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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?)
世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?
このQ&Aのポイント
- もしさとりが出世間というごとく文字どおりこの現実世界を超えたところに求められるのであればそれは世迷いごとではなかろうか?なぜなら仏性がこの世界の外にあっては何にもならない。
- と考えるのですがもっと精確に述べて批判する必要はありますか?おおしえください。
- あるいは(1)で《もし・・・》という条件をつけたところがまちがっていますか?
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noname#156094
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noname#156094
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noname#156094
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- tumaritou1
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noname#156094
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noname#181697
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noname#181697
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お礼
ううーん。そうですね。自然科学のちから ですか。 まづは 大先生 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 じつは 自然科学に明るくないものですから えっちらおっちらの歩みです。たとえばちょうどいま 【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6797352.html を問うていますが そこでのやり取りも自然科学にかかわっています。回答No.1に量子論による議論が出て 回答No.5でその解説をいただくというかたちになっています。 ★ ~~~~~~~~ 科学の発達した現代においては、無宗教の混沌とした様に、既存の宗教のすべてが呑込まれてしまっているかの如くです。 今の世に宗教家として立つには、最新科学のすべての疑問に答えられなくては、その資格が無いとすら言えるのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~ ☆ 《資格が無い》状態ですら 果たす役割があるという話をします。 1. 人と人とのまじわり(交通・コミュニケーション)において 科学部門における――論理的な筋道にも情感の筋道にも逆らわないかたちでの――合理的な共通の理解を得ることとともに じつは人の境地部門における合理的な和解を得るということ これが 務めだと考えます。 2. 情感の筋道に逆らわないかたちでの科学的に合理的な相互理解だけではまだ 人と人との――あるいは 《わたし》にとっての社会との――和解は十全には得られ切らないのではないでしょうか? 3. ★ ~~~~~ しかしながら、宗教の違いを越えて、「信心」というものの一端に触れることのできた者にとっては 〔* その信仰というものは〕何にも勝る心の支えである事には変わりありません。 ~~~~~~~ 4. 科学は わたしにとっての世界の暗闇を照らしてくれますし 或る種の仕方でわたしの心の内の暗闇をも――身については医療として心についても心療として――照らしてくれます。しかもおそらくわたしの心の燈心をともしてくれるのは 境地にかかわる信仰部門の務めであるように捉えます。 5. ★ ~~~~~ 仏徳とは、一隅を照らす、というごとく慎ましいものである事が、信心を持つ者にとっては相応しいように感じられます。 ~~~~~~~ 6. とは言うものの この境涯についてすら科学としての筋道は その力が及ぶ限り必要だとも捉えるべきようです。人・自然・社会・世界そして宇宙について神秘や驚きやあるいは畏れを扱うのも 科学の目が必要です。 その科学の目をもってすれば・もしくはその科学の目を持てるようになること自体として 世界や――ここで取り分け焦点を当てたいこととしての――《わたしとは別のわたしたち》についての畏れも身につけることが出来るようになるかとも思われます。 《他者》の問題であり 他者へのウヤマヒ〔としてのわが境地〕 他者とのユヅリアヒ〔としてのわが境地〕の問題です。つまり わたしにとっての わたし自身との和解 あるいは わたしたち(つまり社会や世界)との和解のもんだいです。 7. これが 神への畏れの問題だと見ます。神との垂直的な縦の関係が 他者との横の関係と同じ内実を持つという見方です。 わが心に非思考の庭が成るということ。無根拠ということ。 和解をこのように表現する道において捉えつつ 信仰部門のことがらの一端をになおうとしています。 8. 果たしてこの信仰部門をも 科学が担当し得るか? ★ ~~~~~~ 過去の宗教をいくら取り上げても、もはや通用しないのです。 そうした意味では、優れた科学者こそ悟りを得た聖者のごときであり 優れた医師こそ、徳に満ちた救済者のごとくに見えるものです。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 果たして どうか? 9. ★ 今の世に宗教家として立つには、最新科学のすべての疑問に答えられなくては、その資格が無いとすら言えるのではないでしょうか。 ☆ たぶんこのときの《最新科学のすべての疑問に答えられなくては》の具体的な内容が吟味されなくてはならないように思います。 科学は・つまりは人間の知解(認識)能力は 限りがあると考えます。《すべての疑問に答えることは出来ない》のではないか? 10. 仮りに科学がすべての疑問に答えることが出来ても なおその《認識》によって人と人とが和解しうるかという問題があります。身と心との医学が 認識によるだけではなくその実際の治療としても答えることが出来たとしても 人と人とが互いに心をふつうに照らし合えるか? 平均寿命二百歳を実現させたとしてその健康で健常な状態にあれば 人は互いに他者のことが分かり合えるか? 11. ★ ~~~~~ もはや宗教は不在です。 不在であり不必要だと思う人にとっては、宗教はその役目を終えたのです。 ・・・ 現実の苦しみの解決には宗教は役に立たないものである、という認識が一般化しています。 ~~~~~~~~~~~ ☆ これは 組織宗教あるいはその教義についての見方でしょう。(3)や(5)の引用文に言うごとく 個人の信仰という境地部門がおそらく科学の担当しがたい世界だと思われます。科学は 誰が考えても誰がおこなっても 同じ内容同じ現象が得られる場合を担当するからだと思われます。 12. 神はえこひいきをする存在であるようで――風は気ままに吹き いつくしもうと思う者をいつくしみ あわれもうと思う者をあわれむ―― 人にとってのこのいわゆる現世という一生涯の時空間にあっては 人びとのあいだに違いがあります。格差が現われています。 13. この格差――つまり 世間ですね――を科学はどうしようと考えるか? これを担当しうるか? 14. この不平等を前にして《世間虚仮 唯仏是真》という命題を最終の答えとするなら それは根本的なマチガイです。現実から逃避せよと言うだけではなく そこに仏性を見てしかるべき現実をけっきょくないがしろにせよと 血迷ったことを言っているからです。 現実に対する或る種のたたかいにおいて自分は勝てなかったという負け惜しみを言っているだけだったとしても その負け惜しみの言葉がよろしくない影響を与えています。 15. 科学は――人文科学をふくめて―― この命題はマチガイだとは言わないですね。価値判断からは禁欲するとか言って。 16. いまここなる弥勒菩薩は はっきりとマチガイはマチガイだと言うはずだと思います。