精神) ~~~~~~~~~~~~ 《たましい》は 多義的です。定義を連ねてみます。 ○ たましい: (1) 身体組織としての感性 (2) こころ (3) 霊 ○ こころ: (1) 感覚を意識し 認識すること。また 認識した内容。 (2) いっさいの認識をもとにして 自己および他者あるいは世界に相い対するとき人間存在に生じるはたらき。 これは 好悪の感情や喜怒哀楽の気持ちであったり こころ指し(志)であったり あるいは要するに 《わたし》という意識そのものであったりする。 (3) さらには たましいが霊としても捉えられる場合がある。 これは 肉(つまりこの場合 精神および身体を言う)をあたかも超えて伸び広がるかに思われるところがある。→《信じる》 ○ 信じる(信仰): 非経験思考のこと。すなわち 経験思考に非ざること。 または 表象しえぬものをわざわざ思うこと。ただしその表象し得ぬものをも 言葉などその代理によって表象すると主張することがある。 あるいは 絶対とわれとの関係。→《絶対》 ○ 絶対: そういう想定である。経験的な相対世界を超えたところと規定し 想定する。思考を超えている。《考える》を超えるこころのはたらきは 《信じる》と呼ばれる。 それは 有神論と無神論とに分かれる。どちらも 互いに同等である。信仰であり その形態が 有神と無神とで分かれるのみ。つまり《神がある》と言うのも《神がない》と言うのも ともに《信じる》の領域を捉えて言おうとしている。なぜなら 《絶対者》は表象しえぬゆえ。 ○ 肉: (1)身体 (2)身体および精神 すなわち 経験的な存在の全体 ○ 精神: こころのこと。特にこころの(2)のはたらきとして 基本的に 記憶・知解・意志の三つの行為能力を言う。 ( a ) 記憶行為: 精神の秩序。感性内容を意識し記憶する。意識内容を知解行為が 加工したものをも記憶する。 その組織・その過程。 先験的に 存在じたい もしくは その自然本性じたいの秩序を 司ると思われる。 ( b ) 知解行為: 記憶組織という宝庫から ものごとを捉えて認識し さらにあ らたな整合性をもった認識内容につくる。 ( c ) 意志: 大きく広く 直接的にせよ間接的にせよ 記憶および知解を行為 するときに すでにそれらを促すように発動していると思われる。 知解行為の結果から取捨選択しその内容を みづからの意志 (おもむくところ)として判断し決定する。実行にも及ぶ。 ○ 三一性: これら記憶・知解および意志の三能力行為は 経験的・時間的な行為 を為し 他者のそれらと 社会的な関係をむすぶ。 このとき 時間的な隔たりを持って 三行為は けっきょくのところ 一体性を有すると考えられる。 社会形態(一般に国家)にあっては順番に 司法・立法および行政と いう役割にそれぞれ 相当する。 ○ 三位一体: これは 《絶対》という表象しえぬものを 人間のことばという代理物で 仮りに表象し仮りに表現しようとしたもの。 ・記憶能力が 父なる神。 ・そこから生まれる知解行為が 子なる神。 ・それら両者から発出するかのような意志行為が 聖霊なる神。 絶対の領域では とうぜんながら 三つのものは 一体である。 三つのそれぞれの個は全体と 全体は各個と 各個は各個と それぞ れ 等しい。無限の半分も無限であり 三分の一もやはり無限である。 ○ 霊: 《絶対》ないし《絶対者》のこと。 ○ イエスはキリストである: 霊なる神が 肉(精神および身体)になった。という物語。 ○ 人間: このキリスト・イエスつまり 《かみ=ひと》 なる存在に似る存在 者であるが それは 霊なる神を分有するというかたちだとされる。 《絶対》によってあたかも指先でのように触れられている。または その方向へ 〔こころの〕窓が開けられている。 それが 《分有する》という意味である。 ○ 人間は神の似像(にすがた)である: 三位一体なる神のはなはだ不類似にしていくらかは類似する三一性を そなえた人間。 この人間は 神にかたどって造られたと表現された。 一定の社会形態(国家)も 三権の分立かつ協業というかたちで一種 の三一性を有し 似姿の様相を呈している。 ・光源としての父なる神 ∽ ひとの記憶行為 ∽ 司法 ・発耀としての子なる神 ∽ ひとの知解行為 ∽ 立法 ・明・暖としての聖霊なる神 ∽ ひとの意志行為 ∽ 行政 《光源・発耀・その明るさや暖かさ》は 《光》として 三位一体です。ひとの《記憶・知解・意志》あるいは社会としての《司法・立法・行政》は 時間的なずれを伴なった三一性を持つと考えられます。 これが 《ひとは 神のかたちに似せて造られた》という表現の意味だと思います。 《たましい》に関して 哲学としては このような分類と認識になると考えます。文学的にはいろんなかたち あるいは神秘思想としてのかたちもあるかと思いますが 触れません。どうでしょう? * 《愛》は はなはだ抽象的な概念ですが 経験的な思考ないし行為として捉えるなら 《意志》の行為に当たると思われます。 【Q:魂の存在について】回答No.5 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5762930.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ところで 《精神の充足量の最大化》をあなたは生きる目的としていますか?
- hiak123
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日本古来の伝統でやぶさめといものがあります。 馬鹿の見識を排他して有無を言わさず的に当たることを望む。 混沌知。 相対知。 ・・・・ 馬鹿のうっとりをいつ卒業するのですか。 あなたの自由だから、あぁ、そうですか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ♪ちゃんちゃん。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
ぼやき節ならな、世の中で規範とされる価値観に合わせて、それを目標にしたってこった。 それは他者の価値観であり、自分の価値観では無かったから失敗したんだろう。 つまり欲望とは他者が望んだことであり。 浅ましくそれをうらやむことで感染する伝染病だ。 そうした欲望は失敗する。 ここで、所詮自己の望みだはなかったと納得できればまだマシなんだがな。 人生の充足は、感覚的には私にとって潤う事だ。 それは同時に満たされることである。 潤いをもたらす泉が、私にとって観念世界で、、心から湧き上がってくるのだ。 ところで、私の霊視がどうとかビジョンがどうとかいう論理は了解可能な考え方だったかどうかだけでも聞かせてくれないか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 先に霊視のほう。 あ_ほなさんのコメントに賛成票一票。 ボールペンの例示は つまらない。どういう意味があるのか 説明されれば分かるのかなぁ。 《観念世界》なんてものは ありません。想像の世界があると言えばあるかも知れないけれど そういう世界をいちいち取り上げる意味が分からない。 世界は 世界があるのみ。 これを認識し 分からないところは 人間の存在として・また社会として・そして歴史的に分析し あらたな動きへとつなげる。 おのれの位置関係を確認しあらたな位置取りをしつつ そうして自己了解を取りつけつつ すすむ。 日から日へとあゆむおのれ あるいは われわれ これについて自己了解を取りつけるために絶えず世界認識をおこなって行く。 そういう過程があるだけであり そのための認識や理論があるのみ。 ★ ぼやき節ならな、世の中で規範とされる価値観に合わせて、それを目標にしたってこった。 / それは他者の価値観であり、自分の価値観では無かったから失敗したんだろう。 ☆ これは そのとおりだと思う。そういう失敗のあと半ばヤケッパチを起こしているのだと思う。
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お礼
相変わらず要らぬ脳みそがいっぱいのようですね。 ご回答をありがとうございます。 いいですか。 《精神の充足量の最大化を目的としている》場合にも そうしていない場合にも 何ごとかに満足することはあるのです。 質問は 前者について問うています。 分かりましたか?