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なぜ「優越感」で精神的充足を感じてしまうのか?

なぜ「優越感」で精神的充足を感じてしまうのか? 私は自分が『「優越感」で精神的充足を感じてしまう』のが嫌だ! どういう思考パターンが形成されてきたか知らないが、 これと縁を切る方法はないでしょうか? 私が敬愛する人物と恊働したいのは、様々な思考パターンを 自分にコピーしたいがため、である。 私は知能がとても低い。静止した文字など40年間みたことがない。 それで、私は心も身体も「痛い」(病気と障害)。 誰かヒントでいいので、私にください。 よろしくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#116897
noname#116897
回答No.4

このことに、これほど強く気づくなんて、なんということでしょう。 残念ながら、これを断ち切る術はありません。人間の性。 ただ、人間同士で、人間関係の上だけであれば方法はあるでしょう。 自分が他に優越しない最低の人間だと自分が思える人間になればいいです。 但し、この感覚やあなたの世界が優越感に変容しないように祈ります。 それぞれは、優越も劣後もしません。

OtamaFJWR
質問者

お礼

知性ペンさん、こんにちは。 実際、私の知っている人物は「断ち切って」います。 思考パターンの問題でしょう。 よく「悦にひたる」と言う言葉があります。 そこを哲学で掘り下げてみよう、と。 ご回答ありがとう。(また何か回答してみてくださいね)

その他の回答 (15)

noname#29454
noname#29454
回答No.16

すいません。難しい事はあまりわからないのですが、回答させて下さい。 あくまでもわたしの解釈ですので、間違っていたら大変申し訳ありません<(_ _)> 「不安だから」ではないでしょうか。 いつも心に不安があると、ずっと落ち着かないし、何かをしようとしても考えが定まらない。 居ても立ってもいられず、焦ってイライラしてしまう。 それで「自分より呑気に生きてると感じた人」や「何もわかっていないのにわかったように言う人(すいません)」とかに、どうしてもあたってしまうのではないでしょうか。 そして、その人が困ったり苦しんだりする姿を見て、「ちょっとは苦しめばいいんだ」とか「自分の方が勝っているんだ」とすっきりした気持ちになって、その安堵感を得る事で何とか自分を保てる‥とか。 でも、一向に不安はなくならないので、また同じ事を繰り返してしまう。 だとしたら、不安を解消するのが一番ですけど、もしご病気からの不安だとしたら、解決するのはなかなか難しいことですよね‥。 もし、ご病気の事で言われのない偏見があったとしても、それは質問者さんが悪い事をしたわけではありません。それに対してご自分を責める必要は一切ないとわたしは思います。 「わたしは何も悪い事はしていない」と「恥じることはなにひとつないんだ」と思って欲しいです。 そして、許す許せないは別として、やっぱり「受け入れる」という事が大事かもしれません。 そうしたら、何かが変わってきそうです。 どうか、挫けずに頑張ってほしいです。そして、いい方向に変われるように願っています(^^)

OtamaFJWR
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

  • Alkindus
  • ベストアンサー率18% (10/53)
回答No.15

受け入れる。

OtamaFJWR
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

  • snakesoul
  • ベストアンサー率35% (36/101)
回答No.14

人間は比較して優劣を決める生き物だと思います。 競争意識は程度の差はあれど、誰でも持っているのではないでしょうか。 だから、優越感・劣等感とは縁は切れないものと思います。 >私は自分が『「優越感」で精神的充足を感じてしまう』のが嫌だ! なぜでしょうか?その答えにもよりますが、もしそれが他者を見下しているような心の卑しさから来るものであれば、プライドを捨てることでだいぶ少なくなるのではないでしょうか。 そして、自分自身の価値観を持つことです。 広い知識や多くの視点を持って物事を見る人は、世の中の安易な価値観に流されません。

OtamaFJWR
質問者

お礼

確かに世界間が広がるにつれ、思考パターンも向上する。 頭でわかったつもりでも、私はまだまだです。 ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

回答No.13

 三度目の正直・・・・・というべきか?  三度目の回答?です。  「自分の可能性への欲で生きると、優越感にひたる暇がない」  について、考えました。  なぜそうなるのでしょう。  たぶん、「可能性への欲」が向上心というものだったから。  そしてそれは、好ましい心の状態であるから。  “優越感=うぬぼれ心=慢心”といった好ましくない心が働かない状態、いや 住めない心の世界なのだ。  と、思いました。  好ましくない心の状態のときは、好ましい事がばかばかしく思われ、好ましい心の状態のときは、好ましくない事などしたくないと思うのが、人間の心の性質。自然な心理。  こんな風に考えてみると、優越感から湧き出る“精神的充足”・・・ではなく“満足感”が嫌だ!という心理は好ましいほうの心の反応、と云えるように思います。

OtamaFJWR
質問者

お礼

なるほど。。。 ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

noname#123390
noname#123390
回答No.12

ご質問内容を拝見して、ご質問者様は非常にまれな謙譲精神のもちぬしであられると感じました。 >なぜ「優越感」で精神的充足を感じてしまうのか? これは並みの人間なら誰にもある気質で、いわゆる増上漫、他人と自分を比較して、必ず相手より自分の方が優れている、人間が上だという気分を持ち、それを生きがいにする。それ自身もいやらしいことではあありますが、それが悪い理由は、そのためにその人間にはそれ以上の向上欲がなくなり、進歩なくそこで終わってしまうということでしょう。 もちろん凡人である私にもその気質はあります。重要なのはその心の働きを自分で認め、それを抑えて更なる上を目指さねばならないということでしょう。わかっちゃいるけどなかなか、というところです。 >これと縁を切る方法はないでしょうか? 簡単なことです。ご自身を深く見つめ、ご自身が他人よりも劣っているところを見つけることです。他人を教師にすること、ひとの中に自分が見習うべきところを見つけることです。その気になればいくつも見つけられるはずです。 質問者様のすばらしい心の働きで、更なる進歩を目指していただきたく。 >私が敬愛する人物と恊働したいのは、様々な思考パターンを 自分にコピーしたいがため、である。 結局、このことも先の心の働きに通じたところがあると思います。私も、ひとの思考パターンは多ければ多いほどいいと思います。 ご参考になれば。

OtamaFJWR
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 さらに参考になりました。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.11

>なぜ「優越感」で精神的充足を感じてしまうのか?  結局は、親やそれに相当する人との関係が原因でしょう。  親は子供に対して優越感を持って接し、奴隷としての子供を育てることで充足感を得る(エネルギーを得る)のだと思います。悪でない親はほぼ居ないでしょう。

OtamaFJWR
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.10

>認識の広がり=世界観の広がり、によって思考パターンは変化すると思います。  だとすると、世界観や認識が広がることでしか、思考パターンは変化しないと想います。仮にコピーすることが出来たとして、それで世界観や認識が広がるでしょうか。思考パターンが変化するだけで、根本的な世界観は変わらないような気がします。 自分を強く持ち、自分を信じることが必要だと想います。 >私の場合「水平性」で「1秒間に5回」視界がブレます。  原因としては、人間や人間社会 つまり水平しか考えていないからでしょうか。「自分だけで世界が成り立っている、個人個人の認識のみで世界が成り立っている」という水平方向の思考を変える事で治るかもしれません。神や、精神的存在とその階級・階層・階位というものを信じても、それはそれで間違いではないと想います。自分を生じた原因であろう、神や精霊や、それらの階位・階層・階級という理論を受け入れても良いかもしれません。そうすればそのうち視界の水平のブレもなくなるかもしれません。これは単なる思い付きですが。(これを言うとキリスト教嫌いの人間から変に勘ぐられるので本当は言いたくなかったのですが)  情緒のある東洋には、そのぶん論理的(であると言われている)な仏教と仏典があります。ドライな、論理思考をする西洋人には情緒を刺激する聖書があります。それでバランスが取れている、と言えます。 >私は自分が『「優越感」で精神的充足を感じてしまう』のが嫌だ!  人との関わりにまつわる優越感以外で充足感を感じられるようになるのが理想でしょうか。 それなら誰にも迷惑はかからないでしょう。それさえも許されない状況になったら、その時考えれば良いでしょう。

OtamaFJWR
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

回答No.9

 OtamaFJWR さんが健常者か障害のある方かの問題を考慮にいれないで、考えました。  多くの人、そして人のどこかでは何らかの優越性やそういう認識により、自己性や存在性を確認していると存じます。  あるいはそうしようとしていると存じます。  このことを卒業するととても楽になれますね。どう卒業するか、卒業のしかたはどうか。  それには自己や何かを無意識に比較する意識傾向からでることも一つの方法でしょうが、その他に、たくさんあると存じます。  自己を比較するのは自分の低さを知っているからですよね。  そういう低さを高くすることはできない。  まぁ人間性の宿命ですね。  だから、自分がいないという意識になることが必要ではないでしょうか?  私はそうです。  Self-Realization Fellowshipというところでのラージャ・ヨーガでここ40年ほど精進を楽しんでいます。  ただ精進しているだけです。  いずれにしろ、醜さが出たいですよね。

OtamaFJWR
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

noname#116897
noname#116897
回答No.8

>実際、私の知っている人物は「断ち切って」います。 その人に直接聞くのが近道でしょう。 >思考パターンの問題でしょう。 口蹄疫ではありませんが、人間は牛を飼って殺して食べていますが、牛に対する優越感を 私はなくすことはできません。 これを思考パターンとするなら、断ち切るためには、無関心、無感情になることですね。 でもこれじゃ本質からは遠ざかる。 ご質問者様はベジタリアンかも知れませんけど。

OtamaFJWR
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。 自分の可能性への欲で生きると、優越感にひたる暇がないことに、 つい昨日、気がつきました。

回答No.7

 煩悩と菩提(さとり)という心の作用、両者の葛藤。  人は皆“私を思う心”とそれから離れた“他者を思う心”とがあります。  満足感という言葉もありますが、“充足感”に疑問を感じるくらいですから、“満足感”と“充足感”という表現に微妙な違いのあることは分かると思います。  満足感は煩悩を身にまとった“わたくし心”、充足感はそれを脱いだ“心”、の反応。  物事は大抵“二面性”があります。  心にも煩悩と菩提とがあります。  その二面の表れ。  両者の葛藤。  今その両者が葛藤しているのです。  ☆“精神的充足”と表現していますが、“満足感”と言いたい。       

OtamaFJWR
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

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